続 安部正也少尉の謎 11.5.19


 黒島がある三島村の方から教えられて、『二度死んだ特攻兵 安部正也少尉の魂』という本を読みました。

 著者は、少尉の遠縁にあたり、戸籍や兵籍簿、日誌(修養録)などから、特操志願から特攻出撃に至る経緯に関しては詳しく書かれているのですが、肝心の彼のその後の消息、生死については一切解明されていません。
 「二度死んだ…」と断定しているからには、新しい何かが出てきたのか?と若干期待したのですが。本サイトに以前に書いた「安部正也少尉の謎」と重複しますが、本書を読んで気になるところを指摘してみます。


 まず、この著者が推定している
5月5日早朝再出撃は、ありません。「振武隊編成表」では、柴田少尉の生存情報を第6航空軍司令部が初めて知ったのは、5月19日、知覧の3攻集(第3攻撃集団)司令部から受けた電報によってです。黒島には一切の通信手段がないのですから、これは「誰か」が知覧にやって来て、柴田少尉の生存を報告したことを意味しています。「誰か」は、まさに安部少尉その人でしょう。

 著者は、安部少尉の知覧帰還を5月3日と断定しつつも、その時期であれば他の3名の隊員や常陸教導飛行師団が帯同させた専属整備班が未だ知覧にいたにも拘わらず、安部少尉が彼らと接触しなかったことを不思議だとして、その理由を「知覧基地は広大だったから」などと書いているのですが、後に新聞にさえ書かれた安部少尉の帰還を、同僚が知らなかったとは考えられません。つまり、知らなかったのは、帰還が整備班も既に知覧を離れた後だったからであり、
5月19日の可能性は極めて高いのです。

 次に再出撃ですが、著者は飛行機をどのように調達したのか?との当然の疑問を呈しています。安部少尉の乗機は海の底に沈んでしまったのですから。

 特攻隊は正規の軍隊ではないため、飛行機も予備はありません。著者は、他隊の特攻機を盗んで無断出撃したのではないか、またそれは可能である…とか、とんでもない推理をしていますが、
だが、ある人は、「安部の特攻再出撃、飛行機の手配、薬も、全て司令部の手配だろう。そうでないとこれほどのことが実行可能とは思えない」と述べている。しかしそれらしい記録も噂も一切存在しない
とも付記しています。

 著者は、この説を否定したいように受け取れますが (そうでないと、出撃途中、戦友のために薬を投下したという感動の物語が成立しないから?)、私は「ある人」の洞察は妥当であり、事実に近いだろうと判断します。


 知覧以降の安部少尉の行動は、一切が不明なので推理するしかありませんが、福岡の6航軍司令部に出頭を命ぜられたことは確実で、その後司令部が処遇を決定したということでしょう。「異動通報第4号」によれば、安部少尉の同僚である立花少尉と述本軍曹は、「
6月27日現在、雁ノ巣ニテ飛行機整備中」と記録されており、安部少尉もここに加わっていれば納得できるのですが、彼の名はありません。

 立花少尉も不時着帰還組ですから、安部少尉と立場に大差はなく、したがって安部少尉の再出撃が本当にあったと仮定しても、その時期は7月から終戦までの間だった可能性が高いのですが (その場合には、知覧からではない)、現存する「編成表」「異動通報」ともに、所持していた倉沢参謀が終戦前に鉾田教飛師に転属しているため、7月下旬以降の情報は入っていません。もしもこの時期に安部少尉の身に何らかの動きがあったとしても、それは本文書には記録されていないことを留意しておかねばなりません。

 本書によると、安部少尉の戦死公報は
昭和21年1月21日付で発せられているそうです。終戦前に死亡が確認されていたのであれば、これはいくらなんでも遅すぎで、その辺に何かの事情が隠れているような気がします。

 おそらく、安部少尉は終戦時には存命であり、その後復員になる前、つまり第6航空軍所属という身分のうちに何かの原因で死亡あるいは生死不明となった。しかし、彼の名誉と死後の処遇を守るために、4月29日特攻戦死として書類上の処理がなされたのではないかと想像します。


 もう一つの問題は、医薬品等の投下を誰が実施したのかという点です。そもそも、出撃途中の特攻機が寄り道をして任務外の行動をとるなど、考えられないことなのですが、加えて、著者も指摘しているように、飛行中には開けられない
複戦の操縦席からの投下は不可能であり、機種は、柴田少尉の回想にあるように司偵が事実だろうと思われます。6航軍司令部は司偵を保有していますから。
 また、投下品の中には、現金200円と恩賜のタバコ、チョコレート、キャラメルも入っていたとあります。これらは、第6航空軍司令部からの島民へのお礼で、現金は、小舟の借り賃と考えるのが自然でしょう。

 著者は三浦秀逸元少尉にインタビューをしていますが、三浦氏は1回目の出撃と5月4日の出撃を混同されているようです。60年以上も昔の記憶ですから、これはやむを得ないことなのですが、正確さを欠く点については、著者の判断で注釈を加えるべきだと思います。

 第24振武隊最初の出撃は、常陸の仲間でもある四宮徹中尉が「天長の月あび勇む必勝行」と辞世を残しているように、月明かりの夜 22時42分でした。したがって、安部少尉の黒島不時着も深更のことと考えられ、島民に目撃された可能性は少ないのですが、本書では早朝、複数の島民が見事な不時着水を目撃したとなっています。
 これが安部機であった可能性は、時間的にまずないと思われますから、おそらく、5月11日に不時着した海軍第3正気隊97式艦攻の間違いではないかと推察します。

 最後に、本来、特攻隊員と書くべきところに、本書では一貫して「特攻兵」という、最近の誤った造語が使われていることにも、大いに違和感を抱きました。


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