ザ・タイガース
タイガースを初めて見たのは、TVシャボン玉ホリディだったと思う、それはデビューして数ヶ月たっていてシャボン玉のレギラーになっていたから、67年4月頃である、タイガースのTV初出演はそれを数ヶ月遡る66年11月22日・ザヒットパレード・で45秒の出演・キックス・と言う曲を演奏している、その次の日意外な形でジャズ喫茶デビューをはたす、新宿ACBのステージに都合で出演できなくなったブルコメの代わりで急遽出演する、正確なデビューは僕のマリーをレコーディングした3日後の12月3日で、内田裕也とザタイガースで新宿ACBであった。
内田裕也氏、彼こそがタイガース(ファニーズ)を大阪でスカウトしたのです。
ファニーズそれは人見(瞳みのる・ピー)少年が乗っていたバイクの故障から始まる、エンスト状態のバイクを簡単に直してくれた高橋(加橋かつみ・トッポ)少年との出会いからである、同じ高校だった2人にピーが連れてきた岸部(岸部修三・サリー)少年、森本(森本太郎・タロー)少年の偶然知り合った4人はパチンコ、マージャン、ダンスと遊び大好き少年たちで、中でもマージャンは良くやり、小学生時代からのキャリアでサリーの一人勝ち状態だったらしい?(高校生に有るまじき遊びでは有りますが、彼らの名誉のために一言、資金はバイトで稼いでいたらしい)ダンス喫茶田園に入り浸る彼らがバンドを結成する、サリーとプレイボーイズ、元々京都河原町の4人組で目立っていた彼らのバンドは踊りながら演奏するあまり無いスタイルで人気を得る。
高校2年少年は友人と2人で田園に入る、誘われるままにその友人の兄のバンド・サンダース・で美樹克彦の俺だって・リトルリチャードの愛しておくれを歌う、そのイキイキ歌う少年こそ沢田(澤田研二・ジュリー)少年で、その場でリーダーからバンドで歌う事を進められサンダースに加入する。
偶然と言う運命で出会った4人の少年にもう一つの偶然が・田園・と言うダンス喫茶に演出された。
もう1人の少年が出会って2週間後、ピーの巧みな誘いとジュリーが4人のメンバーの感じよさに導かれ、既にリンド&リンダース(夕日よ急げ良い歌です)の高木さんによってファニーズと改名されたバンドに正式加入する、1966年1月1日の事である。
遊び感覚でやっていたバンドはジュリーの加入でプロを意識し練習を重ね、関西バンドの憧れのステージである大阪・ナンバー1番・のオーディションを受ける目標を立てる、ここでもジュリー加入の立役者、ピーの出番であった、ナンバー1番へ1人で出向きオーディションの段取りをつけて来る、1月16日、ビートルズのアイソーハースタンディゼア、ディブクラムファイブのドウユーラブミーを演奏して、2月1日合格、2月10日より、週2回ワンステージ30分1日5回の演奏ですぐ人気を集めファンクラブが出来るまでに時間はかからなかった。
当時彼らもあるバンドのファンクラブに入っている、ザ・スパイダースで大阪のステージを見に行きメンバーの孝之さんから励まされ感激する。
ナンバー1番で人気を集める頃客席の1番前で悪態をつく体のでかい女がいた、出演バンドに悪態罵声を浴びせ客と喧嘩する中でファニーズのステージだけはカラムことなく聴いていた、「オンドリャ 表出ろ!」このタンカは最後まで無かったその女番長こそがミナミのアコであり、それから6年後S47年レコード大賞歌唱賞を取りステージ上まで泣きながらジュリーを引っ張っていきグチャグチャ大泣きする事になる和田アキ子さんであった。
66年5月10日 全関西エレキバンドコンテストに出場する、本命2バンドがあるため優勝など考えていなかったが、出場曲を決めかねていたメンバーにサリーの弟シロー少年のサティスファクションの演奏をすすめられ、決定する。
(シローは中学を出たばかりの頃で、ビートルズサウンドに感激して洋楽に興味を持ちメンバーの良きアドバイザー的存在であった、当時彼は将来、レコードデレクターか音楽評論家になることを望んでいて、ファニーズにビートルズでなくてストーンズをすすめたセンスは最高のヒラメキデス!最近のシローさん少しすべってしまいましたが、洋楽知識の財産を使える仕事で頑張っると言うのはどうですか?)ファニーズは抽選でコンテスト、最後のステージで演奏する、演奏は短い時間の中で最高の盛り上がりを見せ優勝を獲得する、コンテストの賞金は5万円、メンバーはそのお金で揃いのスーツを作りユニホームにした、後にこのユニホームはタイガースのデビュー曲・僕のマリー・のジャケットに使われることになる。
コンテストから3日後、彼らは京都から大阪でのアパート合宿生活をスタートさせ、ナンバー1番の専属バンドとして益々人気を高めていく、そんな時、運命の人・内田裕也・と出会う事になる。
ここで私が目撃した内田裕也氏の記憶をお話します。
ソロ活動に入りシングルが次から次とヒットして・危険なふたり・で日本歌謡大賞を取りその勢いで73年クリスマスにコンサートを開く、ジュリーのコンサートは当時ロック・ロックンロールよりもバラード系に力を入れているときでどちらかと言えば久々大盛り上がりロックンロールショーであった、このコンサートに裕也さんがゲストで登場する、裕也さんの登場はスタンダードのR&Rの掛合い競演である、裕也さん、それは凄い存在感である、ジュリーが迫力負けして、1曲終わるとエンディングを繰り返し・サンキュー(アンキュー)・の特訓が始まる、幾度かシゴカレOKをもらい裕也さんはステージから消えた、とにかくジュリーに裕也さんは色々なものを授け、ジュリーもそれをしっかり自分のものとして消化したと思う。
ファニーズの人気知名度共に上がって来たものの大阪が中心で東京進出をメンバーは考え始めていた、合宿を始めて1ヶ月が過ぎた頃、ジュリーとタローは東京銀座ACBに遊びに行きスパイダースの田辺さんに会う、田辺さんはファニーズを知っていて、東京へ来るならスパイダクションに入る事を勧められ、興奮をメンバーに伝える、同じ6月の終りにメンバーは武道館でビートルズの衝撃体験をはたすと、益々東京を意識し演奏に力をつけ8月には3日間のファニーズショウをナンバー1番で開き・ナンバー1番・での人気を不動のものにしていく、そして9月12日・ナンバー1番・出身であった内田裕也氏がブルージーンズと競演していたファニーズに関心を寄せ、ピーに東京への誘い話を告げ14日裕也さんの宿舎ホテルに呼ばれ東京のプロダクション紹介の約束に田辺さんからその後の連絡もないため即座にお願いする。
10月9日、ナンバー1番でオーディションが行われた、内田裕也、尾藤イサオ、チャーリー石黒、渡辺プロの松下氏、中井氏が審査を勤める、21日合格の電話を渡辺プロからもらうとメンバーはそれぞれの家族に報告をしたがタローだけは元々母親が反対をしていたため悩むがサリーのお父さんなどの説得で東京行きが正式に決まる、10月26日契約をすると、ナンバー1番で29日にファニーズさよなら公演を開いてもらい翌月3日、ファンとのお別れパーティーを京都の植物園で行い、11月9日PM1:18京都発の新幹線で東京へそれぞれの思いを胸に旅立った。
東京駅PM4:18着、出迎えは池田、中井マネージャーであった、ホームに立つサリー、タロー、トッポ、ジュリーの4人は緊張していたがそれを上回る「東京へ来た」と言う喜びにあふれていた、ピーは途中名古屋のオバの家により富士の創価学会本山を経てメンバーとは11日に合宿で合流する、出迎えてくれた中井マネージャー、彼がタイガースの幾つかあるはずの成功のカギの一つである、裕也さんから見せられたファニーズの写真でプロの雰囲気を感じ、オーディションで担当を願い、合宿を共にしてもう一人のタイガースとしてメンバーの演奏、ステージ、生活をメンバー一人一人を尊重し演出に心がけた、彼は酒を飲むと「彼らの音楽に対する解釈は今までの人たちとぜんぜん違う、彼らの最初のファンは、ビートルズやローリングストーンズに夢中で、日本のバンドには目もくれなかった若い人たちです、音楽に対していつも冒険心を持っています」そんな話をしている。
私は、タイガースにストーンズの素晴らしさを教えてもらった、確かにタイガースは雰囲気があった…と言うかバランスが良かったのであるブルコメとは違う、又スパイダースとも違うボーカルバンドとしてのロックするバランスである、演奏力、歌唱力は並、むしろ並まで届いていなかったかも知れない、それをカバーするバランスこそがタイガースの最大の魅力だと思う、その魅力以上に当時の女の子を興奮させてしまった大人でもなく子供でもなく男でもなく女でもない青い性的存在が音楽として楽しむ男たちからタイガースを遠ざけたのである、当時私の、かなうこと無い夢はどんな形でもいいからタイガース側に行く事でした、客席でタイガースは見れないのだから!
烏山合宿、様々な状況を経験していく、楽しみ、喧嘩もあるそんな中、11月15日ファニーズの初めてのTVビデオ取りの日、作曲家のすぎやまこういち氏によりザ・タイガースと改名する。
すぎやまファミリーズというのがあって、作曲家のすぎやまこういちが作詞家の橋本淳、作曲家の鈴木邦彦、筒美京平等若手で結成したグループで、GS以降の日本のポップスをリードして行く事になる、当時すぎやま氏はヒットパレードのプロデューサでカバー曲中心のロカビリー、ガールズポップス中心のチャートに日本製のポップス曲の必要性を感じていた、宮川泰のザピーナツに書いた・ふりむかないで・すぎやま氏の・涙のギター・浜口庫之助の・バラが咲いた・夕日が泣いている・すぎやま氏が見つけたブルコメそのバンドの井上忠夫が作った青い瞳に注目しヒットパレードで紹介した、これらがGS現象のはしりとなる。
橋本淳、作詞、すぎやまこういち、作曲・僕のマリー・(原曲・マリーの想い出・)はそんな背景の中作られ、12月1日、レコーディングされた,、さらに4日B面・こっちを向いて・のレコーディングを終え、デビュー盤は完成する。
噂…タイガースはレコード作りの演奏力が無く、吹き込みには他のバンドがあたり、そのバンドは私の住む静岡の私の隣の町内、上土のバンドだったと言う…噂があった。 |
午前中のレッスン、午後の取材、TV、ジャズ喫茶、このサイクルを繰り返す毎日が本格的にスタートする。
ダンスに行けない、マージャンが出来ない、友人に会えない、そんな気持ちが起こりかけるヒマもなく年明けのウエスタンカーニバル出演の話が来る、67年1月1日から新宿ABCへの出演していたタイガース、初めての大舞台は15日から始まった日劇ウエスタンカーニバル、・モンキーズのテーマ・1曲だけの演奏を緊張と全員の若さでファンにアピールする。
ジャズ喫茶出演のたびファンが、声援が増えてゆくのを感じ、2月5日僕のマリーが発売された、TV出演も増えるが最初、洋楽のコピー中心でやってきていたメンバーは日本語の歌を歌うのに少し抵抗を感じたが、GS初期最大の特徴はやはりオリジナル曲のヒットからブームに火がついたのは事実である、スパイダースの夕日が泣いている、ブルコメが日本詩にかえた青い瞳、加山雄三、寺内タケシの影響を受けたワイルドワンズの想い出の渚が前年既に大ヒットしていてそれらのバンドは2曲3曲目とヒットをとばす、タイガースが彼等3バンドに肩を並べるには、シャボン玉ホリデー、ヤァヤァヤンゲのレギラーになり5月5日・シーサイドバウンド・が発売され同じ日2回目のウエスタンカーニバル出演からである。
この頃になるとタイガースも完全な独り立ちしてきていた、デビュー前から全ての面で助けてくれていた裕也さんからの独立である、裕也さんから教えられ吸収した財産がそれからのタイガースを大きくしていく事になる。
浜辺でジャンプするタイガース、これまでのレコードジャケットはほとんどがスタジオでのフォトが使われていた時代でタイガースのそれは夏に向かってヒットの予感を暗示しバウンドのフリと共に日本中にタイガースの存在を知らしめた、当時はまだまだ都市と地方は格差の時代でTVはモノクロにカラー放送が加わり始めた頃でTVネットも地方様々で、見れない番組がほとんどの時代であり、レコードも他のものに比べると若者には高価なものでティーンには中々買える時代ではなかった、シーサイドバウンドはそんなティーンが買い求めタイガースは熱狂的なティーンに追いかけられるバンドになり始めていた。
烏山合宿所の周りにはファンが群がるようになり、引越しを考えなければならない状態になってくる、合宿内でもメンバーの言い争いが増えてくる、7月4日モナリザの微笑をレコーディングする頃は、分刻みのスケジュールでTV、ステージに雑誌の撮影、取材、コマーシャルと眠る時間までも仕事が入ってくる、モナリザの微笑が発売された2日後の7月22日大手町サンケイホールは超満員のタイガースファンで埋まった。
それをさかのぼる7月20日トッポが麻布のアパーへ引越すその3日後他のメンバーは新宿区左門町へファンには秘密に引越をする、そしてトッポは少しづつ変りはじめる、その頃彼は皇族秘書を経験した川添夫婦との親交を強め芸術文化人を知る事で、今までに無い世界の刺激を受ける、それをメンバーに話す、トッポが描く理想の世界は必ずしもメンバーには理解され受け入れられるものではなかった、トップは完全に背伸びしすぎ始めていた。
8月26日、第33回日劇ウエスタンカーニバル開催、主催者、渡辺美佐(渡辺プロ副社長)の33にちなみ美佐賞を出す事になりそれぞれのバンドは作戦を立て戦いの場となるステージに挑む事になる、ファンも同様で垂れ幕に応援メッセージ、歓声悲鳴でまさにファンも戦いの図式の中にいた、今回はスパイダースが都合で出場しない、タイガースはサリーのスパイダースの分まで頑張るの気合をメンバーはステージで踊り歌う、各バンドが出演する度に歓声が上がる、ワイルドワンズのステージが終わる、すぐせり上がりからタイガースの登場である、それまでの声援とはまったく違う声援が会場全体から一つになりステージへ投げつけられた、それを打ち返すタイガース、客席で振り回される懐中電灯、このときタイガースはGSの頂点へ登りつめる。
タイガース、最高殊勲賞・ジュリー最高殊勲個人賞を獲得する、また川添梶子さんデザインによるモナリザの微笑の衣装が注目され、フォーリーブス、ブルコメの演奏が終り、フィナーレ、GS全てがタイガース中心に動き出した。
タイガース熱は大都市から地方都市へ速い速度で広がっていく、それでも東京から西の人気と東北などでの人気はかなり違いはあった、地方のショーで関東以西のステージは時にファンのステージへの狂喜化した乱入で一時中断、再開を繰り返す事もしばしば起こったが、東北のステージでは空席が見られたり、タイガースの知名度自体低い状態であった、そこへ全国ネットのNHKの出演が決まり、10月25日歌のグランドショーのビデオ取りが行われる、11月12日放送予定で・モナリザの微笑・を歌う。
11月5日初めてのLPザタイガースオンステージが発売されその日、奈良あやめが池の野外ステージで入替え時に30人以上の少女が、けがをする事故が起きてしまう、2日前トッポが寝坊でステージに穴をあけていた事と、少しづつタイガースが違う方向へ動かされだした、この事故、長髪、エレキギター、少女たちの過熱する人気、これらを社会、NHKは受け入れることをしなかった、結果、グランドショーの放送は中止された。
長髪は元々ビートルズのマッシュルームスタイルから始まり日本で最初に長髪を始めたのはスパイダースと思われがちだが、ビートルズがデビューした次の年1963年まだまだビートルズも日本では、やっと紹介されだした頃、外国雑誌に小さく載ったビートルズの写真を見て「これだ!」と思って取り入れたグループ、シャープフォークス彼らが初めである、安岡力也さんがいたグループで、シャープファイブをバックにエレキ合戦に早くからレギラーとして活躍していた、何故か力也さんはメンバーそれにあとのGSが長髪になってもパートの入ったアイビーぽいスタイルをしていた、NHKが嫌う長髪、それはGSタイガースには絶対必要な武器であってTV出演が出来なくなっても切ることは出来なかった、当時の長髪のイメージに不潔、見苦しいなどと指摘されているが、GSの長髪組は意外に清潔にしていてシャンプー、カットをまめにおこなっていた、タイガースもそれまで床屋へ行っていたが、裕也さんの紹介で美容室に行くようになる、タブローと言う美容院で意味はフランス語で・額の絵・おしゃれである、ここで当時烏山の合宿の近くに住んでいてタブローでの、素敵な話をロック屋に送ってくれた、アンドロメダのシルビーさんのちょっと良い話!紹介します。
”烏山の合宿といえば、私は近所に住んでいたのですが、「タブロー」というジュリーいきつけの美容院があります、そこでジュリーのセンターパーツのジュリーヘアができあがったのだと、店長のおばさんが自慢していましたっけ!”・・・・・・なんか良い話ですネ!・・・・・アンドロメダのシルビーさんありがとう。 |
その頃は男のパーマとかマッシュルームカットなどはまだなくタイガースは早かったようで、後にジュリーも良くも悪くも実験台と言う感じで・・・無料でやってもらっていましたと話していました、タイガース解散後もジュリーはタブローへいっているようです・・・・今は・・・?・・・
NHK、出入禁止についてジュリーは「NHKに出られないってことは別にどってことなかった、他にいろいろ出てましたから」と答えるように、民放TVの出演はより増え、12月2日には日本武道館でスパイダース、ブルコメと合同ショーを開き、12月25日・君だけに愛を・が発売される、その前後にサンケイホールでチャリティショウーを開き70万円を恵まれない子供たちに寄付をし、この年最後のステージを大阪で開く。
”オープリーィズ・・オープリーィズ・・ぼくのハートを・・君にあげたぁ・・・い・・・・君だけに!君だけに!----ジュリーが指さすーーーー今までに誰もが経験した事の無い、あのロカビリーのテープ乱舞を超えた、狂喜化したファンとハートを狙い撃ちするジュリー・演奏するタイガースの熱狂がショー会場を激しく振動させそれは、NHK紅白出場、レコ大のブルコメを尻目によりGSのスタイルを世間にアピールしていくそして、33回ウエスタンカーニバルでオリジナル曲を持たない(ひとりぼっちの世界を歌う)テンプターズが、ブルコメ、スパイダースに代わってタイガースのライバルとして・忘れ得ぬ君・で(10月)追いかけ始めた。
大阪公演中に、合宿は目黒ハイツに引越し、この頃はファンに追いかけられ、過密スケジュールで現実は睡眠不足に悩まされるようになっていた、31日TVオールスター大行進に出演してデビュー1年目が終る。
1968年ジャズ喫茶の楽屋で正月を迎え、1月15日よりウエスタンカーニバルに出演する。
タイガース・スパイダース・ブルーコメッツ・ワイルドワンズがフロントで歌うウエスタンカーニバルのフィナーレ。
大人社会に認められたブルコメ、少し髪の毛を切ってNHKに出たスパダースはバンド的には完成されたが、少女達はバンド、アーティストとしてレベルを上げるGSより、アイドルとして熱狂できるバンドを追いかける、68年はこうして始まった。
ジュリーとトッポ、二人はよく喧嘩をした、そしてその日(27日)渋谷公会堂の楽屋での喧嘩は凄かった、プロに徹しようとするジュリーと何処かそうなれないトッポとのぶつかりあい、商業主義が進む中でそれをこなそうとするジュリーに時間と規則に縛られる事に疑問をもつトッポ、殴りあっても2部のステージを何も無かったように終るとその夜、ジュリーは渡辺美佐さんの自宅でトッポは川添さんの家で声を上げ泣いた、次の日のスケジュールは決まっている、ステージに立てばザ・タイガースをファンに見せる毎日はつづくそれ以後二人は口をきかなくなった。
GSは独特のスタイルを確立しているかに見えても、ビートルズ、ストーンズを意識しつづけていて、タイガースは元々ベンチャーズ、ストーンズの線で限界が見える中での成長にすぎなかった、その中で曲作りのすぎやま氏の考えにエレキバンドのアマ的なものにクラシックの要素を入れることを考えていた、ビートルズも又成長過程にクラシックを既に取り入れていた、弦楽器的なポピュラーミュージックをテーマにモナリザの微笑、落葉の物語が生まれ銀河のロマンスとカップリングで書かれた・花の首飾り・が作られた、それまでジュリーの声にコーラス部分でキラリ光っていたトッポのリードヴォーカルでタイガース最大のヒットとなり、タイガース、トッポ、すぎやま氏の代表曲となりタイガースをさらにステップアップさせた、それに反してタイガース最初の映画、・世界はボクらを待っている・が作られたビートルズのヤア!ヤア!ヤア!のようなものを作りたかったが、それは到底足元にも及ばない作品であった、3月10日に1万人を集めて武道館で花の首飾りの発表会が開かれ映画に使われるなど、睡眠時間4〜5時間のスケジュールで撮影され4月10日封切られたが、人気絶頂のタイガースがスクリーンで見れるそれだけで大ヒットした、ビートルズの映画はスクリーンに駆け上がったファンがいるほど話題になったが、タイガースはスクリーンが興奮したファンに破られる事態が起こるほどであった。
益々アイドル化するタイガースの人気に強烈な印象で脅かすグループ、メンバー補充でアイドルバンドでタイガースに迫るグループなどが、完全に追われる立場になったザ・タイガースに挑戦する、ウエスタンカーニバルが5月4日幕を開ける。
第35回日劇ウエスタンカーニバルは5月4日〜10日にわたり開かれた、開催前から、雑誌TVがタイガースのジュリー、テンプターズのショーケン、ワイルドワンズのチャッピーみつどもえ決戦を煽り、GS界は良くも悪くも完全なアイドル追っかけ時代に入ってしまった。
カーナビーツ、ジャガーズ、ライオンズ、レオビーツの演奏が終り舞台後方よりせり上がって来たワイルドワンズに今までに無い歓声が上がり上田芳暁がドラムをたたきながら歌う・愛するアニタ・島英二の”アニターッ!”の叫びにファンが悲鳴をあげる、つづいて2曲目で1月のウエスタンでメンバーになったチャッピーがエレクトーンを弾きながら歌いだす・バラの恋人・間奏でフルートを吹く多才ぶりを見せるステージは歌がかき消される歓声に包まれた、チャッピーの少女ッポイ甘さで新しいいワイルドワンズの演奏が終りつづいて、ニコルの伊藤公デザインの白いシャツに黄色のベストとバラの刺繍の入ったズボンでテンプターズが登場する、1曲目・今日を生きよう・チャッピーの甘さの余韻が一瞬で吹っ飛ばされた、ショーケンの悪ぶった目線に場内総立ちで歓喜に震える、垂れ幕がいつの間にか垂れ下がり2曲目・忘れ得ぬ君・に嵐のような歓声が上がり3曲目・神様お願い・ステージ中央でショーケンがひざまずき手を合わせる、少女たちは泣き叫ぶ、3度目のウエスタンカーニバルでテンプターズがタイガースに追いつき追い抜いたかに思える光景が作り出された。
せり上がりからタイガースは現れた、本番まで秘密にされていたピンクのサテンのブラウスに濃いグリーンのベルベットのスラックス、スラックスと同色のサテンのリボンを前身ごろに飾って、スラックスのヨークには花の刺繍をあしらったコシノジュンコデザインの衣装で1曲目・君だけに愛を・ジュリーの指が客席へ放された時、それまでに無い、それまでを吹っ飛ばすエネルギーの爆発が起こる、大熱狂の中歌い終ったジュリーは一呼吸おいて「静かに聞きましょう」と言ってトッポの花の首飾りを紹介する、トッポの綺麗な声が会場を包み酔わせて静かに歌い終るとピーがフロントへドラムをタローに代えて・ジャスティン・をピーとジュリーがかけあいで歌いウォーオ、ウォーオのかけあいは観客、ステージを一つにした、そして暗くなるステージ・・・I cee if all before me・・・ピンスポットに浮かんだジュリーは歌いだした、バックの証明が真っ赤になり腕に巻かれた鎖を契らんばかりに今のタイガースの青春の苦しみを身を傷つけて訴えるように・傷だらけのアイドル・を熱唱する、客席全てがジュリーの歌、呼吸を見つめるそしてピンスポットが赤くなり砕け倒れるジュリー、涙声が混じる客席は異様なまでの興奮に包まれた、その雰囲気を元の世界へ戻すようにサリーとジュリーで・シーセットイエ・を歌いタイガースのステージが終る。
その後内田裕也とザ・フラワーズ、尾藤イサオ、スパイダースの熱演、フィナーレとつづいた、前評判のアイドル合戦も、実力バンドの地位も、ザ・タイガースのものに、タイガースの凄さ人気を世に知らしめ、第35回ウエスタンカーニバルは幕を閉じた。
GSファンは親衛隊と呼ばれ、何処にでも現れる神出鬼没のベトコン型、GSのプライベートな部分を調べ髪の毛から何から何まで集める特捜型、NHKに出れたブルコメ、ヴィレッジ、ワイルドワンズを応援する、優等生型などに分かれていた、IMのアンドロメダのシルビーさんは何型だったのでしょうか?当時の思い出と調べてくれたオリコンチャートを紹介します、チャートはボタンをクリックしてください。
私も友達と日劇のまわりをウロウロした思い出がありますが、ステ−ジ全然覚えていないんですよねえ。騒ぐばっかりで、JUlieが何の唄を歌おうと関係なかったような・・・。ものすっごい嬌声で演奏なんか聞こえませんでしたよね。・・・・なんか当時の凄まじさが伝わる話です!! |
GS現象は以前熱狂的なファンと商業的なプロダクション、レコード会社の早い速度のレコード作り、バンドをやっていれば、どのバンドも良くも悪くもGSでデビューさせ、売れれば2曲目駄目ならそれっきりという時代に移り始めていた、オリコンチャートでもわかるように、君だけに愛をの上にフォークルの帰って来たヨッパライがある、これがもう一つの音楽現象となっていくことを気がつく必要も無くタイガースは次の仕事をこなす毎日に追われていた。
8月3日軽井沢真夏の夜の夢に出演し佐藤栄作総理の別荘を訪問する、そして8月12日日本で最初になるスタジアムコンサートを開く、後楽園球場ザ・タイガース真夏の夜の祭典は2万1000人のファンが集まりタイガースが描いたビートルズが成功させたスタジアムコンサート、一人でも多くのファンに見てもらいたいその想いが安い料金でタイガースからのプレゼントコンサートは、大成功に終る。
目黒ハイツを出ることになった、ピーはそこに残り、ジュリーは霞町のマンション、サリーは信濃町の川端新館、タローは赤坂のマンションへ先に1人住まいを始めたトッポを含めメンバーはそれぞれ一人の生活を24日より始めたが、恒例の夏の終わりのウエスタンカーニバルはタイガース、静寂から悲鳴の新曲・シーシーシー・のトップ人気で開かれ、GS人気の安定を保っていた、この時期タイガースは今までに無いLP作りに入っていた。
今までに無いレコード、ただ喜怒哀楽を表面的に歌うだけでは無く、今の自分たち、今の若者の心の叫びを音楽で表現したい!そんな気持ちをこめてレコード作りは始まっていた。
人間革命・・ヒューマンルネッサンス・・ ・・・・
星なき夜に あなたと逢って 星なき道に 愛の光が・・・・・ ・光ある世界・ なかにし礼作詞 すぎやまこういち作曲
7月31日サンケイホールを借り切ってオーケストラをバックにレコーディング。 彷徨える闇の世界から、抜け出す光・愛・に包まれ歩き出す過程を、ジュリーの遠くではあるが確かな光を見つけた事を感じさせるヴォーカルにサリーの低音コーラスが闇の世界へ引き戻すそこへ40人のストリングスがトッポの高音コーラスが光りある世界へ導く。
今この時にも 世界のどこかで 一つの命が 生まれている・・・・・ ・生命のカンタータ・ 山上路夫作詞 村井邦彦作曲
8月19日レコーディング。 生命の誕生、未来への希望を、ジュリーが歌いサリーがそれを助けるように絡む。
タンタンタン 白い光 ルル・・・・ 白い光さ ルルル・・・・・ ・730日の朝・ 加橋かつみ作詞作曲
8月8日レコーディング。 加橋かつみが書いた作品、新鮮で単調なメロディーにトッポの天使とサリーの悪魔の語り合いは、トッポの苦しみながら新しい光を見つけようとする暗示であるようだ。
青い鳥を見つけたよ 幸福はこぶ 小さな鳥を・・・・・ ・青い鳥・ 森本太郎作詞 作曲
9月19日レコーディング。 シンプルなメロディーラインに印象的なイントロ、メルヘンチックの中にアルバムならではの必要性を感じさせる、タローのヴォーカル、この曲はジュリーのヴォーカルでシングルで発売される(12月1日)事も決まる、その日タローはサリーからトッポが今年いっぱいでタイガースをやめたいと言う話をきかされ、複雑な想いをよぎらせる。
遠い昔暗い炎に 焼かれて消えた 緑の丘・・・・・ ・緑の丘・ 山上路夫作詞 村井邦彦作曲
8月19日レコーディング。 トッポが悲惨な出来事の後訪れた平和を願いながらも不安を覗かせたメロディーとヴォーカルが情景を鮮明に見せる。
フェスタ オ フェスタ ダンツァベルメー・・・・・ ・リラの祭り・ なかにし礼作詞 すぎやまこういち作曲
8月23日レコーディング。 ヨーロピアン復活祭に再開の喜びをジュリー、トッポ、サリーのそれぞれの声がバランスよくコーラスされ、サリーのベース、トッポならではのリードギターがどこか乾いた祭りを作り出す。
ゆらゆら・・・・帆のない小舟は 行方も知らないまま・・・・・ ・帆のない小舟・ なかにし礼作詞 すぎやまこういち作曲
9月2日レコーディング。 彷徨える大海に運命のままにあやつられ生き場所さへわからぬさまをサリーの重く揺れる波間へトップの嘆きが悲しく漂う。
別れの朝が今来た 別れ行く時が今ぼくたちに来たの・・・・・ ・朝に別れのほほえみを・ 山上路夫作詞 村井邦彦作曲
8月19日レコーディング。 戦いの場へ出向く、平凡な日常に別れを告げる、帰る、約束を、行く者、待つ者のいたみを強い感情を優しく抑えて歌うジュリーのヴォーカルが涙を誘う。
兵士の群れが 朝露に消える 母の姿が 小さく残る・・・・・ ・忘れかけた子守唄・ なかにし礼作詞 すぎやまこういち作曲
8月23日レコーディング。 戦いの場は遠く、必ず帰ることを信じる故郷、ジュリーとトッポがヴォーカルパートを分けて届かぬ想いを歌う。
神の恵みに甘えすぎて 神の怒りにふれたから・・・・・ ・雨のレクイエム・ なかにし礼作詞 すぎやまこういち作曲
8月23日レコーディング。 過ちである戦いは終り、失ったもの全てを後悔する終りのない時をサリー、ジュリー、トッポが這い上がれない想いを表現する。
真二つに割れたのさ りんごが割れるよに・・・・・ ・割れた地球・ 山上路夫作詞 村井邦彦作曲
9月5日レコーディング。 壊される世界、起こりうる出来事をジュリーがサイケにアートにロックするナンバー、苦悩する破壊をギターが表現する事でよりリアルな展開を生んだ。
人はだれも 悪いことを 覚えすぎたこの世界・・・・・ ・廃墟の鳩・ 山上路夫作詞 村井邦彦作曲
9月2日レコーディング。 旧約聖書を題材に作られたであろう、地球誕生・空・海・朝・夜・人間誕生・すべては人の想いが善悪の始まりであり繰り返される歴史である事をトッポが切々と歌い上げた・・・過ちの繰り返しのないことを願い。
・・・・・・・生きることの喜びを 今こそ知る 人はみな・・・・・・・ LP・ヒューマンルネッサンス・ 11月25日発売
ビートルズが作った・世界初のトータルコンセプトアルバム・サージェントペッパーズロンリーハーツクラブバンド・、同じトータルコンセプトアルバムを・ヒューマンルネッサンス・で日本で初めて作る事に成功したタイガース、このアルバムを残せなければタイガースはただのミーハーバンドで忘れられたであろう、5人の壊れかけたバランスが一瞬戻せた作品だと想う。
それまでのLPレコードはドーナツ盤のヒット曲を集めて作っていた、全曲書下ろしで作られたLP盤としては当時のレコードとしては完成度の高さをものがたっている。
ヒューマンルネッサンスが発売された月の初め、タイガース初めての5日間連続ステージを浅草国際劇場で開く、大劇場の客席、ステージの広さに最初はメンバーが驚いたが、連日大入りで熱狂ステージを成功させた。
同じ時期2本目の映画が撮られている、ヒューマンルネッサンスを中心にヒット曲中心の映画であるが、一作目から比べれば当時の青春娯楽映画としてはストーリーも面白く楽しめる。
<華やかなる招待> 長髪高校生の5人組バンドグループが髪を切られることを嫌がりSL貨物に逃げ込み(エデンの東カナ?)東京へ華やかにダンス<ウエストサイド物語カナ?>元気なのはここまで、はらぺこの現実からドラマは、知り合った女性の助けで音楽で成功するまでをヒット曲と共に描く、後楽園球場真夏の夜の祭典の映像が貴重である。 12月21日封切り。
その次の日トッポの年内でタイガースを退団する訴えが出る、24日トッポの脱退について話し合うが結論は出なかった。
トッポの脱退を感じさせる事なく、68年はGS人気、タイガース人気であった、しかしタイガースに出来たトッポ脱退の歪、GS人気の裏でフォークルは1年でタイガースとは別のコンセプトの成功を収め解散する、それがそれ以後の音楽シーンを変えていくことになる、GS最後の社会現象失神バンド・オックス・の出現も時代の移り変わりを止める力になりそうもなく、それでもタイガースは日劇でGSトップバンドとしての人気を保って、その年GSが一番輝いた年を終えた。
69年、歌謡曲が演歌、ポップス、フォークと多彩になり始め、GS人気に翳りが出てきていた、タイガースは他のGSの人気下降に影響される事なく1日、サリーのアパートに集まり新年会をやり、3日から北海道へ、14日〜20日は恒例の日劇ウエスタンカーニバルでトップバンドの人気でプレーするがその開催中19日東大安田講堂が学生と機動隊の半年余の抗争のすえ陥落、学生運動とフォークが反戦を旗印に社会の中へ居場所、生き場所を広げ始めた、日劇の中ではそんな事さえ、きずく事もなく黄色い悲鳴が渦巻いていた。
1月の終りジュリーは原宿に引越をした。
トッポの脱退がメンバー、スタッフで話される事が増えてきていたが、全曲オリジナル曲のLPを作るためレッスンは続けられていた。
3月5日いつものように渋谷のスタジオでレッスンはおこなわれていた、その日午後8時より本番のレコーディングが青山で予定されていてレッスンは6時に終り8時まで休憩を取る事になりトッポはふらっと出て行った、そして戻らなかった、「いつもの事さ」と思う以上に戻らない予感をメンバーは今回は感じたそして予感は現実となった。
メンバーに怒りと諦めが交差するがタイガースに時間のゆとりはなかった、8日までがタイムリミット、その日トッポはタイガースを除名された。
タイガースにとって絶対必要なハイテナーを失った、ハイテナーのトッポと、バリトンのサリーがジュリーのヴォーカルにコーラスされてタローがいてピーがいて最高のバランスが維持される5人のタイガースであった、花の首飾りで最高の売上記録を作りグループで作り上げた最高傑作ヒューマンルネッサンス、これらはトッポのタイガースで作り残したジュリーでは残す事の出来なかった作品である、ジュリーの・人気・と言う魔物にぶつかって行くエネルギーにトッポの目指すものが異なってしまった、残された4人は知り合って2年間同じ行動をしてきた事を振り返り様々な思いの中でトッポの除名を悲しく淋しく想いながらも認め合うしかなかった。
3月6日(現地時間)ロスに住むサリーの弟シローに兄からの電話が入る「かつみが急にタイガースを辞めたんや、だからお前にすぐ帰ってきて欲しいんや」シローは事の状況を完全に理解出来ないまま何度かの電話で11日補充メンバーをシローに決定したことを告げられ3月12日日本へ戻ってきた、そのまま東京音楽学院で記者会見、公開オーディションでビージーズの・ワーズ・を演奏させられ戸惑いながらもタイガース正式メンバーとして10日間の箱根合宿でシローはメンバーに励まされ最低限のレッスンをこなし3月27日京都で新しいタイガースがスタートする、シローがサリーから初めて電話をもらってから20間でタイガースは再び動き出した、シローが日本へ戻った次の日トッポはヨーロッパへ向け日本を後にした。
タイガース9枚目のシングル・美しき愛の掟・が新メンバーのジャケットで発売される、シロー加入後録音されたがレコードはトッポ在籍時に録音済みのもので発売された、アートロック色の強いナンバーでアイドル脱皮を意識し、B面には時代を意識したフォーク調の・風は知らない・を吹き込んだ、完成度の高い作品であったがトップになることはなかった(4位)時代はGSから多様化したレコードセールスの時代に入ってきていた。
*美しき愛の掟*この楽曲が私のタイガースで一番番好きな曲です、タイガース・GSそれぞれのマイベスト5です。 ザ・タイガース 1・美しき愛の掟・ 2・光ある世界・ 3・君だけに愛を・ 4・誓いの明日・ 5・銀河のロマンス・ ・・・・・順位を付けるのは難しい、全ての曲にそれなりの良さがあります。 GS 1・ノーノーボーイ・<ザ・スパイダース> 2・美しき愛の掟・<ザ・タイガース> 3・好きさ好きさ好きさ・<ザ・カーナビッツ> 4・神様お願い・<ザ・テンプターズ> 5・旧約聖書・<アダムス> ・・・・・ メジャーな曲、マイナーな曲と良い曲が有りすぎて難しい。 あなたのマイベストソングなんですか? |
ジャズ喫茶、5月のウエスタンカーニバルとシロー加入後もタイガースはGS1バンドの地位を他のグループに譲る事はなく人気は安定しているかに見えたがACBのある新宿駅西口広場へ2月頃から毎週土曜日になるとフォークギターを持った若者たちが集まりだし反戦歌の大合唱が始まる、そこにはスターは誰もいない、どこからともなく集まってくる若者たちで、GSの黄色い声を出すおしゃれな女の子たちは一人もいなく、当時の学生運動、70年安保を戦う少し汚メの男たち、女たちの東京フォークゲリラである、7月になって機動隊4000人が動員され排除された、やがてフォークゲリラは関西フォークと合流して日比谷野音で10円コンサート、中津川へと移動していく、急速に若者思考、風俗が変化しだした69年春ジュリーは中野に引越、シローの楽器問題、トッポに続きピーが蒸発しそうになるなどTV、ステージを下りた所ではバンド存続の危機と背中合わせの状態のままその月、5月27日、タイガースはロンドンに発った。
タイガースの映画は3本目で、1本目がビートルズ、2本目がモンキーズ、3本目はビージーズと言った感じで6月1日バリーギブに会ったり6月5日ロンドンのレストラン「ヒロコ」へ行った時、受付のおばさんがタイガースを知っていてサイン帳にサインを書くように言われ、そのサイン帳を見るとミックジャガー、ジョンレノンなどのサインが書かれている、そのおばさんに誰でもいいから来たらホテルへ電話をもらう約束をしてホテルで待っていると「ミックさんという人が来ていますよ」と連絡が来てすぐ駆けつけてサインをもらい、興奮状態でジュリーはミックに日本刀を送る約束をしたがいまだに送ってなく、サインだけが沢田家の家宝の一つになっているそうです、6日は「ヘアー」を見に行き興奮状態のピーがステージに上がり踊ったりと、楽しいロンドンロケで出来上がった映画・ハーイ!ロンドン・は、タイガースがハードスケジュールから自分の時間が欲しいと思うジュリーに悪魔の囁きがあり魂と引き換えに約束の時間に戻る事を条件にロンドンへ発ちハラハラドキドキの旅をして新しい曲を探す、ヒット曲満載映画でファッション風俗も楽しめるもので、7月5日シングル盤・嘆き・が発売された一週間後12日に封切られヒットする、8月にはビージーズから贈られた映画の挿入かスマイルフォーミーも発売され他のGSのレコードが売れなくなって来た時期ではあったが大ヒットにはならないながらも、タイガースのレコードはまだまだ売れていた、ヨーロピアンスタイルで8月のウエスタンカーニバルをトップ人気で演奏している頃海の向こうアメリカでウッドストックが開かれ商業主義にとらわれない自由な若者が集まり音楽スタイルの状況は問題定義を成しながら変化を遂げていた、やりたい事を自由にやっているように見えるGSではあったが現実はプロダクション、レコード会社に管理され、ブームのうちに売りまくれ!状態でレコードを作らされ、あらゆる仕事をやらされ人気がなくなったグループから消滅していく状況になって行く、それでもタイガースの人気は保たれていた。
・嘆き・はジュリーのソロを思わせる楽曲に仕上がった事から低迷に喘ぐタイガースを独立するのではとの噂が出る、ピーも今年で脱退する意思表示をする、グループサウンズと言う言葉さえあまり使われなくなってきていた、2度目の国際劇場もステージ、客席共盛り上がるものの日劇同様空席が見られるようになる、12月になるとジュリーはソロでLPを出す、発売前に15万枚の予約を受け大ヒットLPとなる、楽曲も
5人のタイガースではなく沢田研二、ジュリーのための完全なジュリー色で構成され・君を許す・〜・愛は世界のために・は沢田研二のソロシンガーを匂わせていた、シングルとしてはそれから先タイガースのステージでラストナンバーとなる・ラブラブラブ・のカップリングで君を許すとしてタイガースのシングル盤で発売され69年はタイガースのそれぞれの生きかたにそれぞれの思いが乱れ初めて終り70年は足早に訪れた。
70年1月2日から大阪フェスティバルホールでタイガースショーを開く、東京へ帰ってジャズ喫茶出演、ウエスタンカーニバルにも出演してビージーズメロディーなどを演奏する一方でジュリー以外のメンバーでロックフェスティバルに参加し2月1日岸部兄弟でLPサリー&シロートラ70619が発売されるメッセージが込められたレコードはロック部門で評価された、又タローも3月に作曲家として吉沢京子に楽曲を提供するなどソロ活動が増えそれぞれがブームが去りつつあるGSの先を考えているようであった。
3月20日、ハプニングスフォーのクニ河内の作曲による・都会・が発売され久々にトップ10に入るヒットとなり、ベストテン番組、夜のヒットスタジオなどに白のスーツで歌謡曲の雰囲気で出演して離れつつある女の子のファンから大人たちにもタイガースの存在、頑張りをアピールする。
5月のウエスタンカーニバル、6月のタイガース3回目の国際劇場、とその間もステージと楽屋でのメンバーの雰囲気はかなりの違いが見られた、当時のジュリーのインタビューの一部を紹介します。
*騒がれてうれしいですか?
J「うれしいです、人間ですもの、でもふと、ファンに囲まれていて、どうせすぐ忘れられるんだと思ったり、ファンに囲まれて身動きできないので”ごめんよ”などとちょっときつい言葉を使うと猛烈に攻撃される、そんな時、なぜこんなことしてるんだと思う」
*今いちばん何をしたいですか?
J「別に遊びたくもない、とにかく二時間でもボーッと静かにしていたい」
*完全な自由とスターの座とどちらをとる?
J「スターの経験のない人は自由をとると思うけどその味を知った者はスターをとります、つらい事もあるけどいいことの方が多いもの」
そして・・・眠い、とにかく眠いと言って大きなあくびをする、疲れている様子が伺える。
7月1日・素晴らしい旅行・散りゆく青春・発売、ジュリー、タローがそれぞれ作曲する。
10日よりジュリー単独のTVがスタートして、解散についてこの頃より具体的に話し合いがもたれる。
解散の二文字を5人は背負っていた、それを気づかせる素振さえ見せずに8月22日大田区田園コロシアムへ5人はプロのミュージッシャンとしてそろった、・ザタイガースサウンズインコロシアム・は日没が過ぎたばかり僅かに明るさを残してスタートした、8000人の全国から集まったファンの喚声の中ピーのドラム、タローのギター、サリーのベース、ストーンズのナンバー・ホンキートンクウイメン・ボリュームいっぱいのPAからタイガースの演奏、ジュリーの声が、シローの高音、サリーの低音が吐き出される、世の音楽事情は映画ウッドストックのヒットでロック音楽シーンは幾つものステップアップが進んでいた、もう決してGSではなかった(何故か当時BRITISH
ROCK AMERICAN ROCKを日本ではGSのジャンルに入れたりしていた)しかし日本で70年初めに此れだけの規模とカッコ良さで此れだけのステージをプレーできたバンドは無かったと思う、確かに演奏もヴォーカルもタイガースよりレベルの高さを誇るバンドは幾らでも有ると思う、選曲、ステージ構成そして何よりタイガースのGSバンドとしてのバランスの良さである、最初から全開のタイガース、CCRのアイプットアスペルオンユーまで一気に跳ばしてメンバーが交互に歌い大ロックンロールパーティー、ひと呼吸おくようにシローのラレーニヤ、憎いくらいのシローの音楽センスを伺わせてタイガースGS大のってけナンバーホワットアイセイ、ステージが客席が交互に掛け合う、メンバー、かまやつさん、客席を全部立たせてジュリーがハイテンションで盛り上げた。
タローがキーボードに移ってタイガースのオリジナルナンバーをつづける、どんな洋楽のコピーよりタイガースの日本独特のオリジナリティーなGSを感じさせる、それは凄く叙情的であり感傷的なメロディーでありコーラス、ヴォーカルである、タローが作った・散りゆく青春・は涙さえ流させ、・美しき愛の掟・はジュリーの叫びとタローのギターが何故か悲しく切ないどうしようもない今の想いのようでさえある。
ヘイ・ジュテーム・・・・・ジュリーが全てのファンに力を込めた魂を伸ばした手から放つ・・・・ジュ・ッテーーーム・・・・
シンプルでワイルドなGFRのナンバーを2曲つづける、凄まじい迫力と曲の良さを完璧に演じきるタイガース、ツェッペリンの前座でメインを食ってしまったGFR、それさえ完璧にに食った演奏からジュリー作曲の素晴らしい旅行つづいて絶対当時ではシングルでA面には出来ない・怒りの鐘を鳴らせ・をステージでは最高のA面曲で聴かせ・・・ラブラブラブのイントロがこのステージがエンドレスで無い事を気づかせる・・・・・ジュリーの涙声の言葉にメンバー個々の気持ちが聞き取れるような気がして、Lの指先がゆれて興奮と感動の2時間30分が過ぎた。
タイガースのメンバー全員が解散を避けられないものと認識した状態で新しいLP・自由と憧れと友情・製作に入った、ヒュウマンルネッサンスの後オリジナルLP作りに入ったが、タイガースにトッポ脱退のアクシデントがありLP製作は中止され2年が経っていた、解散、GSの終末が意識されたLPはメンバーのオリジナル、同じGS仲間が書き、全曲クニ河内のアレンジで作られた、自由、憧れ、友情、三つのテーマにメッセージが込められ、11月20日シングル・誓いの明日・が最後のシングル盤として発売、12月15日LPが発売された。
12月7日スポーツ紙に解散が発表され、ピー以外のメンバーは新しいバンドを組む事で動き出していた。
71年1月24日 日本武道館 ザ・タイガース・ビューティフル・コンサートはサリー、タロー、シロー、ピー、ジュリーの順でステージに登場して、タイムイズオンマイサイドで最後のステージが始まった、10000人のファンの歓声でない喚声の最後の時間が涙、叫び、悲鳴が交差する中タイガースの全ては終った。
この日、武道館の10000人の1人、アンドロメダのシルビーさんの、あの日の想いと今の想いを紹介します。
武道館のファイナルコンサ−トでは悲しくて、悲しくて、あんなに悲しい思いを超える出来事は、40数年の人生においてまだ無いのでは・・、と思います。・・・・・・ 21世紀に入ってTVをつければJulieがいる!!!なんというシアワセ!あの武道館で涙している自分に30年後のこの状況を教えてあげたい。 |
当時、熱病の如く、熱狂した少女たち、タイガースに憧れてギターを持った少年たち、グループサウンズと言う短い音楽現象、たった4年の音楽が現在へたどり着き、それは未来へ変化をつづけて行く・サリー・タロー・ピー・トッポ・ジュリー・シロー・グループサウンズの戦士たちはいまでもそれぞれの音楽シーンで生きている、強かに!力強く!!
どれくらい前なのか、タイガースのライバルテンプターズのショーケンのTVドラマのワンシーンにあった場面を紹介します。
萩原健一主演・テロリストのパラソル・ 冒頭でけがをした、バイオリンを習っている子供を見舞うシーン
女の子「ネェーおじさん、私がコンサート開いたら来てくれる?」
ショーケン「行くよ 必ず。」
女の子「ジャー聞いておきたいんだけど、おじさんどんな曲が好き?」
ショーケン「グループサウンズ」
女の子「それ!どんな音楽?」
ショーケン「一種の民族音楽だね!」
女の子「ふーん・・・・・」
この部分の台本、萩原健一のアドリブによるもの・・・・・そんな気がする。
60年代後半に、凄くカッコ良い、人間集団が出現して、その人間集団はアジアの片隅に居て、同じ習俗、言語、文化、そして何よりその人間集団には素敵な民族音楽があった、しかしその民族は短い時間で滅んでしまう、民族音楽を残して、そこからGSと言う民族音楽は隔世遺伝を永遠に繰り返しているのかもしれない。
大好きなグループサウンズが永遠であれば良い!!!!3/6