久々の休日だった。
インターハイ出場を決めてから、明けてもくれても練習練習という日が続いた。
それは強制されたものではなく部員の総意だったが、たまには休みも必要と、
合宿後の一日がオフになったのだった。
空気が摩擦音を立てる。
リングの真ん中を小気味よく抜けて、茶色いボールは地面に落ちた。
優雅だが切れ味のよいシュートだ。三井寿は唇の端で笑んだ。
快い感覚が手に残っている。
転がるボールを拾い上げスポーツバッグに詰め込んで、
彼は自主練習を切り上げることにした。量も大切だが、
いまの完璧なシュート感を体に残しておいた方がいい。
県大会、決勝リーグ最終戦の対陵南戦で体力が尽き、
中途退場をやむなくさせられた無念さはきっと一生忘れられないだろう。
自分の心に背を向けていた二年間のツケとしては安いものだったかもしれないが、
それでも相当こたえたのは確かだ。二度とあんな醜態はさらしたくない。
ならば積み上げていかなくては。貯金で食いつないでいれば、いつか元金は尽きるのだ。
バカはバカなりにちゃんと勉強してんだぜ。
自嘲気味に笑った。
高い授業料は返さなきゃ、ってな。
汗を拭ったハンドタオルをボールの隣りにつっこみ、バッグを肩にかけた。
公園を出て家までの道をランニングする。
帰ってシャワーを浴びひと休みしたら、本当に久しぶりに親とつきあうことになっていた。
家族三人そろっての外食はほぼ二年ぶりだった。
インターハイ出場祝いと称して父親が席をとったのは築地の料理屋で、
そこの小さな座敷で三井は上等の日本料理を腹に詰め込んだ。
何もわざわざ東京くんだりまでメシを食いにこなくても、とは思ったのだが、
ずいぶん両親を心配させた月日を、うまいものを食って埋め合わせられるなら
それもいいか、などと思う。
何食わぬ顔をしてぐれる前の居場所に戻ってきた彼にとって、
こうした改まった席は少し照れくさく、ただ寡黙に夏の味覚に箸をつけていた。
だが、それだけのことが両親には嬉しいらしく、
果ては挨拶に訪れた女将にインターハイ出場が決定したことを話すに及んで、
「その大事な試合で、てめーの息子は試合中脱水症状を起こしてぶっ倒れるって
みっともねえざまァさらしたんだぜ」という言葉が喉元まで出かかったが、
すんでのところで飲み下した。
二時少し前に料理屋を出ると、せっかくだから映画でも観ていくと三井は言い、
父親の車に乗らずに徒歩で銀座方面に向かった。
四丁目まで歩く間に何度となく無遠慮な視線にさらされ、ふと不安になる。
この日着てきた服はおろし立ての白いシャツとグレーのスリム・ジーンズだったが、
そんなに場違いだろうか。いつもは外に出しているシャツの裾もきちんと入れているのだが。
そういえば最近着ているのは制服とTシャツ・短パンの組み合わせとユニフォームばかりだし、
ちゃんとしたシャツは久しく来ていないから落ち着かないな。
いったん足を止め頭をかくと、前の方からやってきてちらちらと視線を送ってくる
カップルの女の方に目をやり、再び、今度はもう気にするまいと決心して大股で歩き出した。
交差点を渡って少し行ったとき、本屋の看板が目に入った。
週刊バスケットボール、今週はインターハイ特集でも組んでるよな。
そう思い、ついでに店内に入った。
中はかなり混んでいて、人をかき分け、やっとのことで目指す棚にたどりついた。
ラックにささっているバスケット専門誌に手をのばす。
もう一冊しか残っていないのを確かめて、それをつかみ上げようとした。
別の方からも手がのびて本をつかんでいることに気づいたのはそのときだった。
ヤロー!
明らかに男のものとわかる大きい手。……にしても並の大きさではない、
と思って手の主に視線を振った。相手も同時に目を向けてきた。見覚えのある顔だった。
「あれ……三井さん?」
「仙道……」
一九○センチと一八四センチが対面する。混雑する店内で頭二つ飛び出していた。
仙道はボーダーのTシャツをジーンズという出で立ちだった。
髪は例によってツンツン立っていたが、ユニフォーム姿しか見たことのない三井には
違和感があった。
「こんなところで何してるんすか?」
「おめーの方こそ」
「オレ、実家が東京なんで」
温厚そうな表情で仙道は答える。
試合での切れ味を目の当たりにしているから、それだけとも見えないのだが、
どことなく暢気そうなところが独特の雰囲気を生み出している。
「今週末は練習が休みだったから、戻ってきたんすよ」
「ふーん」
「で、三井さんは?」
「あ、オレは……」
インターハイ出場祝いをするという両親につきあってやった、とは言い出しにくかった。
といって高三にもなって理由もなく親と一緒に食事するやつとも思われたくない。
よりによって、どうしてこんなところで、こんなやつに……面倒くせえ。
「……見りゃーわかるだろうがよ、週バス買いにだよ」
間抜けな答えだと思ったが、こちらも切実だ。
「でもこれ、だいたい同時だったっすよ」
「いや、オレのが先だ」
むきになって言うと、仙道は少し考えてから手を離した。
「そんじゃ、それでもいいです」
「あ?」
あまりあっさりと引き下がられて気分的につんのめった。
これがたとえば桜木なら、本をまっぷたつに裂くまで互いに譲らないだろう。
そう思い、いいかげんオレも大人げないよな、と勝手に反省した。
鷹揚さを絵に描いたように仙道がにこにこしている。
一学年下だが、そうは思えない。その通り、確かに敵は一筋縄ではいかなかった。
「だから、三井さんが買って、オレに貸して下さい」
「ああ? んだって?」
「オレ、後でいいっすから」
「てめー……」
あまり気楽に決めつけられて二の句が継げなくなる。自分の言い分が通ったのに、
なぜだか素直に喜べない。といって退く気もないので、
とりあえずその雑誌を手にとってレジに行き金を払い、
きちんと袋に入れてもらって雑誌コーナーに戻りかけた。
仙道の頭は変わらず混雑の上にあった。
その頭が下を向いて何やら誰かと話しているようなので、
三井はいったん足を止めてその方に目をやった。
立ち読みする人、人混みを縫って行き交う人の隙間から、年輩の女の姿が見えた。母親だろうか。
ちょうどそのとき仙道が頭を上げ、三井と目が合うと、その母親らしき女に何か言った。
相手が振り向いて三井の姿を認めた。笑みを浮かべ、丁寧に腰を折る。
つられて三井も軽く頭を下げた。
それから先をどうしたものか決めかね立ったままでいると、
仙道の方が連れごと移動してきた。
「三井さん、オフクロです」
「彰がいつもお世話になりまして」
息子の肩より下のところで、仙道の母親はもう一度頭を下げた。
「い、いえ、オレは別に……」
冗談でもそれはありえないが、こういうのはオバサンの社交辞令みたいなものなんだから、
と適当に受け流した。目元と口元に息子の面影の重なる仙道家の主婦は、
息子の良いところと悪いところを二・八の割合でコンパクトにまとめて話し、
最後は「こんな子ですけど、これからもよろしくしてやって下さいね」と言って去っていった。
勝手によろしくされてしまった三井は勢いで「はい」と答え、
その背を見送った。状況がよく見えなかった。
ヤンキー時代に培った目つきで神奈川県ベスト5プレーヤーをじろりと睨む。
もっとも当時はあまり見上げるという経験はしなかったが。
「仙道、てめー、オフクロさんに何て言った?」
「三年の三井さんで、部活で世話になってるんだって」
「厭味か、そりゃ」
「いやー、湘北にはズイブン勉強させてもらいましたから」
「……オレじゃねーだろ」
ぼそっと口に出したが、仙道には聞こえなかったようだった。
自分でも内心忸怩たるものがあるので、この話題はおしまいにしようと思った。
「まあいいか、めんどくせえ。それより、こいつ、どうすんだ?」
手にした袋入りの雑誌で仙道の胸をつつきながら言った。
「連絡もらえれば取りに行ってもいいし、送ってくれてもいいっすよ」
「バカヤロウ。どうしてオレがそこまでしてやんなきゃなんねーんだ」
「いいじゃないすか。インターハイに出られるんだから」
言葉ほど拗ねていない口調で言う。よくよく考えれば脈絡のない論理だが、
弱いところを衝かれてつっこみきれなくなった。
人がせっかく気を遣ってそのことに触れないようにしてるのに、
そっちから言うんじゃねーよ、と思いつつ。
「おまえなあ……きっとほかの本屋ならまだあんぞ。
それに陵南の連中だって買ってるだろ」
何を考えてるのかよくわからない仙道の顔が人の好さそうな笑みを浮かべた。
「あー、でもせっかく三井さんが貸してくれるって言うし」
「……言ってねーよ」
ったく、こいつは流川より日本語が通じねえ、と思うと、どっと虚脱感が湧いてきた。
下手に逆らっても疲れるだけだ。いずれ処分することになるんだし、
こいつの話に乗ってやっても罰はあたんねえだろう。
「そんじゃ、こうしようぜ。オレはこれからこいつを読むから、
読み終わったらやるよ。いいだろ?」
「あ、どうもスイマセン」
「おまえ、今日は陵南に帰るのか?」
仙道の肩から下がる大きなスポーツバッグを見て言った。
「はあ」
「でもこれから用事かなんか、あんだろ?」
「あ、いや、別に。オフクロにつきあわされるところだったんですけど、
三井さんのおかげで無罪放免ですよ」
そう言ってあははと笑う。
「……人をだしにしやがって。調子のいいヤローだな」
「コーヒーでもおごりますから、それで勘弁して下さいよ」
「メシおごってくれるなら考えてやってもいい」
お気楽青年が一瞬目を見開き、困惑したような表情を見せた。
ああ、こんな顔もするんだな、と思うと、多少年上の余裕なんてものが出てきたりする。
「冗談だよ、冗談。よっし、コーヒーおごれよ」
仙道の背をどんとたたくと、先に立って本屋を出た。
外は真夏の太陽がぎらぎらと照りつけ、路面からは燃え立つような熱気が昇っている。
クーラーのきいた店内から出ると、眩しさと暑さに目がくらみそうだった。
「たまんねーな。早く涼しいとこに入ろうぜ」
無秩序に動き回る人の群れを器用に避けながら、三井は横道に逸れた。
後ろを振り返ると、仙道が前から来た二人連れと見事にぶつかっていた。
長身を屈めて軽く謝ってから三井のところにやってくる。
「いやー、人が多すぎて大変だなあ」
「んだよ、トロくせー。ドリブルで何人も抜いたりしてるやつとは思えねーぜ」
「バスケとは違いますよ。ちっとも読めないんすから」
恥じる様子も動ずる気配もなく答えると、隣りに立って数軒先の喫茶店を指さした。
「あそこなんか、どうですか」
別に好きな女と連れだっているわけではないし、むろん三井に否やのあろうはずがない。
とりあえずこの暑さから逃れることさえできれば後はどうでもよかった。
店の内装は落ち着いた感じだった。ほとんど満席だったが、
運よく奥の方に四人掛けのテーブルが空いていて、そこに通された。
並の長身以上の二人が歩いていくと周囲の視線が集中したが、
三井も今度は頓着もしなかった。仙道もまったく気にしていない。
席について少しすると、ウェイトレスがやってきて氷水とおしぼりとメニューをおき、
それから二人ににっこり笑いかけて去っていった。
「おー、いい脚してんな」
「ああいうの、三井さんのタイプですか?」
「ってわけでもねーけどよ。おまえは?」
「オレ、あんまりそういうのって考えたことないな……」
おしぼりの袋を破りながら仙道は言った。
「部活一筋ってわけか?」
相変わらずのらりくらりとした印象の抜けない表情を真っ向から見ると、相手は頬をかいた。
「バスケばかっていうんですかね」
「……いいんじゃねーよ、それで」
目の前の氷水を口に含み、飲み下す。冷たい軌跡が喉から下へおりていくのがわかった。
「無理にほかのところを見ようとしたってろくなこたあねーよ。
……あ、オレ、アイスコーヒーな」
急にばつが悪くなって、メニューも見ずに言った。
慌てて仙道がメニューを開き、目を落とす。その間に三井はおしぼりを出して手を拭いた。
ウェイトレスは仙道がメニューを閉じると、すばやいタイミングでやってきた。
「お決まりですか」
「アイスコーヒー」
「オレもアイスコーヒー。あ、それから」
仙道はもう一度メニューを開き、ざっと目を走らせてから
ミックスサンドイッチを注文した。ウェイトレスは注文を復唱し、テーブルを離れた。
「なんだ、メシまだだったのか」
「え……まだなのは三井さんの方でしょう?」
「オレは食ったぜ、親につきあって……え、あ、いや……とにかく、もう腹一杯なんだよ」
「オレもオフクロと食ったんだけど。そうかー、早とちりかあ」
自分の軽口を真に受けたのだと、三井にも察しはついていたが、
あまりにも素直でお人好しの反応にどう対処したらいいのかわからず、
謝ることも考えずに無言でいた。
「いや、学校のやつにもよく、おまえは時間にはスローなのに、
勘違いするときだけは早いって言われるんですよ」
悪びれもせず笑いながら言うので、三井も毒気を抜かれたような気分になった。
まったく、コートを離れると別人のようだ。
「わーったよ。食うよ。食ってやるよ。おごりなんだろ?」
素直な言い方ができないのはぐれる前からのことだ。意地っぱりで見栄っぱり。
そのせいでバスケを離れ、バスケに戻ってきたのも結局それがきっかけになった。
どうしようもない性格だが、自覚があるだけましになったかな、と思う。
「なら、半分つ食いましょう。オレ、昼、蕎麦だったんで」
「蕎麦って、日本ソバか?」
「そうですけど」
「渋いな。オフクロさんの趣味だろ?」
「いや、オフクロは中華かなんかにしたかったらしいんですけど、
オレがどーしても天ざる食いたくて」
「天ざる……」
「はあ、五枚」
「げ……」
三井が絶句するのを見て、仙道は慌てるでもなく続けた。
「いやー、違うんですよ。天ざるは最初の三枚だけで、
残りはただのざるそばですって」
何が違うんだよ、と言いたいところだったが、
自分もざるそばを五枚はたいらげられなくても、鮨なら三人前ぐらいは軽いだろうな、と思った。
三人前が五人前になったからといって大した差異はあるまい。
そう考え直して、他人の好みに難癖をつけるのはよしにした。
「それはそうと、三井さんは何食ったんですか」
「そんなこと聞いてどーすんだよ」
「や、ただ何となく」
「……和食だよ」
ぼそっと答える。
「刺身とか天麩羅とか……」
「想像力貧困だぜ、仙道」
鬼の首でも取ったように胸を反らせ、それから女将の言っていた料理の名前を反芻した。
「蟹しんじょのすまし汁とかよ、鱧ちりとか若鮎の笹焼きとか……」
「ワカアユのササヤキ?」
仙道はそう言って、眉頭を眉間に寄せた。
「何だよ、何かおかしいか?」
「鮎が囁くんすか?」
束の間首を傾げた三井だったが、次の瞬間相手の勘違いを察して吹き出していた。
「……バカヤロウ」
ひとしきり笑った後、まだ喉元に笑いの発作を抱えながら、
目の前で怪訝そうな顔をしている仙道を見て言った。
「だからな、鮎を笹の葉っぱで包んでだな……」
「あ」
「わかったかよ」
打ってもあまり響かない、よしんば響いても想像のつかないところから
想像の及ばない音を出す一学年下の陵南のエースを前にして、
しかし短気なはずの三井にあまり苛立ちはなかった。
「いや、『若鮎の囁き』っていうから、鮎のおどり食いかなんか想像しちまって、
ちょっと恐かったっすよ。ピーピー言ってる鮎を箸でつまんで……」
「おめー、鮎はピーピー鳴くのかよ」
「鳴かないですかね?」
「鳴くもんかよ……たぶん」
少々不安になって付け足した言葉をきっかけに二人考え込んだ。
生きている鮎を見たことがないのだから、いくら考えてもわかるはずはないのだが。