そうしているうちにアイスコーヒーとミックスサンドイッチが運ばれてきた。
仙道にすすめられるまでもなくひとつつまんで口に入れた。案外うまかった。
あれだけ食ってもう何も入らねーと思ったのに、よく入るもんだよな、
と自分の胃袋に半ば感心しながらハムサンドと玉子サンドを立て続けにぱくつき、
アイスコーヒーをひとすすりしてから三井は首をひねった。
アイスコーヒー二杯とミックスサンドひとつの代金はどう考えても
週刊バスケットボールより高いはずだ。
いや、みっつまとめずとも、単品でも高いだろう。
何考えてんだ、こいつ。
目の前でハムサンドと玉子サンドを口に入れ、
さらに野菜サンドまで腹に収めたざるそば五枚野郎は、
不満や不安や不審など感じたことはありませんとでも言うようににこにこしていた。
……何も考えてねーか。
おごれ、おごれ、と年上のくせに連発してしまった反省も肩すかしをくらって
多少空回りぎみだ。三井は隣りの椅子に置いた雑誌に手をのばし、
本を袋から出そうとして手を止めた。
はがそうとして二、三度人差し指の爪でひっかいた店名入りのシールをじっと見る。
心はあっさり決まった。
「おい、仙道」
「は?」
急に目があい、仙道はきょとんとしたような顔をした。
指先が玉子サンドを掴んでいる。
一瞬三井はテーブルの上の皿に視線をやった。
サンドイッチはもう二つしか残っていなかった。
「……ひとつ残しとけよ」
言うつもりだったこととは違う言葉が口から転がり出た。
「あ、すんません。食い始めると勢いがついちゃって……どっちにしますか」
「……てめーが金払うんだからよ、てめーが好きな方食えばいいだろ」
言いながらまたも軽い自己嫌悪に落ちた。
まったく、素直じゃないのは自分の精神衛生上も良くない。
仙道の方は全く気にするそぶりも見せず、三井に野菜サンドを残した。
三井は右手でサンドイッチをつまむと、反対側の手に持った雑誌を前に突き出した。
「やる」
仙道はグラスを掴もうとしていた手を止めた。下がった眉尻の下で目が丸くなっている。
「読むの面倒になったから、やるよ」
「え?」
「いらないんなら捨ててくぜ」
「いや、いらないってことはないっすけど」
「なら受け取れ」
三井はそれでもさっさと手を出そうとしない仙道の隣りの空いた椅子に、
テーブル越しに包みを放った。包みは無事着地した。持ってけ、ドロボー。
「……あ、どうも」
仙道は少ししてぺこりと頭を下げた。何だか困っているようにも見えるが、
気のせいかもしれない。三井はサンドイッチを口に放り込んでから、
快く苦い液体をストローで吸い上げた。冷たい感覚が食道を通り、
体内に落ちていくのがわかった。
「そう言えば、陵南はいまどうなってんだ?」
ふと思いついて聞いてみた。
自分自身はインターハイが終わってもバスケ部に残るつもりだが、
赤木や木暮はこの夏の全国大会が最後と決めている。
神奈川県予選が終わった直後に翔陽の長谷川と会ったことがあったが、
彼のチームはいま、選抜に的をしぼって猛練習中であると言っていた。
翔陽は三年が主体だから、レギュラーが一人も抜けないとすると厄介な敵になるだろう。
二年生中心の陵南はどちらにしろ強敵であることに間違いはない。
「うちは魚住さんや池上さんたち三年生が引退して、二年と一年でやってます」
「そうか、魚住もな……」
「三井さんは選抜まで残るそうですね」
「おうよ」
「大丈夫ですか? 進学なんでしょ?」
真っ向から見つめてくる目が笑っていたが、
そこには人の神経を逆撫でするような色は浮かんでいなかった。
「……何で知ってんだよ、そんなこと」
「いや、たまたまうちには情報通がいて……」
「ははん!」
三井は椅子にふんぞり返ってからかい半分に言った。
「選抜に備えて情報収集かよ?」
「まあ、役に立つかどうかはちょっと疑問ですけどね」
言って肩をすくめる。三井は身を乗り出して片肘をテーブルにつき、
仙道の目を挑発するようにのぞき込んだ。
「……ま、次もいただくぜ?」
仙道はしばらく目を丸くしたまま彼の視線を受けとめていたが、
不意に顔ごと目を逸らした。驚きという情動がやっと脳細胞に伝達され、
知覚されたというような感じだった。
大きいところはブラキオザウルスだけど、ツンツンしているところはステゴザウルスかな、
などと唐突に考えた。
目の前の、そんな草食恐竜を彷彿とさせるバスケットマンは、
横を向いたまま頬をかいていたが、やがて何とも複雑な笑顔を見せて言った。
「冗談きついですよ、三井さん」
「…何だよ、うちが陵南に勝ったのはまぐれだってのかよ?」
知らず、声に険がこもる。仙道は慌てたように手を振った。
「いや、そういう意味じゃなくて。……湘北はほんと、強いですよ」
にこにこと笑みを乗せているだけだった目が次の瞬間真剣になり、三井は少し気圧された。
「いまも強いし、どんどん強くなる」
「仙道……」
「……挑戦するのはこっちの方ですよ」
そう言ったときちらりと見えた意地や鋭さはすぐにのどかな表情の下に隠れてしまう。
まるでいま見たものが幻ででもあったかのように。
毒気を抜かれた気分になって三井は椅子の背にもたれた。
「……大黒柱が抜けるのはお互いさまだもんな」
「うちでは二年生中心になって、打倒湘北、打倒海南っていきまいてますよ」
「次は負けねえって?」
「はは」
気抜けしたような笑い声を仙道は漏らした。
「むきになってはりきっているやつも多いですけど……オレはなんか、そんな気になれなくて」
「ああ?」
「なんかこう、調子が出ないんすよね、やる気っていうのかなあ。
監督にもよく、おまえはむらがあるって言われるんですけど」
そこでふっと目元に陰を落とす。万年にこやか魔人だと思っていたが、
どうやらそればかりでもないらしい。
「……今年の夏はインターハイだって決め込んでたからかな」
首をひねり考え込んで、やがて何かに気づいたのか、上目遣いで目を合わせ、
焦り気味に口を開いた。
「いや、別に湘北のせいだって言ってるわけじゃ……」
「ったりめーだ、バカヤロウ」
三井は傲然と応じた。
「強い方が勝つ。弱い方は負ける。幼稚園児でもわかる理屈だぜ」
珍しく、心底驚いたように目を瞠る仙道に、三井はなおも追い打ちをかけた。
「弱いやつぁ、練習積んで強くなるしかねえんだよ。うだうだ悩むんじゃねー!」
半分は自分に向かって言った言葉だった。
陵南戦で倒れたことを思い煩っている暇があったら、ランニングでも水泳でも何でもして、
基礎体力をつけるのが先だ。まだ間に合う。むしろ体力不足を痛感させたあの試合が、
県大会の試合で良かったと思えるくらいだ。
三井は仙道の視線を捉えたまま続けた。
「バスケ、好きなんだろ?」
「あ、はあ……」
仙道は押され気味の返答をした。しかしそれはもちろん、
その場しのぎの答えでないことはわかった。
「だったら、見失うんじゃねえよ」
真顔で目を向けてくる仙道を三井は見た。
バスケが好きなら、素直に無心に取り組めばいい。
インターハイ出場も全国制覇もその延長線上にあることだ。
どんなにチームメートや環境に恵まれても、自分自身が背を向ければ、結果はゼロ。
回り道をした二年間は、それをわからせてくれたということでは無意味ではなかったらしい。
もっともバスケットボール・プレーヤーとしては悔いが残るから、つい言ってしまうのだ。
自分の本当の気持ちを見失うな、と。三井自身ももう目を背けないつもりだ。
「オレは二年間バスケから離れてたけど、味気ない毎日だったぜ。
……もう二度とあんな思いはしたかねえな」
相手が何も言わないので、ついぽつりと漏らした。
言った後でどういわけか気恥ずかしくなって、
舌先から転げ落ちた言葉をどうにか回収しようとひたすら考えた。
だが、背中にどれだけ冷や汗が流れようと、妙案などおいそれと出るわけがない。
「三井さんの気持ちがわかるって言ったら嘘になると思いますけど……」
その沈黙の訳を誤解したのか、仙道は言った。三井は目を上げた。
「やっぱり故障で二年間棒に振ったらつらいですよね」
仙道は神妙な顔をしていた。
「え……二年間、故障……? オレ?」
「隠さなくたっていいですよ。うちの情報通がちゃんと調べて……」
とんでもない話がまかり通っていたことを知り、
テーブルの上に乗り出していた三井の体が退いていく。
「……悪いけど、おまえんとこの情報部員、確かにザルだわ」
「え、違うんですか?」
「違う」
「じゃ、何で」
普通なら、そこまで立ち入られると癇に障るのだが、不思議にこのときは素直に返答ができた。
「見失ったから」
「え?」
呟くような小声で言ったので聞き取りにくかったのだろう、仙道は聞き返してきた。
三井は微笑んだ。
「教えてやんねー」
「ええっ?」
「敵に秘密ばらすやつがいるかよ。教えねえよ」
言ってからからと笑った。
「どうしても聞きてえなら、選抜が終わった後に聞きにきな。気が向いたら話してやる」
「それより、うちが湘北に勝ったら、ってのはどうすか?」
不意に突っ込まれて三井は目を見開いた。
「いいぜ」
そんな約束をして「ぐれたから」の一言で済ませられたら、こいつはどんな顔をするだろう。
いや、実際そうだからしようがないのだが。まあその前に陵南に負けるつもりはないから、
問題はないか、と無責任に考えた。
「ようし。何だかやる気が出てきた」
「お手軽なやる気だな」
「お手軽じゃいけないってことはないですよね?」
仙道は目を細めた。
たぶん言う通りなのだろう。仙道の名が口の端にかかるときに枕詞のようについてまわる
「天才」という言葉はもちろん伊達ではないが、
だからといって天分だけでここまで昇ってこられるはずもない。
やる気を失っていたというのがどの程度のことかは知らないが、
放っておいても結局は浮上したのだろう。
ともあれ、仙道ののたりとした雰囲気には、
やる気がありすぎるのもなさすぎるのもそぐわない気がした。
「何にしても不思議なヤロー……」
考えの最後が思わず口に出て焦って我に返ると、相手が黒目がちの目を向けてきていた。
「何か?」
「い、いや、こっちのことだ」
仙道は怪訝そうな顔をしたが、すぐに椅子の中で背筋をのばした。
「……急にこんなことを言うのも何ですけど、今日は三井さんに会えて本当に良かったな」
本気なんだか、そうでないのか、よくわからない表情で歯の浮くようなことを言われ、
三井は面はゆい気分になって目を逸らした。
「……まあな、オレたちも、陵南があんまり腑甲斐ないと、やっててつまんねえからな。
おめえの調子がでねえからってコロッと負けられちゃ、
神奈川ナンバーワンの座の価値も落ちるってもんよ」
「ナンバーワンって、オレたちより海南がいるでしょうが?」
「ああ」
三井はにやりとした。
「牧のいる海南にはインターハイできっちり借りを返すぜ」
「……はは……」
仙道はまたも目を丸くして、中途半端な笑い方をした。
「何だよ、おかしいなら正直にそう言えよ」
「いや、そんなんじゃなくて、なんてゆーか、その……」
しばらく言葉を探しているようだったが、やがてそれもあきらめたように頬をかく。
すると一瞬の後には何の屈託もない笑顔を見せた。
「ちょっと感動して」
「……どうせ、できもしねーことを、とか思ってんだろ?」
「そんなこと、ないっすよ」
やけに真剣な声音で言うと、邪気のない笑みは共犯者めいたものへと変わった。
「常勝海南の歴史の中でも最強って言われてますからね、今年のチームは。
負かすならそういうチームでないと意味がない。……応援してますよ」
穏和な瞳の底で熱く燃えるものがある。
やる気がないとこぼした舌の根の乾かぬうちにこれだ。
ふだんは眠ってばかりいるのに、ハンティングのときには鋭い緊張感をまとうサバンナの猛獣。
それが目の前にいるやつの正体なのだろうか。
三井は唇の片端を上げた。
上等じゃねえか。
自分の想像が気に入って、一人悦に入る。
だがオレだって黙って食われるのを待ってるインパラやガゼルじゃねえんだ。
強いやつから逃げるだけじゃおさまらねえ。
「海南を倒したら、次はおめえらだ」
三井はしなやかな肉食獣の目で仙道を見据え、言った。
「……次も負けねえぜ?」
こっちこそ、と言いたげに仙道はにこりと笑った。
喫茶店を出ると外は相変わらずの暑さだったが、
多少は夕暮れへ向かう清しさが感じられるような気がした。
陵南の寮に帰るのと三井の家に帰るのとは途中の駅まで一緒のため、
結局二人で有楽町まで歩き、東京へ出て東海道線に乗った。
海水浴客の流れとは逆の動きになる下り線は、
日曜の夕刻ということもありそれほど混んでおらず、
二人は四人がけのボックスに向かい合って座った。目的の駅までの数十分は、
NBAのことだとか大学リーグのことだとか、当たり障りのない会話でつぶれた。
そろそろ仙道の下車する駅に近づき、彼は網棚からスポーツバッグを座席に下ろした。
バッグの外ポケットには三井の渡した雑誌の包みが突っ込まれていた。
仙道はそれを手に取るとしばらく眺め、言った。
「三井さん、オレ、これ読んだら返しますよ、やっぱり」
「いいって、そんなめんどくせえこと」
「いや、返します」
結局喫茶店での代金を割り勘にしたのを気にしたのか、仙道はなおも言い募った。
「仙道、おめえなあ、そんな雑誌一冊くらい……」
「返しますよ、インターハイ直前情報も載ってるはずだし。だから三井さん……」
電車はスピードを緩め始めた。
「住所と電話番号、教えて下さい」
言うが早いか、返事も聞かずにスポーツバッグのファスナーを開け、
中を探った。しかしボールペンはすぐに取り出せたものの、
書き留める方の紙が見つからないらしく、しばし迷った後、
問題の雑誌の入った袋を差し出した。
「スイマセン、これに」
三井はそれを不承不承手に取った。
「ひでえなあ、手帳くらい持ってねーのかよ」
文句をたれながら幾分焦りぎみにペンを動かす。すでに駅の遠景は視界に入ってきていた。
「オレ、手帳って使ったことないんですよ。どうせ予定もないし」
「生徒手帳は……」
「寮の机の引き出しの中かなあ、あはは……」
「ったくよー、ほら」
「てめえ、何なんだよ、その『スシ』ってのは!」
「は?」
袋には、仙道の意外にきれいな筆跡で「三井寿司」とあった。
「『司』はいらねーんだよ、寿司屋じゃねーんだからよ」
「あっ、ああ、いらなかったんですか。いや、いままで勘違いしてたなあ……」
恥じ入るより先にひたすら感心しているところが、何となく仙道らしいかな、
と思ってしまう。突っ込むのもばかばかしいと思わせてしまうこの雰囲気は
人徳というやつだろうか。
電車はホームに進入し、静かに止まった。空気の抜けるような音を立ててドアが開く。
仙道はスポーツバッグを肩にかけ、雑誌入りの袋を持って立ち上がった。
「返し忘れたら、それでもいいからな」
一言付け足すと、仙道は人の好さそうな笑みを返してきた。
「忘れないっすよ、絶対に」
言って片目をつむる。
「それじゃ、また」
「ああ、またな」
長身をひょいと屈め、仙道はホームに降り立った。すぐにドアは閉まり、電車は動き始めた。
夏の夕空はまだ明るく、車輪と線路の立てる音を耳にしながら三井は窓の外を眺めた。
帰ったら家のまわりを走ろう。
いつか取り戻す百パーセントの自分を思い、
彼は平行する二本の鉄の線が一つの点となって消える彼方を見た。