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 炊事場に引っ込んだ紫龍が大した時間もかけず作り上げて卓上に並べた料理は、 氷河の食欲を猛烈に刺激した。紫龍にすすめられると同時に、氷河はしばらくものも言わず ひたすら食べ物を口の中に送り続けた。それは空の胃袋のせいでもあったが、 どれもみな美味なのが拍車をかけた。
「おい、あまり急に詰め込むと体に悪いぞ」
 紫龍の声に氷河は目を上げた。碗に入った粥を蓮華で口に運ぶ途中手を止めて、 驚いたような目を向けてきている。
「聖闘士はこれくらいじゃ腹をこわさない」
 答えて改めて卓上を見ると、紫龍の領分を侵犯してたいらげていた。そのせいか、 満腹まではまだ余裕があったが、空腹は癒されている。
 紫龍は氷河の答えを聞いて軽く笑った。
「胃袋まで鍛えたのか?」
「食糧事情の悪いところで育ったからな」
 紫龍ははっとしたように目を瞠った。
「気がつかなくて、すまん」
「いや」
 さらっと答えて氷河は改めて周囲を見まわした。
 見事なほど殺風景なその部屋には、家具はいま二人が使っている頑丈な木の卓と椅子しかない。 扉の類は出入り口と窓についているだけで、隣りの部屋に通じる部分は口を開けたままだった。 明かりはもっぱらランプに頼っているのだろう、壁にランプ掛けがつけられている。 窓にはガラスの一枚もはまっていなかった。
「何もないだろう。俺が修行中使っていた家だ。……その後も五老峰に戻ったときにはここにいた」
「ものがないのはシベリアも同じだ」
 氷河は応じて紫龍を見た。
「それにしても静かだな。前に来たときはもう少し活気があったような気がしたが」
「……そうか?」
 紫龍はそっけない返事をすると粥の最後のひとすくいをすすり、ごちそうさま、と 両手を合わせた。
「それより氷河、今日は泊まっていくんだろう?」
 食後の茶を氷河の湯呑みに注ぎながら紫龍は言った。
「えっ? あ、ああ、別にシベリアに帰るのは急いでいないから」
 城戸の留守部隊が聞いたら呆れそうなことをしれっと言ってのけた。ともあれ、紫龍に会った 後のことをまるで考えていなかった自分に、氷河はいまさらながらに驚かされた。
「それなら、少し休んで組み手をしないか。一人だとつい楽をしてしまってな」
「おまえがか?」
 氷河は笑った。紫龍の生真面目さが並みでないのはよく知っている。だが、彼にとっても 紫龍の申し出は願ってもないことだった。最近城戸の雑用が多くろくに体を動かせないので、 エネルギーの向けどころに困っていたのだ。
「ま、いいさ。異議なしだ」
 せっかちにも氷河は食卓を離れ、長旅で凝った筋肉をほぐしにかかった。


 飛流直下三千尺  。  廬山の大瀑布は李白の詩にそう謳われている。まさに豪壮無比な自然のスペクタクルだ。
 その滝を臨み滝壺の上に大きく張り出した岩の上で、白熱した応酬が繰り広げられている。 少しでも足を滑らせたり勢いが余ったりすれば、数十メートルをまっさかさまの苛烈な条件は、 常人ならばゆっくり歩くのがやっとであろうが、聖闘士にしてみれば些細な障害にもならない。 実際二人は、必死に、というよりは楽しんで拳を交わしていた。
 紫龍が繰り出した拳を氷河が前腕で防ぎ、間髪を入れず足を蹴り上げる。すばやく飛びすさって 反撃をかわすと、紫龍は大きく跳躍して氷河を頭上から狙った。それをわざとぎりぎりのところで よけ、氷河は紫龍と対峙した。視線と視線が激しくぶつかり合い、一気に小宇宙が上昇する。 互いの「気」を測る数秒間の静止の後、激烈な地殻変動を思わせるパワーで動きが再開した。
 飛び上がる、交差する。エネルギーが衝突して弾け飛ぶ。この激しい闘いが余力を残しての ものとはとうてい信じ難い。だが彼らの顔に浮かぶのは、憎悪や怒り、緊張の表情というより 笑みに近い。もっとも動きが速すぎて、かりに見ている者がいたとしても表情まで 判別することはできなかっただろうが。
 純粋に肉体だけの組み打ちは、死闘一歩手前のところで危うく均衡を保ち、展開していた。
 轟音を上げる飛泉の奔流もたびたび彼らの気魄に流れの方向をねじ曲げられ、 露出したことのない岩肌が大気に晒されている。
 氷河の放つ凍気で水しぶきは雪となって舞い落ちる。
 二人の聖闘士の周囲では雪になりきらぬ多量の水が形を変えて浮き上がり、 ときおり拳の余波を受けて小さな水の玉に四分五裂する。
 異様な事象は枚挙にいとまのないほど起こっていたが、大きな破壊をもたらすものは皆無だった。
 氷河はいま、楽しくてしようがなかった。ひとつリズムが狂えば組み手どころではなくなる闘いを、 ある種の緊張感をもって続けながら、胸がわくわくしてとまらない。紫龍もたぶん同じ気持ちに 違いない。
 城戸の屋敷の裏庭がいくら広いといっても、そこで本気を出してやり合うのは気が引けた。 あそこにいるのは聖闘士だけではないのだ。だがここは違う。
 彼の多幸感を煽るように紫龍の拳が打ち込まれる。負けじと返す拳をがっちりと受け止められる。 その手応えが何より嬉しい。
 小宇宙に満たされた周囲は目に眩しいほどで、その光の渦の中、紫龍の髪が残像を残して流れて いく。真剣な目が輝いて、どんな激しい動きをしいようと氷河に据えられている。
 氷河の青い目も紫龍の姿を追う。振り切られまいとひたすら追う。もう何も考えられない。
 やがて磁力でつなぎ止められた視線の先で、紫龍の笑みが鮮やかに閃いた。岩を蹴り、体を伸ばして ゆるりと後ろざまに身を投じる。それこそ白鳥の飛翔のように一度大きく回転すると、 五メートルほど下の岩棚に着地した。そして眩惑されて見下ろす氷河の目の前で、激流に向かい、 裂帛の気合いを込めて彼の決め技を放った。
 大瀑布の水がわずかなせめぎ合いの後、一気に逆流した。流れは急速に幻の獣の形をとり、 天へと昇り始める。龍神の顕現というにふさわしい勇壮な光景だった。
 一瞬氷河はそれに見とれたが、すぐに我に返り、滝に向け拳をふるった。水はたちまち凍りつき、 氷の龍が空へと向かう形で静止した。西へ傾きかけた日の光を受け、昇龍は金剛石のように輝いている。 この山が現在の名で呼ばれるようになるずっと前からあたり一帯に響いていた雷鳴を思わせる 水音が止まり、束の間静寂が訪れた。だが、せきとめられた流れは凍った部分を乗り越えて押し寄せ、 龍の両脇から流れ落ち始めた。
 氷河と紫龍が拳を放ったのはほぼ同時だった。瑞獣は細かい氷片となり降り注ぐ。きらきらと 無数のかけらが星屑のように光り、すぐに驟雨と化してあるべきところに還っていった。
 全てが何ごともなかったかのように日常を取り戻す。
 ああ、そうか、と氷河は唐突に気づいた。
 この山並に漂う「気」は紫龍の小宇宙そのものだ。
 清浄で幽玄で不可思議で決して押しつけがましくない。豊かで何者をも否定せぬ懐の広さを 持ち合わせている。まっすぐで美しくて、そして  
 そして俺の好きな……。
「ああ……」
 胸が急に熱を帯び、息苦しくなった。小宇宙を収め、下の岩棚にすっくと立って顔を上げた紫龍を、 膝に手をあてて見下ろす。
 彼自身、恋の自覚にうろたえるほどうぶではないつもりだ。現にシベリア時代はアイザックという 相手がいた。氷雪に閉ざされた酷寒の世界では、何よりも人肌の温もりが快かった。 抱き合うのは自然の帰結だった。
 だがいまのこの気持ちはそのときの想いとは違っている。たとえば春の日だまりの中でさえ、 俺は紫龍を求めるだろう。
 解き明かされた暗号の答えに氷河は戸惑っていた。
 そんなことも知らず、紫龍は深く息をつくと、岩棚からひととびで氷河の傍らに戻ってきた。 額の汗を手の甲で拭い、満足そうに笑っている。
「ありがとう、氷河。久しぶりで気持ちがよかった」
 最前の闘いぶりが嘘のように穏やかに笑む。それからゆっくり大滝を振り返った。 横顔がなぜか寂しそうで、氷河は目をしばたたいた。
「……これでふっきれるかな」
「ふっきるって、何をだ?」
 思わず聞いていた。
 紫龍は答えず、しばらく滝を見つめたままだった。多量の水の流れ落ちる音だけが間断なく 地響きのように続いている。水の勢いのすさまじさに水面は煙り、あたりにはひんやりとした 湿気が漂う。
「氷河」
 彼の名を呼び、紫龍はゆっくりと顔を向けてきた。精神の毅さを映す切れ長の目が美しい。
「おまえ、さっき言っただろう、前に来たときはもっと活気があったようだと」
「あ、ああ……」
 とっさのことで肯定の返事しかできなかった。
「確かにおまえの言う通りだ。ここはあのときの五老峰とは違う」
 紫龍の言葉は氷河にはぴんとこなかった。あのときの言葉も、実を言うとそう深く考えて 言ったことではないのだ。
「わからないか?」
 氷河は改めて周囲の気配を探った。山ではない。滝でもない。それでは  
「あ……」
 やっと気がついた。海皇ポセイドンとの戦いに入るときこの五老峰で強く感じたあの雄大な「気」が どこにもない。
「老師か?」
 紫龍は頷いた。
「老師の弟子になったときから、俺は故郷がここだと思い決めていた。知っての通り、俺は ものごころついた頃から孤児院暮らしで、郷里と呼べるところがなかっただろう? だから日本に 戻ってからも五老峰に帰るのが嬉しかった。……老師が聖域に戻られても、ここは俺を変わらず 迎えてくれると信じていた……」
 氷河は黙って紫龍の次の言葉を待った。
「……実際、この違和感が本当に老師のいらっしゃらなくなったせいなのかわからないが、何にしろ 俺はまた帰る場所を失ってしまったようだ」
 紫龍は寂しげに滝を見上げた。
 岩の先端に立つ彼のその肩がひどく頼りなさそうに見えて、氷河の心がにわかに騒いだ。 いまにも紫龍が、主の潜む滝壺に身を沈めるのではないかと思え、ひとときも目を離せなくなる。 子どものころ目の前で母を失った恐怖が背筋を悪寒の形で伝わった。
「だめだ、紫龍っ!」
 叫ぶのと飛び出すのはほぼ同時だった。
「どこにも行くところがないなら、俺と一緒にシベリアに帰ればいい!」
 続けて叫びながら、思い切りダッシュして勢いのままに紫龍を抱え込み、安全圏に引き戻す…… はずだった。
「わっ、ばか、落ちるっ!」
 氷河が猛タックルをかけるとは予測もしていなかったのだろう、意外なほどあっさりと紫龍は 氷河の腕におさまり、その分余った勢いで二人一緒に岩場から飛び出していた。
 数秒後に起こった派手な水音は滝の上げる轟々という音に吸い込まれて消えた。


「まったく、何を考えてるんだか」
 淵を泳ぎきり岸に上がると、紫龍は後に続いた氷河を軽く睨んだ。意に添わぬ寒中水泳を強いられて、 少々おかんむりのようだ。服も髪もぐっしょり濡れ、吹き抜ける風に晒されて一度大きく 身を震わせた。
「とにかく早く戻ろう。着替えないとな」
「すまん……」
 氷河自身は東シベリアの海で鍛えていたおともあり、さすがに寒さを感じていなかったが、あまりの 成りゆきに落ち込みはだいぶ激しい。一言だけ謝ると、先を行く紫龍にとぼとぼとついていった。
 しばらく二人は何も話さなかった。冬に日は暮れるのが早く、滝を後にして大して時間が経って いないのに、気がつくと夕まぐれがそこまでやってきている。まさに氷河の意気消沈ぶりと シンクロしていた。
「……俺、今日シベリアに帰る」
 足を止めて呟いた言葉に、紫龍が驚いたように振り返った。
「え……」
 氷河の真意を測ろうとするように鋭い視線を射込んでくる。だがすぐに口元をほころばせた。
「何言ってる。いまからじゃまた南昌に足止めだぞ。今日は泊まっていけ」
「でも、おまえ、怒ってるだろ」
 紫龍は少し考えるような仕種を見せた。
「そうだな。少しはな」
「ほら」
「そんなことで自慢するなよ。たかだか事実の五パーセント程度だぜ。怒っているのはちょっとで、 ほとんどはおまえがいてくれて嬉しい」
 そう言って紫龍は微笑んだ。現金なもので、それだけで氷河の胸の中は温かくなる。
「本当か?」
「ああ」
 足どりが急に軽くなった。いつまでも歩いていたい気分になったが、もう小屋はすぐそこの ところまできている。空には星が目立ち始め、冴えた空気に紫龍の肩が寒そうにこわばっている のを見て、氷河は彼と並んで少し足を速めた。


 小屋に戻るとまずランプに火を入れ、風が入ってこないよう窓の板戸をおろした。
 心許ない灯火の中、二人それぞれに服を着替えた。
 氷河はいつもと同じラフなスタイルで、ブルーのタートルネックの綿セーターの上にトレーナーを 重ねてジーンズをはいた。トレーナーやセーターを着ているのは寒いからでなく、冬でも 薄着でいられると見ている方が寒くなる、と沙織からクレームがついたせいだ。
 紫龍は珍しく中国服でなく、黒地に大胆な幾何学模様を配したハイネックのセーターと グレーのジーンズに身を包んだ。
「へえ……」
 簡単の言葉を発しただけで口をつぐんでしまった氷河に、紫龍は少し困ったような顔をした。
「……おかしいか? 誕生日のときムウからもらったんだが、なかなか着る機会がなくて…… 似合わないかな」
「そんなことはない。すごく似合っている」
 実際いつもと違った雰囲気に氷河は戸惑っていたが、もともと均整のとれた紫龍の肢体にジーンズ 姿は似合いすぎるくらいだ。さすがムウの見立てだと思ったが、ちょっと面白くない。しかし 紫龍は氷河の複雑な胸中も知らず、安堵したような笑顔を見せた。「それならよかった」と 一言言うと、彼は近くの手提げランプに手をのばした。
「そろそろ腹が減ったろ? すぐに支度をするからそこで待ってろ」
「なんなら手伝うぞ」
「せっかくだが遠慮するよ。おまえは客人だし、第一……」
 ランプに火をつけ、紫龍は真顔で続けた。
「煮えたった湯に突き落とされるのはごめんだからな」
 言ってから、抑えつけていた笑みをほころばせ、彼は炊事場に向かった。 赤面したところを見られなくて氷河はほっとした。




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