* * *
夕餉の時は薄明かりの中、楽しく過ぎていった。部屋の中が暖まってきたころに窓の板戸を上げ、
そこから星明かりを採り込んだ。
床に就くまでの間を、いま紫龍と氷河は卓上の茶を挟んでとりとめのない話を交わし、
過ごしている。
けだるいような幸福感に氷河の心は支配され、このまま眠りについたら良い夢が見られそうだった。
思えば、紫龍とともに戦ったことはあっても、こうして二人だけでゆっくり時を共有することは
なかった。
もともとつきあい下手を自認する氷河は、テンポよく言葉を投げてくる瞬ややたら元気な星矢は
まだしも、会話の聞き役にまわることの多い紫龍は苦手な部類の相手だと思い込んでいた。
だがこうして面と向かっていると話題に窮するどころか、心が躍ってとても楽しい気分になる。
彼の整った唇を味わってみたくなる、その衝動を抑えるのは苦しいが、二人で過ごす時は
何にも優る、貴重は宝石のようなものだった。
「それにしても、今日のおまえには驚かされっ放しだ」
短い沈黙の後に紫龍が言った。
「何で」
「だって、そうだろう。いきなりこの五老峰に現れたり、滝に突き落としてくれたり……」
「紫龍、もうそのことは……」
「あのとき、俺が死にたがっているとでも思ったのか?」
氷河に最後まで言わせず言葉を重ねて、じっと目を覗き込んでくる。氷河は引きずられるように
頷いた。
「やっぱり」
紫龍はため息をついた。
「なあ、氷河、俺も聖闘士の端くれだ。かりに俺が世をはかなんでいたとしても、あそこから
飛び降りるくらいじゃ、死ねはしなかったな。修行時代、俺は何度も飛び込んでいるし、
おまえだってポセイドンとの戦いのとき、一度飛び降りたじゃないか。忘れたか?」
確かに、言われるとその通りだと思う。どうしてあんな突発行動に出たのか、自分でもわからない。
勘違いした挙げ句、ともに滝壺めがけてまっさかさま、というのは女神の聖闘士の沽券に関わる。
紫龍の前にいるのがにわかにつらくなり、氷河はどっぷり自己嫌悪の泥沼に浸かりそうになった。
「でも、氷河」
紫龍の声に彼は知らず知らずのうちに伏せていた目を上げた。
「心配してくれたんだろう? ありがとう。おまえがそれほど俺の身を案じてくれるなんて
思わなかった」
落ち込んでいた気分がまた浮上する。五老峰にやってきてから、気持ちは紫龍次第で節操なく
上下していた。さらに紫龍が続けた言葉を耳にして、氷河は顔から火を噴きそうになった。
「シベリアに一緒に行こうと言ってくれたのも嬉しかった」
「えっ!」
思わず声を上げる。
あのとき、何かとんでもないことを口走ったような気もするが、頭に血が上っていたので全く
覚えていなかった。だから安閑として茶など飲んでいられたのだが、その言い様はまるで、まるで
。
プロポーズじゃないか。
生涯の伴侶を見つけたら、絶対に東シベリアに連れていくつもりだった。そうして永久氷壁の前で
言おうと決めているのだ、「俺と一緒にこの表現に骨を埋めてくれ」と。大真面目にそう思っていた
氷河は慌てた。
もちろん相手として紫龍に不足はない。全くない。男だからいけないなどと考える世間一般の常識は
とうに超越している。だが、あんなどさくさまぎれに口走るつもりはなかった。
目をむいてどぎまぎしている氷河を見て、紫龍は小さな声で笑った。
「いいさ、おまえの気持ちはわかっている」
「え……」
胸が大きく弾んだ。もしかしてあんな非礼なプロポーズでも受け入れてくれるというのだろうか。
固唾を呑んで次の言葉を待つ氷河を前に、紫龍は口を開いた。
「気にするな。本気になんかしないから」
そこでまた笑う。
「シベリアは、母上との思い出もあるおまえの大切なところだろう? いくら俺が行き場をなくした
からって、図々しく押しかけたりしないさ。安心してくれ」
頭の中が真っ白になった。紫龍は笑顔で湯呑みを口元に運んでいる。
何がどうしてそうなるんだ !
爆発しそうな脳みそを抱えた氷河の目の中で、紫龍は落ち着いて茶を飲み干し、氷河に視線を
向けてきて怪訝そうな顔をすると、少しして立ち上がった。固まってしまった氷河の方に手をのばし、
湯呑みを片づけようとする。その刹那、氷河の手が動いて紫龍の手をつかまえた。
「ちょっと待て、紫龍!」
瞬間解凍した氷河は立ち上がり、卓の向こうにある紫龍の顔を見た。何ごとか言いたげな表情だ。
「俺は本気で言ったんだぞ!」
「えっ? ……あっ、そうだったのか?」
「おまえに帰るところがなくなったんなら、俺のところに来ればいいと、そう思って……」
言うが早いか、紫龍の両腕に手をまわし、ほとんど同じ高さにある唇に唇を近づける。
初めてのキスははずみのようなものだった。
唇の柔らかい感触を確かめて、軽く優しい、だが挨拶以上の口づけを奪う。
そして余情を抱きながら体を退いた。
紫龍は表情に何の変化も見せず氷河に目を向けていたが、すぐにずるずると椅子に座り込んだ。
肩に置いていた手を引っ込めそこね、氷河はしばらくそのまま立っていたが、間の悪い沈黙に
処し方がなく、自らもちょこんと腰を下ろした。目と目が合ったので、ぎこちなく笑った。
笑った後でひどい間抜け面になったような気がして、慌てて口元を引き締めた。
紫龍がふうと息をついた。
「おまえって本当に……」
言ってしばし考え込んだ。
「本当にわからないやつ」
やっと言葉を探して口に出すと、また首をひねった。
「城戸の家では俺と話すことなんか滅多になかったのにこんなところまでやってきて、
腹減らして腰抜かすわ、滝に飛び込むわ、それだけじゃ足りなくて、今度はいきなり……」
そこから先はさすがに言いにくそうに口の中で消えていった。しかしきまり悪そうに伏せた目を、
再び氷河に据えると続けた。
「でも、そんな風に笑われると、怒れなくなるじゃないか」
「いやだったのか?」
思わず氷河の唇から言葉が滑り出る。紫龍はむっとしたように答えた。
「わからない」
きっぱりと口に出し、その後で当惑の表情を浮かべ、横を向いた。
「……わからないから、困っている」
氷河は立ち上がって卓上に手をつき、身を乗り出した。
「紫龍」
名前を呼ぶ。黒い瞳が見上げてきた。
「俺はおまえが好きだ。いつからとははっきり言えないが、きっとずっと好きだったんだと思う」
いままでの紫龍との接点を思い返して氷河は言った。
「……安心してくれ。だからといってすぐにどうこうしたいってわけじゃない。俺はいまおまえの
そばにいるととても気分がよくて、それだけで幸せになる。シベリアに帰るつもりでここに来て
しまったのも、きっとそういうことなんだ」
すでに迷いも照れもなかった。
「老師のいない五老峰がおまえにしっくりこないように、おまえのいないところは、
世界中のどこであろうと、俺にとって何の意味もない」
紫龍の目に微かに動揺が走った。拒絶の色はかけらも見えず、氷河の心の希望の光が徐々に強く
なってくる。が、紫龍が何か言おうと口を開きかけたとき、突然窓から強い風が入り込んできた。
折しも戸外では荒天の前触れか、激しい風が吹き始めていた。気がつけばいつの間にか
星は雲に隠され、空は真っ暗になっている。
二度目の突風で卓の上に置いた手提げランプが倒れ、その拍子にガラスが割れて、
流れ出した油に火が燃え移った。
「紫龍、危ないっ!」
紫龍の方に向かって勢いよく燃え上がった炎を見て、氷河は椅子から跳びすさると同時に、
火元に向かって思い切り凍気をお見舞いしていた。
しまった、と思ったときは遅かった。一瞬にして北極圏と化した屋内を風が寒そうな音を上げて
通り抜けていく。壁掛けのランプも火を消し、真の闇が訪れる。
二人とも、しばらくは声も出せなかった。やらかした本人が度肝を抜かれていたのだ、
紫龍の驚きはいかばかりだろう。
先刻ほどひどくはないが、また吹き込んできた突風に頭を殴られ、氷河は我に返った。
「すまん……」
詫びの言葉が口をついて出た。背中を冷や汗が流れている。紫龍の答は返ってこない。
「悪かった、紫龍。こんなつもりじゃなかったんだ。反省している。後悔もしてる。
どうしてこんなことになるんだかわからなくて……」
様子を窺ったがまだ返答はない。
「……なあ、紫龍、何か言ってくれ。怒ってるのか? そうなんだろう?」
「怒りたいけど……」
やっとのことで紫龍の声がした。部屋の反対奥にいるようだ。
「あんまりびっくりして、怒る気も失せた」
気の抜けたような口調で言って、立ち上がる気配が伝わってきた。
「まず明かりをつけないと」
ガラスのかちゃかちゃいう音が闇に響く。紫龍がランプをつけようとしているのだろう。
「だめだ、芯も油も凍ってる……炊事場のランプを持ってくるしかないな」
「大丈夫か、この真っ暗闇で炊事場まで」
「五老峰ならば目が見えなくても歩きまわれるさ」
そういえば、アルゴルとの戦いの後、彼が失明した身をこの地で過ごしていたことを、
氷河は思い出した。
そんなことを考えているうちに紫龍の気配が遠ざかり、少しするとほのかな光が近づいてきた。
「外は雪が降り始めたぞ」
言われて窓の外を見やる。雪混じりの冷たそうな雨が落ちてくるのが、わずかな光の中でも
わかった。
「風はやんだみたいだ」
「ああ。でもこれじゃ、家の中が凍っていても野宿するわけにはいかないな。……ちょっと待って
くれ」
紫龍と光が隣室に消える。すぐに彼はひょいと顔を出すと氷河を手招いた。
「こっちは少しはましみたいだ。来いよ」
そこは寝室で、部屋の真ん中をあけて簡素なベッドが二台置かれていたが、いままで氷河たちがいた
部屋との仕切り壁につけてある方のベッドは見事に凍りついて、使い物にならなかった。
紫龍は反対側の壁にランプを掛け、ベッドの上に腰を下ろした。入り口のところに突っ立っている
氷河に目を向けると、そばに来るよう促した。
氷河はおずおずと足を運び、ベッドの端に腰かけた。意識的に紫龍との感覚をあける。実際
少し居心地の悪い気分で小さくなっていると、隣りから紫龍が何かを投げてよこした。毛布だった。
「毛布が一枚ずつ、ベッドが一台」
言って紫龍は笑う。
「聖闘士でよかったな。普通の人間なら凍死ものだ」
白い息を吐いて毛布にくるまった。
二人で二枚の毛布にくるまった方が暖かいのに、と氷河は思ったが、その考えは喉の奥で
飲み下した。
ただ身を寄せ合って眠るだけだなんて耐えられない。
氷河は首を振り、おとなしく毛布にくるまると、しばらく無言のままでいた。紫龍も何も
言わなかった。沈黙が心地よく氷河の自己嫌悪を癒していく。少しずつ、だが確実に負担が軽くなる。
紫龍の小宇宙は穏やかで優しい。隣りに立つことは許されなくても、そばにいることを拒否されない
だけで、本当は十分なのかもしれない。
「なあ、氷河」
静寂を破り、紫龍が声をかけてきた。
「うん?」
「俺、聖戦の後、ずっと考えてたんだ」
「……何をだ?」
「自分の存在理由について」
「え?」
意外な言葉に氷河は紫龍の方を見た。彼は柔らかな視線を氷河へと向けていたが、
やがて目を逸らし、続けた。
「……俺には身よりもなければ家族の記憶もない。だからただひとつ、聖闘士だということだけが
存在の証だったんだ。だけど聖戦後は戦う機会も減ってきて……いや、もちろんそれはいいこと
なんだ。もともと命のやりとりはしたくなかったんだし。でも、もしも聖闘士が無用の存在になった
とき、俺はどうなるだろう、と思ったら、とても怖くなってきた」
「そんなこと、俺は考えたこともない」
紫龍は頷いた。
「気にするな。きっと俺の考えすぎだ。……ともあれそんなこともあって、城戸の家には安住できない
と思っていた。だが五老峰に戻って見れば、もっと落ち着かなかった。それに気づいたとき、
何がなんだかわからなくなってしまった」
目を細め、眩しそうな顔をして紫龍は氷河を見た。
「……おまえの顔を見たときは、正直ほっとした」
「紫龍……!」
急に胸が熱くなった。
「俺は本当におまえに必要とされているのか?」
「嘘をついてどうなる」
「そうか、そうなら嬉しい」
にっこりと、それこそ美しく素直な笑みを、紫龍は端正な顔に浮かべた。
氷河の胸の中を溶岩流のようなものが激しく流動した。こんなに紫龍を好きだったことを、
いままで気づかなかったのが不思議なくらいだ。
「どうした、氷河」
「大好きだ、おまえが」
「改まって……よせよ、恥ずかしい」
紫龍は顔を困惑したような表情を見せた。居心地悪そうに毛布の中でもぞもぞと体を動かして、
氷河から視線を外した。そこで小さなくしゃみをする。
氷河はすぐに自分の体を被っていた毛布をはいで紫龍にかけた。
不意に加わった暖かい重みに、紫龍は目を上げた。
「氷河……これじゃおまえの方が寒いだろう?」
「いいんだ。俺は寒さに強い」
「だめだ、こんな気を遣ってもらうほどやわじゃないんだぜ、俺だって」
「でも俺の方が寒さに強い」
「同情は無用だ」
紫龍は少し困ったように言った。氷河は表情も変えず首を振った。
「同情とは違うさ」
「じゃあ、なんだ」
「愛情だ」
紫龍は瞠目し、言葉を失った。毛布に対するこだわりは氷河の一言で成層圏の彼方に飛んでいった。
毒気を抜かれたのかしばらく何も言わないでいたが、やがて真顔で俯き、
毛布二枚に硬くくるまって黙り込んだ。
雨の音はあまりしなくなった。止んだのか、ことによると雪になったのかもしれない。さすがの
氷河も、自ら放った絶対零度の凍気の置きみやげに、寒さを覚えていた。だが紫龍の前ではそんな
そぶりなど見せるわけにはいかなかった。
死にはしないが、さすがに眠れないかな。
そんな風に思い始めたときだった。毛布の端が肩にかけられる感触がして、
驚いて目を上げた。すぐそばに紫龍の顔があった。
「毛布、一緒に使おう。その方がお互い暖かい」
笑顔が氷河の目の飛び込んでくる。だが、嬉しさは大きなためらいにかき消された。
「いやだ」
それこそ拷問に等しい一晩になる。
「なぜ」
紫龍の問いは氷河の耳にひどく残酷に響いた。だが、どうしようもない。
ええい、ままよ、と本心をぶちまけた。
「なぜって、俺、おまえと一緒の毛布にくるまって何もしないなんてこと絶対にできないから……」
「俺は……別に大丈夫だ。積極的な協力はできないが……」
最後は消え入りそうな声だった。
「いま、何て言った?」
「二度言わせる気が?」
紫龍の目にきつく睨まれ、氷河はかぶりを振った。
では、聞き間違いではないのだ。
「……でも同情なら……」
さらにためらう氷河の前で、今度は紫龍がその懸念を否定した。
「同情なんかじゃない」
「それなら、何?」
「……これからわからせてくれ」
信じられない、と心の中で呟きながら氷河は紫龍の体を抱きしめた。
重なりながらベッドに横たわり、やがて互いの肌の熱さを知る。
夜の深みにはまり、冷気に追い立てられながら、心の熱を高めていった。
紫龍の唇に触れた唇を耳元に滑らせて氷河は囁いた。
おまえのいるところが俺の還るところなのだ と。
紫龍が頷いたような気がした。
何か小声で言ったような気がした。
だが全ては瞼の裏にいっとき灼きつけられた幻影のようで、氷河にはどれが真実かわからなかった。
朝 。
毛布の下で身を寄せて見ていた夢から醒める。
双方照れたように朝の挨拶を交わした。
外は雪が積もっているのかもしれない。隙間から射し込む光が眩しい。
部屋の氷は未だ融けておらず、五老峰にいながらにしてシベリア気分だと二人で笑った。
いつか、おまえの故郷にも行ってみような。
ああ、一緒にな。
約束を交わしていましばらく心地よい温もりに二人閉じこもる。
それは五老峰でもいい。東シベリアでもいい。東京の城戸の家だっていいのだ。
おまえのいるところが俺の還る場所 、と氷河はもう一度心の中で言って
紫龍の背に手をまわした。