その日は朝から妙な気分だった。
戦いが一区切りついた穏やかな毎日 。青銅の五人組は城戸邸にほぼ腰を落ち着け、
平和な生活を送っていた。以前と比べると単調な日常だが、財団関係の仕事に駆り出されたり
することも多く、退屈するほど平板でもない。
実際氷河と瞬は前日、沙織の日帰り出張に付き添ってきたばかりだった。
「どうしたの、ぼうっとして」
頭の上から声がかかる。テーブルについた氷河が顔を上げると、紅茶のポットを手にした瞬が
脇にいた。
「まだ眠いの? 昨日遅かったものね」
「いや、別にそんなのじゃないが」
答えてため息をついた。何かがおかしい。
午後の日差しが入り込むこの大きな部屋に氷河は視線を巡らした。
いま、部屋の中には聖闘士が四人いる。
氷河の斜め前、テーブルの向こう側に星矢がいて、パズルに夢中になっている。
瞬は彼の前のカップに紅茶を注ぐと、窓の近くのソファに足を向けた。彼の出歩きがちな
兄が珍しく家にいて、そこでふんぞりかえって雑誌を読んでいるのだった。
瞬は兄のカップにも紅茶を足すと、氷河のところに戻ってきて隣りに座った。
「紫龍がいないと何か変な感じ」
瞬がぽつりと口に出す。言われて初めて、氷河は紫龍のいないことに気づいたような気がした。
「仕事でいないこともあるけど、朝から姿を見ないのって初めてだし、
一日や二日で帰ってこないと思うとちょっと寂しいな」
そこで瞬はくすりと笑った。
「不思議だよね。紫龍ってそんな賑やかじゃないし、兄さんみたいに態度が大きいわけでも
ないのに、見えなくなるとそこらじゅうが寒くなったような気がして……」
「……今日はこの冬一番の寒さだって、テレビで言ってたぞ」
氷河にすれば他意もなく事実を漏らしただけだったが、瞬はたちまちぷいとふくれて
立ち上がった。
「ああっ、やだやだ。ほんっとーにニブイ人ってやなんだから!」
可憐な顔をふぐ状態にして思い切り毒づくと、瞬はソファに席を移した。あっけにとられて
その背を見送った氷河だが、静かな部屋の中を改めて眺めまわし、心の中で呟いた。
そうか、紫龍がいなかったのか。
瞬のいれた紅茶を一口含むと、氷河は早々と自室に引き上げた。
紫龍が五老峰に帰ったのは前の日のことだった。
聖戦後ライブラの老師は聖域に引き上げ、すでに五老峰にいない。それでも彼は懐かしい土地に
しばらく戻りたいと沙織に願い出、許しが出るとすぐに出発したのだった
その話を前々日の夕食の席で紫龍から聞かされたとき、氷河は内心むっとした。
紫龍のわがままが通るなら俺だってシベリアに帰りたい、と思ったのだ。そう考えると、
財団にこき使われ、一輝や辰巳という気に食わない連中と我慢して顔を突き合わせていたのは
どうしてなのか、全くわからなかった。
シベリアに帰りたい。
それはずっと彼の心に住み続けている願望だった。
カミュは老師と同じく聖域に詰めているから会えないだろうが、ヤコフや村のみんながいる。
陽のあまり差さない厳寒の地でも、東京のなま暖かい冬よりよほど気持ちがいい。
それにマーマもいる。
東シベリアの冷たい海の底に眠る母親の美しい顔を脳裏に蘇らせたとき、
氷河はいても立ってもいられなくなった。
寝ころんでいたベッドから跳び起きると、身のまわりの品を適当に鞄に詰め込み、コートを
掴んで部屋を出る。そのままずんずんと沙織の執務室へ入っていき、岩をも徹す一念でシベリア
行きの許可を勝ち取った。そして驚く瞬や星矢にも頓着せず、城戸邸を後にしたのだった。
しかし飛行場で城戸の専用機を待っている間に、氷河はあっさりと決心を翻した。
シベリアに行く前に、五老峰へ寄ってみようか。
紫龍があれだけ執着する土地だと思うと、好奇心が湧いてきて抑えきれなくなる。
死線をともに越えてきた自分たちを置いてまで戻りたい場所なのだろうか。
それほどに心を奪う何があるというのだろう。
俺は冥界でやつとずっと一緒だった。
鬱々として氷河は思った。
ともに駆け、ともに戦った。それまではむしろ遠い存在だったのが、あの戦いで距離が
縮まったと思った。いや、それ以上の、形こそないものの大切な何かを分かち合ったような
気にさえなっていた。そのすべては幻だったとでもいうのか?
確かめたい。
何もかも、いま五老峰に行くことではっきり見えてくるような気がした。
氷河は立ち上がり、急いで係員に行き先の変更を告げた。すべての手続きが一からやり直しになる。
係員は驚いた後不満そうな顔をしたが、城戸家の人間に逆らえるはずがなかった。
「少し出発が遅れますが」
「ああ、構わない」
そう答えると、氷河は待合室の窓の外に広がる夕空を見やった。
紫龍も遙か遠くで同じ空を見ているはずだった。
結局氷河は城戸の力を最大限に利用し、次の日に一時間ほどくい込んだ深夜、中国は
南昌の地を踏んだ。そこから廬山までは一七○キロ余の行程である。目的地に近づくほどになぜか
気が急いて一歩でも先に進みたい氷河だったが、さすがによく知らぬ土地を深夜車で飛ばすのは
ためらわれ、おとなしく休養をとることにしたのだった。
翌日、朝の凍てつく大気の中、彼は車を駆って五老峰へと向かった。行けるところまで車で行って、
あとは自分の足を恃む。険しい山道も、聖闘士の足には何ということはなく、氷河は一心に先を急いだ。
すでに昼近くなり、冬とはいえ氷河にはコートが邪魔になる気温となっている。彼はいったん足を
止めると、はおっていた薄手のコートを脱いで鞄に突っ込み、コットン・シャツにジーンズという
軽装になった。
風が気持ちよく吹きすぎていく。
それまで馬車馬のように脇目も振らず前へ進んできた氷河は、そのとき初めてまわりの
風景に目をやった。
気がつけば他の人間と行き当たることもなくなり、緑の木々にとりまかれたそこは、仙郷と
いうにふさわしい神秘的な雰囲気を漂わせている。以外に広く開けた視界の中で、
峰々は連なり天へとのびていた。
ここは……いいな。
すっと心が落ち着いて、焦りは潮のように引いていった。深く息を吸い込むと、
清涼な空気が胸の中に流れ込んでくる。空の蒼さは目に痛いほどだ。
「ここは、いい」
しばらく立ち止まったまま山々の精気を身に受けていた氷河はぽつりと呟くと、今度はゆっくりと
山道を歩き始めた。行く手に紫龍の小宇宙が感じられる。もう急ぐことはないのだ。
そして彼の知覚した通り、五分ほど行くと木立は途切れ、周囲の急峻さと不似合いな
平坦な土地が広がった。目的の人物は狐につままれたような顔をして彼の方を見ていた。
「氷河……?」
深みのある声が彼の名を呼んだ。氷河は木立から出たところで足を止めた。
いや、動けなくなったのかもしれない。
黒い瞳と艶のある腰までの長い髪 。たった二日間会わなかっただけなのに、
一年も二年も顔を合わせていないような感じがする。氷河は呆然としてその場に釘付けになった。
「氷河!」
もう一度紫龍は名前を呼ぶと、不安げに顔を曇らせ、走り寄ってきた。
「どうした、何かあったのか? 新手の敵でも現れたか? それともアテナの身に何か?」
目の前までやってきた紫龍に矢継ぎ早に質問をぶつけられ、氷河は口を開いた。
「いや……」
寝起きのように考えがはっきりまとまらず、否定の答えだけを返す。紫龍が怪訝そうな顔をした。
緊急の用事でないならなぜおまえがここにくるのか、と言いたげだ。だが氷河自身にも確たる
答えはわからない。
「シベリアに帰るつもりだったんだが、思いついてここまで来た」
「思いついて?」
紫龍の口元が緩む。その目には未だ戸惑いの色が見えたが、悪い想像を氷河が否定したせいか、
肩から力が抜けている。
穏和なその顔を近くで見つめているうちに、なぜか心が和らいだ。
「……氷河?」
安心すると急に全身から力が抜けた。氷河は手にした鞄を落とし、その場に腰から崩れた。
「どうした、氷河!」
紫龍が驚いたように声を高くし、かがみ込んできた。氷河の目の中、黒髪の流れが
肩をかすって降り注いだ。
「……った……」
蚊の鳴くような声で言ったのを聞き取り損ねたのか、紫龍が耳を近づけてきた。
氷河はもう一度、今度はもう少し大きな声で繰り返した。
「腹が減った……」
「え……?」
たちまち紫龍の顔が退き、笑みともつかぬ表情を浮かべる。
「そういえば昨日の昼から何も食ってない」
はやる心が食欲すら麻痺させ、氷河に食べることを忘れさせていた。紫龍の表情は
みるみるうちに当惑から笑みへと移り変わった。彼の許容のしるしだ。
すぐに彼は立ち上がり、手を差し出してきた。
「まったく、おまえってやつは……」
その手に応えるのも忘れぽかんとしている氷河を見て、紫龍は言葉を途切れさせると
片眉を上げた。
「……立ち上がれないなら、抱いていこうか?」
にやりと笑う。氷河は慌てて自力で立ち上がった。
ばつが悪い。どうしてかわからないが調子が狂っている。クールで通るキグナスの聖闘士が、
これではまるで馬鹿だ。
しかし氷河の混乱も意に介さないように、紫龍は氷河の鞄を手に取ると背後の小屋に向かって
一歩踏み出し、そこで彼の方を向き直って言った。
「来いよ、氷河。俺もこれから昼飯にしようと思っていたところだ」
「紫龍……」
「五老峰に久々の客人だ。山も喜んでいる」
そう言ってすたすたと土塗りの壁をもつ小屋へと歩いていく。空腹を抱えた氷河は急いで
その後を追った。