居残り練習後の部室に携帯の着信音が響いた。
 ただの素っ気ない着信音に三井は反応し、ロッカーの中に あるバッグのポケットから携帯電話を取り出して応答した。
「おう」
 電話の向こうからは、予期した通りの声が返ってくる。
『こんばんは。オレのところはいま練習が終わったんですけど、三井さんは?』
 相手は陵南高校の新キャプテンにしてエースの仙道彰だった。
「終わって着替えてるとこだけど?」
 周りの後輩たちの目を少し気にして答える。どうでもいいことなのだが、 一年生の問題児たちはどうも仙道の名前に過敏なようで、 三井もそれなりに気を使って刺激しないようにしているのだった。
『例のビデオを手に入れたので、今日会えませんか? それからちょっとメシでも食って』
「えっ、手に入ったのか?」
 つい声を高くしてから周囲を伺う。宮城も桜木も、流川でさえ どういうわけか自分の方に目を向けていることに気づき、慌てて背を向けた。
『ね、いいでしょう?』
 三井の苦労も知らず、仙道は能天気な声ながら念を押すように誘いをかけてくる。
「ミッチー、今日はラーメン食ってこーぜ!」
 復帰したばかりの桜木が張り合うように大声を出しても、 きっと聞こえているだろうに仙道はひるむ様子も窺わせない。
 例の、というのは二年ほど前に放映された単発ドラマのビデオで、 三井が最近になって好きになった女優の初主演作だった。いっこうにビデオ化される 気配がないことを仙道に話したら、何とかなるかもしれないから少し待っていてくれ、 と言われていたのだった。
 三井は一も二もなく練習後の過ごし方を決めた。
「わかった。いつもんとこで待ってろな」
 言うが早いか電話を切り、桜木の誘いには応えずそそくさと着替えを完了させると コートをはおった。バッグを肩にかけて出口に急ぐ。
「あっ、三井サン!」
「ミッチー!」
 宮城や桜木の声も構わずにドアを開けると、素っ気なく言った。
「そんじゃな、お疲れさん」
 一度手を振って、振り返らずに部室を出た。迷う間もなく、おもむろにダッシュする。 背後でドアが乱暴に開く音がしたのは三部屋先のテニス部の部室前を通り過ぎた ばかりのときで、三井は走りながら自分の選択を呪った。部室棟の廊下はまっすぐ 見通しが聞き、外に出るまで姿を隠すすべはない。それに面白がって追ってくる後輩は 神奈川最速のガードを先頭にした怪物集団だ。居残り練習を終えて体力も限界に近くなっている 三井では逃げおおせるのは不可能だった。案の定 油断ならない後輩たちはすぐに三井を取り囲んだ。
「三井サン、デート?」
 からかうような口調で宮城が探りを入れてきた。
 別に本当のことを言ってもいいのだが、無用の騒ぎを起こしたくない。 選抜の予選も始まっているこの時期に、仙道の名前を出せば一悶着起きるのは必定だ。
「ま、な。だから今日はおまえたちのお守りはなしだ」
「お守りって……」
 何を考えているのか、宮城が笑いをかみ殺したような顔をする。
「ミッチー、デートって本当か?」
 関心を隠さずに桜木が聞いてきた。反対側に目をやれば、流川の無表情がある。 三井はため息をついた。
「……てめえら、ついてくんなよ」
「オレはデートの邪魔するような無粋なことはしませんけどね」
 宮城は態度も図体もでかい一年生に目をやって肩をすくめた。あからさまな態度に、 何を言いたいのかすぐにわかった。
「……わかった。てめえに任せっから」
「ごちそうさまっス」
 抜け目ない新キャプテンは片目をつむると、桜木と流川の腕をつかむと、足を止めた。
「三井サンは大事な彼女と楽しいデートだから、困らせるんじゃねえぞ」
「えっ、じゃ、ラーメンは?」
「三井サンのおごり」
 相変わらずの赤い頭が上げた歓声が三井の癇に障った。
「おまえら、オレはラーメンおごり機か!?」
 騒ぎ立てるでこぼこコンビと少し後ろに立っている流川を眺めて三井はかぶりを振った。
「一人前だけだぞ。あとは自分持ちだかんな!」
 ちくしょう、今日は仙道のヤローにおごらせてやる。
 財布から出した千円札二枚を宮城に握らせて思う。それから足音も高く部室棟を出た。



 秋も深まり、とっぷりと暮れた空の下にはどことなく寂しげな空気が流れているようだ。 あっという間に軽くなってしまった財布の中身に三井はことさら寂しさを感じたが、 待望のドラマをやっと観られることで多少は痛みも軽減される。あんなときに電話を かけてくる仙道の間の悪さには、おごらせることで埋め合わせをすればいい。何にしろ 仙道と会って話せば、湘北の後輩連中と馬鹿をやっているのとはまた別の楽しさがあるのも事実だった。
 仙道と親しくつきあうようになったきっかけは、九月初め、国体の神奈川県選抜メンバー 強化合宿で同室になったことだった。それまでは一度同じコートに立っただけで、 選手以外の側面まで思い至ることはなく、耳に入ってくる風評をそのまま受け止めていただけだった。
 ただその評判は仙道がかなり遊んでいるということに偏っていて、ぐれながらもその実 女遊びに縁のなかった三井はあまりいい印象を持てなかった。だから合宿で同室が決定したときは、 正直天を仰ぎたい気分だった。仙道が噂通りの人物ならいままで周囲にはいなかったタイプだし、 だいたいそんな軟派なやつは鼻持ちならなくてうまくやっていけるわけがないと思ったのだ。
 だが実際同じ部屋で一週間過ごして印象に残ったのは、そんな噂は忘れてしまうような 仙道の好人物ぶりだった。
 湘北の後輩どものように先輩を先輩とも思わない口を聞いたり、人を見透かしたような 態度をとったりすることはないし、だからと言って壁を作っているという感じもなく、 三井に対する距離感が最初から絶妙でいつの間にか親しくなっていたという具合だった。
 だからそれ以後も個人的に会って話したりバスケをしたりしていた。週末を中心に、 週に一回か二回会うことがこの何週間かのパターンになっていて、良好な友人関係を育みつつある、 というところだった。このごろになって仙道が時々言う妙な冗談で困惑することはあるのだが。
 三井は心もち早足で帰路をたどった。待ち合わせ場所は、三井の家の最寄り駅近くに ある喫茶店だった。仙道の住むアパートが三井の家と駅を挟んで反対側にあり、お互い 都合の良い場所の上、どのメニューもなかなか満足のいくものだったからだ。湘北よりも 遙かに陵南に近いそこには、当然いつも仙道の方が早く着き、三井を待っていた。電話が かかってきてからほぼ三十分後に店に駆け込んだ三井を迎えたのも、いつも通りの柔和な笑顔だった。
「待ったか?」
 相手が待っていて当たり前、と思いながら挨拶代わりの最初の言葉は決まっていた。
「少しだけです」
 すでにコーヒーを飲み終えている仙道もいつも通りの言葉を返してきた。三井は 荷物を足下に置くと、仙道の前に勢い良く腰を下ろした。すぐにウェイトレスが水と おしぼりを持ってやってきた。
「あ、オレ、明太子のスパゲッティと紅茶」
「オレはハヤシライス、大盛りで。それからコーヒーおかわり下さい」
 新たな注文をとってウェイトレスがカウンターの向こうに消えると、三井はまず宣言した。
「今日のメシはおまえのおごりな」
「えっ……?」
「おまえんとこに来るために宮城たちにラーメンたかられたんだよ、その埋め合わせ」
 そこまで言って目を瞠る相手を睨み上げる。
「……文句あるのか?」
「いえ……とんでもないです。三井さんにおごれるなんて、光栄です。まるでデートしてるみたい」
 仙道はにっこりと微笑んだ。
 これが三井を戸惑わせる仙道の悪い冗談というわけだ。
 このところ会うたびに、好きだとかいう内容のことを仙道はさらりと、だが繰り返し 言い続けている。あまり何度も言われるものだから、耳にできたたこが「もしかしたらこいつ本物か?」 などと囁きかけてくる始末だ。だが三井は仙道の言葉をそれほど重くとらえていなかった。
 人当たりのいい分、彼の言葉には深みに欠けるところがあるような気が三井にはしていた。 少なくとも三井は仙道からノーという返事をされたことがない。もちろんあまりひどい要求を した覚えはないし、ノーと言われればそれはそれで腹が立つのに、いつも笑顔で受け止められる と天の邪鬼な三井はつい相手の言葉の誠実さを疑いたくなるのだった。おまけにこの軽薄な一連の発言だ。
 第一男同士でデートもへったくれもないだろうに。
 そうしたたちの悪い冗談を三井は極力深く考えず無視してきた。妙なユーモア感覚が 仙道特有のものなら、そこら辺は目をつむってやらなくもない。
 後でデザートまで注文してやろうと思いながら、三井はいつもにように仙道の発言を 受け流し、その日教室や部活であったことなど、他愛ない話を続けた。仙道はいい聞き役で、 ほどなく注文の品がテーブルに運ばれてきても、気分良く食事を進めることができた。
 空腹の体育会系高校生は食欲を満たしてから初めて落ち着きを取り戻すことができる。 三井は紅茶をすすりながら、ビデオのことを思い出した。
「そういや、忘れないうちにビデオもらっておきたいんだけど」
 催促すると、仙道は足下のバッグの上から書店のビニールバッグに入ったものを取り上げた。 それをそのまま三井に渡す。三井は中をあらためてラベルでタイトルを確かめ、思わず微笑んだ。 まさしく彼の探していたドラマのタイトルだった。
「三井さん、本当に彼女好きなんですね」
「クールな感じがいいんだよな。おまえもそう思わねえ?」
「うーん……」
 仙道はしばらく考え込んだ後目を上げ、三井を正面から見て言った。
「オレのタイプとはちょっと違いますね……ていうか、オレの場合、そのとき好きになった人が 好みって感じですから」
「ふうん……」
「だからいまは三井さんかな」
 何をとち狂ったのか、幸せそうな笑みを甘いマスクにのせて続けるので、まるでいいことでも 言われているような錯覚を起こした。だが、どう考えてもまともな発言だとは思えなかった。
「おまえさ……」
「はい?」
 三井の方は二の句が継げないというのに、仙道は能天気に返事をする。さすがにこれは 三井のあまり大きくない度量の範囲を超えてしまった。
「冗談もいい加減にしろよ。そんなことばかり言って、オレが動揺すると思ったら大間違いだぜ」
 言葉と裏腹に心の中は大いに揺らいでいるのがわかる。が、まだ仙道はぴんとこないようだ。
「冗談?」
「そうだろ、オレのことを好きだとか何だとか。選抜前に揺さぶりかけてるつもりなら……」
「揺さぶるつもりなんて、ないです」
 何を言われているのかわからない、と言いたげな表情に三井はまた少しかちんとくる。
「てっめえ、オレには洟もひっかける気はねえって言いてえのかよ!」
 理想の高い分、三井は現在の自分に評価が厳しい。特に夏の陵南戦では試合中に倒れた こともあり、仙道と親しくなればなるほど、彼の目が気になった。仙道の実力を認めている からこそ、友人として対等でありたいと思うのだ。
 なのに彼の発言は三井のバスケをまるで歯牙にもかけないように聞こえた。完全に 見当違いではあったのだが、頭に血の上った三井は全くそんなことには気づいていなかった。
 仙道は困ったような顔をして三井の言葉を否定した。
「そんなこと、言ってませんって!」
「じゃあ何なんだよ!」
 思わず声を高くしてから、周囲を見まわした。食事時とあって店内は賑わっている。 テーブル間隔はかなりゆとりがあって、普通の声ならあまり会話の内容が筒抜けになることは ないのだが、両隣りのテーブルに着いていたカップルと女子大生風のグループの食事を する手が一瞬止まった。それに気づき、三井は居心地の悪い気分になった。
「……出ましょうか、三井さん」
 タイミングよく仙道が立ち上がり、荷物を手に取る。そして請求書をつかみ、レジに向かった。 三井は慌ててその後を追い、おごってくれることに礼を言うと、一足先に店から出た。
 外の風に吹かれ仙道を待っているうちに機嫌は直ってきた。どうしてあんなに激昂したのか 自分でもわからなかったが、気分が上向けば立ち直りは早かった。
 ところが仙道の様子がおかしい。店から出てきて、二人の帰り道の分岐点まで行く間、 普段だったら何かと話を振ってくるのに、その日は閉じた口を開こうともしない。 人通りのない横道を並んで歩き、三井は相手の顔色を窺いながら、沈黙を破る話題を 必死に探し出そうとした。
 どうも仙道は怒っているらしい。その原因が先刻の小さな衝突にあるらしいということは 察することができたが、怒る理由まではつかめなかった。
 怒るのなら自分の方にだって理由はあるのに、ということに思い至ると、にわかにむかついてきた。
「……おまえな!」
 気づまりな沈黙を破って三井が口を開くと、仙道が遮るように言った。
「三井さん、オレの言ってきたこと、本当に冗談だと思ってるの?」
 唐突に問いかけられ、三井は言葉に詰まった。
 仙道は怒っているというより、飼い主の様子を窺う犬のような目を向けてきた。その声に 若干非難の響きがあり、瞳の奥に傷ついたような色が見えるような気はしたが。
「……な、何だよ、冗談じゃなくて何なんだよ」
 気圧されるように答えたが、一時的に収まった怒りがまたぞろ頭をもたげてきた。
 仙道は何を言おうというのだ? だいたい男が男を好きと言うなど、悪ふざけと しかとれないではないか。
「オレはな、その手の冗談が大っ嫌えなんだよ! 好きだって言われてこっちが 喜んでるなんて思ったら大間違いだ!」
「オレはずっと本気で言ってました」
 三井の腹立ちなどお構いなしといった風情で仙道が言った。それは量だけは豊富な 三井の罵詈雑言の隙を縫い機先を制するようなタイミングだった。さらに攻撃は静かに続いた。
「オレの本気をわかってもらうにはどうしたらいいんでしょう?」
「わかんねえよ!」
 三井は怒鳴ったが、頭の中はパニック状態だった。
 すでに二人は足を止めている。一歩よろけるようにして後ずさると、背中が塀にあたった。 目の前には自分よりたくましい仙道の体。彼は完全に退路を断たれたことを知った。
 それは試合中に攻勢に出た仙道の恐ろしさを身をもって知ったような気分だった。 いや、攻めているのは自分の方だったはずなのに、敵のディフェンスはどこからも崩せないと 感じるほどに攻め込んできているのだった。
 街灯の頼りない光を背に三井の前に立つ仙道の整った顔が表情を消している。 まるで蛇に睨まれた蛙のように三井は動けなかった。
「……な、何なんだよっ……」
 それでも最後の意地で強気の言葉を吐くと、意外なことに仙道の表情がふっと緩んだ。
「三井さん、何怖がってるんすか」
 口角を上げ笑顔を作ると、途端に気のよさそうないつもの仙道に戻る。三井はほっと して全身の緊張を解いた。
「……あーあ、涙目になっちゃって。そんなに怖がらなくてもいいでしょ」
 挙げ句の果てにくすくすと笑い始めるので、三井はいきり立った。
「てっめえ、脅かしやがって! だから信じらんねえんだよ、てめえの本気ってやつは!」
 反動は大きく、何とかして仙道を困らせてやりたいという気持ちになった。
 仙道と三井の接点は言わずと知れたバスケだ。だから三井の考えもしぜんバスケへと向かった。
 バスケで仙道が困ること……。ちょうどいまは選抜の予選が行われている最中だから、 何か枷をかけてやろうか。どうせ冗談ばかりのやつなのだから、最初は恰好をつけて約束を 守る振りをしたって、結局なしくずになるに決まっている。
 それなら一番きついやつだ。陵南は仙道がポイントゲッターだから……。
「……わかったよ。いまから言う条件を守ったら、おまえの本気ってやつを 信じてやってもいいぜ」
 仙道は目を瞠った。意外な展開に驚いているのだろうか。
「そうだな。今度の試合で、おまえのシュート成功率がゼロだったら信じるよ」
「ええっ?」
 さすがの仙道も今度ばかりは本当に驚いたらしい。しばらくは声もなかった。
「どうなんだよ。今度の相手は津久武だったっけ? あそこは夏に対戦したけど、 かなり粘るチームだぜ」
 三井は勝ち誇ったように言い放った。これくらいのお灸は本人のためでもあるはずだ。
 仙道は少しの間考えていたようだったが、俯けていた顔を上げるときっぱりと答えた。
「わかりました。やりますよ。それでオレの言うことを信じてもらえるなら」
「負けたっていいんだぜ?」
「バスケか三井さんかどちらかを取れってことですか?」
 仙道は微苦笑を見せた。だがさらに言葉をつないだときには全く別の表情へと変わっていた。
「あいにくオレは欲張りな男なんです」
 それは試合中に見せる不敵な笑みだった。




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