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* * * 試合のある週末まで、三井は約束のことをあまり深く考えなかった。どうせ その場しのぎの嘘なのだから、うじうじ思い煩うこともない。仙道は連絡をしてこなかったし、 ほとんど忘れているとでも言っていいような状態で準々決勝の日を迎えた。 土曜日、秋晴れに恵まれた市立体育館にウィンターカップ出場を狙うチームが集結した。 そしてこの日のうちに四チームずつ明暗を分けることになるのだった。 第一試合は武里と翔陽が当たり、翔陽の圧勝に終わった。夏の全国行きを逃したことが 冬への執念となっている。全レギュラーが居残ったという意味で、彼らが海南と並んで 県大会の優勝候補と目されていた。 湘北の試合は第二試合に組まれていて、相手は夏の遺恨を晴らそうとする三浦台だった。 だが、そうそう相手の思惑には乗らない。赤木を欠いても桜木が本調子でなくても、 全国を経験して成長し、新キャプテン宮城を中心にスピードのあるバスケを展開する湘北は 問題なく切り抜け、四強へと名乗りを上げた。 そして勝利に沸くベンチに第三試合のチームがやってきた。偶然それは陵南で、 すぐに彼らは練習のためコートに散っていった。一番ゆっくりしていた仙道は、 コートに入る直前、すれ違いざま彼だけに聞こえるような小声で「オレ、がんばりますから、 最後まで観ていって下さいね」と言ったのだった。三井が思わず振り返ると、 仙道はウィンクを投げてよこしたが、すぐに表情を引き締め、勝負に臨む男の顔になった。 その顔にどこか緊張感のようなものが漂っているのを感じ、三井は忘れかけていた あの約束を思い出した。 仙道はやる気なのだろうか? でも、まさか。 陵南が仙道の得点抜きで勝てるものかどうか。対戦相手の津久武は地味だが 地力のあるチームだ。夏に対戦してそれはよくわかっている。あのとき確かに陵南のような 怖さは感じなかったが、見る限りメンバーは夏と替わっていないようで、その意気込みが 窺われる。それに監督はあの安西先生の愛弟子なのだ。仙道が一度もシュートを 決めるつもりがないという、そんな悠長なことを考えていて乗り越えられる敵なのだろうか。 まして、新生陵南はまだ二メートルセンター魚住の穴を埋めてはいない。 「三井サン、何してんスか」 呼ばれて我に返れば、湘北のチームメートはほとんど出口から姿を消しかかっていて、 最後に宮城とその向こうに流川の姿がちらと見えるだけだった。 「悪い」 ベンチに置いたジャージを手に取ると、三井はもう一度コートに目を戻した。 すでに陵南も津久武も短いウォーミングアップ時間を効率的にこなしていて、 ベンチに注意を払う者は全くいなかった。仙道も例外でなく、集中の度合いを高めつつあるようだった。 仙道の真意を質したい気持ちはあったが、コートの中と外とに隔てられていてはそうもいかず、 三井は宮城の方へ急いだ。 「オレさ、ちっと残りの試合観てくわ」 三井は宮城にそう言って湘北の集団から離れようとした。 後輩たちが、明日の対戦に備え湘北に戻って練習しようと盛り上がっている中 言い出しにくかったので、多少気心の知れた宮城に断りを入れて離脱しようとしたのだった。 「海南と陵南の偵察っスか?」 「ま、そんなとこだな」 「あら、それじゃ、ご一緒しましょうよ、三井先輩」 少し前を歩いていたマネージャーの彩子が振り返り、言う。 「練習の方は可愛いマネージャーが見ていてくれるっていうから、わたしは情報収集で 観戦するつもりだったんです」 「えっ、アヤちゃんも?」 宮城は練習に向かっていた気持ちを急激に殺がれたようだった。 「それならオレも観てこうかな。キャプテンとしてもポイントガードとしても 敵情把握は仕事のうちだよね」 「オレも。……観ていきたいっす」 流川まで同調し、最終的には全員観戦することになった。 観客席は、事実上の四強が勢揃いする日のため、かなり埋まっていて、大人数の 彼らは最上段の通路からの立ち見になった。練習時間は短く、三井たちが戻ってきたときには すでに試合は始まったところだった。 まずは陵南がボールをとり、いったんガードの越野が確保してから仙道に戻る。 今日の仙道はポイントガードの役割を担うらしく、ドリブルをしながら仲間に指示をしていた。 それでも対戦相手としては仙道を一番の点取り屋として徹底的にマークする作戦で いくのだろう、最初から一人がきっちりと張り付いている。しかし仙道は進路に立ちふさがる 相手を苦にもせず、まるでドリブルなどしていないかのように軽快に津久武ゴールに迫っていった。 彼が3ポイントライン前までくるともう一人マークが増えた。そこから内側には なかなか侵攻できない。障害が倍になってさすがに手こずっていると思ったのもつかの間、 隙間から計ったようにパスの糸がのび、逆サイドでフリーになっていた六番越野の手に渡った。 越野はそのボールを迷うことなくリングに向かって放ち、試合最初の得点は彼の 三点シュートによるものとなった。 「へえ……陵南って、あまりロングが怖いってイメージがなかったけどなあ」 宮城が思わず漏らすと彩子が言った。 「夏を逃してそれだけ悔しかったってことじゃない? 仙道くんがポイントガードになるなら、 越野くんだって陵南にないものを武器にしようとがんばったんじゃないかしら」 三井は国体選抜の合宿のとき、越野のロングシュートの具合を見てやったことがある。 もしもそれがこういう形で表れたのだとすると嬉しい反面、ちょっと複雑な気分にもなる。 彩子は続けた。 「何にしろ、魚住さんが抜けてもやっぱり陵南は要注意ってことね」 コート上に意識を戻せば、試合は静かに進行していた。津久武が陵南の変身に戸惑って 出方を決めかねているというような雰囲気で、それもそのはず、その前の試合までは、 仙道が積極的に点を取りに行っていた従来のスタイルと大して違いを感じさせない戦いぶり だったのである。だが、とりあえず仙道マークという方針は変わらないようだ。 仙道のガードぶりは夏の海南戦で見たときと同じく、鮮やかだった。まるでバスケを 始めてからずっとそうしていたかのように自然にゲームメークをしている。無駄なくパスが 決まり、抜くときは抜き、まるで三井に決められた制約があってのこととは思えない動きだった。 もしかしたら仙道は三井の言ったことなど端から真剣に考えてなどおらず、たまたまの 結果なのかもしれない。 そうだ。いくら役割がいつもと違うからといって、仙道はやはり押しも押されもせぬ 陵南のエースだ。そのエースが本気で自らのシュートを封じるはずがないではないか。 冗談とはいえ、試合で実力を出させないような条件を出したことに内心忸怩たるものがあり、 三井はそう思いたかった。 だがまだ試合が始まって五分も経っていない序盤とはいえ、仙道に得点がないのは珍しいことで、 三井の胸の内は穏やかではない。 第一、よくよく考えると、三井には仙道の本気というやつを証明してもらわなければ ならない理由などまるでないのだった。実際勢いに任せてつまらない遊びに乗ったものだ。 おかげでバスケの試合ひとつ落ち着いて観ることができない。 三井は苛立ちのまま、身じろいだ。 スコアは十対四で陵南がリードしている。シューターとしての働きを十二分に果たしている 越野を筆頭に、夏にはまったく入らなかった福田のミドルも決まり、上々の滑り出しと いっていい。津久武が仙道を警戒しすぎるあまり、必ず一人はフリーの選手の出るのが いい方向に働いているようだった。 「あっ、また!」 誰かが声を上げた。仙道のノールックパスが福田に通ったのだった。ボールをとった 福田は相手の隙をついてゴール下まで入り込むと、得意のダンクを決めた。 点差は着実に開いていく。誰もが仙道の華麗なボールさばきに魅了され、ただひとつ 足りない点があることに気づかなかった。 三井の自己嫌悪と苛立ちをよそに、陵南は快調なペースで試合を展開していった。 序盤から中盤へ、そして前半もあとわずか。 小さなアクシデントはそんなときに起こった。 仙道の急な動きについていけなかったマークの一人がバランスを崩し、もう一人の方に 接触してちょうど仙道の進路をクリアーにする結果になったのだった。一瞬にして フリーになった仙道は、バスケ選手として培ってきた反射神経に従って動いた。 ゴールに詰めてジャンプをする。それはほんの少し軌道が高いだけのミドルシュートに見えた。 ところが仙道の手から放たれたボールは、リングの前の部分に当たって派手に跳ね返った。 うまくリバウンドを取った福田はもう一度確実にゴールに押し込んだが、怪訝そうな顔を して仙道に視線を送った。仙道は右手を顔の前まで持ってきて、笑顔で謝るような仕草を 見せた後、唇を引き結んで真顔になった。 三井はそのとき足元の床がすっと抜けるような感覚を覚えた。 仙道は本気で自らのシュートなしにこの試合を切り抜けるつもりなのだ。 それを実感したとき、三井は仙道の強い意志を、まるで実際にエネルギーの塊として 受け止めたような感覚に陥って、目が眩みそうになった。 敵は津久武、そして日頃磨いてきたバスケ選手の本能。自らの内と外に神経を配りながら、 仙道はこの大事な一戦を切り抜けようとしているのだった。 オレはそんなつもりで言ったわけではなかったのに。 不用意な約束をしたことを悔やみながら、だからこそ最後まで観ていって欲しいと いう仙道の気持ちが重く心に響いて、三井は真剣に陵南のエースの動きを追った。 そしてそれまでシュートチャンスを作らないようにしていた集中力に舌を巻いた。 自らがシュートを封じられているのを単なるマイナス要因とせず、敵のマークを できるだけ引きつけてフリーになる味方を作り出し、すかさずそこへパスを放つ。 それは、全力でぶつかるのが相手チームへの礼儀という考えからすると、ひどく 不謹慎で不遜な賭けだったかもしれない。だが、仙道がそれ以上に真剣に試合をしている のであり、そのことは彼が全身にまとう緊張感から痛いほど伝わってきた。 《あいにくオレは欲張りな男なんです》 そういえばあのときも仙道はそんな空気を漂わせていたような気がすると三井は思った。 やつはこの試合で二重の勝利を手にするつもりなのだ。何という傲慢な、何という 貪欲な男なのだろう。 だが、目の前で展開する緻密なプレーから三井は目を離すことができなかった。 派手さのない分凄みがひしひしと伝わってきて、いつしか引きつけられるように仙道の 動きを追い、前半終了のブザーが鳴るまで気持ちはコートの上に釘付けになっていた。 「……サン……三井サン!」 呼びかける声に気づけば、宮城や彩子が心配そうな顔をしている。 「先輩、気分悪いんですか? それなら……」 「いや、何でもねえよ」 夏に倒れたつけか、後輩に何かと心配されてしまうのがありがたいような鬱陶しいような 複雑な気持ちだった。何とかごまかして観客席に目を振ると、ところどころ空席が見えたので、 後半は適当に別れて座って観ようと提案した。 ちょうど四つの席が続いて空いているところに、宮城、彩子、三井の順番で座ると、 空いた座席に流川が座ってきた。一年生の間でも浮いている彼は同学年の集団には ついていかなかったようだ。 もう一人の問題児は、と目をやると、赤木の妹と並んで座って鼻の下をのばしていた。 「仙道のやつ、変……」 隣りに腰を下ろすや、流川が三井に言った。 「センパイ、気づかなかった?」 勘の鋭い流川でなくとも、ほとんどの観客はそう思ったに違いない。それでも三井に その事実を口に出すことは憚られ、無言で肩をすくめただけだった。流川の問いかけに 答えたのは彩子だった。 「まだ得点ゼロってことでしょ? シュート機会も一回だけだし。流れから見ると あまり変なことってなかったけど、これってやっぱりわざとやってることなのかしら」 流川は頷いた。 「あいつ、何か企んでる」 射抜くように空の陵南ベンチを見る流川はもちろん仙道の意図を知る由もないが、 三井はまるで自分の不安定な気持ちを読まれているような気持ちになって、何となく落ち着かなかった。 仙道の大胆な賭け。三井自身は何も失うもののない賭け。 都合が悪ければ三井は逃げることも可能だった。 だが、そうしたくはないという気持ちが心のどこかに生まれている。 そのこだわりは網膜の傷を映す小さな点のように、気がつけば目の前を漂っていたが、 焦点を合わせようとすると逃げていって、三井にも正体が知れなかった。 そうした揺れを流川が天性の勘で嗅ぎつけるような気がして、三井は座って観戦しようと 言った自分の言葉を後悔し始めた。 やがて、空いたコートで練習していた海南とその相手チームがひけ、再び陵南と津久武の 両チームが入場してきた。 津久武の選手たちは仙道を何か物言いたげに見ていたが、すぐにベンチ前に集まり、 監督の指示に耳を傾けていた。 きっと津久武ももう仙道の得点がないことに気づいているだろう。仙道のプレースタイルの 変貌に翻弄され、点差はかなりついて陵南の楽勝ペースだが、ただひとつ確かなことがある。 後半は前半のようにはいかないということだ。 案の定試合が始まってみれば、津久武は仙道を過度にマークするのをやめ、陵南にフリーの 選手を作らないようにしていた。もちろん仙道を自由にするような危険な作戦はとらなかったが、 とりあえず一対一にとどめている。 結果、陵南の得点ペースががたっと落ちた。仙道は何とかその技術を駆使してシュートの できる味方にボールをつなごうとしていたがなかなか思うに任せず、一時二十点以上 開いていた点差は徐々に縮まってきた。 手堅いバスケなら、津久武が一枚上だった。すでに陵南メンバーもどうして仙道が 頑なにシュートをしないのか不審がっているようで、チームとしての動きに綻びが 見え始めている。一度タイムをとったが、流れは一気に津久武に向かい、その勢いを とめることができないまま、ついに点差は一桁にまで詰められた。 「ちっくしょう、何やってんだよ、仙道のやつ」 宮城が唸るように言う。 プレースタイルは違っても、同学年の天才はやはり無視できないらしい。直接対戦して 勝負を決めたいという望みを持つ宮城には、この試合の展開が気が気でないのだろう。 後半はまだ半分しか過ぎておらず、逆転するに十分なほど時間は残っている。 そして気が気でないのは三井も同様だった。陵南のこのもたつきの原因が自分にあるのは 明白だが、万一陵南が準決勝を前に敗退などということがあればどう償ったらいいのか わからない。たかが口約束、守るも破るも仙道の勝手とはいえ、拭いきれない後悔が 三井の焦燥感を煽った。 また津久武が点差を詰める。これで七点差。 ゆっくりと確実に追い上げて、真綿で首を絞めるように陵南を苦しめている。 仙道はよくやっていた。三井にはそれがよくわかった。だが、そのままではなし崩しに 追いつかれてしまうのもわかりすぎるぐらいわかった。 陵南が福田のシュートで辛くも突き放す。また九点差。 三井は膝の上についた拳を痛くなるほど握りしめた。緊迫したコートに見入っていても、 自分の中の弱さに蝕まれて目を逸らしたい気分になる。頭を抱え込んで眼前で展開されている 死闘から視線を引き剥がすことができたなら、どんなに楽だろう。 「ああっ」 思わず宮城が声を上げた。会場全体も同じようにどよめく。 津久武主将の三点シュート。三ゴール差になり、ますます陵南の旗色は悪くなる。 陵南のメンバーは浮き足立ち、仙道からつないだボールを植草が不用意に越野に つなごうとしたパスをカットされた。攻守は一瞬にして逆転し、陵南ゴールめがけて 走り込んだ津久武勢は再びロングシュートを使い、連続で三点ゴールが決まった。 もう逆風をしのぐことはできそうもなかった。いたたまれないように陵南のベンチがタイムアウトをとる。 どうすんだよ、仙道? 三井は観客席でどうすることもできないことをもどかしく思いながら、ベンチに戻った 仙道に心の中で問いかけた。 三点差で残り五分は、それまでの流れからすると同点になったぐらいの、いや、 ことによれば逆転されたぐらいの印象を与えているはずだ。こんなとき修復のきかないほど 崩れることがあるものだが、ぼろぼろになった陵南チームの建て直しは本当なら簡単にできるはずだった。 たったひとつの特効薬をもってくれば。 それは仙道がシュートを決めることだった。 陵南の監督も同じことを仙道に言っているらしく、今度こそ仙道もつまらないこだわりを 捨てるかもしれない。 『だから、てめえの言うことなんざ信じられねえって言ったんだよ!』 一度シュートしたなら、後でこう言って笑ってやろう。 三井は祈るような気持ちで、 その後の展開に望みをつないだ。 再びコートに戻るとき、仙道は福田を呼び止めて一言二言話し、それから全員を集めた。 驚いたことに、仙道の顔はいつものような余裕の笑みを浮かべていて、とても瀬戸際に 立たされた男のようには見えなかった。その仙道が何か言うと、コートに散って行く前の メンバーたちはうなだれていた顔を上げて笑ったのだった。 『仙道が大丈夫と言えば大丈夫です』 国体の決勝戦、交代してベンチに戻ったとき越野が言うのを聞いたことがある。 ことバスケに関しては、それほど絶大な信頼感をあのつかみどころのない男は集めているのだ。 とりあえず落ち着いた陵南の様子を見て三井は安堵したが、次の瞬間すっと笑いを収めた 仙道に一通りでない決心を感じ、背筋をぞくりとしたものが走った。 もしかしたらあいつはこの試合何があっても絶対にシュートを打たない気かもしれない。 さらに、この期に及んでそれで勝つつもりでいる。 三点差は絶対ではないというのに、この自信はどこからくるのだろう。 陵南にとって最後の時間はそうして幕を開けた。 一応建て直しはきいたと見え、陵南はディフェンスも隙のない本来のバスケを展開する。 やはりリズムが変わって津久武の流れが断ち切られたようだった。そこからは一進一退の 応酬が続き、一点差に迫られ、三点差に突き放し、という状況を繰り返した。 「何か胃に穴があきそう……」 彩子が漏らしたが、まさに三井の心境もそうだった。 そして何度めかの一点差を迎えた残り三十秒、バスケの神様は自らが寵を与えた天才に その試合最大の見せ場を与えたのである。それはとりもなおさず、仙道にとっては最大の試練だった。 混沌とした流れと競っている緊張感に、きっと彼の抑制力も限界となっていたに違いない。 仙道本来の動きはまず、ぴったりと張りついて離れないマークをフェイクでかわしたところから 始まった。眠らせていた力は最後になって爆発的に目覚め、先に待ちかまえていた ディフェンスをひとりずつ鮮やかに抜き、シュートを狙える位置まできた。 その日初めての仙道らしい動きに会場が一気に熱をはらむ。期待感が膨れ上がり、 たった一本のシュートを待ち望む雰囲気が全体を支配する。割れんばかりの歓声は 神奈川ナンバーワンの男がゴールを射抜く先触れのようだった。 三井も完全に会場の熱気と同化していた。それまで抑えに抑えてきた欲求、完全燃焼 できなかった思いが弾け飛び、ほとんど腰を浮かすようにして客席で身を乗り出した。 圧倒的だった。羨望も何もなく、すごいと思った。 それだけの力を、仙道というプレーヤーは身内にじっと抑え込んでいたのだ。 もう直接仙道を阻もうとする者はいなかった。 足を止め、ボールを掲げる。 三井は思わず立ち上がり、叫んだ。 「決めろーーーっ!」 ボールは仙道の手から宙に放たれた。 「三井さん……?」 静かな死闘でしっかり立てた前髪もたれ落ちてきてしまった男は、信じられないものを 見たといった表情で言った。 試合後、唖然とする後輩たちを観客席に残して三井はロッカールーム前の通路にいち早く 駆けつけると、引き上げてくる陵南チームを待ち受けた。向こうの方からやってきた面々は 三井に気づくと軽く頭を下げた。越野や福田とは国体でも一緒だったから、少しばかり 言葉をかわして最後尾で汗を拭いながらゆっくりと近づいてくる仙道を待った。 仙道が三井の前にやってきたのはほかのメンバーが全員ロッカールームに消えたときだった。 気持ちがどこかに飛んでいるように見え、もう少しで三井の前を素通りしそうになるところを、 三井に名前を呼ばれてやっと現実に戻ったようだった。 「なーに寝ぼけヅラしてんだよ! このオレ様をシカトしてんじゃねえぞ」 「だって」 仙道は少し戸惑ったような表情で言った。 「三井さんがこんなところまで来てるなんて思わなかったんだもの」 戸惑いが心底嬉しそうな表情に変わる。その眩しそうな目で微笑む仙道に疲労の影を見て、 三井は胸をつかまれたような感じがした。それは何なのかわからない。わからないから、 そんなものに流されるつもりはなかった。 「すぐにもひとつ聞いときたいことがあったんだよ」 低い声で言葉をつなぐと、仙道は首を傾げた。 「三井さん、何怒ってるの?」 「怒るさ! どうして最後まで決めなかったんだよ!」 仙道が放ったシュートは結局福田への絶好のパスとなった。瞬間の指示でゴール下に 詰めていた福田が飛びつき、そのままリングに押し込んだのである。 「でも、福田が決めたでしょう?」 「一点差だぜ? 決まらなかったら、試合落としてたかもしれないんだぜ? おまえ主将なんだろ、だったらあんな危ない……」 「オレは負けるつもりはありませんでしたよ」 仙道は三井の目に見入るようにして言った。 「三井さんのことだってずっと真剣に言ってました。だから約束を守ったんです。 ……わかってもらいたいから」 仙道の手が頬にかかったのに気づいたが、三井はそのままにさせておき、ただ睨み返した。 「おまえ、そんなことであんな危険な真似したのかよ」 「だって、最後のシュートを決めてたら、きっとまた三井さんに信じてもらえなくなる」 笑いながら言われて言葉に詰まった。確かにその通りだった。 仙道は下りた前髪の下から三井の顔を見つめ、続けた。 「三井さんにはそんなつもりはなかったかもしれないけど、三井さんの言ったことは オレには究極の選択だったんです」 三井は仙道の柔和な目が一瞬で強い自信の色を浮かべるのを見た。 「三井さんをとるか、バスケをとるか」 その後の科白はあきれ返るくらい強気だった。 「でもあいにくオレはどちらでもない第三の方法を考える男なんです」 それまで自分が見ていた仙道という男は、本当にこんな男だったのか? 不思議な、 まるで夢の中のような思いで三井は仙道の顔を見返した。自らの誠実さを戦い抜くことで 証明した男は、ただの気のいい下級生だとは見えなくなってきている。 そして頬にかかったままの手の感触を三井は意識し、強く払った。 「てっめえ、オレがおまえの言うことを信じたからって、それはおまえにンなこと 言われて嬉しいってことじゃねえんだかんな! そこんとこ、勘違いすんなよ!」 ああ、でもこれはもしかしたらヤバイ状況なのかもしれない。 「でもオレ、がんばったんですよ」 「バッカヤロウ、調子にのんなよ」 言いながら何だかひどく焦って、接近している頭をぽかりとやってしまう。 「痛い……苦しい試合で疲れ切ってるのに三井さん、ひどい……」 仙道は額を押さえよろよろ前に進むと、三井にすがるようにして壁に手をついた。 「おっ、おい、仙道! 悪い、痛かったか?」 答えはない。大男一人抱えてあたふたしていると、仙道の体が細かく振動するのを感じた。 初めは何が何だかわからなかったが、やがて相手が笑っているのだと気づいた。 「何笑ってやがんだよ、おい、仙道!」 「す、すみません。でももう少しこうしていさせて」 「重いんだよ! オレだって試合後なんだからな」 すでに強く抱きしめられていて、少しぐらい身をよじってもびくともしなかった。 余分な負荷がなかったから、いつの間にか仙道の方が三井の体を受け止めていたらしい。 その状態を不快に思うより、くすぐったさを感じて妙な気分になる。嬉しい気持ちに 似ているのが、もっとヤバイと思った。 「ああ、もう、オレまでとんでもないヤツになっちまうじゃねえかよ」 泣き言のように言うと、仙道が肩口で笑う気配がした。 仙道の考えた三番目の道が実は非常に有効だったこと。それを認めるような発言は 絶対にすまい、と三井は思った。 |