外は変わらず蒸し風呂に入ったようだった。三井はその暑さに愚痴をこぼし、 雑踏に飛び込んでいく。どこから湧いて出るのか歩道には人間が無秩序にあふれ、 後を追う仙道の行く手をことごとく遮った。見る間に三井との間隔が離れていくのに焦り、 のろのろと歩く集団を追い抜こうとして前から来たカップルとぶつかった。 三井はいち早く脇道へと逸れ、彼のついてくるのを待っていた。仙道はカップルに頭を下げ、 三井の元にたどり着いた。
「いやあ、人が多すぎて大変だなあ」
「んだよ、トロくせえ。ドリブルで何人も抜いたりするやつとは思えねーぜ」
「バスケとは違いますよ。ちっとも読めないんだから」
 仙道は三井の脇に立ち、メインストリートよりは多少人通りの少ない横道に目を走らせた。 何軒か先に喫茶店の看板が見えた。
「あそこなんか、どうですか」
 あまりの暑さに辟易している三井の様子に追い立てられているような気分で指をさす。
「入れりゃいいよ、どこだって」
 投げ遣りに答えると三井は歩を進めた。今度こそおいていかれないように、 仙道は試合中並みの緊張感で後についた。
 喫茶店の中は混んでいたが、ウェイターに誘導されて奥の方の四人掛けのテーブルのついた。 とはいえ、大男二人が陣取るととても四人掛けには見えなくなる。ウェイトレスはすぐにやってきて テーブルを拭き、水とおしぼりとメニューを置いて去った。
「おー、いい脚してんな」
 奥に座った三井がウェイトレスの後ろ姿に目をやって言った。本当に、黙って座っていれば それなりに見えるのに、言うことは徹頭徹尾外見を裏切っている。仙道は上半身をひねって ウェイトレスを見ようとしたが、あいにくそのとき彼女は視界からはずれた。
「ああいうの、三井さんのタイプですか?」
 顔すらもろくに見ていなかった仙道は聞いた。
「ってわけでもねーけどよ。おまえは?」
「オレ……」
 おしぼりの袋に手をのばして答えた。
「あんまりそういうのって考えたことないな……」
 寮でも学校でも、アイドルの何とかが可愛いとかどこの女子校の誰とかがいい線いっているとか、 話題になることは多いが、仙道の場合だいたい片方の耳からもう片方の耳へと素通りしてしまい、 全く関心が湧かなかった。もちろん高校生男子としての正常な欲求はあったけれど。
「部活一筋ってわけか?」
 三井は口角を上げてずばりと言った。
「バスケばかっていうんですかね」
 笑われるかもしれないな、と思い、頬をかきながら答えた。だが三井は冷笑的な表情を消し、 伏し目ぎみになった。
「……いいんじゃねーの、それで」
 グラスの水を口に含む。
「無理にほかのところを見ようとしたってろくなこたあねえよ」
 そこで目を上げるとじっと視線を注いでいた仙道の目とぶつかり、きまり悪そうに顔を逸らした。 そのままあちこちに目を泳がせていたが、急に大事なことを思い出したとばかりに言う。
「……あ、オレ、アイスコーヒーな」
 そういえば注文がまだだったことに気づき、仙道はメニューを開いた。大して迷うこともなく、 三井と同じくアイスコーヒーを頼むことに決めた。メニューを閉じるとウェイトレスはどこで 見ていたのか、すぐに姿を現した。それぞれにアイスコーヒーを注文したところで、 三井が昼をまだ食べていないらしいことを思い出し、もう一度メニューを開いた。 軽食のところを見て、無難なミックスサンドイッチを追加注文した。
「なんだ、メシまだだったのか」
 ウェイトレスが立ち去ると三井は言った。
「え……まだなのは三井さんの方でしょう?」
「オレは食ったぜ、親につきあって……え、あ、いや……」
 何にこだわっているのか三井は言葉尻を濁した。
「……とにかく、もう腹一杯なんだよ」
 何なんだよ、バカヤロウ、と言いたげに三井は続けた。そこで初めて、仙道は自分が冗談を 真に受けてしまったことに気づいた。
「オレもオフクロと食ったんだけど。そうかあ、早とちりかあ。いや、学校のやつにもよく、 おまえは時間にはスローなのに、勘違いするときだけは早いって言われるんですよ」
 いつものことでしようがない、と照れ隠しに笑った。まあ、何にしても、三井の言葉を聞き 腹の具合を探ったときから、都合のいいもので腹は新しい食物の落ち着き場所を整えつつあった。 いや、もしかしたら蕎麦とパンは入るところが違うのかもしれないが。
「わーったよ」 「食うよ。食ってやるよ。おごりなんだろ?」
 文句があるかとばかりに睨んでくる。その顔が意地っぱりな子供のようで、 仙道は笑いそうになった。
 何だかカワイイ。
 年上の、それも男相手に唐突に思ってしまった。
 そう考えると、口の悪さも態度の大きさも全て内面のナイーヴさを覆い隠す鎧のように見えてくる。 ……見えてはくるのだが。
 まったく何考えてんだか、オレは。これじゃホモだよ。
 あまりにもインパクトのある二文字言葉に、その先を考えることを放棄した。
「なら、半分つ食いましょう。オレ、昼、蕎麦だったんで」
「蕎麦って、日本ソバか?」
 意外なことを耳にしたというように、三井は確認してきた。
「そうですけど」
「渋いな。オフクロさんの趣味だろ?」
「いや、オフクロは中華かなんかにしたかったらしいんですけど、オレがどうしても天ざる 食いたくて」
「天ざる……」
「はあ、五枚」
「げ……」
 あからさまに「気持ち悪い」といった顔をして三井が黙り込む。蕎麦五人前のどこが 気持ち悪いのかわからず、少し考えて天ざるの天麩羅に思い至った。
「いやあ、違うんですよ。天ざるは最初の三枚だけで、残りはただのざるそばですって」
 確かに天麩羅五人前はきつい……かもしれない。
「それはそうと、三井さんは何食ったんですか」
 話の流れで聞いてみた。三井はまたも険しい目を向けてきたが、少しも威圧的には見えなかった。
「そんなこと聞いてどうすんだよ」
「や、ただ何となく」
「……和食だよ」
 不承不承、三井は答えた。そんなに言いたくないことなら答えなくてもいいのに、 生真面目に言葉が返ってくる。返ってくるから無意味な話題でも先を続けたくなる。
「サシミとかテンプラとか……」
 サシミ、テンプラ、スキヤキ、シャブシャブ−仙道の頭の中ではにわか日本趣味の外国人のように カタカナが跳ねまわっていた。しかし三井の口から漏れたのは、これまでの仙道の十七年の 人生の中でたぶん出合ったことのない料理の名前だった。そのため少々とんちんかんな受け答えを してしまったが、ほどなく注文したものが運ばれてきたので、食べ物の話はそこでおしまいになった。
 それぞれにアイスコーヒーをすすり、どちらからともなくサンドイッチに手をのばした。
 三井は遠慮もへったくれもなくサンドイッチ二切れをぽんぽんと口に放り込んだ。 どうやらそれほど無理して食べているわけではないらしく、ほっとする。実際うまい サンドイッチだったので仙道の腹もすんなり受け付けた。
 そんな風に黙々と食べながら改めて考えると、三井とこうしてテーブルをはさんで座っているのは 不思議な感じだった。しかし、それは意外に楽しい偶然であることに仙道は気づいていた。
 だいたい見ていて飽きない。感情がすぐに顔に出て表情がころころ変わる。 それを見ていま何を考えているのか想像するのも楽しい。
 オレとは正反対のタイプかな。そう仙道は思った。
 陵南のクラスメート連中によると、仙道の人物像は「笑顔の下で何考えてるかわかんねーと 思ったら、実は全然何も考えてなかったやつ」とか「ちゃらんぽらんでずぼらですっとぼけた バカ殿様」とかに落ち着くと言う。もっとも自分ではそれほどひどいとも思っていない。 確かに神経が行き届いているとは言いかねるかもしれないが、それなりに考えてはいるし、 ちゃらんぽらんに見えても、これと思い込むと結構長続きする。
 たとえば蕎麦。
 そう思い、あまりにも卑近な例に笑ってしまった。
 もちろんバスケもそうだ。味方の位置や敵のチェックを考えに入れ、どのようにパスを通そうか、 それとも自ら切り込んでシュートを決めようか、頭は絶えず計算している。相手が強ければ強いほど 闘争心は激しくなり、計算は直感へと昇華する。それだけに全身全霊を尽くしても勝てなかった 二試合は悔しかった。
 そういえば、この手で結構3ポイント、決められたな。
 目の前のテーブルに置かれた三井の右手を見るともなしに見つめ、考えた。
 最後はコートにいなかったけど、中盤のあれも結局効いてるよな。
 三井のその腕は、スポーツ選手の割にごつさがない。前腕から袖に隠れる二の腕の半ばまでを、 うっすらとのった筋肉に沿ってそれとなく目でたどると、思いがけず腕が大きく動いて驚いた。
 改めて三井に注意を向けると、隣りの椅子に放っておいた雑誌を手に取るところだった。 読んでから貸してくれるということだったから、いま、ここで目を通すつもりなのだろう。 しかし袋のシールをはがそうとしていた指先がふいと止まった。
 じっと見ていたのを気づかれたかと思い、何気なさを装って目を逸らし、ついでに玉子サンドに 手をのばした。名前を呼ばれたのはそのときだった。
「おい、仙道」
「は?」
 顔を上げると三井がこちらを見ていた。一瞬視線が脇にはずれると黙り込む。 その口が再び開いたときには、意外な言葉が飛び出した。
「……一つ残しとけよ」
 すぐには何のことかわからなかったが、皿の上にはもうサンドイッチが二切れしか残っていない ことに気づいた。
「あ、すいません。食い始めると勢いがついちゃって……」
 残った野菜サンドとハムサンドを見比べる。
「どっちにしますか」
「……てめえが金払うんだからよ、てめえが好きな方食えばいいだろ」
 三井は憎まれ口をたたいた。
 絡むのは三井の趣味と、仙道はそれを気にせず聞き流してハムサンドを手に取った。 三井は残った一切れを確保してから、袋入りの雑誌を突きつけてきた。
「やる」
 ぶっきらぼうな一言に耳を疑った。
「読むの面倒になったから、やるよ」
「え?」
「いらないんなら捨ててくぜ」
 言うなりテーブルの上に無造作に置いた。何も捨てなくてもと思い、慌てて答える。
「いや、いらないってことはないっすけど」
「なら受け取れ」
 そうは言われても、「はい、そうですか」と簡単に手をのばすわけにもいかず、 珍しく仙道は迷った。すると三井はじれったそうにテーブルの雑誌を手に取ると、 放ってよこした。雑誌の入った袋は、傍らの椅子のビニールレザー張りの座面に胴体着陸した。
 どうしたらいいのか、彼は急にわからなくなったが、とりあえず礼にもならない礼の言葉を ぼそっと口に出した。
 三井はもう雑誌のことは忘れたとでもいうようにサンドイッチをぱくつき、 アイスコーヒーをグラスから吸い上げた。


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