「そう言えば、陵南はいまどうなってんだ?」
しばらくして三井は聞いてきた。
湘北はインターハイが控えているから大した変化はないはずだが、だいたいどこの学校でも
夏の大会が三年生の引退試合になることが多い。陵南もご多分に漏れず、三年生がすっかり抜けた
チーム構成になっている。そう言えばこの前偶然湘北の宮城と駅で会ったとき、三井は選抜まで
残るらしいと言っていた。本当だろうか。
「うちは魚住さんや池上さんたち三年生が引退して、二年と一年だけでやってます」
「そうか、魚住もな……」
「三井さんは選抜まで残るそうですね」
「おうよ」
「……何で知ってんだよ、そんなこと」
何となくいまの三井には、働きながらバスケをするという様子が不似合いな気がして
言ってみたのだが、目の前の眉根を寄せた顔は、当て推量だと説明しても信じてくれそうになかった。
「いや、たまたまうちには情報通がいて……」
都合よく彦一の顔を思い浮かべて仙道は言った。さすがの彦一も三井の進路までは
ノーチェックだろうが。
三井は揶揄するように笑った。
「選抜に備えて情報収集かよ?」
「まあ、役に立つかどうかはちょっと疑問ですけどね」
いまのところ彦一のチェックノートが威力を発揮したことはない。
三井は何を思ったのかテーブル越しに身を乗り出してきた。真正面から視線を射込まれ、怯んだ、
というより当惑した。
三井の顔はもちろん十分承知しているつもりだったのに、そのとき初めて見たような気に
なったのだ。
実際新しい発見もあった。向かって右側の唇の下に、顎へと向かう傷痕がある。
しかしそれが印象を変えたわけではない。仙道の認識に加わったのは、「顔に傷」から
想起されるマイナス・イメージではないからだ。
それなら何なんだ?
仙道のそんな戸惑いをよそに、三井は挑むように笑みを浮かべると口を開いた。
「……ま、次もいただくぜ?」
耳に入ってきた言葉は内耳で遊んでいるだけで、すぐには意味をなさなかった。が、
ふと己れを取り戻し、強気の発言に苦笑する。
「冗談きついですよ、三井さん」
仙道は慌てて手を振った。
「いや、そういう意味じゃなくて。……湘北はほんと、強いですよ」
自戒もこめて言う。屈辱の記憶が、バスケットボール・プレーヤーとしての意地とプライドに
火をつける。先刻の混乱はすっと引いていった。
「いまも強いし、どんどん強くなる」
流川と桜木のことを思い、言った。
「仙道……」
「……挑戦するのはこっちの方ですよ」
三井の挑発を真っ向から受けとめて言った。
そうだ。オレはまだ二年生だ。挽回する機会はいくらでもある。頭では確かにそうとわかっている。
しかしこの弾力性を失ったゴムのような気持ちは何だろう。
バスケを始めてこのかた、こんな気持ちになったことはなかった。
自分の胸の内をもてあまし、心についた火はあえなく鎮まった。目の前の三井は椅子の中で
おさまり返る。
「……大黒柱が抜けるのはお互いさまだもんな」
「うちでは二年生が中心になって、打倒湘北、打倒海南っていきまいてますよ」
「次は負けねえって?」
意欲満々の相手を前に仙道は反応に困り、笑った。その後で、なぜか急に心の中のもやもやを
放出したくなった。
「むきになってはりきっているやつも多いですけど……オレはなんか、そんな気になれなくて」
「ああ?」
三井はうさんくさいと言いたげに聞き返してくる。
「なんか、こう、調子が出ないんすよね、やる気っていうのかなあ。監督にもよく、
おまえはむらがあるって言われるんですけど。……今年の夏はインターハイだって決め込んでた
からかな」
最後の一言を付け足してから、はっとした。
「いや、別の湘北のせいだって言ってるわけじゃ……」
焦り、慌てて補足すると、三井は愛想もなく、当然だという顔で応じた。
「ったりめーだ、バカヤロウ。強い方が勝つ。弱い方は負ける。幼稚園児でもわかる理屈だぜ」
三井の口の悪いことはこの短時間のつきあいでわかっていたし、実際何度となく憎まれ口を
浴びてきたが、今度の発言は少し重さが違った。受け取った仙道の胸に強くぶつかり、
心の核をぼんやりと覆って隠していた靄を吹き払う。
「弱いやつぁ、練習積んで強くなるしかねえんだよ。うだうだ悩むんじゃねー!」
仙道は目を瞠った。
死ぬほど練習してこい、とあの日桜木に言ったのは自分だった。同じことを今度は自分が
三井に言われている。
中学時代はそこそこにやってもいいところまで行った。陵南に入り、田岡監督の指導を受けて
高校バスケット界にデビューしてからは「天才」と呼ばれた。そんな形容など実際どうでも
よかったのだが、とんとん拍子にここまで来て、いつの間にか、最後に勝つのは自分なのだと
思い込んでいたのかもしれない。そんな根拠などどこにもないというのに。
だから、予想外に短かった夏に歯車が狂った。もう夏は終わったと言われ、けれど現実には
この暑さで、精神が夏バテを起こしていた。
「バスケ、好きなんだろ?」
三井の声音は今度は穏やかだった。
「あ、はあ……」
「だったら、見失うんじゃねえよ」
そう言って微笑んだ三井の顔は少し寂しそうだった。胸がドキンとした。
この人が好きなのかな、オレ。
初対面に等しいのにそんなことを考える自分が信じられなかった。まして相手は男だ、
一学年上の。
そこまで考えて、それのどこが悪いのか、はたとわからなくなった。
男が好きで何がいけないんだろう。
「……オレは二年間バスケから離れてたけど、味気ない毎日だったぜ。……もう二度と
あんな思いはしたかねえな」
三井は仙道から目を逸らして言った。彼に長いブランクがあったことをそのとき
仙道は思い出した。好きなバスケを二年間もやることができなかったのだ。どんなにつらかったか。
仙道自身、バスケのことをつきつめて考えたことはないが、
急に取り上げられたらどうすればいいかわからなくなるだろう。
「三井さんの気持ちがわかるって言ったら嘘になると思いますけど、やっぱり故障で
二年間棒に振ったらつらいですよね」
彦一から聞いた情報だった。が、目を上げた三井はあっけにとられたような顔をしている。
「え……二年間、故障……? オレ?」
様子がおかしい。
「隠さなくったっていいですよ。うちの情報通がちゃんと調べて……」
「……悪いけど」
三井は仙道の言葉を遮った。
「おまえんとこの情報部員、確かにザルだわ」
「え、違うんですか?」
「違う」
「じゃ、何で」
思わず踏み込んでいた。一瞬三井は戸惑ったように見えたが、ぼそっと何か言った。
聞き取れなかった。
「え?」
仙道は耳を澄ませた。三井はそれを見ていたずらっ子のような笑みを口元にのぼらせた。
「教えてやんねー」
「ええっ?」
「敵に秘密ばらすやつがいるかよ。教えねえよ」
そのまま煙にまくように笑った。笑い終えると仙道の顔を見、首を傾げた。
よほど憮然とした顔をしていたらしい。
きれいに形の整った唇が開く。
「どうしても聞きてえなら、選抜が終わった後に聞きにきな。
気が向いたら話してやる」
「それより、陵南が湘北に勝ったら、ってのはどうすか?」
気が向いたら、じゃ困るのだ。
灰色の約束に仙道は思った。もったいぶられると何が何でも知りたくなる。
まして好意を自覚してしまった三井のことならなおさらだ。
瞠目した三井はすぐに不敵に笑った。
「いいぜ」
この一言で、仙道は夏バテからすっかり回復した。
「ようし。何だかやる気が出てきた」
「お手軽なやる気だな」
三井の皮肉っぽい物言いも、いまはカンフル剤だ。
「お手軽じゃいけないってことはないですよね?」
本当はそれほど簡単なものではないとわかっている。何しろ、生まれて初めて抱いた気持ちなのだ。
しかし、世の常識も倫理も、歩くのはおろか、ダンク・ショットやダブル・クラッチまで
決めたりするマイペースの権化には、ハードルほどの障害にもならなかった。
仙道は姿勢を正した。
「……急にこんなことを言うのも何ですけど」
三井が「何だ?」という目つきをする。
「今日は三井さんに会えて本当に良かったな」
心底思った言葉を口に出した。三井は照れたような面食らったような顔をして目を背けた。
「……まあな、オレたちも、おめーらがあんまり腑甲斐ないと、やっててつまんねえからな。
おめえの調子がでねえからってコロッと負けられちゃ、神奈川ナンバーワンの座の価値も落ちる
ってもんよ」
本当によくもこうコロコロと憎まれ口がきけるものだ。しかも表情が言葉を裏切っているのが
何とも言えない。
「ナンバーワンって、オレたちより海南がいるでしょうが」
「ああ」
三井は、今度は自信たっぷりに笑った。
「牧のいる海南にはインターハイできっちり借りを返すぜ」
一瞬気圧されて、仙道は笑うことでしか反応できなかった。それを誤解して三井が睨む。
「何だよ、おかしいなら正直にそう言えよ」
「いや、そんなんじゃなくて、なんてゆーか、その……」
何と表現したらいいのかわからなかった。完全にとどめを刺されたと思った。
困ったときの癖で仙道は頬をかき、それからいま感じた衝撃のようなものを無理に言葉に表す
ことを諦めた。
「ちょっと感動して」
「……どうせ、できもしねーことを、とか思ってんだろ?」
わかってんだよ、と言いたげに三井は拗ねたような上目遣いをした。
「そんなこと、ないっすよ」
本気だった。そして仙道は三井の放つ火の粉に晒され、今度こそ本当に自分の闘争心に火が
ついたことを自覚した。
「常勝海南の歴史の中でも最強って言われてますがね、今年のチームは。
負かすならそういうチームでないと意味がない」
そして自分はもう、「あの海南」に雪辱することはできないだろうから……。
「……応援してますよ」
言ってふっきった。陵南の黄金時代はこの夏の苦い思い出から始まるのだ。
三井はじっと目を向けてきたが、やがてにっと笑った。
「海南を倒したら、次はおめえらだ」
きつい目の光と徹底的に前向きな意志。それらを持ち合わせた強気な、だが意外に生真面目で
繊細な顔を持つ他校の上級生。
苦労するかな。
ふと思ったが、惚れたものはしようがない。
「……次も負けねえぜ?」
仙道の胸の内も知らず、三井は言った。
返した笑みのその裏で仙道は、さあこの難敵をどうやって攻略しようか、と考えていた。
思えば、交差点のところで三井に気づいて後を追う前から引っかかりはあったのだ。
決勝リーグで対戦する前に何度か湘北の試合を観戦したことがある。そのとき魚住から
「中学MVP・ミツイヒサシ」という存在を刷り込まれ、実際ただ一人対戦したことのない
その人物を目で追っていた。マッチアップの相手は流川だが、ゲームを組み立てるときには、
三井のセンスは見落とせないファクターだったからだ。そして自分とは違うタイプのプレーに惹かれ、
さらに関心はいつの間にか三井個人へと移っていった。
もちろん人となりは観客席から見て抱いていたイメージと多少ズレはあったが、
悪い方へ変わったわけではない。さすがにあの個性派軍団に混じって埋没しないだけのことはある。
そのくせ芯はナイーヴで、そこらへんのアンバランスさに、面と向かって初めて気づいたのだった。
この偶然の出会いはきっと運命−などと思うほど仙道にロマンを解する心はないが、
ともあれ二人きりの時間を持てたことはもっけの幸いだった。
帰路がほとんど重なるため、喫茶店から出てもさらに一時間半ほどの時が保証されていた。
その間に仙道はそれとなく三井の好みや考えを探った。普段の大物ぶりからすると、
まさに涙ぐましいばかりの努力だったが、下心を悟られないあたり、ひょっとするとこの方面でも
天才だったのかもしれない。まさしく天才とは九十九パーセントの汗と一パーセントのひらめき、
なのである。
最大の成果は、もらった雑誌をダシに聞き出した住所と電話番号、それに「三井寿」
と正しく漢字で書けるようになったことだった。少々情けないが。
やがて電車は彼の下車する駅のホームに滑り込んだ。停車してドアが開く。
仙道はスポーツバッグを肩にかけ、大事な雑誌の袋を抱えて席を立った。
「じゃあ、これで。近いうち、連絡しますから」
「おう」
三井は答えると、微苦笑した。
「返し忘れたら、それでもいいからな」
「忘れないっすよ、絶対に」
よく言えば「おおらか」、悪く言えば「ずぼら」な仙道でも、それだけは自信があった。
「それじゃ、また」
「ああ、またな」
背を丸めてホームに降り、振り返るともうドアは閉まるところだった。
ホームとは反対側に座っている三井はもう仙道の方を見ておらず、窓枠に頬杖をついて
線路側に目をやっていた。
ほどなく電車が動き出す。
ホームに立って白いシャツの背を見送り、電車が視界から消えるまでそのままでいた。
高校二年の夏が終わった。