朝早く起きて、家の近くを走った。
 実家を出て寮生活になじみ、一年と四ヶ月ちょっと。 家に帰るのは寮の閉まる旧盆と年末年始のわずかの間だけだったので、 どちらかといえば実家近くの風景の方がよそよそしく見えてくる昨今だ。 とはいえ、この日は旧盆にはまだ間があった。
 先の神奈川県大会最終戦で惜しくも敗れインターハイ出場を逸したものの ベスト5に選ばれた仙道彰は、家の近くの公園までくると背負ったデイパックから ボールを取り出した。中学時代、いまよりがむしゃらにバスケをやっていたときに 使っていたボールだった。空になったデイパックをベンチに投げると、 ドリブルをしながらバスケットのゴールに近づき、思いきりダンクを決めた。 雨ざらしの年季の入ったリングは、錆びついた金属のぎしぎしいう音を立てた。
 落ちたボールが転がるのを追って仙道は跳ねるように足を運んだ。
 週末の金、土、日と部の夏期強化練習が休みだったため、彼は家に戻っていた。 もっとも寮が閉まるわけではなかったので、別に帰宅する必要はなかったのだ。 現に前の年は寮に残って自主練習をしていた。今年と同じに、県三位どまりだったが、 高校バスケの世界は楽しく、家へ帰るのを忘れるほどだった。
 そういえば何で帰ってきたんだっけ?
 拾い上げたボールをじっと見て首をひねった。
 なんとなく帰ろうと思ったときに、誰も引き留めてくれなかったんだよな。
 仙道は3ポイント・ラインより少々遠いところからボールを宙に放った。 ボールは高く大きな弧を描いたが、リングの手前に当たって大きく跳ねた。
「ちっ」
 彼は舌打ちをして落ちたボールを拾い、その位置からミドル・シュートを打った。 ボールは今度は赤錆のついたリングの真ん中をくぐった。
 何度かそんな風にドリブルとシュートを繰り返し、仙道は切り上げた。 どのみち、また翌日からバスケ漬けの毎日になるはずだった。


「彰、今日は寮に戻るんでしょ?」
 家に帰るとキッチンから母親が声をかけてきた。
「んー」
 靴を脱ぎながら生返事をして、そのまま浴室に向かう。母親がおたまとお椀を手に姿を見せた。
「ねえ、それじゃあそれまでの間、母さんにつきあってよ」
「……姉さんは?」
「冷たい子ねえ。たまーにしか帰ってこないんだから、 ちょっと買い物してご飯でも食べようと思ったのに」
「……いいけど、買い物は自分の手で持って帰れるだけにしてよ」
 さっさと脱衣所に入り、Tシャツと短パンを脱ぎながら言った。 浴室に入ろうとするところで頭の方の注意がお留守になる。
 ゴツンという音を聞きつけて母親が顔を覗かせた。
「ざまーみろ、親不孝息子」
 打った額をおさえてしばし身動きもできない背に厳しい言葉が降りかかってきた。

 結局仙道は朝食をとって少ししてから母親の買い物につきあうことになった。
 銀座のデパートの夏物一掃セール目当てなのだが、息子連れの理由がふるっている。
「あんたはどこにいても目立つから、混雑の時なんか見失わなくて便利なのよ」
 というわけで、荷物持ちをさせられながら、混んだ店内を特設催事場から 地下食品売場まで引っ張りまわされた。
 昼食にありついたのはもう一時になろうかというころだった。 デパートの中で食べても良かったのだが、なんとなく外に出て目についた老舗の蕎麦屋に入った。
 蕎麦は仙道の好物だった。それも断然ざるそばに限る。つゆは蕎麦湯で薄めて飲む。 口に入るものならほとんど何でも食べる彼だが、 これには唯一こだわりを持っていると言えるかもしれない。 そう言うと、「渋い」と返るくらいならまだいいのだが、 越野あたりにかかると「じじむさい」の一言で片づけられてしまう。 ともあれ、好きなものは「じじむさい」からといってやめられるものでもないしなあ、 と仙道は四枚目の蕎麦をすすりながら思った。
 向かいでは母親が昼食後の算段を立てている。寮の夕食までに帰ればいいとわかっているので、 とことんつきあわせるつもりらしい。荷物が持ち切れなくなったらタクシーで帰るわよ、 と豪語した。
 とりあえず、今日一日くらいいいよな。早めに帰っても練習する気はないし。 母親を見ながら、五枚目のざるそばを注文して考える。六枚目七枚目も軽そうだったが、 店員が目を丸く、母親が目を三角にしたので、それで打ち止めにすることにした。
「ほんとにあんたって子はまあ、よく食べるしよく寝るし、大きく育つわけだわね」
 レジで支払いを済ませて外へ出ると、母親は感心したように言った。 一万円札を出したのに意外に釣り銭が少なく、少しばかりショックを受けたらしかったが、 そこは小さなことにはとらわれない仙道家の人間、 さっさと次の予定のことに頭を切り替えたようだった。 息子が大食漢なのはいまに始まったことでもない。
 前と違うデパートに行くため足を動かした母親の後を追いかけて仙道も歩を進める。 そのとき彼の視界の端を何かがかすめた。
「あれ?」
 つられて頭をめぐらし、注意を引いたものを捕捉した。 たくさんの有象無象の頭の先に背の高い男の姿があった。 純白の半袖シャツとグレーのジーンズが人の群れの合間からちらちらと見える。 憶えのある短髪と体つきや雰囲気に、その人物の名前を思い出すより先に足が後を追っていた。
「彰? 何、どこ行くの?」
 母親の声は聞こえたが足は止まらず、歩行者天国の銀座通りを突っ切る。 追尾中の人物は七、八メートル先にいたが、幸い長身のせいで雑踏の中でも見失わずに済んだ。 その彼が不意に立ち止まったのは本屋の前だった。
 三井さん……だったよな。湘北の十四番。
 田岡監督や前キャプテンの魚住がよく話していたので対戦前からなんとなく知ってはいたが、 実際に記憶に強く刻まれたのは、美しいフォームから繰り出される正確なシュートをコート上で 目にしてからだった。もちろんプレーヤーとしては、終始マークしあっていた流川ほど強烈な インパクトは感じなかった。強烈というなら桜木の方がはるかに上だ。
 しかし、だからといって印象がゼロと言うわけではない。 他人に無頓着な仙道の中で顔のなかった湘北五番目の選手は、 いつの間にか個人として認識されていたのだった。
 三井は人の流れを横切って本屋の店内に入っていった。仙道も迷わず中に入った。
 入りはしたものの、並ぶ書架と人混みで一瞬目当ての人物を見失った。 入り口から正面に続く通路を突き当たりまで進み、左側に曲がって、 いまきた通路に平行に走る通路に目を走らせた。三井の姿はなかった。 今度は反対側に行くと、通路の中程を書架の雑誌を見ながらこちらにやってくる ロング・シュートの名手が目に飛び込んできた。
 何の考えもなしに仙道はゆっくりとその方に近づき、三井が足を止めたところで、 何人か間において立ち止まる。相手の視線をたどると、そこには週刊のバスケット専門誌があった。 そういえば今週はまだ読んでいなかったな、と思い、無意識に手を伸ばすと、 三井とほぼ同時に同じ本を掴んでいた。
 三井の目が本を持つ仙道の手に向けられ、ついで顔の方に向く。
「あれ……三井さん?」
 半ば確信犯だったので、しれっと言った。
 三井が驚いたような顔をして彼の名を呼ぶ。とたんに何を話したらいいかわからなくなり、 気がつくと何とも間抜けな問いを発していた。
「こんなところで何してるんすか?」
 三井は憮然とした面もちをした。
「おめーの方こそ」
「オレ、実家が東京なんで。……今週末は練習が休みだったから戻ってきたんですよ」
 聞かれてもいないのに家に戻った理由を付け足した。三井は片眉を上げた。
「ふーん」
「で、三井さんは?」
「あ、オレは……」
 と言いかけて、何か都合の悪いことでもあるのか、口を閉じた。 少ししてぎろりと目の端で見上げてくると、整った気の強そうな唇からお世辞にも上品とは 言えない言葉が漏れて出た。
「見りゃーわかるだろうがよ、週バス買いにだよ」
 隠しごとのあることがあからさまにわかる反応が何だか楽しくて、 見当違いの答えにも調子を合わせたくなる。
「でもこれ、だいたい同時だったっすよ」
「いや、オレのが先だ」
 三井はその確信があるのかないのか、一歩も退こうとしなかった。 仙道にしても週刊バスケットボールに目を通してみたい気持ちはあったが、 どうせいつも立ち読みか借りて読むかなので、雑誌自体に執着はない。 出した手を引っ込めかねて少し迷っていると、にわかにどちらにも損のない考えが思い浮かび、 彼は手を離して引き下がった。そのことを告げると三井は肩すかしを食ったというような、 ちょっとばつの悪そうな顔をしたが、仙道の次の一言で呆れ顔になった。
「だから、三井さんが買って、オレに貸して下さい」
「ああ? んだって?」
「オレ、後でいいっすから」
「てめー……」
 言ったきり続く言葉はなく、三井は肩を落とすと思い直したようにレジに向かった。 その後を追おうとしたところで、仙道は入り口付近をうろうろしている母親に気づいた。 すぐに向こうも気づき、人の波に逆らって近寄ってきた。
「何なの、急に」
「ごめん。ちょっと知ってる人を見かけて」
「知ってる人って?」
「バスケのだよ。三年の三井さん」
「まあ、じゃあお世話になってるんでしょ。母さん、挨拶しなきゃ」
「そんなことより、オレ、三井さんと帰るから」
 手にしたデパートの紙袋二つ分の荷物を差し出した。それほど重くはないが、 かさばって歩きにくい。母親は渋々それを手に取った。
 ほっとして頭を上げると、支払いを済ませた三井がこちらを見ているのが目に入った。 連れがいることにも気づいたらしい。変に気を利かせてまわれ右をされても困るので、腹を据えた。
「……レジのそばにいる背の高い人。わかった?」
「あら、カッコイイじゃない」
 振り返って三井の姿を認め、ミーハーめいた感想とは別に母親らしく腰を折る。 三井もぺこりとお辞儀を返してよこした。そしてそのまま逡巡する様子を見せたので、 仙道の方から足を運んだ。
 母親はもちろんそつなく立ち回ったものの、バスケ音痴で部活のことにはとんと無関心なだけに、 三井を陵南の先輩と決めつけて話していた。三井は面食らっている様子がありありだったが、 根がお人好しなのか察しが良いのか、はたまた流されやすいのか、余計なことは口に出さなかった。 数分の短い会話の間に、母親はほとんど一人でしゃべり、ほぼ百パーセント、 野放しに育った不肖の息子のことをけなし倒して、先に本屋を出ていった。
 残された三井はしばらく呆然としていたが、やがてうんざりしたように見上げてきた。
「仙道、てめー、オフクロさんに何て言った?」
「三年の三井さんで、部活で世話になってるんだって」
「厭味か、そりゃ」
 苦々しげに言う。
「いやー、湘北にはズイブン勉強させてもらいましたから」
 仙道にすれば本心から出た言葉だったのだが、どうも三井の気に障ったらしい。 下を向いてぼそりと何か言ったが聞き取れず、問い返そうと思った刹那、 三井は思い直したように言った。
「まあいいか、めんどくせえ。それより、こいつ、どうすんだ?」
 そう言って、袋に入った例の雑誌で胸元をつついてきた。
「連絡もらえれば取りに行ってもいいし、送ってくれてもいいっすよ」
「バカヤロウ」
 悪態をついて手を引っ込める。指のすらりとのびた、意外に繊細な手をしている。
「どうしてオレがそこまでしてやんなきゃなんねえんだ」
「いいじゃないですか。インターハイに出られるんだから」
 思わずこぼれた自分の言葉に仙道は首を傾げた。
 この際、雑誌とインターハイには何の因果関係もない。 まして出場権を得たかどうかは試合の結果が全てで、三井に恩を売るような謂れがあるはずもない。 いまのいままで全国に行けないことを大して苦にしていないつもりでいたが、 自分のことながらこんな物言いをするところを見ると、もしかしたら結構傷ついていたのかもしれない。 喜怒哀楽の波はあまり激しい方ではないと自認しているが、 負けん気だけは子供のころから強かったのだ。バスケでも何でも弱いやつ相手では満足できない。 やるなら強いやつと。それも最後に自分が勝たないとおさまらない。
 高校に陵南を選んだのも、全国が見えていたからだ。 強いところなら強いやつと対戦できる……単純にそう考えた。
 そうだ、悔しくないはずがない。
 試合終了後も涙は出なかったし、落ち込んでもいないはずだったのに、 何か意外なときに自覚してしまい、少しうろたえた。チームメートの前でもそんなだだを こねるような言い方をしたことはなかったのに。
 動揺を抑え込んで三井の方を見ると、相手も困ったような顔をしていた。 口ほど神経は粗雑ではないようだから、「インターハイ」の一言で進退窮まってしまったのだろう。 何だか緊張が緩んだ。
 やがて三井は諦めたように言った。
「おまえなあ……きっとほかの本屋ならまだあんぞ。それに陵南の連中だって買ってるだろ」
「あー、でもせっかく三井さんが貸してくれるって言うし」
「……言ってねーよ」
 ふてくされたように返してくる。無理難題をふっかけられているとばかりに 眉間に皺を寄せていたが、ため息を一つついて仙道の顔を見た。
「そんじゃ、こうしようぜ。オレはこれからこいつを読むから、読み終わったらやるよ。いいだろ?」
「あ、どうもスイマセン」
「おまえ、今日は陵南に帰るのか?」
「はあ」
「でもこれから用事かなんか、あんだろ?」
「あ、いや、別に」
 右手を振って答える。
「オフクロにつきあわされるところだったんですけど、三井さんのおかげで無罪放免ですよ」
 本当にラッキーだったと思い、笑った。三井の眉間の皺がそれでまたも深くなった。
「……人をだしにしやがって。調子のいいヤローだな」
「コーヒーでもおごりますから、それで勘弁して下さいよ」
 このまま「さようなら」では、つまらない。
「メシおごってくれるなら考えてやってもいい」
 予想外の反応に仙道は目を丸くし、その後でおもむろに腹の具合を探った。 ざるそば五枚と天麩羅はまだ胃の中だ。もっとも腹八分に抑えておいたので食べようと思えば 食べられないことはない。
 よっしゃ、ピザでもハンバーグでもどんとこい!、と思ったとき、三井が笑って言った。
「冗談だよ、冗談。よっし、コーヒーおごれよ」
 言うなり出口の方に向かう。すれ違いぎわに背中を思い切りたたかれた。


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