* * *
廊下に出るとキッチンまで向かう間紫龍はいまの一輝と氷河のやりとりを
思い出し、こみあげてくる笑いを抑えるのに必死だった。だが出てきた部屋から
だいぶ遠ざかりキッチンの見えるところまでくると、彼はついにこらえきれず
笑い出してしまった。
「何がおかしいんだ」
氷河が憮然とした面もちになる。極地の氷山のような目は冷たい光を
たたえ、人の心を震え上がらせる……はずなのだが、これも戦いの場に
あればこそで、生活レベルの、ことに紫龍の前では虚しいばかりだった。
「すまん……。でもおまえと一輝っていいコンビだなって……」
「あんなやつと一緒にするな」
一輝もきっとそう言うだろう、と思い、紫龍はまたふきだしそうになった。だが口に出せば
氷河が難癖をつけることはわかっていたので心の中にしまっておいた。
「まあ、一緒にされたくなかったら挑発するな。挑発にのるな。わかったか」
そして紫龍は氷河の返事を待たずキッチンのドアを開け、中に入り、電灯をつけた。氷河も続いて
足を踏み入れる。食事時の喧噪も過ぎ去り、城戸邸の料理人たちはすべて引き払っていた。
この城戸邸の主厨房はちょっとしたレストラン並みの設備を備えていた。大広間で催されるパーティ
ではもちろんそれがフル回転することになるのだが、とりあえずいまはほんの一部でこと足りる。
「さて」
紫龍は奥までいくと向き直り、腰に手をあてて氷河を見た。家事能力を査定するような目に
氷河がぐいと胸を張る。
「さあ、何でも言ってくれ」
「そうだな、それじゃあ、向こうの奥の方に丸椅子があるからとってきてくれないか」
「ああ、おやすいご用だ」
「一脚でいいからな」
「わかった」
氷河が背を向けると紫龍はさっと髪をまとめた。それから冷蔵庫を開け、中にあるものを見て
メニューを決めた。
「持ってきたぞ」
すぐに氷河が木の丸椅子を手に戻ってきた。
「それじゃあ……そのあたりに置いて……」
さしあたり使うつもりのなかった作業台を紫龍は指さした。氷河は従順に言われた通りの場所に
椅子を下ろすと、冷蔵庫からさまざまな食品を取り出している紫龍をしばらくぼうっと眺めていた。
「置いたか?」
野菜を手早く流しに移し、蛇口をひねって紫龍が言う。目は流しに据えたまま、手を忙しく
流水の下で動かしている。
「ああ。……それで、どうする?」
「そこに座ってろ」
「え……?」
言われたことがわからないというように氷河はしばらく突っ立ったままでいた。するとその気配を
察してやっと紫龍が彼の方を見た。すでに野菜はきれいに洗われ、ざるの中で水切りに
かかっている。
「そこに座っていろ。それがいちばんの手助けだ」
「しりゅ……」
氷河は目を丸くしたが、すぐにしかめ面になる。
「馴れない人間にうろちょろされると仕事が増える」
「それじゃ、俺がここにいる理由がないじゃないか。……戻れってのか?」
険のこもった声で言うと紫龍が笑った。
「カミュ先生を放っといていいなら、ここにいてくれてもいいぞ」
細めだが男らしい眉、涼しい目元、強い意志力を示す唇がもの柔らかに動いて
独特の笑みを浮かび上げる。その笑顔ひとつで氷河の屈託は融け始めた。
「カミュはともかく、シュラやムウや一輝にいびり殺されたくないからここにいる」
氷河は素直に椅子に腰を下ろし、紫龍を見上げた。紫龍は肩をすくめて氷河に背を向け、
調理に専念し始めた。
無駄のない動きでてきぱきと手順をこなしていく紫龍は、戦いのときとはまた違う
魅力を見せている。
卵を割る。鍋を火にかける。野菜を小気味よい調子で切っていく。
まるで魔法のようにキッチンには良い匂いが立ち始めていた。
頬杖をついて紫龍に見とれていた氷河がぽつりと呟いた。
「新婚家庭って、こんな感じなのかなあ」
その瞬間、まな板を叩く包丁の軽快な音がリズムを乱し、リズムは乱れたまま
紫龍の小さな声で唐突に断ち切られた。
「氷河っ!」
包丁を置き、振り向きざまとんでもない発言の主に紫龍は詰め寄った。らしくもなく
慌てているのが妙におかしくて氷河はわけのわからぬまま顔をほころばせた。
だが左手の人差し指を見てそれは笑顔にならずに終わった。
「紫龍、血が!」
「おまえがわけのわからんことを言うから切ったんじゃないかっ」
珍しく顔を赤らめ当惑を隠しきれぬ紫龍に氷河もどうしたらいいかわからなくなり、
いきなり傷ついた方の手を掴むと人差し指を口に含んだ。その瞬間痛みに顔をしかめた紫龍
だったが、次には呆然として何も言えず、氷河の顔に目を向けるだけだった。
妙な間が訪れる。氷河も勢いでそうしたものの、この後どうするべきかわからなかった。
が、ずっとそうしているわけにもいかないので、口から指を出した。
「お、俺、こんなことで欲情したりしないからな」
「あたりまえだ、ばかっ」
紫龍は自由な右手で氷河の金色の頭を叩いた。常になくおたおたする紫龍がひどく愛しくて、
氷河はそれを避けようともせず、いま吐いた言葉とは裏腹に紫龍を引き寄せ、半ば強引に
口づけた。
紫龍の髪が氷河のジーンズをはいた腿をくすぐり、恋人たちの時は優しく過ぎていく。
火にかけた鍋のコトコトいう音が不思議に新鮮な彩りを添える。だが、そこまでで氷河は
自分自身にブレーキをかけた。
「傷の手当をしなきゃ」
唇を離し、囁く。体を張って戦いの修羅場をくぐり抜けてきた聖闘士からすれば
かすり傷にも入らない傷ではあるのだが。
「絆創膏を貼っておけば大丈夫だ」
紫龍は服のポケットから救急絆を取り出した。
「おまえのをつけ替えようと思って持ってたのが役に立ったな」
「貸してみろ。つけてやるから」
氷河はバンドエードを手に取るとその包装を破った。そして目の前の紫龍の指に
ほどよいきつさで巻きつけた。
「紫龍」
「ん?」
「俺、おまえに話さなきゃならないことがある」
あまりに真剣な表情に、紫龍の笑顔が曖昧なものへと変わった。
「俺がこのごろ変な訳……おまえにだけは話さなきゃ。おまえがカミュやムウやシュラに
ああ言ってくれたから。聞いてくれるか?」
氷河の決心に応え、紫龍は深く頷いた。
鍋の中では鶏の団子を落とした野菜スープが食欲をそそる匂いを漂わせていた。
紫龍と氷河が連れ立って部屋を出ていくと、一輝は軽く咳払いをした。
「……で、今日はまたどうして……」
立ち直りも早く、そこに集まっている一同を見渡して言った。ムウが笑った。
「実は氷河が事故死しましてね」
「え?」
聞き違いかと一輝が問い返す。するとシュラが後を受けた。
「それで俺とムウが教皇の名代として弔問にきたというわけなんだが」
弔問に来た人間がリボンまでついた派手な蘭の花束なんて持ってくるかなあ、と瞬は思ったが、
そのそばでは一輝が首をひねっている。どうやら頭の中で疑問符が果てしなく
細胞分裂を始めたようだ。
「あのね、兄さん、氷河が怪我をしたってのが聖域まで伝わっていくうちにだんだん
大げさになっちゃったんだよ」
一輝の様子を見かねて元凶の瞬が口を出す。むろん彼としてもここまでおおごとになるとは
思わなかったのだが。
「氷河が怪我したって……敵襲でもあったのか?」
戦闘本能を刺激され、一輝が目を輝かせた。
「んもう、人間だもの、バトルじゃなくたって怪我ぐらいするよ。実はね……」
「俺が蹴り開けたドアにあいつがぶつかったんだ」
それまで珍しくいるかいないのかわからないほどおとなしくしていた星矢が言った。もっとも
「おとなしくしていた」というよりも「出る幕がなかった」という方が当たっている。
「ドアにぶつかって……怪我……?」
信じられない、とばかりに一輝は瞠目し、ついで大声で笑い出した。
「そいつは聖闘士の風上におけないんじゃないか? サイテーだぜ、サイテー」
「……一輝、少し口を慎みなさい」
沙織にたしなめられ、渋々一輝は舌鋒を緩めた。
「ほんとうにこの十日間ぐらいの氷河の様子を見ていたら、兄さんだってそんな馬鹿笑い
できないよ」
「十日間……っていえば、一輝、おまえが出てったのもその辺だったよな、確か」
星矢の発言で全員の視線が一輝に集中する。柄にもなく彼はうろたえた。
「おっ、俺は何も知らないぞ。何で俺がっっ」
「十日前というと……」
沙織が記憶の糸をたぐり始めた。
「そうそう、箱根で財団関係者の親睦会があって……泊まりがけだからボディガードにふたり
ついてきてもらったわね。……確か一輝と氷河……」
「まさか、兄さん!」
沙織の言葉を強引に切って、瞬が叫んだ。
「兄さん、箱根で氷河と何か 」
「何かって何だ? あいつとじゃ話すこともないし、控え室で一緒にテレビを観たくらいで……
待てよ、そう言えば……うーん、でもまさかなあ……」
ひとりで納得したり打ち消したりしている一輝に全員が何事かと身を乗り出した。
「何なんです。もったいぶらずに教えて下さいませんか」
膨れ上がった関心を余裕の笑みで包み込みムウが訪ねた。
「一輝、わたくしは何を聞いても驚かないつもりです」
こんなところで見せてもしようのない威厳をまとって沙織が言う。
「兄さん、やっぱり……」
その後は恐ろしくてとても言えない、というように瞬は絶句した。
あまり芳しくない雰囲気にふと周囲を見まわして、一輝は話が完璧にあらぬ方に
向かっていることに気づいた。
まずい。これはどう考えてもまずい。黙っていたら強姦魔にでも仕立て上げられて
しまいそうな雲行きだ。
そんなわけで一輝は必死に十日前の記憶をまとめた。
「俺と氷河はパーティの後控えの間でテレビを観て、それから部屋に戻ったんだが……
そのときやつがドアの敷居に蹴つまずいたんで、いまのテレビを観て怖くなったのかって
笑った覚えがあるな、うん、そうだ、テレビだ」
「テレビぃ……?」
気抜けしたような声が一斉に上がる。
「ああ。ほら、冬場には珍しいが、よくある心霊ものだ」
「それで氷河が怖がったというの?」
沙織が鼻で笑った。
「一輝さー、いくらなんでもそれはないんじゃねーの?」
「だってぼくたち、幽霊より怖いかもしれない化け物みたいのと何度も戦ってるし、
実際に冥界まで行ってきたんだよっ」
「それに怖いからってどーしてドアと激突するのか、そこんとこがわかんねーよ」
年少組が声を上げると、冥界からの出戻り組も同調する。一輝はもどかしげに息をつき、
足を組みかえた。
「もちろん氷河は幽霊を怖がってるわけじゃなかったさ」
「ほう、それなら?」
「やつが怖いのは、自分自身だ」
意外な言葉に部屋の中はしばらく静まり返った。誰も彼も目を丸くして一輝を見ている。
彼は劇的な効果を上げる間合いをはかって口を開いた。
「ドッペルゲンガーっていうらしいが 」
「ああ!」
一輝の言葉をムウが遮った。
「わかりました。ドアを開けたときそこに自分自身が立っていて……という話でしょう?」
「確か目が合うと死ぬって言われてるな」
ミロがうんうんと頷きながら相づちを打つ。
「……それで……なの?」
沙織が丸くした目をもっと丸くして言った。さすがの瞬もびっくりしている。
「それって、よーく考えるとシチュエーションとしては怖いけど……でも……」
「でもほんとにそれだけって……ありかよ、そんなのっ……」
星矢がわめき、カミュが頭を抱え、ミロが笑っていても、とりあえず理由づけられるのは
その説明しかなかった。
「いいわ、確かめましょう」
沙織が立ち上がった。。その顔には使命感よりも、遊びを楽しむ子どものような表情が
浮かんでいた。