*   *   *


「……ドッペルゲンガー……って言ったよな」
 紫龍は当惑を隠しきれず氷河の真剣な青い目を見て言った。
「ああ」
「ドアを開けたときそこにいる自分と目が合ったら死ぬって」
 氷河は大きく頷いた。
「だからドアを開けるとき目をつむる……そういうわけか?」
 紫龍は氷河の肯定の動作を見てため息をついた。
「おまえなあ……そんなことじゃ自分の生き霊に会う前にドアに殺されるぞ」
「そうは言うが、紫龍、俺だって情けないと思ったから色々考えたんだ。 たとえばドアを開けるとき下を見ていたらどうかとか……」
「目をつむるより数段ましだと思うが?」
 紫龍が言って顔を覗き込むようにすると氷河は気まずそうに視線を逸らした。
「逃げるな。全部話すって言ったろ」
「いいじゃないか、もう」
「よくない」
 紫龍は笑いたくなる衝動を抑え真顔を作った。氷河の方から話したいと言ってきたのだから 何もかも包み隠さず話して欲しかった。しかしそれでも氷河は話し渋った。
「いいんだって。もうこの話はおしまいにする」
「そうか」
 怒ったような表情を作り、紫龍はくるりと氷河に背を向けて、ガスレンジの方へと戻った。 火にかけた鍋の中では鶏肉がぐつぐつと煮え、スープがおいしそうにできている。 彼は中断していた調理を無言で続行し始めた。
「なあ、紫龍……」
 返事をするつもりはなかった。
「紫龍……おい、紫龍……」
 氷河はじれたように言って立ち上がった。それでも紫龍は忙しく動きまわるだけで何の反応も しなかった。氷河が黙り込む。逡巡する様子が伝わってくる。そしてしばしの沈黙の後、 氷河が渋々口を開いた。
「……おまえ、きっと笑うぞ」
 紫龍の手が止まる。氷河は覚悟を決めたように話し出した。
「だから下を見ればいいかな、とは思ったんだが、俺の生き霊だから、下を見たときそこに 座り込んでいて下から覗き込まれるかもしれない。そうしたらどうしようって……思ったんだ」
 氷河が言いにくそうにすべてを言い切った時、紫龍は肩が小刻みに震えるのを止めることが できなかった。氷河の視線を感じ、まずいと思う。
「紫龍!」
 だが努力も虚しくそのまま紫龍はずるずると脱力してしゃがみこんだ。 肩の震えが不意に大きくなる。
 流し台の縁にのばした手が力なく落ち、抑えきれず声が漏れてしまった。
「紫龍、やっぱり……!」
「……ご……ごめん……でも、ちょっと……待っ……あはは……」
 爽快感さえ覚えながら紫龍は全身で笑った。そんなに底抜けに笑ったことは久しくなかった。
 目から涙がこぼれる。
 だが笑いながら紫龍は何となく幸せな気分になった。
 笑いの発作がひとしきり続き、やがてそれは断続的なものへと変わって、紫龍はまだときどき こみ上げてくる哄笑の予感に抗いながら、立ちつくす氷河を見上げた。
「氷河、おまえの考え方には大きな盲点があるぞ」
 くさりきって拗ねたような目を向けてくる氷河に紫龍は微笑みかけた。
「そういうことが本当にあるのだとしたら、経験する恐れがあるのはおまえだけじゃない ってことだ。俺だって……」
「おまえが?」
 氷河の表情が瞬時に変わり、気遣わしげな光をその覗き込んでくるセルリアンブルーの瞳に 浮かべた。
「そうだ。あるときもうひとりの俺を見て、そのまま逝ってしまうかもしれない」
 紫龍は立ち上がり、氷河の正面に立つと手を挙げ、彼の金髪をこめかみから指ですくようにした。
「死ぬのはしようがないが、この髪や目を見られなくなるのは寂しいかもしれないな」
「おまえが逝ったら俺はすぐに追っていくさ。……だから寂しい思いなんかさせない」
「女々しいな。女神の聖闘士の言うことじゃないぞ」
「女神なんかくそくらえ」
 微かに笑んで氷河は紫龍に軽く口づけた。
「罰あたりめ」
「いまごろわかったか」
 光線の加減で氷河の瞳が宝石のように澄んだ美しい色を見せた。その分紫龍の漆黒の瞳は 陰影を濃くし、暖かさを増す。
「なあ」
「なんだ、紫龍」
「どうせなら戦って死にたいよな。もっと欲を言えば、戦って生き抜きたい」
 紫龍はそう言って氷河の肩を叩いた。
「……だから、わけのわからないことで神経をとがらすな。命をすり減らすな」
 氷河が紫龍の背に腕をまわし、優しく抱き合う。
 スープのくつくつ煮え立つ音。
 食欲をそそる匂い。
 正体のない幻影に怯えるのも、そんなことと同じように生まれて初めて経験する平和の 副産物なのかもしれない。
「一輝がな……俺がドアのところで敷居につまずいたのを見て言ったんだ」
 氷河が耳元で囁いた。
「何て?」
「おまえが早死にしても心配することはないぞ、紫龍は俺が引き受ける……と」
「……勝手にやりとりしてくれて」
 紫龍は体を離して氷河を軽く睨んだ。
「おまえが死んでも俺は後を追ったりしないぞ。時間が経てばほかの誰かに目が向くかもしれない。 だから俺のことが気になるなら死ぬな。それからびくびくするのもなしだ。生き霊に出くわそうが 死霊にとり憑かれようが、臆病者のおまえに俺は興味はない。わかったか?」
「ん……」
 目を伏せて氷河が頷く。そして次に目を上げたときにはその透き通った青い瞳に ふっきったような色を浮かべていた。
「おまえに話して良かった。もう余計な心配はしない」
 視線を交差させて互いに微笑む。キッチンの中はすっかりふたりだけの世界になった。
 だが薔薇色の新婚図絵は突然のノックの音で儚くかき消えた。
「なんだ?」
「催促かな。一輝のやつ、食い意地が張ってるからな。それともふたりきりなのが癪に障って 邪魔しにきたのか……ったく、それならそれで早いとこ入ってくればいいのに」
 言いながら氷河はキッチンの出入り口へと向かった。紫龍はそのままレンジに向き直り、味見 をしようとして玉杓子と小皿を手にとった。少し前にスープと合流した冷やご飯がすっかり煮え、 立派に雑炊へと変身を遂げている。彼は玉杓子を鍋に突っ込み、雑炊をほんの少しすくい 上げようとした。
「うっわっっ」
 氷河の向かった方でいきなり妙な声が上がり、紫龍の手が止まる。ほとんど同時に何か重いもの が倒れるような音がした。
 声は氷河のものではなかった。むしろ複数の声がいりまじっているようだった。
 何ごとかと思い、火を止めて紫龍も出入り口の方に向かった。調理台の陰に金色のものが 見える。彼はそれに目を引きつけられたまま前へと進んでいった。視線をこころもち ずらすと手が見えた。ついいままで見ていたジーンズをはいた脚が見えた。
「氷河っ!」
 たまらず駆け寄った。
 氷河は調理台によりかかるように倒れていた。目をつむり、顔を横に向けている。紫龍は 彼の両肩を掴んで体を大きく揺すろうとした。揺すろうとして何か妙な雰囲気に背後を向き、 開け放たれたところに自分自身の姿を見たのだった。
 長い髪の死神は肩ごしに振り返り彼の方を見ていた。紫龍は金縛りにあったように 動けなくなった。
 氷河もこれを見たのか? それでは  
「紫龍ーっ、ごめーん!」
 不意に声が上から降ってきた。瞬だった。
 機械的に反応して見上げた紫龍の視界に彼の顔が飛び込んでくる。気がつくとその下には 星矢と沙織、そして上の方には一輝と黄金聖闘士たちの顔が見えた。
「なっ……」
 そこで初めて、紫龍は戸口に置かれた大きな姿見を認めた。
「何なんですか、これはっ!」
 姿見をすごすごと引っ込めて現れた女神と聖闘士たちに紫龍の声が飛んだ。誰も彼も、 ムウでさえ、悪戯の現場を押さえられた子どものような動揺を見せている。
「ごめーん、でもこんなに見事にひっかかると思わなかったんだよ」
 瞬が当惑したように言い足した。するとしばらく呆然としたまま何も言葉を発することの なかった面々が歯切れも悪く口を開く。
「首謀者はわたくしですけど、でも、まさか……」
「一輝にド……ド……」
「ドッペルゲンガーだ、星矢」
「そう、そのド……ってやつの話を聞いたからちょっと確かめてみたかっただけなんだよ〜」
「……それにしてもこうまともに倒れられると悪いことをしたような気になってきますね」
「じゅーぶん、悪いです」
 珍しく戦い以外の場で睨みをきかせ、紫龍は片手を倒れている氷河の背から腋へとまわし、 もう片方の手を両膝の下に差し入れて立ち上がった。もちろん氷河は紫龍に抱き上げられた 恰好になる。
「俺、こいつを部屋まで運んでいきますから」
 気圧されて何も言うことのできない面々の間を、紫龍が楽々氷河を抱えて歩いていく。 廊下の向こう端の階段のそばに、ただひとり悪戯に加わらなかったカミュが立っていた。 紫龍はその前に立つと少し遠慮するように笑んだ。
「あの……」
 紫龍が言葉を探しているとカミュはその美貌に満足そうな笑みをのせた。
「どうやらわたしの心配の種も消えそうだ。紫龍、そこの狸の聖闘士をよろしく頼むよ」
「あ……はい。……今日はどうも申し訳ありませんでした」
「いや。楽しかったよ。明日は帰るまで久々にしぼってやるつもりだから、 そう伝えておいてくれ」
「わかりました。よーく伝えておきます」
 紫龍はくすくすと笑いながら答えた。カミュと共犯者のような視線を交わす。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 会釈をしてカミュの脇を通り過ぎ、紫龍は自分たちの部屋のある二階へと階段を上がった。


「やっぱり紫龍って男なんだよねー」
 氷河を軽々と抱き階上へと消えた紫龍を見て瞬がため息まじりに言った。
「何言ってんだい、瞬。おまえだってその気になれば一輝を一本釣りできるじゃねーか」
 星矢が呆れたように口を出す。とたんに一本釣りした方とされた方が同時に顔から火を ふいた。
「違うってば、そーいうことじゃなくて!」
「氷河の方が能動的という先入観があるから、違和感がないと言ったら嘘になりますが、 紫龍が氷河を抱き上げてもそれほどおかしくもない、ということでしょう?」
 ムウが瞬の言葉を通訳した。するとシュラが紫龍の残像を追うような目をして後をついだ。
「それでも俺が氷河なら紫龍に腕に抱かれて退場……はしたくないな。逆のがいい」
「わたしだって」
「俺もだ」
 ムウと一輝が口をそろえる。
「こんなことで意見が一致しても何にもならん」
「まったくです」
 ムウが同意すると三人でため息をつく。だが豪華な顔ぶれによる「同病相憐れむの図」は 再び一輝の発する例の音で終止符を打った。気がつくとキッチンから良い匂いが漂ってきていた。
「なあ、中にうまそうな雑炊ができあがってるぞ。それもたっぷり」
 静かだったと思えば、いつの間にかキッチンへ入り込んでいたミロがのっそり戻ってきて 全員に告げる。
「あー、なんかまたお腹空いてきちゃった」
「そうね。せっかくだから、皆でいただきましょうか」
「賛成、賛成。腹が減っては喧嘩はできぬ、ってね」
「それを言うなら戦でしょ。ったく星矢ってば」
「いーだろー、そのくらい。似たようなもんじゃねーか」
 青銅の年少組が明るく盛り上げて、パーティの第二ラウンドは紫龍と氷河抜きで始まった。
 冬の夜はまだ長い。


 そして恋人たちの夜もこれからが本番だった。
「起きろ、狸」
 ロマンティックとはとても言い難い一言が紫龍の整った唇から飛び出す。
 ベッドに横たえられた氷河はゆっくりと瞼を上げると眩しそうに紫龍の顔を見上げた。
「ここは……天国か?」
「抜かせ」
 ベッドサイドに腰かけ、氷河の顔を覗き込んでいた紫龍が立ち上がろうとすると 氷河の手が手首を掴んで引きとめる。氷河は目を細めたまま続けた。
「だって天使がいる。俺の天使」
「寝ぼけるな。背中がむずがゆくなってきそうだ」
「ほら」
 氷河は鬼の首でもとったような顔をし、それから状態を起こした。
「やっぱり嬉しくないだろ、天使なんて言われても」
「う……」
 言葉に詰まった紫龍を見て、このところ主導権をとられ続けだった氷河が笑う。
「狸って言われるのもありがたくないけど……思い当たるふしがあるからしようがない」
 言ってから紫龍の服の襟元に手をのばす。すると紫龍はその手を止めた。氷河は負けずに 悪さを続行しようとした。
「先生たちを放っておいてこれは悪ふざけが過ぎるぞ」
「だって明日たっぷりしぼってもらえるんだろうから」
「それとこれとは筋が違うじゃ……」
 焦ったように声を高くした紫龍の唇をふさいで丹念に優しく深く口づけた。しばらくは 氷河の思い通りになるまいと身をよじっていた紫龍も、やがて抵抗を諦めて素直に応えていった。
「……こぶは引っ込んだから……いいだろう?」
 唇を離して囁く氷河の声に含まれているのは強気だけではなかった。そのごくわずかのためらいが 伝わってくるから紫龍も冷たく突っぱねることができない  たとえ氷河の思うつぼに はまってしまうことがわかっていても。
 そしていまの紫龍の沈黙を正しく理解して氷河は艶のある長い黒髪を指ですくようにし、 穏やかな口づけから愛の行為を始めた。
 一枚一枚身に着けたものを取り去り、ふたりはベッドの上へと倒れ込む。
 紫龍が目をつむって夜は深みを増した。


「あっ、雪だ」
 ダイニングで熱々の雑炊をすすっていた聖夜が声を上げる。
 つられて全員が格子の窓から外を見やると、丸く刈り込まれたつつじの植え込みの上に 雪がちらちらと舞い落ちてきていた。
「初雪ね」
「積もるかな」
「さあね」
 瞬は答えてにっこりと笑い、もう一度窓の外に視線を移した。


 静かで温かい雪は、軽く、軽く、はなびらのように、張りつめた冬の夜と彩って消えていった。




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