* * *
翌日、氷河の傷は見事に腫れがひいていた。
傷の治りの速いのは聖闘士の必須アビリティのようなものである。
しかし、肝心の気分の方もぺしゃんこになっていた。思いがけぬ遠来の客のためだ。
城戸邸の応接間はこのとき異様な空気に支配されていた。
親しい客をもてなすときに利用するこの部屋は深みのある色調のフローリング張りで、
かなり広く、簡単なパーティは開けるほどだった。二面に窓が配され、
特に出入り口と向かい合う面は大きな窓が連なり光をふんだんに採り入れている。
右手のいちばん奥に濃紺を基調にした更紗模様の布張りの応接椅子がおいてあるのだが、
妙な雰囲気はそこに陣取った人間たちから発しているのは明白だった。
「ミロ」
氷河の敬愛する師カミュが平坦な声で隣りのアームチェアに座っている
黄金聖闘士の名を呼んだ。
「氷河が危篤だというのはどういうことだ? わたしはおまえから聞いたような気がするが」
「あー、俺の口もそう言った記憶があるな」
豪奢な金髪をかき上げ、ミロはしれっとしてカミュの尖った視線を
やり過ごした。脇のスツールに珍しく神妙に腰かける氷河と目が合うと
懲りず微笑んで片目をつむる。
氷河は頭を抱えたくなった。
師のカミュに久しぶりに会えて素直に嬉しいと思う。
ミロもとりあえずいまのところはいい。それよりもこの状況だ。
部屋の雰囲気に動じるどころかかえって面白がっているような口調で
ミロが言うと、カミュはうんざりしたような顔をした。
そして声を低めて言った。
「……百歩譲っておまえの言うとおりだとしても、この顔ぶれは何なんだ」
「おや、それはまたずいぶんな言われようですね」
アームチェアの前のソファに腰かけた麗人がひそひそ声を聞きつけて
口をはさんだ。言葉が丁寧なだけ恐ろしいという評判のムウである。
「そうだぞ。俺たちは教皇の名代ということでやってきたんだからな」
ムウの隣りで山羊座のシュラが大真面目に言った。
「名代はひとりで十分だと言ったのですけど」
「それならムウ、ここは俺に任せておまえは帰れ」
正装の聖衣姿で両方ともつっこみまくる陰険漫才はかろうじて
千日戦争にならずに収まっている。ムウはシュラをその秀麗な目で睨むと、
いま耳にした相手の言葉は無視して口を開いた。
「青銅とはいえ功績の大きいキグナスが事故で死んだ、
と聞いてはサガも見過ごすわけにはいなかいということで……」
「わたしの弟子を勝手に殺さないでくれないか」
「ああ、申し訳ありません。ですけど、聖域ではもっぱら
そういうことになっているのですよ」
どうも脳震盪で気を失ったという事実から「意識不明」、
「危篤」と変化し、「結局だめだった」に至ったらしい。
そうした伝言ゲームそこのけの流言で黄金聖闘士がふたりも動き、
ましてそのふたりが紫龍に対して含むところのある人物であれば
氷河としても心中穏やかでない。
当事者でもあり紫龍の手を取って逃げるわけにもいかず、
氷河はひたすらおとなしく頭上を嵐が通り過ぎるのを待っている状態だった。
「ともあれ、女神の御許に伺ったからには拝謁の栄を賜らなければ、
聖域に戻るわけにもいきません。もう少しお邪魔させていただきますよ」
とムウが言った。
あいにく沙織は財団の仕事で夕刻まで帰ってこない。
とりあえず星矢が使い走りを買って出て知らせにいったが、
これはいち早く異変を察知してトンズラをこいた、という方が当たっている。
ともあれ、事情を知って沙織が仕事を早めに切り上げてくれれば
よいのだが、さて。
氷河は朝貼り替えたばかりの額の絆創膏に手をやった。
腫れはひいたが傷まで治ったわけではないから、と強引に紫龍に
くっつけられてしまったものだが、とにかくその目立つ傷のことから
「事故」の様子や原因まで追及されないよう、氷河はひたすら
普段の毒舌をしまい込み、貝になっていた。
なにしろ最近の彼の醜態 と自分でも思っている
には何が何でも暴かれたくない理由があるのだ。
そんな風に不毛に思い煩っていた氷河の耳にドアの開く音が届いた。
「すみませーん、お待たせしてしまって」
明るい声に地獄に仏と目を上げると、瞬がワゴンに茶器を乗せ、
押しながら入ってくるところだった。彼はセンターテーブルの脇まで
くるとワゴンを止め、順序よく茶をすすめた。なぜか、すこぶる機嫌が良い。
「紫龍はいただいたお花を花瓶に生けてますから」
にっこりとしてムウとシュラに言った。
「本当に、ぼくが電話で紛らわしい言い方しちゃったんで、
心配させてしまってごめんなさい」
今度はカミュとミロに向かって微笑む。そして最後に氷河に顔を
向けた瞬の目はチェシャ猫のように笑っていた。
そうか、おまえか。
氷河は心の中で呟いた。だが、いくら氷河が無鉄砲であっても
声に出して言うほど命知らずではない。瞬の恐ろしさはよくよく心得ている
つもりだった。それでも次の瞬の言葉に氷河は椅子から
ずり落ちんばかりに驚いた。
「でも氷河、大したことなくてよかったよね。まあね、聖闘士が
ドアに激突したぐらいでどうこうなるとも思ってなかったけどさ」
「瞬!」
四人の黄金聖闘士の唖然としたような視線が集中する。
瞬の声だけがやたら落ち着いて響いた。
「ほんとにこのごろの氷河ってドアや床と仲が良くて危ないったら
ないんです。カミュさんからも何とか言って下さいよ」
「氷河……」
名前を呼ばれてカミュがとりあえず己れを取り戻した。
「わたしはおまえをそんな粗忽者に育てた覚えはないぞ」
弟子が弟子なら師匠も師匠で、ちょっとはずれている。
「そうそう。粗忽なのはもともとだ」
「それとも平和ボケしたか……」
最初はミロ、後を受けたのはシュラであるが、珍しく氷河が
無抵抗なので攻撃はジャブ程度にとどまっている。
とにかく目をつむり、耳をふさいで頭を低くしていればいやなことも
いつか通り過ぎていくはずだ。なにしろ理由など自分が言わなければ
わかるわけがない。現にこうしておとなしくしているから
あのムウも何も言わないではないか。
と氷河は思い、何気なく目を上げムウを見た。そして彼に対してやましい
ことがあったわけではないのに、ムウも自分の方を見ていることに
気づいたとき、慌てて目を伏せた。これはまずい、とは思ったが、
もう遅かった。
「氷河……あなた、何を隠しているんです」
優しげな声が氷河の額の傷に突き刺さる。ぎくりとして
おそるおそる視線を再度上げると五人の目が彼に集中していた。
「べ、別に……」
「そうですか? 人に言えない何かがあって、それで
注意力が散漫になっていると、あなたの顔に書いてありますよ」
「ご冗談でしょう」
「ほう……そこまで言うなら体に聞きましょうか」
物騒な科白である。だが曲解しようにも、目と目を見交わす
ふたりの間に屈折した愛情が微かでも漂うことはなかった。
「なあ、拷問ならスカーレット・ニードルをアンタレスまで打ち込んで、
吐いたら真央点をつくというのはどうだ?」
ミロが無責任に言い立てた。
「それもいいが、サガを読んできて幻朧魔皇拳を打ってもらうって
手もあるぞ」
笑いながらシュラが言う。
カミュは顔色も変えずに瞬のいれたアッサム・ティーを口に運んだ。
もともと弟子には思いやり深い彼だが、氷河の一命が危ないと聞かされ
慌てて飛んできてみれば絆創膏一枚の傷で、一次はほっと胸を
なで下ろしたものの、そうしたことは最近よくあることで、しかも
氷河は理由を伏せている、と聞かされ少々おかんむりらしい。
「兄さんがいれば幻魔拳もてっとりばやいかもしれないけど……」
「聖闘士に二度同じ拳は通用しないぞ」
不意にドアの方から響いてきた深い声に氷河と彼をなぶって
楽しんでいた面々が注意を引きつけられた。
そこに氷河は今度は本当に助けの手を見た。
紫龍は薄紅色の蘭の花を挿した白磁の花瓶を抱え、部屋の中に立っていた。
そしてそれを部屋の壁の中ほどにあるアルコーヴに置くと、
応接椅子のところまでやってきた。
「それに、幻魔拳ではかけられた本人が悪夢に苦しむだけで、
第三者にその内容がわかるとは限らない。……そうだろ、瞬?」
「ああ、そうだったね。でも紫龍、いつからここにいたの。
ぼく、ぜーんぜん気がつかなかった」
「ちょっと前からだよ」
笑顔で言うと、黄金聖闘士たちひとりひとりに目を向け、挨拶をした。
ムウやシュラはもう氷河のことなど忘れたような顔になった。
「ずいぶん楽しそうだったから声をかけそびれてしまって」
紫龍の言葉に氷河は目を上げ、無言で抗議する。紫龍は微苦笑した。
「でもカミュ、それにミロ、ムウ、シュラも、氷河が最近変なのに
理由なんてありませんよ。氷河が俺にそう言ったのだから確かです」
紫龍はこの上なく穏やかで悠然とした笑みを浮かべ、黄金聖闘士たちを見た。
彼の闇色の瞳は夜の大気を運んでくるようで、冷涼でいながら
豊かであり、またどこか艶めかしかった。淡紫色の地味な前合わせの
中国服に身を包んでいてもときおり夜の香りが解き放たれ風に乗る。
その抑えとなっているのがどこまでも律儀でまっすぐな性格と、
それをそのまま反映する表情だったが、いま、その紫龍の
生真面目さが大きな力を発揮していた。部屋の中は徐々に緊張感が
ほぐれ、一同の妙な毒気は抜かれつつある。
瞬はため息をついた。
少し物足りなかったけど、ま、いいか。紫龍にああいう風に
言い切られると、もうそれで黒でも白に見えてきちゃうんだよね。
座ったまま顎に手をやり、瞬は紫龍を見上げた。
だが、逆に言えば最終的に紫龍が控えていると思うからこそ自分が氷河を
極限までつつくことができるのだということを、回転の速い瞬は
重々承知している。
ま、いいさ。ティーカップの仇は討ったし、氷河の秘密はわからなかった
けど潮時だもの。
いかにも幸せといった顔をして紫龍を見る氷河を視界におさめ、
瞬も少し優しい気分になった。
「カミュ、おまえの弟子は大した嫁さんをもらったものだな」
ミロはため息をつくと隣りのカミュにだけ伝わるよう思念波を送った。
「嫁さん?」
「ああ、嫁さんでも婿さんでもどうでもいいが、俺、シュラの気持ちが
わかってきたような気がする」
そして、向かいに座り紫龍に全神経を釘付けされた黒髪の男らしい
聖闘士をちらと見た。
「戦いで命のやりとりをしている最中に彼にこんな風に言われたら、
やっぱり究極信じるし、惚れるかもな……」
「ムウだって同じだろう? 聞いたか、じゃミールでのこと」
「手首スパッ……って、あれか?」
カミュが頷くと今度はふたり揃い、冷ややかで貴族めいた面立ちの聖闘士を
見た。その顔にはどこか寂しげな笑みが浮かんでいる。
「もったいをつけたらいきなり……じゃ、青天の霹靂、カルチャー・ショック
だったろうなあ。そいつは強烈だよな」
ミロは能天気な論評を続けたが、じきにカミュの応答がないことに
気づくと見事な赤毛の知己を訝しげに見た。カミュは少し笑って
相手の物問いたげな目に応えた。
「いや、わたしはふたりの仲に反対ではないのだが……」
「反対じゃないけど?」
「ああ、この紫龍がどうして氷河を選んだのかよくわからないんだ。どう
贔屓目に見てもシュラやムウより抜きんでているところがあるとも
思えんしな……」
カミュは戸惑ったように弟子を見やった。
「おまえなあ、そいつは贔屓目なんていうんじゃなくて、その逆だろが」
「え?」
「氷河も捨てたものじゃないぞ。もう少し長い目で見てやれ。紫龍の目が
高かったかどうかは正直まだわからないが……要するにあいつがいちばん
素直だったんだろうよ」
豊かな金髪に囲まれた顔が笑う。少々軽薄で単純なところはあるが、
それだけ割り切り方も見事なのが彼の身上だ。
「そうかな」
カミュが少し嬉しそうな顔をする。
「そうだ」
ミロが肯定する。
カミュの不機嫌の虫もどこかへ消え去ったようだった。
その後、沙織も星矢に連れられ早々に戻り、黄金聖闘士たちの
不意の訪問も何とか恰好がついた。そしてせっかくはるばる聖域から
やってきたのだから、と沙織にすすめられ夕食を供にし、
四人は城戸邸に一泊することになった。
冬の夜は速く深く暮れていく。
黒と見紛うほど暗い藍色に全天が染まるころには聖闘士たちの
女神を囲んだささやかな宴もたけなわを迎えようとしていた。
昼間は異様なムードに満ちていた部屋もいまは和やかな団欒の場と
なっている。窓には応接椅子と同じ模様のカーテンがかけられているが、
いまカーテンは開け放たれ、窓からは庭が見えた。ヨーロッパ風の
庭園はところどころ配置された常夜灯の中、温度差に曇ったガラスの
向こうに広がっている。外はだいぶ冷え込みが激しいようだ。
そしてその寒さに追い立てられるように、城戸の屋敷を都合の良いとき
だけねぐらにしている巨大な野良猫がふらりと舞い戻ってきた。
「あら、お客さまかしら」
遠く玄関の方でした人の気配に、沙織はカップを持つ手を途中で止めて
目を上げた。だが、それとほぼ同時に瞬が瞳を輝かせて腰を浮かせた。
「兄さんだ」
瞬の言葉を裏打ちするように、なじみの小宇宙がその部屋へと
近づいてくる。廊下は板張りだが、はいている靴のせいか、あまり
派手な音はしない。小宇宙の主はすぐに聖闘士たちの集まる場所を
察知したらしく、まっすぐやってくると勢いよくドアを開けた。
「おかえりー」
「おかえりなさい」
明るく迎える面々の中に見慣れぬ顔を認め、一輝は束の間面食らった
ような表情を見せた。いかつい体に自らの居場所を失ったような気詰まりな
色を漂わせたが、まもなくそれも消え、いつもの豪放さを取り戻すと、
片手を上げて応え、中に入ってきた。
どこへ行っていたのか、何をしてきたのか、そんなことを聞こうと
する者はいない。たぶんこうして気まぐれにでも戻ってくることが一輝の心の
表れなのだろうから、毎日帰ってくる人のように迎えるだけだ。
彼はずかずかと近寄ってくると、瞬が立ち上がって空けたスツールに
どっかと腰を下ろした。
「お邪魔していますよ」
上座からムウが声をかける。背も肘掛けもない椅子に座った一輝は当然
ふんぞりかえることもできず、片膝に肘をついて顎を乗せ、
ニヒルに微笑んだ。
「これはこれは黄金のお歴々がお揃いで……何か大きな仕事でも……」
ぐ っ。
自分ではどうにも抑えきれぬその音は場にいあわせた全員に聞こえるほど
大きく響いた。いくら体裁を取り繕おうと空きっ腹は正直である。
恰好づけの激しかったぶん彼は狼狽し、言葉を失った。
紫龍がムウとシュラの間から笑いをかみ殺しながら立ち上がった。
「俺、何か作ってくるから」
「あ、ぼくも手伝うよ」
瞬がドアへと向かう紫龍の後についていこうとして彼に止められた。
「おまえはここにいろ。久しぶりに一輝に会えたんだからな」
「えっ、でも悪いよ」
「いいから。任せろって」
「そうだ。おまえは座ってろ。紫龍の手伝いは俺がする」
にわかに無表情な声がかぶさってくる。ふたり驚いて声のした方を見ると、
氷河がソファのカミュの隣りを空けていた。彼は瞬の肩を掴むと強引にそこに
座らせた。瞬は目を白黒させたが、その斜め前のスツールの上の一輝は
あからさまに厭そうな顔をしている。一輝は氷河が紫龍の腕をとって
出ていこうとするのを見てどすの聞いた声を投げた。
「おい、ちょっと待て」
気色ばんだ声に引き止められ、紫龍と氷河は足を止めて振り返った。
「氷河、おまえの作ったものを俺に食わせる気か」
「俺の料理は食えないというのか」
むっとしたように氷河が返す。すると一輝は声を荒らげた。
「それじゃあ、おまえ、自分の作ったものが食えるか?」
言われて氷河はしばし考え込んだ。
「食えないことはないが、食いたくない」
やっと結論に達してそれを口にする。
「それなら……」
「大丈夫だ。俺は紫龍に言われたことしかやらない」
そう言うと問答無用の冷たい笑みを浮かべ、紫龍を促して応接間を後にした。