冬のよく晴れた週末の午後  
 城戸邸に電話のベルが鳴り響いた。
 ぱたぱたと軽やかな足音が近づいてくると華奢な手が受話器にのびる。
「はい、城戸です」
 聖闘士専用の電話を受けて答えたのは少年らしいが穏やかな声だった。 青銅の華と言われるアンドロメダの瞬である。
「はい……はい……ええ……」
 殊勝に受け答えする様子はなるほど評判通りだが、その食えない内面を知っている 者たちは「花は花でもトリカブト」などと囁きあっている。
「……あの、氷河はちょっと出会い頭の事故で意識不明で……でも命に別状はない みたいですから、ご心配なさらないよう……あっ……」
 少しの間瞬は「もしもし」と繰り返したが、相手の応答は得られなかったらしく、 受話器を耳から離してじっと見つめ、それからおもむろにフックに戻した。
「……まっ、しようがないよね」
 独り言を言って肩をすくめる。そのとき廊下のつきあたりの階段のところで 微かな足音がし、すぐに長髪の青年が姿を現した。れっきとした日本人であるのに 修行地にちなんだ中国服を身につけている。根が頑固だからなのか、 それとも服装に無頓着だからなのかはよくわからないのだが、 妙に律儀な性格であるのは万人の認めるところだった。 言うまでもなく龍星座の紫龍である。
 彼はこころもち関心の色を見せ、瞬と電話を見比べた。 その穏やかで端正な美貌は瞬とはまた違い「月夜の凪いだ海」と謳われているが、 とすると、手にした氷でいっぱいの洗面器はさしずめ「真っ昼間の南氷洋」という ところだろうか。
「電話、誰からだった?」
 瞬の前まできて足を止め紫龍は聞いた。
「ミロさんだよ。シベリアに遊びに行く途中なんだけど、 思いついたからご機嫌伺いだって」
「あの人らしいな」
 そう答えて短く笑うと、あとはもう紫龍は電話のことなど忘れたというような顔をした。
「……それより、あいつ、もう意識は戻ったか?」
 気遣わしげに言っていちばん奥の部屋を見る。ドアは開け放しになっていた。
「ぼくが部屋を出たときはまだ。電話が鳴ったから慌ててたし、 よく見なかったけど。……心配?」
 その部屋の方に歩き出した長身の青年と歩調を合わせ、顔を見上げるようにして 瞬は訊いた。問われた方は照れたような困ったような曖昧な笑みを浮かべると口を開いた。
「どうせ脳震盪だろ。まったく聖闘士のくせにざまあないな」
「心配なくせに」
 からかうような口調で決めつける。だが紫龍は何も言い返さず、 そのかわりに足を止め、それに気づき一歩遅れて歩くのをやめ振り返った瞬と 向かい合う形になった。
「星矢はどうしてる?」
「後始末だよ。ひとりでやってもらってる。別に喧嘩したわけじゃないけど、 両成敗ってことかな。星矢だって不注意だったんだから」
「手伝ってやってくれないか。かわいそうだし……だいいち星矢に任せておいたら どんな片づけをされるかわかったものじゃない」
 紫龍の言葉を黙って聞いていた瞬だったが、しばらく何も答えぬまま相手の顔を しげしげと見つめ、ついで大きく頷いた。
「はいはい。よぉーっくわかりました。邪魔者は退散しましょ」
「瞬っ!」
 洗面器で手をふさがれたまま狼狽する紫龍を後目に瞬は身軽にターンすると 階段の方に向かった。二、三歩行くと思い直したように振り返る。
「心おきなく介抱してやってね」
 だめを押されて苦笑するしかなく、紫龍は肩をすくめて瞬に背を向けた。
 その紫龍を見送るかっこうになった瞬は不意に妙な気分に襲われた。
 黒髪の流れる背は肩幅が広くしっかりとしていて男らしいのに、どうしてか、 紫龍は男にもてるのだ。それも色々な意味で紫龍より攻撃的な男たちに。
 そんな彼らの特別な関心ははたから見ているとよくわかるのだが、 当の本人が気づかない。冷静でどこか気高く超然とした面を持つ黄金聖闘士も、 やはり黄金聖衣で、剛毅さを示す瞳の奥に情熱をひそませた者も、 高圧的で皮肉屋の暗黒聖闘士も、紫龍に関しては長期戦を覚悟しているようだった。
 そして道理をわきまえた年長の求愛者たちが手をこまねいているうちに、 直情型の代表である瞬の兄の一輝すら出し抜いて横あいから紫龍をかっさらっていった 者がいた。それがいま、紫龍の向かう先にいる白鳥座の聖闘士、氷河である。
 しかし周囲の思惑はどうあれ、なるようになってしまえば似合いのふたりであることは確かだった。
 その氷河がこのところおかしい。
 おかしいのは初めからだろう、などという身も蓋もない冗談を誰も飛ばすことの できないほど、本当におかしかった。
 ドアにぶつかる。敷居に蹴つまずく。挙げ句の果てに人と正面衝突をする。
 戦いのときは小宇宙を燃やしているし聖衣に守られてもいるので衝撃ほどの ひどい傷は負わないのだが、こうして油断しきっているときの事故では聖闘士だとて 人並みに怪我をする。
 そしてこの日の午後の「突発事故」はとりわけひどいダメージを氷河に与えた。
 ことの発端は外出していた沙織お嬢がみやげに買ってきたケーキだった。 ちょうど三時になろうというところだったので皆でお茶にすることにした。 いつものように瞬と紫龍がキチネットで紅茶を煎れているところに 星矢が飛び込んできた。手伝うと言ってはりきる星矢に瞬がティーカップを 五客乗せたトレイを渡した。星矢はキチネットから出ると氷河と沙織の待つ居間に 向かった。居間のドアはこころもち開いていたので、両手のふさがっていた星矢は 思い切りドアを蹴り開けた  。そのドアの先に運悪くケーキの箱を 手にした氷河がいたのだった。
 当然、磨き込んだマホガニーのドアの襲撃をまともにくらった氷河は昏倒、 はずみで星矢の手からトレイが落ちて、あわれ瞬の気に入りのティーカップは砕け散った。 ケーキももちろん無事なはずがなかった。
 まったく、余計な仕事は増えるしケーキは食いはぐれるし、ついていない。
 紫龍が奥の部屋に消えたのを見届け、瞬もまわれ右をした。
 氷河が目を覚ましたら皮肉のひとつやふたつやみっつやよっつ、 言ってやろうと思っていたのだが、先刻の電話で気が変わった。
 ミロはシベリアに行くところだということだったし、 そうなると氷河の件はカミュにも伝わるだろう。たぶん弟子思いのカミュは日本に すっ飛んでくる。そのとき師を前に氷河がどんな顔をするのか  こいつは 見物だぞ。
 楽しい想像に相好を崩し、瞬はトリカブトの本性を垣間見せ、階段を降りた。


 一方紫龍は部屋へ入るとベッドサイドのテーブルに洗面器を置き静かにドアを閉めた。
 カーテンが引かれ、広い部屋の中は昼下がりとはいえ薄暗い。 それでもこの氷河の部屋を熟知している紫龍は少しも迷うことなくライティング ・デスクのところから椅子をもってくるとベッドのそばにつけた。 そしてその脇に立って氷河を見た。
 金髪に縁どられるようにして枕に頭を鎮めた彼は普段より幾分あどけなく見えた。 TPOをわきまえぬ言葉の飛び出る口が閉じられガラス玉のような目がふさがれていると、 氷河らしさは影をひそめる。まるで天使のようだな、と思い、紫龍はくすりと笑いを漏らした。 だがこの天使の頭上に光輪はなく、かわりに右目の上の生え際に絆創膏が貼ってある。 むろん、星矢とドアの連合軍にノックアウトされた不名誉きわまりない傷の応急処置の跡である。 流れた血はいまはすっかりきれいに拭われ、意外に小さかった切り傷はバンドエード一枚に収まりきった。
 紫龍は氷嚢に氷を詰めると先に瞬が用意しておいたタオルを手にし、 腫れる徴候を見せ始めた傷の上に乗せようとした。 紫龍の眉がぴくりと動いたのはそのときだった。
「うわっ!」
 紫龍の右手がすばやく動いて寝ている氷河の体から上掛けをはぎ、 左手に持った氷嚢を喉元に落とした。 意識を失っていたはずの氷河が声をあげ、飛び起きる。
「冷た……怪我人相手に乱暴だぞ、紫龍!」
「黙れ。狸寝入りが。凍気を操る聖闘士がいいざまだな」
 決めつけられ冷たい目で見下ろされて氷河はぐうの音も出ず、 ベッドの上に鎮座している氷嚢をきまり悪そうにつまみ上げた。 そしてナイトテーブルの上に乗った洗面器に気づくと氷の詰まった袋をその中に戻した。
「気づいたのは少し前だ。ずっと寝たふりをしていたわけじゃない」
 言って右手で紫龍の腕を掴むとベッドの端に座らせる。 紫龍は素直にそれに従ったが、そのまま腕を腰にまわされるのには 氷河の額をわざと絆創膏の上から小突くことで抵抗した。
「いててっ」
「こら、ごまかすな」
 傷を保護するように額に手を当てた氷河の耳に紫龍の声が飛び込む。 だが、むっとして顔を上げた氷河の目に映ったのは存外優しげな表情だった。 文句を言おうとして開きかけた口を閉じ、氷河はしばし相手の顔に見入った。
 紫龍は軽く首を傾げた。
「おまえ……寝顔はかわいいんだがな」
「かわいい……」
 絶句する氷河を前に紫龍が笑む。
「天使みたいに」
「なんだよ、それ。紫龍、おまえ、それで褒めてるつもりじゃないだろうな」
「褒め言葉に聞こえないか?」
 そう言って紫龍が小さな声で笑うと、氷河は苦虫を噛みつぶしたような顔になった。 それでも笑いの止まらぬ紫龍に氷河は目一杯不機嫌な表情で口を開いた。
「……もうおまえには寝顔を見られないようにする」
「ん?」
 愉快そうに顔を覗き込んでくる紫龍と目が合うと、 氷河はその肩を掴んで紫龍の体を思い切りベッドの上に押し倒した。 驚きに目を瞠った清逸な面が上掛けの海の中に沈み込み、 わずかに遅れて長い髪が追いつく。氷河はなおも力を緩めず、 のしかかるようにして紫龍を押さえつけ、唇を近づけた。
「おまえが音を上げるまで抱いて、抱いて、 余計なことなんか考えられないようにしてやる」
「……真剣勝負なら受けて立つぞ」
 瞬時に己れを取り戻し、紫龍が応じた。体の力を抜き、抗う素振りを見せず、 その怜悧でいて蠱惑的な、夜の闇のような瞳をまっすぐ氷河の双眸へと向ける。
「誘ってるのか」
「さあな」
 紫龍が目を細める。魔法にかかったように氷河は薄く開いた紫龍の唇に 己れの唇を重ねた。浅く、軽く、くりかえしじゃれるように  
 だが氷河が口づけを深くし、紫龍の服のボタンをはずそうとしたとき、 不意に紫龍の手が上がり金髪におおわれた氷河の後頭部を撫で、 ついでこぶしでごつんとたたいた。
「いっ……!」
 思わず呼吸を止めて氷河は顔を上げた。紫龍はすばやく彼の体の下から抜け出した。
「痛いじゃないか、紫龍!」
「こぶができてるぞ」
 泣かんばかりの顔で頭をさする氷河に紫龍は落ち着き払った声で言い放った。
そしてもう一度氷嚢を手に取るとタオルと一緒に氷河に突きつけた。
「今日はおとなしくしていろ。こぶがひっこんだら相手をしてやる」
 笑顔できっぱりと通告する。そうするともう氷河のつけこむ隙はなくなり、 彼は不承不承押しつけられたものを手に取った。
 紫龍はすぐにドアのところに向かい、そのまま廊下に出ようとしたが、 ふと思いついたようにベッドの方を振り返ると、情けない顔で視線を向けてくる 氷河を見た。
「なあ」
 深い声で呼びかけた。氷河が目で応える。
「おまえ、このごろおかしいぞ。危なっかしくて見ていられない。 何かあったなら言って欲しいんだが……俺には言えないことなのか?」
 寂しそうな声音に氷河ははっとしたような表情をその顔によぎらせ、 しばらく当惑の色を浮かべたが、やがて首を横に振った。
「別に……何もないさ」
「そうか。それならいい」
 紫龍は静かにそう答えると外に出ていった。取り残され、氷河は癇癪を 起こして枕を投げたが、落ちた枕を拾ってくれる人は誰もいなかったので、 すごすごとベッドから降り、枕を手にして再びベッドに上がった。
 惨めな気分で乱暴に横になると傷に響いてうめき声を洩らし、 もっと惨めな気分になった。


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