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 風呂から上がると、ほどなく食事の時間になった。
 季節の素材を使った懐石料理がどっしりと重みのある膳の上に並べられると、 器はあっという間に空になる。二人とも質より量の年頃だが、質が良くて量もあればそれに 越したことはない。量の方は、初めのうちに出してもらったお櫃一杯の飯で補い、 ほとんど邪道とも言えるような食いっぷりで献立の全てを食べ尽くした。 最後の水菓子まで腹に納めても少々腹具合が心許なかったので、そのことを給仕してくれた 接客係に告げると、さらに数皿の料理と焼きおにぎりが運ばれてきた。 体育会系の欠食児童二人には何よりも嬉しいサービスだった。
 そうしてやっと腹がくちくなり、膳が片づけられて隣の部屋に寝床の支度が整えられた頃には、 夜は濃密な匂いをはらむようになっていた。
 詰め込んだご馳走が違和感なく胃の中に落ち着くと、 三井にはそれから始まる長い夜のことが気にかかった。並べて敷かれた布団は、 先刻のことがあるだけに少し正視しにくかった。
 もちろん仙道も自分も人間が変わったわけではないのは納得済みのことだが、 体を重ねて結びついた目に見えぬ糸がある。その糸はある一定の距離で張りつめ、 決して切れることなく皮膚感を刺激する。いまも、安楽椅子のある板の間に場所を移して 常夜灯の明かりに浮かび上がる雪の庭を見ながら他愛のない話をしている最中に、 どうということのないきっかけで二人口をつぐんでしまった。それは会話のうちのちょっとした 間だったはずなのだが、緊張が微弱な電流のように走り、否応なく風呂場での行為を思い出させた。
 そういえば、と三井はふとしたことに気づいた。
 こいつ、ずいぶん場数踏んでたみたいだよな。
 少しも慌てず迷わず、試合中と同じように憎らしいほど自分自身をコントロールしていた。 余裕がなかったのは三井の方だ。
「なあ、仙道」
 三井は意識もせず、たいそうあっさりと艶っぽい静寂を破った。
「何です?」
 つんつるてんの浴衣から過剰にのぞく腕をテーブルにつき、仙道は答えた。
「夏に初めておまえと話したときな……」
「偶然ですね、オレもあの日のこと考えてたんですよ」
 にこりと笑うのがいかにも爽やかで、最前セックスした相手がこいつだなんて嘘みたいだと思う。
「……じゃなくてだな、おまえあのとき言っただろ、女の子にはあまり興味ないって」
「はあ、そうでしたっけね」
「確かに言ったぜ、好みのタイプとかあんまり考えたことないって」
 いまごろどうしてそんなことを鮮明に思い出すのかわからなかったが、暖房の効いた部屋の中で 三井はあの日のひどい蒸し暑さを感じていた。
「ちょっと覚えてないなあ。でも実際そうですけど、それが何か?」
 仙道は悪びれず認めたが、慌てて付け足した。
「……あっ、それって男しか興味がないってのとは違いますからね」
「男相手に立派に勃つやつの言うことかよ」
「……ひどい言い方だなあ」
 仙道は苦笑した。
「オレ、こんなに惚れたのは三井さんが初めてなんですよ」
「……にしちゃあ、馴れてたじゃねえか」
 上目遣いに見て決めつける。仙道は息をつき、頑是無い子供を見るような目を向けてきた。 そして、潔い色気のある唇が開いて、とんでもなく俗物的な言葉を生み落とした。
「そりゃあ、それなりの経験はしてきてますから」
「……興味ないのにか?」
「アプローチされれば反応はしますよ。オレもフツーの高校生ですからね」
 三井はまたも拳を握りしめた。
 てめえのどこがフツーの高校生なんだよ、と怒鳴りたいところをぐっとこらえる。
「……で、惚れたのはオレが初めてだって?」
 声の響きが妙に平坦だと自覚した。仙道は余裕の表情を崩さず、簡単に肯定の返事をした。 何のためらいも見せなかったことが、かえって嘘っぽいと思う。
「どうせ誰にでも言ってんだろ、そーゆうこと」
「そんな人間に見えますか?」
 テーブルの向こうから穏和な色の顔が近づいてくる。
「見える」
 そう答えると仙道はしばらく無言のまま目を向けてきただけだった。
 本音を吐けば、夏に本人の口から「バスケ以外興味がない」ということを聞いてから、 ずっとその言葉を信じてきたため、仙道が遊び人に見えると答えたのは本意ではない。 しかし現実が三井の思い込みを裏切っていた。
 やがて仙道は口角を上げると唇を開いた。
「そう見えるんじゃしかたないけど……違いますよ」
 いつもと同じ表情に抑え気味の口調。どこまでが本当でどこからが嘘かわからない。 体を重ねていたときには見えていたような気がするものも、そうして改まって面と向かうと 八方美人的な笑みの陰に消えて、それを見たことさえ疑わしくなってくる。
 仙道は肩をすくめた。
「ま、気持ちのないセックスが不実だってのなら、きっとずっと不実だったんでしょうけど」
 笑顔がかすかに翳る。
「でも、手当たり次第ってほどだらしないことしてるわけじゃないっすよ」
 仙道の口から出た言葉に少し心をくすぐられたが、曲がっているつむじはそうそう簡単に まっすぐになってはくれない。その上ちょっとした引っかかりがあれば、 素直な感情表現なんかできるわけがなかった。
「てめえの自己申告は信用できねえ」
 相手の言行不一致は巧みに抱かれた体がよくわかっているし、実際のところどうして 目の前にいる女好きのする二枚目が自分のことを好きだと言うのか、 抱かれておいていまさらだが、どうしても理解できない。
 オレが仙道だったら、オレみたいな男と寝たいなんて思わねえぞ、きっと。 だいたい野郎相手にするほど不自由してねえんだろうし。
 といってからかっている風でもないが、と首を傾げる三井の疑念を受けとめて、 仙道は片眉を上げた。
「なら、三井さんが判断して下さい。何でも話しますよ、オレは」
 相も変わらず底を読ませぬ表情で言う。
「どこから行きましょうか。順番通り最初の相手のことから……」
「終わったことなら聞きたくねえよ」
 露悪的な展開を三井は封じた。過去を全てほじくり返し、自分にとって無意味な発掘品を 検分するほどの熱はない。
「じゃあ何も話せなくなる」
「それでいいだろうが。てめえのケーハクな口は信用度ゼロなんだからよ」
「……ズイブンだな……」
 落胆を表す口振りだが、それでもどこか明朗で切迫感がない。それよりも目だ。 饒舌な唇より静穏な瞳の方が時に多くを語ることに三井は気づく。人の気を逸らす いつもの鉄面皮の陰に揺らめいた当惑の色は、言葉よりストレートに伝わってきた。
 こいつって、オレがそう思い込みたがってるほどスレたやつじゃない……ような気がする。
 なんだかまずい雲行きだと思った。
 仙道の誘いに乗ったのは行きがかり上流されただけで、その人間性に惹かれたり 特別な好意を持ったりしているからではないはずだった。だがその仙道が思いの外好ましい やつかもしれないと思うと、自信は大きくぐらつく。
 冗談じゃねえや。そんなことぐれえで嬉しがるなよ、大バカヤロウ!
 自分で考えたことに自分でつっこんで、三井はもうそれ以上深く考えるのはやめにした。
「とにかくな、過去が後ろぐらいのはお互いさまだし、てめえだってオレの話、 うだうだ聞いてんのはいやだろーが!」
「オレには後ろぐらいところなんかありませんよ」
「……」
 あまりにもあっけらかんと言われて三井は絶句した。頭の中は真っ白になって何も考えられない。 だが目は前にいる男を律儀に映している。彼の鉄壁の笑顔を映している。
「それに、三井さんのことなら何でも知っていたい」
 笑みをはいたままさらに押してくる仙道に、三井の頭は一瞬で火を噴いた。
「あーあー、そんならてめえのおキレイな過去を聞いてやらあ! おら、順番に話せ」
 下がり気味の眉の下で仙道の目が動いた。
「全部話してると時間かかるかも」
 子猫の前に毛糸玉を転がすように仙道は三井の短気を弄ぶ。それがわかっていて三井は まんまと挑発にのってしまうのだ。
「じゃあ、長続きしたのだけでいい」
「長続き……って、どれくらいのことを言うのかなあ。三ヶ月?半年? それとも……」
「……半年……にしとけ」
 まったくこいつは、と思いながら、肩を落として答えた。仙道は考えながら指を折ったが、 結局折ったのは親指一本だけだった。
「一人……だけ? 五ヶ月ぐらいのも入れたっていいんだぜ。……それでも一人か?」
「はあ」
 その一人というのは初めての相手で、中三の春から卒業するまで約一年続いたと言う。 高校に上がり神奈川にやってきて寮生活を始めたため、なしくずしに終わったと仙道はけろりと 吐いた。
「まあ、ひとまわりってんですか? 十二も年が離れてたし、オレの方が遊ばれてたみたいな もんですよ。もちろん嫌いじゃなかったですけどね。一番長続きしたのがそんな具合ですから、 あとのも似たようなもんです」
 過去の総括はそこで終わり、仙道は笑顔でとんでもない結論を導いた。
「だから、三井さんが初恋の相手ってことになりますね」
 ブチッと頭の中で何かが切れるのを感じ、三井は思わず仙道の顔に拳骨をお見舞いしていた。
「はっ、恥ずかしいこと、いけしゃあしゃあと抜かすんじゃねえっ!」
 いきり立って椅子から腰を浮かせたまま三井は声を荒げた。目の下で仙道が顔を押さえて うなっている。しばらくせわしい呼吸を繰り返しながら「ざまあみろ」とばかりに その痛がりようを見ていたが、冷静になるにつれ、少々力を入れすぎたか、 殴りどころが悪かったかと、不安が心の中にじわじわ広がってきた。
「……仙道……おい、仙道、大丈夫か?」
 うつむいた顔が力なく左右に動く。ことさら力を込めたつもりはなかったが、 ひょっとしたら歯の一本でも折れたのだろうか。
 急に罪悪感がどっしりと胸の真ん中に鎮座し、心が重くなった。
 歯の折れる痛みは身にしみてわかっている。痛みもそうだが、傷ついた口の中に広がるあの血の味。 思い出すたび背筋がむずむずしてくるような嫌悪感を覚える。
 瞬間的に彼は大きな身震いをした。ぞわりとうなじまで這いのぼる悪寒をそれで やり過ごすと三井は仙道の方にまわりこみ、怪我の具合を見ようとした。
 異変が起きたのはそのときだった。
 顔を起こそうとして前にまわした手を掴まれ、ほとんど同時にもう片方の腕が背中にまわってきた。 思わず体が硬直すると、仙道が顔を上げた。笑っている。
「心配してくれるんですね、嬉しいな」
「てめーっ!」
 三井は声を張り上げた。気がつけば仙道の腕にすでにがっちりと抱き留められているばかりか、 バランスを崩して敵の膝の上にちょんと腰をおろす羽目に陥っていた。
「だましやがったな、このヤローッ」
「だましたわけじゃありませんよ」
 身をよじりながらわめく三井に仙道は口調だけはやんわりと反論し、顔を近づけてきた。
「確かめて……三井さん」
 そのままキスに持ち込もうとする仙道の思惑に乗るまいと顔を背けたが、無防備になった 首筋を舐められてすくんだところをまんまと捕まった。入り込んでくる舌を なすすべもなく受け入れる。
「う……」
 混じり合う唾液に微かに血の味がしたような気がして、三井は眉をひそめた。 自由になった右手に意志の力を込め、仙道の顔を押しやってその唇から逃れた。
「いてて……。乱暴だなあ」
 左頬に手を当てて仙道はこぼした。よく見れば、殴った跡が赤味を帯びてきている。
「てめえが懲りねえからだっ」
 爪の垢ほどの罪悪感を打ち消すように大声を上げると、仙道は情けなさそうな顔をした。
「怪我人なんですよ、オレ。わかってもらえませんでした?」
「ふん、口ん中ちょっと切っただけだろうが」
「ちょっとじゃないですよ、痛いのなんのって……」
「ならキスなんかすんな!」
 投げ返した言葉の勢いで仙道の膝の上から立ち上がろうとしたが、それは強い力で阻止される。 彼は驚いたように二、三度瞬きし、それから声を立てて笑った。笑った後で顔をしかめ、 頬をかばうように手を当てたところをみると、やはり痛むのかと思う。
「じゃ、かすり傷って認めますから、もう一度していいですか?」
 自然にため息が漏れた。
「わざわざそんなこと聞くなよ」
 どんな場合でもすんなりことの運ぶタイミングというものがある。本人の自覚はどうあれ、 さんざん遊んできて妙に老練なのに、どうも目の前の男はそこらへんに疎い。
 出方によっちゃ乗ってやるかもしんねえのに。
 なぜなら仙道の腕は背中から腰に移ってもまだ三井の体から離れてはいなかったし、 互いの顔は至近距離にある。どうにでも料理して下さいと言わんばかりだ。
 それがわかっていて三井は体を引かなかった。
 ひとたび滑り出せばキスぐらいで収まるはずはないだろう。だが、こんな不毛のやりとりを 続けているより、いっそのこと体を重ねた方が仙道という男はわかりやすい、とも思う。 何にしろためらう一線はもうとっくに越えているのだ。
 そして三井がゆっくり瞬きをした絶妙のタイミングで仙道は顔を寄せてきた。
 唇だけのキス。初めての少女にするような、軽い軽い綿毛を弄ぶような戯れ。 それまで経験したことのなかった壊れ物扱いされているような優しい感触に戸惑いが芽吹くころ、 仙道は唇を離した。
「三井さん、いい?」  浴衣の襟に手をかけて尋ね、仙道は二組並べられた布団を横目で見る。 三井は急に頬が熱くなるのを感じた。
「聞くなっつってるだろ!」
 ここまできて拒否しないのは同意のしるし。いくら仙道が朴念仁の抜け作でもそれくらいの 符丁はわかるだろう。
 一度やっちまったものはしようがねえよな、と三井は腹を据えた。


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