* * *
自ら一歩踏み出してみたものの三井の心の底には拭い切れない不安が巣くっていた。
あのささくれだった精神を抱えて過ごした出口の見えない日々。そのとき覚えた
嫌悪感と裏腹の快楽。バスケットを忘れるために目をつむり、少しも渇きを癒さぬ行為に
耽溺してきた。
しかし自分の弱さを認めて戻ってきた以上、もう必要のないことだと思っていた。
それがバスケットボールの象徴のような存在の仙道と結びつくとは。
バスケットは三井にとって聖域だった。誰も侵すことのできぬ、汚れとは無縁の世界だった。
仙道と寝てしまったらその世界はどう変容するのだろうか。過去の、夜の匂いを持ち込んで
暗転するのではないか。
心の多くを占める楽天的な部分が大丈夫と判断して仙道を受け入れたのだが、
情けないことに完全な自信はなかった。
いま、内風呂の洗い場に三井は横になっている。さすがに雪空の下全裸で行為に及ぶのは
はばかられ撤退してきたものの、部屋の中に戻るのは三井が頑強に拒んでいた。
畳の上に痕跡の残るような真似はしたくなかったのだ。代わりに選んだ風呂の木の床は、
組み伏せられる身にとっては決して優しくはなく、堅い感触がセックスへの没入を妨げた。
初めて体を重ねる仙道の愛撫は手探りでもどかしく、板敷きの上の心地悪さと相まって三井を
優位に立たせた。我を失うことがなさそうなのは気が楽だった。
誰がこんなでけえだけのやつの思うつぼにはまるもんか。オレの相手をしようなんざ、
百年はええんだよ。
心の中で啖呵を切ったその刹那、思いがけない感覚が脇を走り、三井の体は小さく跳ねた。
しまったと思ったときは遅かった。
「敏感ですね」
仙道の声が耳元でした。
「……よた飛ばしてんじゃねえよ……くすぐってえだけだ……」
「そうですか?」
笑いを飲み込むような音の後、喉元を強く吸い上げられた。
「ば……痕が残るようなこたあ、すんじゃねえっ!」
「冬だから大丈夫でしょう?」
「家の中でもマフラーがとれなくなる……親にバレたら責任とってくれんのか?」
「……寿さんをお嫁さんに下さい……って土下座でもしましょうかね?」
「……バカヤロウ」
完全な優位はもろくも崩れ、三井は顔を背けて目を閉じた。往生際悪く文句をつけても、
判断基準の違う人間には結局何を言っても無駄だ、ということを確認することにしかならない。
「三井さん?」
心配げな声が降ってくる。返事などする気にならなかった。
「……怒ったんですか、三井さん?」
頬に手を添えて横に向けた顔を元の位置に戻そうとする。三井が薄く目を開けると、
試合中のような真剣な表情が飛び込んでき、胸がどきんとしてそのまま瞼を閉じるのを
忘れてしまった。
仙道が男前であることはとっくの昔にわかっているつもりだったが、
いつもはそれを意識していなかった。しかしトレードマークの柔和な表情が消えたいま、
改めてその事実に思い当たる。凛々しさを表す眉、高潔さと背中合わせの男らしい艶を放つ唇。
そして優しい色ののる瞳は、視線をじっと注いできた。その熱を感じた瞬間から三井の
胸の中に羞恥心に似たものが猛然と頭をもたげ始めた。彼は衝き動かされるように上体を
起こそうとした。それは仙道の力強い腕に押さえつけられ阻止されたが、
口が開くのは止められなかった。
「あんまりうだうだ言ってっと、やめにすっぞ!」
顔に血が上るのがわかった。鉄男との即物的な関係の方がよほど気楽だった。
仙道は困ったような顔をしたが、手の力は緩まなかった。
「やるならさっさとやりやがれ、こんちくしょうっ」
「三井さん、無理強いしてるような気になっちゃいますよ」
「まだるっこしいんだよ、てめえはよっ」
情緒不安定でわめく三井の口を仙道の手が塞いだ。最も有効な抗議手段を封じられ、
自由になった腕をつっぱったが、仙道の動きは止められない。彼は再び唇を近づけてくると、
囁いた。
「……もっと色っぽいこと言って下さい」
さるぐつわの役割をしていた手を離すと、すかさず唇を重ねた。なだめるようなキスだった。
それとともに手の方もなめらかに動き、緊張した三井の体をほぐし始めた。
最初の頃と違い、仙道の指は的確にポイントをついてきた。どうやら微かな反応も
観察されていたらしいと気づき、三井のプライドは大きく揺れ動いた。しかしそれとは
全く別のベクトルで、体は仙道を受け入れる態勢に向かいつつある。きつく目を閉じて
過去の交わりの残像の中に逃げ込もうとしても、横たわっているのはスプリングの壊れた
あの少しかび臭いパイプベッドではなかったし、周りをとりまく空気も機械油の匂いの漂う
安アパートの空気とは違っていて、どうにもうまくいかない。おちゃらけたセリフのひとつも
吐くわけではないのに、仙道は己れの存在を強く訴えかけ、三井を追いつめた。
やがて長いキスから解放される。その頃には自己嫌悪と疲労感から、再度抵抗しようという
気持ちは起きなかった。
仙道の唇は首筋や鎖骨のあたりを遊び、手は胸から下腹へと移動した。風呂場の中には
二人の息づかいの音しか聞こえず、ときおり仙道のもたらす不意打ちのような感覚に三井が
くぐもった声を漏らすだけだった。
すぐに長い指が股間に滑り込む。一番敏感なそこへの刺激は、三井の心の葛藤を断つ、
絶好の麻薬となった。
快楽は生理的に三井を侵し、久しく他人と肌を交えることのなかった体は幾分かの怯えを
伴って高みへと向かう。仙道の指の細やかな動きに全身の神経が絡めとられ引き上げられ、
一度頂点に達したが、荒い息を整える間もなく、今度は後ろを馴らされる。
それは彼にとっていつでも違和感を呼び起こす行為で、逃げる気持ちを諦念が追い越したところで
折り合いをつけているようなものだった。
そして過去をなぞって仙道は三井の心の変化に聡く気づき、割った両脚を抱えた。
一点に圧迫感を覚える。
その次の瞬間、無言の問いかけがあった。ごくわずかだが、仙道はためらったようだった。
額から髪に手を滑らせてきたので顔を背けた。
らしくねえフリすんじゃねえよ。どうせいまさらやめらんねえだろ?
心の中で吐き捨てて、不要な力を抜いた。それに応え、仙道が動く。破られる苦痛に
一瞬息が止まった。
また初めから体験し直しているようだと思った。だが痛みにすくんでしがみつこうにも、
掴むシーツも服もなく、指先は木の床をむなしく掻いて、やがて仙道の手にたどり着いた
。夢中で手首を掴み、皮膚の下の骨の感触に安堵する。凶器はその後に最後まで進み入ってきた。
思わず低い苦鳴が漏れ、声とともに幾ばくかの恐怖と不安も排出された。
過去の幻影も同時に薄らいでいく
「大丈夫ですか」
仙道の声が聞こえた。普段通りの調子の、それでも多少語尾の乱れた声。それを耳にしたとき、
手首を掴んだときと同じように妙に心が落ち着いた。いつも抱かれる度に感じていたはずの、
八方ふさがりの息苦しさはなかった。
「……余計な心配、すんじゃねえよ……」
だから憎まれ口が飛び出した。
「……つっこんだら早く動きやがれっ」
思い切り悪態をついて瞼を上げれば、そこに仙道の見開いた目があった。
その目が次の瞬間笑いを含み、それは軽い発作になって彼を襲った。
「三井さん……」
喉の奥で笑いを押しつぶし、仙道は言った。
「……あんまりムードのないこと言わないで下さいよ……萎えちゃいます」
言葉とは裏腹に仙道の欲望は変わらず内部で存在を主張していたが、情けなさそうな口調に
三井にも笑いの発作が伝染した。彼は小さく吹き出した。
「三井さん……三井さんてば」
くすくすと笑い続けるのを見かねたのか、仙道が三井の頬に手を添える。
それでも笑いが止まらないと、今度は片手で腰を固定して、おもむろに突き上げてきた。
「……あ……!」
笑い声とは明らかに違う声が、たやすくこぼれ出た。抑えようと思う間もなかった。
つながっている部分から背筋を通って悪寒に似たものが頭の先まで走り抜ける。
「てめ……っ」
油断させやがって。そう続けるつもりが、さらなる動きに言葉は意味のない呻きに変わり、
宙に解き放たれた。漏れる声はどこまでも甘くなっていきそうで、思わず腕を上げて口を塞いだ。
痛みは全くないわけではなかった。だが仙道の抽送のもたらす感覚の方が圧倒的で
痛みは気にもならず、かえって遠のきそうになる意識を思い出したようにつなぎ止めてくれるのが
ありがたかった。手放しで快楽に溺れるのは怖かった。
三井の恐れを察したのか、仙道の動きがいったん止まった。期せず与えられた休息に
緊張を解いたとき、口元を覆っていた腕が引きはがされた。目を開け非難を込めて睨むと、
ひどく熱っぽい視線が返ってきた。いつもの人を食ったような笑みはなかった。
いつからそんな目で見られるようになっていたのだろう。初めてのような気はしないから、
ずっと気づかなかっただけなのかもしれない。
三井は両腕を仙道の背にまわした。
マジなツラすんなよ。……お手上げじゃねえか。
背からうなじへと腕を滑らせ、仙道の顔を引き寄せる。誘ったわけではない。
それ以上熱い視線に晒されていると気持ちが過熱しそうで、とてもそのままでは
いられなかったのだ。そして仙道は三井の「誘い」にのってきた。
一度唇を合わせ、最後の頂点へと向かう。きつい坂路を越えて解放された瞬間、
三井の心を満たしたのは、確かに鮮やかなカタルシスだった。
意識はなくさなかったと思う。
仙道が体を離して名前を呼んできたのはわかったが目をつむって顔を背けたまま無視した。
もっとも荒い呼吸は隠しようもなく、重ねて声をかけられるのに「るせえ」と一言返した。
すると仙道は小さく笑い、立ち上がったようだった。すぐに脱衣室のドアの開閉する音が続く。
三井は目を開けた。視線の先には風呂場の天井があった。
しばらくそのままでいたが、息が整うにつれ熱は失われ、すぐに頭の中は冷静を通り越して
極地並みに冷たくなった。
とんでもねえ……。
身を起こすと覚えのある疼痛が下半身を走り、生々しい記憶を呼び起こした。
どんな風に篭絡され、どんな顔を見せたのか。
考えれば考えるほど、バカなことをしたものだと自分を罵りたくなる。
しかしそれよりも何よりも、乗り越えなければならない目先の問題は別なところにあった。
改めて仙道と顔を合わせたとき、どんな態度をとればいいのか。初めて男と寝た
あの十六の秋の夜のように泣くのも忘れて呆然とするほどカワイクはないし、うぶでもない。
といって、悲しいことに、大人の対処もできそうになかった。
実際、体だけのつきあいだって楽しめればいいと割り切れるほどすれていない自分にも驚いたが、
仙道との恋愛というのももうひとつぴんとこないものがある。中途半端な気持ちのまま
流されて関係を持ってしまった己れの軽率さにいまさらながらに嫌気がさした。
そうして自己嫌悪にどっぷり浸り込んだ瞬間、脱衣室に通じるドアが再び開いた。
思わず顔を上げて、入ってきた相手と目を合わせてしまう。
「起きて大丈夫ですか、三井さん」
仙道はバスタオルを無造作にひっかけただけの恰好だった。顔を見るのに戸惑いがあり、
さりとて抱かれたばかりの身としては下の方にも目のやり場がなく、三井は彼の胸のあたりに
視線を釘付けにして曖昧に頷いた。
「なら、風呂入りましょう、風呂」
そう言って無邪気に笑う。露天風呂でその気になって、内風呂でやらかして、
なおかつまた風呂に誘うこの男の神経はいったいどうなっているのだろう。
三井は眉間に皺を寄せた。
「ここの温泉、切り傷や疲労回復にもいいらしいですよ」
その一言で南極状態の気分は一気に熱帯へと変わった。
「何が切り傷に疲労だっ、おい!」
あまりにもあからさまで頭がくらくらした。
「誰のせいでこんなっ……」
逆上して言葉のつぶてを投げると、仙道の端正な顔が近づいてきた。
「オレのせいです。だから……」
ふわりとバスタオルがかぶせられる。仙道が肩からかけていたタオルだ。
「無理しないで頼って下さい。……オレもその方が嬉しい」
パイル地の肌触りとともにさらりと甘い言葉が降ってくる。すぐに軽い抱擁が続き、
荒くなった気持ちもすっと収まってソフトなその感触が心地よいなどと不覚にも思ってしまった。
このまま迫られたら言いなりになっちまうかもな。
そんなことを考える自分が信じられなくて苦笑いを浮かべる。顔にかかったタオルが
ありがたかった。
しかし再び洗い場に押し倒されることはなかった。
仙道は腕を解き、体を離した。無意識にその広い胸を顔ごと追った。
「安心していいですよ、無茶はしませんから」
目を細めて言う。
「……風呂、外にしますか、それとも中?」
唐突な問いかけに三井は面食らった。それでも当惑を抱えたまま適当に「中でいい」と答えた。
すでに外は暗くなっているし、このまま雪の中に出ていけば寒さが身にこたえそうだった。
「それじゃあ、オレは外に行きます」
「え?」
あまりの意外さに素直に疑問が口をついたが、敵は穏和な笑顔を崩さなかった。
「だってまた一緒に風呂なんか入ったりしたら、いくら理性的なオレでも自信ないっすよ」
三井は頭を抱えたくなった。波長のズレはとことん変わらない。事前も事後も、
仙道彰は常に仙道彰で……。
あれ?
考えの途中で首をひねる。
寝たら何か変わんのか? オレの寝たのがこの仙道だってのは最初からわかっていたはずだ。
もちろんその彼に「天才」、「陵南のエース」、「次の神奈川ナンバーワン・プレーヤー」
という形容がつくこともわかっている。だが仙道は仙道だし、オレはオレだ。
なんだ、当たり前じゃねえか。
新たに視界が開けたような気がした。思い込みのフィルターがはずれると、
鳴りをひそめていた普段の自分が表面に躍り出た。
「だーれが理性的だ、誰が。てめえのは『理』抜きだろうが。十分本能に忠実なくせして
何抜かしやがる」
三井の切り返しに仙道は瞠目したが、すぐに笑い出した。
「いーなー、三井さん、好きだなあ、ほんと、そういうとこ」
「茶化すなよ」
「本気ですよ。それはいずれわかって下さいね」
仙道はそこで目を落とした。その先に、いつの間に握りしめていたのか三井自身の拳があった。
「さあて、殴られないうちに一風呂浴びに行って来ます。三井さんもごゆっくり」
そうして羞恥心のかけらも見せぬ男は、湯気で曇ったガラス戸を開けて外へ出ていった。
後に残された三井はしばらくそのままでいたが、やっと風呂に入る気になり
、頭からかかったままのバスタオルを脱衣室に戻して体を洗い始めた。
ダメージはそれほどひどくはなかったものの、傷口には湯がしみた。しかしそれも浴槽に
身を沈めて少しすれば馴れた。
ちょうど良い温度の温泉で十分リラックスして暖まり、三井は風呂から上がった。
自分ではずいぶん長く入っていたつもりだったが、仙道の方が長湯だった。
彼が戻ってきたのは三井がしっかり浴衣と丹前を着込んで茶をすすり始めた頃だった。