* * *

「いてえ……」
 三井が呻いて薄く目を開けたのを確かめて仙道は安堵の息を漏らした。
 風呂の中でいきなり目をまわしてぐったりとしてしまった三井を抱き上げて外に出し、 平らな岩の床に寝かせて軽く頬を手のひらで三度打ったところだった。
 三井が倒れたのは試合中にも見ているが、本当に口が悪い割にデリケートな体力をしている。 もっともこの日の場合、仙道よりずいぶん前から湯につかっていたから、 のぼせてしまってもしようがないか、とも思うが。
「あ、痛かったですか。そんなに力を入れたつもりはないんですが」
 相手の頬を打った手のひら、というより指の腹を思わず見て仙道は言った。三井は顔をしかめた。
「……背中がいてーんだよ……」
 渋面を変えず体を起こそうとする。そのときダウンした体におおい被さるようにして 視線をおろしていた仙道と目が合い、当惑の色を浮かべた。数秒後、意識を失う前の 一部始終を思い出したらしく、そのまま固まってしまった。
「思い出してくれたんですね? 夢じゃありませんよ、オレがしたこと。 ……好きなのは三井さんだってわかってくれました?」
 仙道は三井に引導を渡すつもりで言った。いま、とてつもなく無慈悲な笑みが自分の顔に 浮かんでいることだろう。だが動き出した野生は止まらない。
「必ずうまくいくようにしてやる、って言いましたよね」
 まずは退路を断った。三井は戸惑ったように視線を揺らしたが、 すぐにきつい目で睨み返してきた。
「できることは何でもやるって……」
 仙道は三井の顔に顔を近づけた。頑なな唇をもう一度味わうつもりだった。 だが、あと十センチほどのところになったとき、突然三井の手が動いて仙道の顎にのびると 思い切り押し返してきた。勢いに押されて頭がのけぞる。
「……!」
 予期せぬ反撃をまともに食らい、仙道は呻きともつかぬ声を漏らした。 二人の唇を隔てる距離は三井の前腕の長さにまで開いていた。
「……油断してました」
 顎の下の手首を仙道は掴んだ。
 最終的に三井が断固として拒否すれば、退く気だった。弱みには徹底的につけ込むつもりだが、 無理強いは性に合わない。だが実際に抵抗されてみると、目の前の隙だらけの獲物に 爪を立てたいという欲求はますます強くなり、撤退する自信がもてなくなった。
 三井の手首を掴む手に思わず力を込めたが、彼は動じる気配もなく、やがて口を開いた。
「聞いておきたいことがある」
 これまでのつきあいで見たことのない憮然とした表情だった。
「……おまえにとってオレのバスケなんて、どうでもいいことだったのか?」
「え?」
 意外な言葉に耳を疑った。三井のその言葉は、頭の中でいくら反芻しても意味がわからなかった。 挑戦的な目に答えを促されても、返事は形をなさない。しばらく沈黙が続いたが、 やがて三井の方がきまり悪そうに目を逸らし、それから沈黙を破った。
「……オレはおまえのバスケが好きだし、あんな風にできたらいいと思ったよ。 そのおまえとバスケの話ができるのは嬉しかったし……。でもおまえは本当はオレを こういう目でしか見てなかったんだな?」
 背けたままの三井の瞳の中に炎が閃いた。たぶん仙道に向けられた怒りの炎だろう。
「いいぜ。やれよ」
 目の中に現れた熱い感情は急速に鎮まり、姿を消す。三井は自嘲するように笑うと吐き捨てた。
「どうせ初めてじゃねえんだ。減るもんじゃなし、思い通りになってやるぜ」
 仙道の顎を押しやっていた手が力を失った。
 手の内に落ちた念願の獲物を前に、仙道はしばし声をなくした。
 三井が欲しいのはごまかしようのない事実だが、体だけが目当てなのではない。 プライドの高い三井のことだから、このまま抱いたりしたらもう二度と振り向いてもらえないだろう。
 ままならない恋愛に彼はため息をついた。
 三井のことで初めて心に刻んだのは、あの美しいシュート・フォームだった。 それから自分とはまた違う比類ないバスケット・センス。宮城という切れのいいポイント・ ガードと二枚の強力なフォワードが揃っているため、シューティング・ガードという 地味なポジションをこなしてはいるが、周囲をのせる派手の雰囲気のせいか、妙に目を引かれた。
「オレには三井さんとバスケは切り離せないですよ」
 掴んだ手を三井の裸の胸までおろして解放した。
「初めは三井さんのバスケに惚れたんですから」
 三井が目をみはり、仙道と視線を合わせた。仙道は自分の口元に自然に笑みが浮かぶのを感じた。
「でも、いま三井さんがバスケットを捨てても、オレは三井さんのことが好きです」
 そうだ。バスケだけに惚れたのなら、こんなに近づく必要はなかったのだ。
「……一対一の相手になってもらえませんか?」
 明らかな動揺を見せる顔から目を逸らさずに言った。三井の瞳に映る自分の顔が、 ずっと心の奥にまでしみ透っていけばいいのに、と思いながら。
「仙道……」
 やっとのことで三井は口を開いた。気が強く、情にもろい唇。 その唇から自分の名前が発せられただけで、仙道は舞い上がりそうになる。 追いかける立場は本当に初めてだった。
「おまえ、それってホモって言うんだぞ。本気か?」
 色気のない言葉に仙道は苦笑いした。しかつめらしい表情がなおさら場違いでおかしい。
「三井さんて、結構体面を気にするんですね」
「……いけねえか?」
 三井の面に屈辱感はもはやなかった。ただ心底困っているようだった。
「オレは別に構いませんよ?」
「オレは構う」
「どうして?」
「だって、変じゃねえか。遊びならともかく、男同士なんて絶対に変だ」
 またきつい目で睨むが、迫力のないこと甚だしい。
「……可愛い女の子を好きになって、わがまま聞いてやったり守ってやったり…… そういうのが普通の……」
「別に普通じゃなくてもいいです」
「オレは守られたくなんかねえぞ!」
「オレも守るつもりはありませんけど?」
「うー……」
 三井は呻いて言葉を失ってしまった。八方手詰まりになって身動きがとれなくなったらしい。 バスケと違い、直球真っ向勝負の性格は損をすることもずいぶん多いだろう。 それを承知していて敢えてそう仕掛ける自分も相当たちの悪い人間かもしれない。
 泣きわめいて拒絶されればきっと気持ちも萎えるのに。でもそれができない三井さんだから 惹かれるんでしょうけどね。
「男同士が悪いかどうかは、つきあってみなきゃわからないじゃないですか」
「……わかるさ」
「怖いんでしょ、本当は」
 決めつけられるとますますむきになるはずだ。案の定三井の顔色が変わる。
「馬鹿言え」
「なら、チャンスをもらえませんか。ものは試しって言うでしょう?  それくらいの責任はとってもらっても罰はあたらないと思いますよ。 三井さんがあんなにけしかけなきゃ、告白したかどうかもわからないんですから」
 相手の弱みをついて、その言葉が浸透するのを待つ。仙道は三井の頬から頭に向かって 指を滑らせた。その柔らかい髪は湿り気を帯びていた。三井の喉元が上下する。 空唾を飲み込んだらしい。
「……わかった」
 やがて開いた唇からかすれた声がこぼれ出た。
「わかったよ、試してみようぜ」
 三井は仙道の手を払い、体を起こした。
「三井さん……」
「ただし、オレが上だ」
 窺うように見上げてくる。
「は? あっ、ああ、岩の上じゃ、頭も背中も痛いですものね。いいですよ、 オレもそのくらいは我慢……」
 言葉の途中で三井の拳が飛んできた。意外にきかなかったのは、手加減したからなのか 焦って的を外したからなのか。どちらにしろ痛いことにかわりはなかったが。
「ひどいなあ。過激な照れ方しないで下さいよ」
 仙道は頬をさすりながら言った。三井の顔は真っ赤になっている。
「……てっ、照れてるんじゃねえよっ。信じらんねえ」
 肩をいからせ目をむいている。頬には血の色がのぼっていた。
「じゃあ、何なんです?」
 仙道が聞くと三井は眦を決した。
「……だから、オレがおまえに抱かれなきゃいけねえって決まりはねえだろう?」
 見事に虚を衝かれ、仙道の頭は束の間空白になった。しばらくものも言えず、 余裕の笑みさえ消えていたに違いない。それでもやがてゆっくりと頭に血がめぐり出す。
 まったく、この人は本当に突然突拍子もないことを……。
 仙道の表情が緩んだ。
「いやあ、そんなことは考えもしなかったっすよ。驚いたなあ」
「それでいいならつきあってやるぜ」
 三井はしてやったりとばかりに笑みを浮かべた。
「いいですよ」
 余裕を取り戻して答える。もっとも本気は微塵も含まれていなかった。
 普通、男は男に欲情しない。自らの感覚に照らし合わせてそう考えた。
 それならば自分が三井に感じてきたものは何なのか。決して女扱いしているわけではないが、 気持ちがあるから体を重ねたいのだし、そうなるとどうしても能動的な方にばかり思いが 至ってしまう。それが女に対するつきあいとどう違うのかは、 誠実な恋愛をこなしてきたわけではない仙道にはわからなかった。ただひとつ言えるのは、 三井のことを好きでなければとうてい抱く気になんかなれなかったということだ。
 しかし三井の方はそんな気持ちではいないはずだった。
「さあ、どうぞ」
 仙道は両腕を広げて三井に誘いをかけた。いまひとつ、どころか、ふたつもみっつも 受け身の誘惑に見えないところが悲しい。
 そしてそれを受ける三井も攻め方にしては迫力不足だった。そのまま固まってしまい、 ぎこちない笑顔を凍りつかせた。
「……ひょっとして、おまえ、本当のモーホーか?」
「さあ」
 仙道は口角を上げた。
「自分ではノーマルのつもりだったんですけど、もしかしたらそうなのかもしれませんね」
 とどめのにっこり。
 今度こそ本当に三井は硬直した。
「……三井さんが来ないなら、オレの方が行きますよ?」
 吸血鬼の胸に杭を打ち込んだ上ニンニクをばらまくようなことを言って、 仙道は膝で間合いを詰めた。返事は言葉でも拳でもなく、くしゃみだった。
 冷たい空気が肌を刺していることにようやく気づき、周りの状況もつかめないほど 舞い上がっていたことを自覚する。彼は息をついて、知らず入っていた肩の力を抜いた。
「三井さん」
 肩を抱いて小刻みに震え始めた相手に手をのばした。指先が肌に触れると三井の体が びくりと大きく反応する。仙道は苦笑した。
「そんなに怯えないで下さいよ、何も取って食おうってわけじゃないんですから。 ……寒いでしょう、湯に入りませんか?」
 三井は不審げな目をした。
「せっかく温泉に来たのに、二人揃って風邪で寝込むようなことになったらいやですからね、オレは」
 そう言って先に風呂の中に入る。三井は逡巡していたが、憤然と部屋に戻るにしては 体が冷えすぎていたのだろう、ぎくしゃくとした身振りで彼に倣った。
 しばらく、居心地の悪い沈黙の中で二人は温泉につかっていた。 三井は膝を抱えて堅く身を守っているようだったし、仙道も敢えてその方を見ようとしなかった。
 雪は静かに、全ての音を消し去るように落ちてきていた。そして一面の白は、 部屋の中から見ているときよりずっと冷たく目に映った。
 何事もそうであるように、一度機会を逸すると同じことを再度切り出すタイミングは なかなかはかりづらい。ここまで心を明かした以上、意中の相手を黙って見逃すほど 仙道は聖人君子ではなかったし、そういう自覚もあった。しかし、仙道の思惑はどうあれ、 静寂を破ったのは三井の方だった。
「おい、仙道……」
「はい……?」
 三井の方を見ると、彼は目を庭の方に向けたままだった。低い声には少々倦怠の響きがした。
「オレ、さっき、男にやられんのは初めてじゃねえって口滑らせたけど」
 そこで顔を仙道の方に向けてきた。上気しているのはのぼせ気味のせいなのか、 他に理由があるのかはわからない。三井はいったん唇を咬んで、ぶっきらぼうに続けた。
「だからってモノホンじゃねえからな」
「三井さん、そんなにこだわらなくても……」
 言いかけて仙道は言葉を失ってしまった。
 三井の目はいまは伏せられ、どことも知れぬ一点を見つめていた。こわばった肩に、 もしかしたら泣いているのだろうか、だとしたらなぜ、と内心動揺したが、 盗み見た目に過剰な水分は見えない。ただ、仙道の視線に気づいて唇をかすかに歪めただけだった。
「前におまえ聞いたことあっただろ、オレが二年間バスケを離れてた訳」
「あ、はあ……」
「ぐれてたんだよ、膝傷めてバスケできなくなって」
 三井は自らを叱咤するように顎をぐいと上げた。
「ずいぶん無茶してな、こいつは宮城をしめようとして逆にぶちのめされたときに作った」
 顎に白く残る傷痕を彼はつついた。仙道に口をはさむ余地はなかった。
「男と寝たのも動機はケンカと同じだ。……自分を痛めつけたかったんだ」
 三井は小さく笑った。
「……無茶するつもりが結局その男に支えられてちゃあ、世話ねえけど」
「支えられてた……?」
 声を出せば、自分でも驚くほど心配げな声音だった。三井は眉を動かした。
「そいつとはもう切れてるよ。いまのオレはあいつとどうこうしようって気はねえ、金輪際な」
 そこでいったん口を閉じ、しばらく無言のまま何か考えているようだった。 仙道が根気強く待っていると、彼は口を開いた。
「……中学でMVPになって、ちやほやされて、思い通りの高校入って、 まるで怖いものなしだったのに、いきなり故障してどん底だろ。オレなんかいなくても 湘北のバスケ部は何でもなく動いていったしな。……あの二年間、オレは誰かにぶつかって 自分の存在を確認していたんだ」
 淡々とした口調がかえって三井の抱える傷の痛みを伝えてくる。
「オレにはぶつかってくれないんですか」
 思わずこぼれた言葉に三井は笑った。
「いまはそんなこたァする必要ねえんだよ」
 自嘲するように言い、開こうとした仙道の唇を目で封じる。
「オレもちっとは大人になって、ちゃんと元の居場所に戻ってきたんだし、 もう八つ当たりの相手なんかいらねえんだ」
 三井はそこで息をついた。しばらく視線を泳がせて、結局それを仙道に向けてくると 舌打ちで無言の間を締めくくる。
「ちっ……こんなこと話すのはてめえが初めてだぜ」
「三井さん?」
「その暢気なツラにだまされるんだよな。悪気も何もないようなツラしてよ、 結構踏み込んでくるんだ、てめえってやつは」
 仙道は答えに窮した。いままでそんなことを言われたことはなかった。 その逆ならばいくらでも言われたことはあったのに。
「……オレが踏み込んでいたとしたら、それは三井さんだから……」
「ああ?」
 うさんくさいと言いたげに眉をひそめる。
「……だったらオレを納得させてみろよ」
 昂然と頭を上げて両腕を岩の上に出し、組んだ脚を伸ばした。
「少しくらいのチャンスはくれてやるぜ」
 そこでぷいと横を向いて声を低くした。
「……まあな、ちっとはだまされてやってもいいかもしんねえ。 おめえのことは嫌いじゃねえからな……たぶん意味は違ってるだろうけど」
 呟くように言った言葉を聞きつけて、仙道は軽い戸惑いを覚えた。「嫌いじゃない」は 「好き」とは違う。ただ、さっきまでのつっぱねるばかりの対応から考えれば、 大きな歩み寄りに思えて、つい甘い期待をしてしまう。自分が楽観主義者であることは いい加減わかっているので、そこらへんは五割引で考えなければならないだろうが。
 しかし三井の目元がやわらいだのは気のせいとは思えなかった。
 五割引が一割引にまで跳ね上がり、思わず近寄って肘のあたりを掴んで引き寄せた。
「一対一の相手になれだ?」
 憎まれ口が胸元をくすぐる。
「だっせえセリフ吐くんじゃねえよ」
「すいません、詩人の才能ってやつがないもんで」
 言いながら三井の顎の下に手をかける。傷痕は親指の下に隠れた。
「才能なんてひとつありゃ十分だ、欲ばんな」
 またも無粋な言葉を吐く強気な唇。意外に柔らかな目は仙道が顔を近づけても 意志の光を失わない。だからそれ以上色気のない雑言が飛び出す前に彼は根源を封じることにした。
 唇と唇を合わせ、張りのある感触を楽しむ。何度か角度を変えて相手の無抵抗を確かめ、 やがて舌で歯列を割る。三井は彼の働きかけに自然に応えてきた
 その馴れをつきつけられているうちに不意に仙道の心の中に激しい渦のようなものが生まれた。 見も知らぬ昔の相手に対する感情に、唇を離す。三井は訝しげな顔をした。
「オレがいま何を考えてるか、わかりますか」
「わかるほど知っちゃいねえよ」
「……三井さんのその二年間にやきもちやいてる」
 仙道は三井の腰にまわした手に力を込めた。肌と肌が密着し、体の熱がさらに増した。
「バーカ」
 三井は笑った。
「あの二年間がなかったら、誰がおまえなんかに抱かれてやるもんか」
 腕の中の天才シューターは意識もせずにシュートを決めてくる。 この勝負については仙道はまったくのお手上げだった。
「それじゃあ感謝しなきゃならないのかな」
 あっさり負けを認めて彼はもう一度三井にキスをした。


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