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 冬のさなかでも陰鬱な緑を残すちょっとした林の間を十五分ほど登っていくと、 その宿は眼前に突然現れた。
 純和風建築の落ち着いたたたずまいは、そこが路線バスの終点からさらに奥に踏み行った 山の中であることを忘れさせた。
 その抑えた雰囲気の造りの中に、どれだけの贅が尽くされているかは、 まだまだくちばしの黄色も尻の青も真っ盛りの二人にはわかるはずもなかったが、 それでも「何となく凄そう」というのが伝わってくる。少々ぎこちない足どりで 屋根付きの門をくぐり玄関に向かったが、中に入るとフロントの感じの良い応対に緊張は解けた。 しかし柔らかい物腰の接客係に一夜の宿となる部屋に通されたときに、言葉も出ないほど驚いた。
 建物は平屋で全ての部屋が離れ風になっている。二人は最奥の部屋に通されたのだが、 渡り廊下からのぞく構えはひときわ立派で、緊張感がぶり返した。 接客係が先に立って格子の戸を開ける。続いて履き物を脱ぎ、襖を開けるとそこには 別世界が広がっていた。
 二間続きの和室に沿って走る縁側の向こうには全面のガラス窓を隔てて美しい庭園があった。 縁側の先は広くなって、よく磨きこまれた板の間となり、年代物の安楽椅子とテーブルが 置かれている。
 障子で仕切られた座敷は広く、床の間には花が生けられ由緒のありそうな掛け軸がかかっていた。 洋館風の板の間から切り離されれば、夜には枯淡の風情を醸し出すだろう。
 いま窓から見える風景は一面の白で、幽玄な世界だった。
「すげえ……」
 茶の支度を終えて接客係が部屋から出ていき二人きりになると三井は漏らした。 仙道もさすがに肝をつぶしたと見え、目を丸くしたまま頷いた。接客係の話によると、 部屋つきの露天風呂もあるらしい。
「こんな部屋、見たことねえよ」
 仙道に話しかけるでもなく三井は言った。
 自慢するわけではないが、特上の部類の中流家庭に育った彼は、ぐれる前はよく 両親に連れられて温泉旅館に泊まりに行ったものだった。そのどれも一流の名にふさわしい宿 だったが、このようなぜいたくの極みを見せつけられると、そこそこにしか見えなくなってくる。
「どういう人が泊まるんですかね。……新婚旅行とか?」
 仙道は窓のそばに行き雪景色を眺めていたが、振り返りながら言った。
「新婚じゃこんなしけたトコ来ねえだろ? どっちかっつーと、フルムーンだよな」
「そうかなあ……。ムードはいいじゃないですか」
「まあな。この部屋だけならな」
 部屋じゅうに視線をめぐらせて三井は言った。仙道が口角を上げた。
「でしょう?」
「おめえ」
 仙道の笑みがどことなく意味ありげなのを見てとって、三井も唇の片端を上げた。
「オレなんかじゃなくて、彼女連れて来たかったんだろう」
「そんなことありませんよ」
「隠さなくたっていいけどよ、こんなところで後悔すんなよな」
 三井は窓のそばの椅子に身を沈めた。仙道は複雑な表情をした。
「後悔なんてしてませんて」
「無理すんなよ」
「オレは三井さんと来たかったんですから。第一……」
 仙道は一度ためらい、やがて思い切ったように続けた。
「オレの好きな相手が彼女なら、いきなり一泊旅行になんて誘えないでしょう?」
「え?」
 いまの日本語ちょっと変だったぞ、と言いかけてやめた。いくら天才バスケットマンとはいえ、 とち狂えばこんなものだ。
「あ……それもそうだな。告白していきなり『やらせろ』はまずいよな」
「はは……」
 仙道が困ったように笑う。間が悪くなって三井も笑ってごまかし再び目を外にやった。 仙道が前の椅子に座るのがわかった。
 一時やんだ雪が灰色の空からまたちらほら落ち始めている。寒そうだが、 雪を見るとわくわくしてきた。仙道が電話で言ったように、露天風呂で雪見というのは確かに いい考えだ。
「さて」
 三井は椅子から立ち上がった。
「せっかくだから、風呂に入ろうぜ。もう三時過ぎだし、メシは六時からだって言ってただろ」
「そうですね。ゆっくり湯につかって腹すかせましょうか」
「おう。例の話の続きもあるしな」
 冷やかすつもりで言ったが、すでに仙道の面には妙な余裕が浮かんでいて、 期待していたような照れは見えなかった。



 内風呂は洗い場の広い総檜造りで、木の香が疲れを解きほぐすようだった。
 仙道より先に浴室に入った三井は体を洗い、優しい肌ざわりの木の浴槽に身を沈めた。 なかなか仙道が入って来ないので、しばらく暖まってから一人で外に出ることにした。 露天風呂へと通じるガラス扉を開けようとしたとき脱衣場に仙道の入って来るのがわかったので、 大声を上げて先に外に出ていると告げた。
 扉を開けると裸身を外気が容赦なく包んだ。火照った体にもさすがに厳しい寒さだったが、 岩で造られた風呂までの数メートルを歩ききる。通路には屋根がつき、降雪をまともに受ける ことだけは避けられた。
 大きく張り出した岩に隠れるように、その露天風呂はあった。部屋専用とはいえ、 普通の旅館に申し訳程度についている露天風呂くらいの大きさはある。仙道と二人で 入っても体育座りで顔をつきあわせるということはなさそうだ。伊豆石の青みが美しく、 新しい湯は竹の注ぎ口から絶えず流れ込み、寒気に晒される湯の温度をぬるからず熱からず 保っている。
 岩の段を降りて三井は露天風呂の中に入り、半ばまでを覆っている屋根の下で手足を伸ばした。 そこから見える坪庭が三井の目にも枯れた美を感じさせる。そういう静穏さの中に 浸っていると気持ちものびやかになってくることに気づいた。
 仙道は割合すぐに姿を現した。内風呂でゆっくり暖まっている暇もなくやってきた のではないかと思うが、大して寒そうな顔はしていない。腰にタオルを巻き付けただけの裸体は、 三井が結局持ち得なかった何かを感じさせ、少しだけコンプレックスを覚えた。
「ずいぶんゆっくりだな。湯あたりしちまうかと思ったぜっ」
 自分の抱いた敗北感に似た思いをもてあまし、三井は仙道に言葉をぶつけた。 そうと知っているはずもなかろうが、仙道は気にも留めていない風だった。
「すいません。ちょっと色々と」
 謝りながら岩風呂の中に入ってきた。体を沈め、悠然とした身ぶりで反対側の岩肌に よりかかって、長い脚をのばす。
 何の気なしにその様子を見ていると、不意に仙道が目を上げて視線がかち合った。 黒目がちの両眼にもの言いたげな色が浮かぶ。だが彼は実際には何も言わなかった。
「……サイコーの気分だな」
 三井はゆっくりと雪の庭に目を転じ、話しかけるでもなく漏らした。 外気と湯温の心地よいバランスとプライベートでありながら開放的な環境に、 心身ともにリラックスして全ての疲れが溶け出していくようだった。
 もう一度仙道に目を向けると、彼は同じように雪景色を見やっていた
。 「なあ、仙道」
 横顔が、見慣れた人間の顔と違っているような錯覚に陥り、名前を呼んでみた。 注意を喚起された人物は意外そうに顔を向けてきた。
「さっきの話の続きだけど……」
 向こうからは切り出しにくいだろうと思い、三井は言った。
「はい?」
「オレ、ほんとに力になるぜ。信じてくれるか?」
 仙道の目元が笑いを含む。
「信じてますよ」
「オレにできることだったら何だってやるから」
「三井さんがその気になれば、きっとできると思いますけど」
 相変わらず表情を読ませぬ笑みを浮かべ、それでも三井を喜ばせるようなことを言う。
「なら本題といこうぜ」
 三井は風呂の中を仙道のそばに移動した。近くに誰の目も耳もなくても、 こういう秘密めいた話は離れて大声でするものではないと思う。肩が触れ合うほどのところに まで近寄り、三井は声を低くした。
「……湘北の誰なんだ?」
「三年生なんです」
 仙道は前を見たまま言った。三井は口笛を吹いた。
「年上かよ」
「はあ」
「オレと一緒かあ」
 湘北の三年生……それだけの情報では仙道の相手を特定することは不可能で、 三井は早々に先を促した。
「おい、もったいぶってんじゃねえよ。誰なのか教えろって」
 仙道はこころもち三井の方を向き、目を細めた。
「それよりも先に、教えてほしいことがあるんですけど」
「おう、何だ?」
 三井は身を乗り出した。仙道の口元が笑っている。
「片想いの相手の口説き方」
「え?」
 うろたえて聞き返した。
 自慢ではないが、三井は片想いといえばバスケットボールくらいにしかしたことがない。 ぐれていた間も清らかな異性交遊をしていました、とうそぶくつもりはないものの、 自分の方からアプローチした経験がないだけに、そういうことを聞かれるといたく困る。 「協力する」というのは仙道の気持ちを相手に伝えてやるとか相手の好みを探るとかいった 第三者的なことと理解していたので、自力で何とかする道を示せと言われると、 とたんにおぼつかなくなる。それでも後には退けず、何とかごまかそうと思った。
「それはまあ、とにかく、告白して誠意を見せるしかねえんじゃねえの?」
 どこぞの木っ端タレントのようなことを言ってお茶を濁す。仙道は体ごと向き直り、 真正面から顔を覗き込んできた。少し頬が上気している。
「どんな風に?」
「だからだな、おまえがどれだけそいつのことを好きか見せるんだよ」
「見せる?」
「やり方は色々あんだろ」
「でも」
「……隙があったらキスでもしちまえよ」
 苛立ちと引け目が飽和状態となって、いささか乱暴な結論を導いた。仙道は声を立てて笑った。
「めちゃくちゃですよ」
 そのことは言った本人が一番わかっている。ただ、知ったかぶりが露呈するような墓穴を 掘っていると重々承知してはいたが、本当に掘っていた墓穴はそんなものではないことには 気づいていなかった。
「めちゃくちゃでも何でも、押せば何とかなるって。自信を持てよ、おまえなら大丈夫だ」
「本当にそう思いますか、三井さん?」
 ふいと仙道は真顔になる。そんなに思いつめるような恋ならばもっと早く相談して くれればよかったのに、と三井はのぼせかかった頭で同情した。
 好き嫌いで言えば仙道は好きな部類の人間だ。上級生意識が邪魔をして何となく友人とは 言い切れないのだが、小さなこだわりはともあれ、とどのつまりは「ダチ」というやつなのだろう。 だから何とか力になってやりたい。
 わがままで短気でいい加減な三井だが、結構友達思いのところもある。 何やかや言ってもいつも人の輪の中心にいるのは、全ての欠点を補ってあまりある、 憎めない本性のためだろう。
「……強気で行けよ。バスケんときみたいにさ」
 仙道の真剣さにほだされて、半ば興味本位だった動機も吹っ飛び、 心の底から想いを遂げさせてやりたいという気になっていた。
「強気でキス……?」
「おう」
 気がつくと、仙道の顔が間近に迫っていた。
「なら、キスのしかた、教えてくれませんか?」
「えっ?」
 一瞬頭の中が真っ白になった。仙道の言葉の意味がわからず、 顔が近づいてくるのを避けようともしなかった。
 焦点がぶれる。仙道の顔がぼやける。唇だけが異様に鮮明に映った。
 希薄な感触でそれは三井の唇に触れ、すぐに離れる。
 仙道はいつもと違う目を向けてきた。
 それからまた顔が近づく。唇の柔らかい感触。今度はもっと深く、無防備な唇を割る。
 キスのしかた、教えてくれませんか?
 仙道の言葉が脳裏に蘇り、反響した。
 教えてくれませんか。教えてくれませんか。教えて……。
 三井は夢中で仙道を突き放した。
「てめえっ、ふざけてんじゃねえっ!」
 相手を突いた反動で自分の方が湯の中でもがいているのをまたも助けられ、 一気に頭の中が沸騰して顔まで赤くなった。
 何が「教えてくれ」だ、あんな、あんな……。
「……馴れてやがるんじゃねえかっ!」
 仙道の腕を振り払おうとしたが、うまくいかなかった。
「三井さんだって馴れてたくせに」
 笑いとともにこぼれた言葉を耳にして三井の頭はもっと熱くなる。
「オレのことはいいんだよ、どうでも」
「よくないですよ」
「キスなんて練習するもんじゃねえっ。好きなやつとやってりゃいいんだ」
「だから」
 仙道は掴んだままの三井の腕を引き寄せた。三井の煮えたぎった頭の中に妙な予感が走った。
「オレが好きなのは……」
 射込んでくる視線が真剣だ。真剣であると同時に不敵で、嵩にかかっている。
 やばい、と思った。なぜだかわからないが、やばい。あの県大会決勝リーグ最終戦、 残り五分で点を獲りに動いた仙道に感じたのと同じ、言い様のない圧迫感を覚えた。
 腕を掴まれ至近距離で見つめられながら、三井の全身は凍りついてしまった。
「オレが好きなのは、湘北バスケ部の三年生で……」
 もう片方の二の腕も掴まれ、仙道と真正面から対面させられた。
「まだ気づいてもらえませんか?」
 片手が腕を離れ、鎖骨のあたりをかすって顎の下に添えられる。 一瞬の遅れでその手を避けることはできなかった。
「隙があったらキスしろって言ったのは三井さんですよ」
 仙道は小さく笑いを漏らした。吐息が口元をくすぐる。三井はぎゅっと目をつむった。 唇の左端とその下の傷痕のあたりにしっとりとした弾力のある触感を立て続けに覚え 思わず肩がぴくりと動いた。仙道の手と唇から逃れようとして大きく首を振る。そのとたんだった。
 あ、あれ……?
 岩の床が突然スライドした。湯から上の世界が軌道も定めず回転した。
「三井さん!」
 仙道の発する心配げな声を遠くで耳にして、三井の意識は暗転した。


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