* * *
線路の上にちらほらと雪が舞い落ちている。
ホームの最後尾に降り立った二人は車内との温度差に身を縮めた。
はずしていたマフラーを巻き、手袋をはめた手をコートのポケットに突っ込む。
二人分の荷物を肩から下げた仙道を従えて三井は歩き出したが、
改札へと降りる階段に行き着く前に列車は走り去って行き、そうなると風がまともに吹きつけて、
なお寒かった。
「こっからどう行くんだって?」
階段を降りながら三井は言った。一段遅れてくる相手を振り返って見上げる形になる。
「バスに乗って温泉口まで行って、そこから先は……
冬場は歩かなきゃならないらしいんですけど……三井さん、前向いて降りないと危ない……」
注意されたその瞬間に右足が段の端をかすって宙を踏みつけていた。
「わわっ」
大きくバランスを崩し、体勢を立て直そうとしても踊り場はまだ数段下で、
体を支える足場などない。背筋に冷たい熱の走るのを感じ落下を覚悟したとき、
重力に逆らう力を腰のあたりに感じた。すんでのところで三井の体は段上にとどまっていた。
「……だから危ないって言ったでしょう」
仙道の声が耳のすぐそばでした。それで改めて自分の状態を認識した。
階段からほとんど落ちかかっていたところを、彼に抱きとめられたのだった。
強靭な筋肉を備えた腕がベルトラインに力強くまわっている。あまり重くないとはいえ、
荷物二人分を肩から下げていても少しも影響を受けていない屈強さだ。
「こんなところで怪我なんかしちゃ、バカを見ますよ」
ぴったりと身を寄せたまま囁くので、その吐息が耳殻をくすぐった。
とたんに条件反射のように昔の悪い遊びの感触を思い出して慌てた。
「だーっ、どうせバカだよっ!」
強引に身を振りほどき、その反動で結局腰から崩れるようにずり落ちた。
しばらく何が何だかわからなかったが、上の方から降ってくる抑えたような笑い声で我に返った。
笑い声の主をぎろりと見上げる。
「てめえ、笑ってるヒマがあったら手ぐらい貸せ」
八つ当たりをしてから、仙道が階段を降りて手を差し出す前に立ち上がった。
その相手の顔を見れば、まだ笑いの余波を含んだ表情をしている。
「三井さん、カルシウムが足りないんじゃないすか?」
「何だよ、それ」
「怒りっぽい」
返す言葉に詰まった。鷹揚に見えて痛いところはちゃんと突いてくる。
てめえがオレを怒らせるようなことばかりするからじゃねえか、と喉元まで出かかったが、
少なくともいまのは仙道に全く非のないこととわかっていたので、
もう知らぬ振りを決め込むことにした。
三井の心中を知ってか知らずか、仙道は並んだまま黙って階段を降りた。
改札口のまわりには人気はほとんどなかった。もともと降りた人数もそれほど多くはなかったから、
すでに大方の乗客は外へと出ていったのだろう。二人も迷わず改札を抜け、出口に向かった。
その駅は開設当時はキツネやタヌキぐらいしか利用しないだろうと陰口をたたかれていたが、
実際周辺には何もなく、生活臭があまりしない。もっとも近隣の観光地や温泉への拠点として
利用されることは多く、どうやら人間様の役にも立っているようだった。
雪は思ったより降っていた。出口の際に二人肩を並べて立ち、どんよりとした空を眺めた。
「で」
三井は視線をスライドさせた。
「その温泉口ってとこまでどんくらいかかんだよ」
「えーっと」
仙道はコートのポケットをごそごそと探った。すぐにモスグリーンの毛糸の
手袋をはめた手が紙片をつまみ出していた。それを目の前で広げる。
「……一時間ちょっとってことですけど」
「結構遠いのな。そっからまだ奥なんだろ?」
「らしいですね」
「そうすっと、昼メシはどこで食うんだ? 温泉口ってとこに食うとこはあんのか?」
「……さあ」
仙道は考え込んだが、やがて何かを思いついたように視線を下ろしてきた。
「三井さん、腹減ってるんですか?」
「……悪いかよ。おめえと違って朝ちゃんと起きたからな」
厭味を込めて言うと仙道は笑みを浮かべた。
「じゃ、ここで食ってきましょうか」
「……また食うのか?」
「さっきのは朝メシですから」
仙道はすでに駅の内部へとまわれ右している。しようがなく三井は後に従った。
足を向ける先には軽食堂があった。そこはレストランというよりもまさに食堂と言うに
ふさわしいところで、一見の客だけをあてにしているような熱のなさが感じられた。
中は雑然として人の入りもまばらだ。空いている席に適当にかけ、
壁面のメニューに目を走らせる。結局仙道が山菜ソバとカツ丼、三井がラーメンと
チャーハンに落ち着いた。運ばれてきたものは、駅の食堂ならばこんなものだろう、
という程度のものだったが、それでも食べ盛りの食欲で二人とも米粒ひとつ残さず平らげた。
しばらくそのまま暖房のきいた店内にいて、バス待ちの時間をつぶす。
「そろそろ行きますか」
十分前になったので席を立った。レジのところで仙道は二人分の勘定をまとめて支払った。
「オレの分、いくらだ?」
店を出てから三井が聞くと、仙道は手を振った。
「いや、いいっすよ。おごりです」
「バーカ。オレなんかにおごる金があったらデートのためにとっとけよ」
さすがに理由もなくおごられるのは気がひける。これまでも色々なただ券の恩恵には
あずかってきたが、少なくともその前後の飲食代は割り勘にしていたのだ。
それどころか、自分の方が年上だからたまにはおごらなきゃならないか、
とも思うのだが、仙道を見ているとどうにも年下には思えなくて、結局割り勘に落ち着いている。
ともあれ、こういうことにはけじめをつけておこうと思った。
しかし三井が駄目を押す前に仙道が口を開いた。
「それじゃ、前払いということで」
「……何のだ?」
「だから、ほら、三井さんが協力してくれるっていう……」
礼のつもりだと言いたいらしい。
そんなにオレの手助けがありがたいのか。かわいいやつじゃねーか。
また夏より背の伸びた大男におよそ不似合いな形容詞をかぶせて感じ入った。
「ちっ、しゃーねぇな」
おごられてやるか、と憎まれ口を聞きながらも、口元が緩むのを三井は止められなかった。
ターミナルに停まっていたバスは、二人が乗り込むとほどなく発車した。
年末もどん詰まりにきて温泉に行こうなどという暇人はあまり多くないからなのか、
始発の乗合バスは貸し切り状態だった。途中、在来線の駅からは割合たくさんの客が乗ってきたが、
雪の山道にさしかかる頃には地元の人間とおぼしき客はほとんど降り、
温泉口に着いたときには品の良い老夫婦風二人連れと彼ら二人しか車内に残っていなかった。
あたりの積雪量は駅近辺と比べると段違いだったが、道はきれいに除雪されていて、
新たに降った雪だけが舗装面を濡らしている。降雪に慣れたバスは何の支障もなく走って
終点に到着した。
「おーっ、すっげー!」
バスから降りるなり、空身の三井は犬ころのように駆け出した。
一度凍った雪面で滑り大きくバランスを崩したが、それにもめげず、
まだ誰の足跡もついていないところを選んでは自分の足跡を記してご満悦の態だ。
ガキまるだし。
バスのステップを降りながら、仙道は小さく吹き出した。
最後部のシートに座っていた彼らより先に降りていた老年カップルは仙道の前をおぼつかない
足どりで歩いている。
「あらまあ」
すれ違おうとしたとき、老婦人の呟きが聞こえた。見ると三井がまた滑っていた。
やれやれ、怪我しなきゃいいけど。
ふっとため息をつく。その拍子に老婦人と目が合った。
「元気でいいわね。……学校のお友だち?」
「はあ、部活の……」
「仲良しなのねえ」
その言葉が耳にくすぐったくて、仙道はごまかし笑いをした。
「……ええ……まあ……」
老婦人は頷き、ちらと前を見た。
「お先にどうぞ」
微笑んで細い声で促すので、仙道は老婦人とその連れに会釈して前に出た。
彼は三井との距離をゆっくりと詰めていった。
三井は雪遊びにやっと飽きたかのように振り向いたところだった。照れ隠しなのか、
ちょっとふてくされたような立ち姿をとって仙道を待っている。
本当に誘ってよかったと思った。
三井を誘って出歩くのはむろん初めてのことではないが、いつもはスポーツ観戦が名目だった。
だから一緒にいながら三井の目は別のところに向けられていたし、
その後に喫茶店に入ったり食事をしたりして面と向かって話すときも、
彼の心はいままでいた観客席やコート上やグラウンド上へと飛んでいた。
だがいまは違う。雪の中で三井は自分の近づくのだけを見て待っている。
仙道は財布にねじこんだ宿泊招待券に感謝した。
もともとは「親孝行でもしてこい」と魚住から渡されたものだった。
それを自分のために流用するのに特に良心の咎めはない。それよりも三井と一夜をともに
過ごして自分が冷静でいられるか自信がもてなくて、誘いの電話をかけるまで珍しく一週間考えた。
試合中のセルフコントロールには自信があるが、これまで自分の方から人を好きになった
ことがないだけに、三井に関してはどこまで自分を抑えられるかわからなかった。
最後は勢いで電話をかけたが、告白しようとか、下世話な言い方だが三井をものに
しようとかは、とりあえず考えていなかった。
しかし……。
無理に抑えなくてもいいんでしょう、三井さん?
目の前の片恋の相手を見て仙道は心の中で決めつけた。
あれだけけしかけられればオレだってその気になりますよ。オレみたいな人間に
つけ込まれるような隙を見せる三井さんがいけないんですからね。
いままで自分の中にあると思ってもみなかった悪さを自覚して、
その甘さをもっと貪りたい気分になった。
「おせーぞ」
ゆっくりと追いついた仙道に三井はいつものように年上風を吹かせて言った。
そこまで来ると一軒宿の観光ずれした構えが見えた。宿泊客とは別に露天風呂にだけ入りに
来る振りの客を相手にする食事処もあり、広い駐車場が広がっている。
その脇にだらだらと登る、車一台がやっと通れるほどの細い雪道がカーブしながら
木の陰に消えるまで続いている。
「あの道ですね」
「この雪道を歩けって、さすがにただ券だよな。……すきま風びゅうびゅうの
ぼろ旅館じゃねえのか?」
「うーん、もしかしたらそうかも……」
「同調すんじゃねえよ。縁起でもねえ」
白い息を吐きながら三井が悪態をつく。斜に構えて見上げてくるのは睨んでいる
つもりなのだろうが、いまの仙道には逆効果だ。
雪は一時的にやみ、とびきり冷たい風が吹きすぎた。
「こいつは道に迷ったら死ぬな」
ぶるっと大きく身を震わせて三井は襟元をかきあわせた。
「大丈夫ですよ」
そんなことになったら、オレが暖めてあげますから。心の中で続けて仙道は微笑んだ。