「遅い!」
三井は心の中で叫んだ。
場所は東京駅八重洲北口改札。時は十二月三十日。
待ち合わせ時間をもう二十分も過ぎているというのに、年の瀬の人波の中に見覚えのある顔は
ひとつもやってこない。
約束の二分前に着いて誰も来ていないことに気づいたときは少し不安になり、
場所と日にちと時間に間違いはないか、何度も記憶をリピートした。
しかし十日前のその電話の記憶は選抜開幕直前ということもあり妙に鮮明で、
どの面から見ても自分に間違いのないことを再確認することにしかならなかった。
厚手のウールのコートにセーター、マフラーと、いかにも「寒いところへ行きます」
という出で立ちの肩からはいつものスポーツバッグがかかり、手には遠距離乗車券と新幹線特急券。
交通費に自腹を切った以上、まわれ右することもできない。不安を通り越して神経が一、二本
切れかかったまま、三井はもう一度あの夜の記憶をたどった。
風呂から出たとたん、二階の自室で電話が鳴り出した。
体をざっと拭いて頭からバスタオルをかぶり、裸で廊下をつっきって階段を駆け上がる。
抑えた色調のフローリングの床に水が滴り落ちても、母親は外出中で、文句を言う人間はいなかった。
「はい、三井……おわっ」
開け放しにしておいたドアから中に飛び込み、受話器を取り上げたときに、
かぶったバスタオルがずり落ちてきた。慌てて受話器を取り落としそうになったが何とかこらえ、
落ちたタオルを拾ってベッドの上に座り込んだ。
「あ、三井さんですか。仙道です」
電話の主は陵南高校のエースだった。
「おう。何だ?」
三井は答えた。
夏にひょんなことから個人的なつきあいが始まり、ときどき電話がかかってくる。
結構気のつく男で、それから半年に満たぬ間に何度か、仙道の入手したチケットで一緒に
スポーツ観戦などをしていた。
いくらもらったチケットとはいえ、陵南の仲間でも誘えばいいのに、とは思いつつも、
声をかけてくるものがいつも三井の観たがっている試合だったため、ほいほいとつきあった。
まったく、あのときの週刊バスケ一冊を恩に着てるなんて義理堅いやつだよな、
「仙道の恩返し」ってやつかな。
などと三井は都合よく考えていたのだが、実際そのチケットは仙道の購入したもので、
たっぷり下心が込められていると疑うことすらなかった。もっとも仙道にしてみれば、
自分の気持ちを「下心」という言葉でくくられてしまうのは不本意なことこの上なかろうが、
何にしろ胸に一物あるのは確かである。そして三井は、ただより高いものはないと、
後に痛切に思い知るのである。
「選抜の後は、三井さん、何か予定ありますか?」
電話の向こうで仙道が聞く。
「いや、別にないけど」
「なら、温泉、行きませんか?」
「あ?」
「いえね、温泉旅館の宿泊券もらっちゃって。魚住さんの関係でまわってきたんですけど、
一人分空きがあるから、どうかなと思ったんですよ」
「うーん」
三井は考えた。一人分空いている、ということは何人か一緒に、
たぶん陵南バスケ部の連中が行くことになるのだろうが……。
陵南の中にオレ一人混じってどうすんだよ、バカヤロウ。
さすがに断ろうとしたとき仙道が言った。
「三井さん、温泉好きだって言ってたじゃないすか。いいですよー、山の温泉。
いまは雪も積もってるだろうし、露天風呂で雪見なんかしたりして」
「ううう……」
「もう大学も決まったんだし、ちょっとぐらい羽をのばしても罰は当たりませんよ。
ねっ、行きましょう」
こうなると弱い。徹底的に押されると結構流される。まして行きたい気持ちも半分だから、
結局誘いに乗ってしまった。
そして仙道の言った待ち合わせ時間に待ち合わせ場所に来てみれば、
誰一人姿を現さないのだった。
「仙道のヤロー、あと十分待って来なかったら、ブッ殺してやるからなっ」
切れた神経から湯気を噴き出しながら、師走の東京駅で三井は独りごちた。
一方、仙道は焦っていた。
試合でもほとんど動じたことのない肝の太さからすると、よほどのことである。
他を圧する一九○センチ台の長身で地下鉄の階段を駆け上がり、
改札を抜けてJRへの連絡口にダッシュする。そして用意しておいた切符でJRの改札を突破すると
昇りエスカレーターを後目に脇の階段を二段抜かしでやっつけた。
現在午前十時二十五分。待ち合わせ時刻は十時。いますぐテレポートできたとしても、
二十五分の遅刻である。
許してくれるかなー、三井さん。気が短いから、もういなかったりして……。
そんなことを考えたせいでさらに焦り、中央通路を突進した。
私立陵南高校第一学生寮は二学期の終了とともに閉鎖期間に入る。
文武両道の雄として関東一円に名を馳せる陵南だが、事実上は文武別道で、
第一学生寮には主に知力組が、第二学生寮には体力組が配されている。
スポーツ推薦で入学した仙道はむろん体力組に入るのだが、なぜか寮生活は第一の方で送っていた。
その理由については、一応受けさせられる入試で知力組と同程度の点を取ったからとか、
逆に知力組のサポートが必要なほどひどかったからとか、噂は無責任にも密やかに流れていたが、
どうやら盆暮れに寮を追い出されても何とか練習に通える者から
収容人数の多い第一学生寮の空き部屋に放り込まれた、というのが真相らしかった。
そんなわけで仙道は前日の練習終了後に自宅に戻っており、
三井と東京駅で待ち合わせることにしたのだが、目を覚ましたのが九時半過ぎとなると、
いかに仙道の天才ぶりをもってしても間に合うわけがなかった。
八重洲北口にたどり着いたのは十時二十七分だった。
長身の三井は遠くからでも目立って見えた。もっとも目立つのは仙道の方も同じことで、
すぐに三井は気づいて、きつい目をしてゆっくり近づいてきた
。仙道は足の速さを緩めず駆け寄った。
「てめー、このー、何やってやがる」
三井は口を開くや、罵声を機関銃のように浴びせてきた。仙道はひたすらそれをやり過ごすと、
相手が息をつぐタイミングで頭を下げた。
「すいません、寝坊しました」
「スイマセンって、てめえ、それだけかっ?」
「悪かったです。あの、謝るのは後でいくらでも謝りますけど、それより、いま、何時ですか?」
怒っているはずの三井は気をそがれたように腕時計に目を落とした。
「……十時二十八分」
「まだ間に合う。三井さん、急ぎましょう」
仙道は新幹線乗換口の方を指して半身をその方に向け一歩踏み出した。
「急げって、おめえなあ……」
三井はぶつくさ言いながらもついてきた。乗換口に着き、
そこを通り抜けるとエスカレーターを駆け上がり、発車を待つ「とき」に飛び乗る。
空席を求めて車中を移動しているときに、列車は静かに動き出した。途中、
ちらほらと空席はあったが、禁煙車まで行って、二人掛けに並んで腰を下ろすことになった。
「やー、間に合ってよかった」
仙道は自分のバッグと三井のバッグを網棚に乗せて言った。
「まったくな」
窓側に座り、三井は目を車窓から外に向けたままふてくされたように返す。
仙道はその隣りに腰をおろし、どうやってご機嫌を取り結ぼうか思案したが、
結局ひたすら謝ることしか思いつかなかった。
「すいません、悪かったと思ってます」
三井は冷ややかな目を向けてきた。
「荷物持ちでも何でもしますから、許して下さいよ」
三井は片眉を上げた。
「……本当だな?」
仙道は頷いた。
「じゃ、今日はオレの荷物、持ってもらうぜ。それで許してやる」
ありがたく思え、と三井は付け足した。
「なあ、それより……」
ころっと機嫌を直し、無防備な顔を向けてくる。
こういうところがたまらないんだよな、と仙道は心の中がのぞけたら相手が新幹線の窓を破って
飛び退きそうなことを思った。
「はい?」
「ほかの連中もこれに乗ってるのか?」
「……ほかの連中?」
顔に特大の疑問符をはりつけて聞き返す。三井は怪訝そうに少し眉根を寄せたが、
もう一度、今度は端的に言ってきた。
「だからさ、陵南のほかのやつらも一緒なんだろ?」
「えっ、まさか」
「え……」
三井は絶句した。そのまましばし目を白黒させていたが、ひきつり気味の笑顔で口を開く。
「じゃ、うちの宮城とか桜木とか……」
「やだなあ。ほかに誰がいるってんですか。三井さんとオレと二人だけですよ」
三井の命綱を一刀両断するように、仙道はにっこりと笑って答えた。
「二人だけですよ」
仙道の言葉を聞いて三井は少々拍子抜けした気分になった。
傍若無人に見えて実は神経の細かいところのある彼は、
あまり親しくない人間の集まりの中にいきなり投げ込まれるのは、得手ではないのだった。
そのためあのときの電話から勝手に陵南バスケ部の面々と一緒だと思い込んで、
この日待ち合わせ場所に着くまでは気鬱になったりしていた。
だが、いざふたを開けてみれば、二人きり。仙道だけならば、もうだいぶ気心も知れているし、
楽だろうと思う。しかし……。
「おまえ、あんとき、一人分空きがあるって言ったよな」
引っかかりを口に出した。
「はい。だから、ペア券で、オレともう一人ってことなんですけど」
「おめえ、それは何かちょっと違ってねえか?」
「そうですか?」
大真面目に返されて、自信がぐらつく。確かにそれは一人分の空きがあるという状態
なのだろうが、三井にすればどうにも釈然としない。
「何にしたって、男二人で温泉行って面白いことがあるかよ、ホモじゃあるまいし」
最後の方で思わず声が高くなって、慌てて周囲を窺った。通路を隔てた三人掛けの席で、
女子大生風の二人連れがくすくすと忍び笑いをしていた。三井は思わず赤面したが、
仙道は少しも動じていなかった。
思うに、自分がひどく動揺してしまうのは、過去に覚えがあるからなのだろう。
ぐれていた間、男と寝た経験はあった。面白半分というよりは、捨て鉢な気持ちからだった。
そういう一線すらも踏み越えてとことん堕ちるつもりだったのに、思い切って飛び降りた先で、
意外にやんわりと受け止められてしまった。
相手の鉄男はいつも三井を半人前扱いして、三井にはそれが不満だったのだが、
いま思えば大きく逸脱しないですんだのも、彼のおかげだった。
そんな訳で鉄男とはそういう関係になって一年半続いたが、自分には本来その手の性癖はない、
直截的に言えばホモではない、と三井は固く信じて疑わなかった。
「面白くないですか?」
沈んだような仙道の声が耳に飛び込んできた。少々驚いて、窓の外に向けていた
顔を隣の席に向けると、三井の顔色を窺うようにしていた仙道とまともに目が合った。
その表情には不機嫌の色は見えなかったが、妙に真摯な光が双眸に宿っているように見え、
三井を困惑させる。
「面白いですよ、きっと。ね?」
仙道はすぐに笑顔になって言った。すると三井の心にさざ波を立てたものは幻のように消え失せた。
「……そうかなあ……」
目の前の人物に請け合われると、そんな風に思えてくるから不思議だ。
「まあ、いいか」
三井は軽いため息をついた。
何となく丸め込まれた気がしないではないが、一泊とはいえもう旅行は始まっているのだから、
楽しく過ごした方がいいに決まっている。
気がつけば列車は上野を過ぎ、席は発車時より埋まっていた。
車内アナウンスが停車駅と到着時刻を告げている。内容をそっくり繰り返す英語放送が終わり、
車内検札が済むと、しばらくして車内販売のワゴンがまわってきた。
「あ、弁当買いますけど、三井さん、どうしますか」
「朝メシ食ってきたからまだいいよ」
「オレ、寝坊したんで、メシまだなんですよ」
けろりと言うと、合いの手よろしく腹が鳴った。ワゴンが脇までくるのを待ちかねたように
声をかけると仙道は、弁当三人前と缶入りウーロン茶二本を買う。
短いつきあいの中ですでに仙道の食いっぷりはよくわかっていたので特に驚きもしなかった。
「はい、三井さん」
仙道はウーロン茶を一本、三井の膝元に置いた。
「……あ、サンキュ」
「いいえ」
気前の良い年下のバスケットマンはなぜだか至極嬉しそうだった。
そのまま手が幕の内弁当の包みを開け始めるのを見て、ああ、そんなに腹が減っていたのか、
と思う。三井は手にしていた缶のプルトップを上げると中身を一口飲んだ。
窓の外には低層の市街地が続いている。
そういえば、こいつって、いつも嬉しそうな顔してるよな。
隣りの座席で旺盛な食欲を見せようとしている相手を横目に三井は思った。
「……いいよな……」
ついついこぼした一言に、袋を破って箸を取り出した仙道が目を上げた。
もの問いたげに手を止めたのを認めて、三井はもう一度言った。
「いいよな、おまえって。悩み知らずでさ」
ふう、と息をついて言う。仙道は目を丸くしていたが、やがて唇の片端を上げると返した。
「心外だなあ……。オレだって悩みくらいありますよ」
弁当のふたをとって魚の焼き物を割った箸でつつく。そのときにはもういつものにこにこ顔が
戻っていて、仙道は魚の後に米飯をひとかたまり口に放り込んだ。
三井はウーロン茶をもう一口飲んだ。
「そんな風には見えねえけどな」
「見えなくても、そうなんです。けど……」
仙道の箸の動きが止まった。
「悩んでること自体、ある意味で楽しいんですけどね」
「何だって?」
禅問答のような訳のわからない返答に重ねて聞き返した。
「何の悩みなんだ?」
「……恋の悩み」
仙道は視線を流してきた。その目の表情が口に出した言葉の意外さと一緒になり、
三井をどきりとさせる。しばらく対処のしようもなく視線を受けていると、
仙道の方が先に目を逸らした。
「片想いですよ」
肩をすくめて笑った。三井は目を瞠った。
「すっげえ意外だな。おまえもてるんだろ?」
「そんなこと、ないっすよ」
「いーや。手前みそになるけどな、オレだって中学んときはもてたんだぜ、これでも」
口に出してから急に照れくさくなってさらに続けた。
「いまは全然だけどな」
「見る目ないんですね、湘北のコたちは」
さらりと言われて三井は思い切りのけぞった。
「ばっ……! マジなツラしてからかうんじゃねえ」
「からかってなんかいませんよ。本気ですってば。あ……」
仙道は何を思いついたのか、身を乗り出してきた。
「そうか、決まった彼女がいるから、みんなあきらめてるんだ。そうでしょう?」
三井はぐっと言葉に詰まった。
「……いねえよ。彼女なんて」
そこでじれったさが爆発した。
「ああっ、オレのことはいいんだよ、どうだって。おめえはどうなんだよ、おめえは!」
「だから、うちは男女別学だし、もてるももてないもありませんて」
人当たりの良い笑顔で言ってのける
こいつ、あの夏の予選の間の黄色い声援に気づいてなかったってのか? ったく、
流川と対張るってのに。
もっともプレー中はそれどころではないからしようがないか、とも思うが、
とするとその仙道が似合わない片想いをする相手にはちょっと興味が湧いてくる。
「……それじゃ、おめえの相手ってのは……」
「うちの学校の人じゃないんです」
食べる手を完全に止めて仙道は答えた。三井の好奇心はますます大きくなった。
「おい、どこの誰なんだよ」
「湘北の人ですよ」
敵は存外あっさりと白状した。
「けっこうきれいな顔してて、めちゃくちゃ向こうっ気が強くて……」
そこまで言って黙り込む。三井が促してもその先は軽くはぐらかされるだけだった
けっこうな美人で、気が強い……?
待てよ、と思った。身近に一人だけ該当する人物がいる。
「それって、アヤコか?」
「アヤコ……?」
「うちのバスケ部のマネージャーだよ」
「ああ……」
仙道は思い出したように頷く。
「そういえば、美人ですよね、彼女。うちの連中も言ってたなあ」
「なんだ、違うのか?」
「全然」
彩子という名前にいささかの反応も示さなかったところを見ると、本当に違っていたらしい。
となると、仙道と湘北の女子生徒をつなぐ糸は三井の想像力の枠を越えていた。
「オレの知らないコなのか」
「それは内緒」
仙道は答え、片目をつむった。
「ま、その人の本当の魅力は三井さんにはわからないでしょうね」
「バカにすんなよ」
三井はむっとした。
「わかるかどうかは誰なのか聞いてみなきゃわかんねえだろ。
……なあ、教えろよ。協力してやるぜ」
「本当に?」
全く信用していないというような笑みを浮かべて仙道が言う。
だいたいこういう顔をしているときは、自分の言うことを話半分にしか聞いていないときだ。
「オレのこと、信用してねえだろ」
「そんなことないですよ」
「いや、してない」
「疑い深いなあ」
仙道はくすくすと笑った。三井は座席の中で体ごと隣りに向き直った。
「協力すると言ったら絶対する。秘密も守る。だから教えろ」
「……でも、三井さんに話したからうまくいくってもんでもないでしょ」
「絶対大丈夫だって」
仙道ほどの男に想われて落ちない女がいるかよ、と思った。
「いいんですか、そんなこと言って」
「おう、信じろ。必ずうまくいくようにしてやる」
「男と男の約束ですよ」
「任しとけ」
自信満々で答え、それから秘め事を話すときの常で声をひそめた。
「……で、誰なんだ?」
仙道は少し考えて答えた。
「それは旅館に着いてからにしませんか。ここじゃ落ち着かないし、
弁当食いながらする話じゃないっすよ」
気がつけば一つめの弁当もまだ半分食べ終わっていない。
列車に乗っているのも小一時間のことだし、早いところやっつけないと悲惨なことになりそうだ。
「おう、そうだな」
三井が答えると、仙道は安心したように幕の内を平らげにかかった。