実はいま、オレは非常に焦っている。
喫茶店で女と二人でいて、その目の前の女に泣かれたのだから進退も窮まろうというものだった。
オレの名前は河田雅史。
東京の大学に来て三度目の夏を迎えようとしている。
バスケットボールの推薦枠で入学した大学だが、集まってきた面白い顔ぶれのおかげで退屈とは
縁のない毎日を送っているところだ。
帝王の名に恥じない外見とバスケのプレーを見せる、だが意外にその外面とギャップのある
カワイイ性格の持ち主、牧。
遊び人というわけではないのだが、すぐに彼女ができる割にこれまたすぐに別れ、結局いつも
オレたちとつるんでいることの多い諸星。
同期の面々だけでも十分楽しめるところへ、三年目の今年はさらに刺激的な一年坊主が
二人入ってきて、さらにエキサイティングな部活ライフを楽しめそうだ。
しかし、一番の楽しみはやはり、同期の一人三井と一学年後輩の仙道との関係だろう。
二人がいわゆる「恋人同士」だというのは、前の年の夏合宿でわかった。
そのおかげでそれまでの三井の不自然な行動が下手なカムフラージュだとわかったのだが、
それは一年以上経ち仙道が三井のそばに居場所を確保したいまでも思い出したように復活し、
秘密を知るオレたちを楽しませてくれる。
反対に仙道の方はいたって自然体だ。あいつはオレたちが気づいていることを察しているのかも
しれないが、本当のところはわからない。もともと三井ほど隠したい気持ちはないようなので、
特に不都合はないというところか。
いわゆる男同士のその手の関係というのは、体育会系では比較的多いと聞いているが、
これまでは周囲に例がなく、軽い冗談の種にしかならなかった。だから個人的な意見など
なかったのだが、三井と仙道はまあ傍目からは似合っていないこともないと思える二人だ。
それで、どうしてオレがいま焦っているのか。それは全てその三井の大ボケ野郎のせい
なのだった。
それは先週の金曜日のことだった。
その日はマネージャーの光岡の友達と合コンをすることになっていた日で、練習後に渋谷まで
出かけた。メンツは三年生オンリーで、もちろん牧や諸星や三井も入っていた。
光岡の話では、いまキャンパスで最も合コン希望の多いのが男子バスケットボール部なのだそうだ。
目当ての「彼」に彼女がいようと、女たちは大して気にかけていないらしい。そんなわけで、
いつもより小洒落た居酒屋で賑やかに飲み会は始まった。
適当にばらけて席に着いたので牧や諸星とは離れたが、三井と光岡が近くにいた。周囲を女に
囲まれて普段と少々勝手が違い、何となく落ち着かない。というか、オレ一人浮いていると思うのは
どうも気のせいではないだろう。「河田くん、ちょっと髪を伸ばしてみたら? それじゃ柔道の
選手みたいだよ」とかいったことばかりで、三井なんかとずいぶん話す内容が違っている。
まあそんなことはどうでもいいことで、三井の方も同じく落ち着きがなかったが、それはやつ特有の
人見知りからくるものだった。最初のうち、三井は光岡とばかり話していたが、やがて酒もまわって
くると調子を取り戻してきて、周りの女の子たちと談笑して楽しんでいるようだった。
もちろん酒がまわったと言え、合コンの席なのだ。部内の飲み会とは違って正体を失うほどの
酔い方はしない。ただ少しばかり唇に潤滑油がさされたという程度のものだが、それが案外曲者
なのだった。
女たちの中には三井目当ての連中もいて、そんな物好きがオレたちの周りにも一人いた。
そいつは三井の隣りに座ってやたら可愛ぶって見せ、それをまた三井が素直に受け取るものだから、
オレの方が仙道の代わりに「大丈夫かよ、こいつ」などと思ってしまう。
三井に「彼女」がいるという噂は広まっていたが、それも実物を拝んだ人間がいないということで、
女たちのアタックの妨げにはならないのだろう。
もっとも三井もこの場限りのことと思っているからこういう態度がとれるのかもしれない。
「ねえねえ、三井くん、今度わたしにもバスケ教えて」
しぜんバスケットに流れていった話題の中、その女が語尾にハートマークのつきそうな勢いで
言った。誰か無責任なやつが「三井は教え上手なところもある」とか何とか言ったのが引き金に
なった。
オレは心の中で、やにさがった三井が安請け合いをする方に賭けたが、三井の返答は案外素っ気ない
ものだった。
「駄目だな。オレは女とはバスケしねーの」
「えっ?」
驚きの声を挙げたのは、おねだりをした当の本人ではなく、オレの斜め前に座っていた
光岡だった。
光岡は自分の声にびっくりしたように口元に手をやり、「何でもない」と首を振った。
「ほら、知花もひどいって言ってるよ。ねえ、いいでしょ?」
「やだよ、だってつまんねえもん」
泣く子と三井のわがままには勝てない、というのが目下バスケ部では格言となっている。
さしもの自己中女も、その願いは渋々取り下げることとなった。女の方もごねるのは得策でないと
察したらしく、意外にすんなり引き下がったものだ。もっとも、バスケなんぞ三井とつきあう口実で
本当はどうだっていい、ということもあるだろうが。
そんな風に飲み会の席はまたこともなく進行していった。
「そう言えば、三井くん」
光岡が思い出したように話し出したのは、三井の隣りに座っていた女が洗面所に立ったとき
だった。
「彼女とうまくいってる?」
突然の話題に三井は一瞬言葉に詰まったようだったが、何とか答えた。
「別に、彼女ってわけじゃないけど」
そうそう。彼女じゃなくて、彼氏だ。
「ええっ、まだ告白してないの?」
光岡はちょっと意外そうに声を上げる。三井は困ったような顔をしたが、予期せぬ素直さで応じた。
「……ええと、したようなしないような……」
コイツの口から「好きだ」の「愛してる」のと言った愛情表現の言葉がこぼれ出るとはとても
考えられない。二人を観察しているうちにわかったのだが、こと仙道に関して三井はとても
天の邪鬼だったし、壮絶なまでの照れを見せて手が先に出ていた。痛めつけられた仙道は、
それでも嬉しそうに三井のすぐ近くにいるのだった。
「えーっ、だめだよ。わたしのためにも告白はしてよ」
マネージャーの光岡は三井と同じクラスで、二年前やつに振られている。そう、生意気にも三井は、
クラスでも部内でもかなり人気の高い光岡知花を袖にしたのだ。光岡はそれ以来いい友人の位置を
保っているようだが、実際のところ割り切れているのかどうかは定かでない。すっかり
男子バスケ部の女子マネ筆頭に成り上がったしっかり者の光岡だから、同情する気もないが。
「ねえ、じゃあずっと同じつきあいを続けてるの?」
「べ……別にいいじゃねえか、そんなこと。光岡には関係ねえだろ」
「でも興味あるんだもの」
悪びれず食い下がられて三井は追いつめられた。変に律儀な三井はこういうときうまくはぐらかす
ことができず、窮地に立つことが多い。
「ね、ちょっとだけ」
光岡に微笑みかけられて三井は進退窮まったようだ。もう時効だろうが振った負い目もあるから、
なかなか冷たくあしらえないのだろう。
「……何もあのときから変わってねえよ。顔合わせて話して、たまには一対一もやったりするけど」
「へえ……」
光岡は特に大きな反応をしなかったが、オレには三井の犯した失策がよく見えた。
ほんの二、三十分前に「つまらないから女とはバスケをしない」と言い張った三井なのだ。
それでもやつはまったくそのことに気づいていない。
三井は口で嘘をついても表情が雄弁に語るタイプだ。そしてやつのくるくるとよく変わる表情を
見ていて掛け値なしに好きだとわかるものが二つある。バスケと仙道だ。
だからこの二つの絡んだ話で、三井がのらないはずがなかった。ましてなけなしの理性も
アルコールに侵されてなしくずしになってきている。それほど厳しいつっこみに合っているわけでも
ないのに、三井はたいそうあっさりとさらなる危険地帯に踏み込んだ。
「……でもよ、あんまりうますぎても面白くないんだよな」
「どうして?」
「だって、空中戦じゃ負けるし、オレよりスタミナがあるし」
おいおい、それじゃ、相手が男だってばらしているようなものじゃないか。……いや、とっくに
ばれてるけどな。
光岡はそこをさらに追及するほど分別が不足している人間ではなく、何事もなかったかのように
取り繕っていた。
だが、光岡の頭の中には三井の失言がくるくるとまわっているに違いない。オレはとりあえず
三井の助け船を出すことにした。それは光岡にとっても助けの船になるはずだった。
「まあとにかく、オレたちは遊ぶって言ってもバスケするぐらいしかねえってことさ」
「そうそう、寂しい大学生活だよな」
テーブルの向こうから同意の声が返る。いつの間にか諸星が近くに移動してきていた。
「なーに言ってんだ、一番の遊び人のくせして」
「そうだ、そうだ。女とっかえひっかえして」
オレの言葉に三井が同調してくる。諸星が女にもてるのが気にくわないらしい。だが、
結局恋人に男を選んだのは誰のせいでもないということをやつはわかっているのだろうか。
「ひどいなあ。オレはバスケをおろそかにしたことはないぜ。いつもおまえたちと一緒じゃないか」
笑いながら諸星が言うのに、光岡がぼそっと付け加えた。
「だから続かないんじゃないの? 諸星くん、部のつきあいの方、優先するもんね。わたしが彼女
だったらやってられないこともあると思うんだ」
カワイイ顔して手厳しいお姉さんだ。
「えっ、あ、そ、そうかな?」
図星を指されて諸星は柄にもなくうろたえた。まあ諸星のやつも、何よりバスケが優先する
バスケ馬鹿には違いない。
そしてここにいる誰も頭の上がらない光岡マネージャーはとんでもない科白を口に出した。
「……そういえばバスケ部の人って、人気がある割に浮いた噂がないんだよね。あ、諸星くんは
除くわよ。……ひょっとしてみんなホモだったりしてね?」
その瞬間、三井がひきつけるようにびくっとしたのを見た。いちいちそんな反応をしている
ようでは、ばれない秘密まで漏れてしまう。少しは仙道の泰然としたところを見習った方がいいな、
三井くん。
固まる三井に光岡は気づかない振りをしている。
「まあ、オレが思うに……」
オレは光岡の皮肉めいた言葉を笑って受けた。
「牧には婚約者がいて、諸星は軽い遊び人で、三井は男の方にもてて、オレは女にもてない、
ってところじゃねえかな? それから一年坊主の名物二人はまだまだお子さまだし、二年生は……」
「そう、それなのよ、仙道くんでしょ」
光岡は手を打った。話はまた別の方に転がり始めた。
「わたしね、ほら、神奈川出身だから仙道くんの噂も色々聞いていたわけ。で、仙道くんこそ
『来る者は拒まず、去る者は追わず』の軽いやつ、ってイメージだったのよ。それがこの大学で
顔を合わせてみたら……」
光岡は目を三井に戻し、肩をすくめた。
「やっぱりみんなと一緒で、全く遊ばないじゃない。あんまり噂は信じない方がいいのかな、
と思ったんだ」
「へえ、光岡、仙道のことが気にかかるわけ?」
黙して語らなかった三井がやっと口を開いた。まるで意外なことを聞いたと言いたげに興味を
見せている。それは純粋な関心で、言葉の裏に別の感情が揺らめいているようには聞こえなかった。
「わたしがってわけじゃないわよ。ただかなり人気があるのは確かね。でもみんな仙道くんのこと、
もっとかっこいい人だって思っているみたい」
光岡はそこで笑った。
「彼、バスケではすごいけど、変なところでボケだもんね。良く言えば大らかっていうのかしら、
なんかペース狂っちゃうって言うか。怒ったところも見たことないよね。大人っぽくて後輩のくせに
年下って感じはしないんだけど、どこかに穴があるから全権を任せちゃうのは不安な……」
仙道の特徴を挙げ連ねていた光岡は、不意に言葉をとぎれさせ、首をひねった。明らかに何かを
考えているように見える。
「……どうしたんだよ、光岡」
三井が声をかけると敏腕マネージャーはびっくりしたように顔を上げ、それから「何でもない」と
首を振った。
やがて中座していた女が戻ってくると、話は別の方向に転がっていった。合コンの席は、
そこから先はいつもと同じ流れで進み、終わって気がついてみれば仲間内でカップルが成立した
やつはまったくいない有様だった。