* * *
そのとき光岡が頭の中でどんな記憶の糸をたぐり寄せ、整理し、組み替えていったのか、オレも、
そこにいる誰も推測しようがなかったし、しようとも思わなかった。しかし絡み合った糸は一つの
瘤を解消すると意外にすんなりとほどけていったらしい。光岡はそのときのことを振り返って
そんな風に言ったのだった。
で、いまのこの窮地だ。
週が明け、光岡に呼び出されたオレはこうして喫茶店に二人きりでいるのだった。
いかにも午後のティータイムを楽しむという感じの店で、昼下がりのいま、店内にいるのはうちの
大学の女子学生グループと、カップル一組とオレたちだけだった。同じ男女の二人連れと言っても
ラブラブでもない光岡とオレは非常に浮いている。その証拠に女子学生たちがちらちらとこっちを
窺っているのがわかったが、そんなことはどうということもなく、光岡の奢りで店の自慢の
チョコレートケーキを食い、茶を飲んだ。幸いなのは、ゆとりのあるテーブル配置でよほど大声を
出さない限り、会話が他人の耳に入ることはなさそうなことだった。
光岡は最初のうち何をどう言ったらいいのかわからないと言った顔をしていたが、やがて
切り出した言葉はかなりストレートなものだった。
「ねえ、三井くんがつきあっているのって、ひょっとしたら仙道くんなのかな?」
もちろん三井と仙道のことを注意して見ていれば、二人の間が何となくおかしいというのは、
普通の人間ならばわかるだろう。それを男同士の恋愛関係と結びつけるかどうかはまた別問題だが。
もっとも人間というのは物を見ているようで見ていないところがあるから、三井のような
ボロ出し放題の人間でも何とか本人なりの体面を保っていけるのだ。
「……三井と仙道の秘密を守る会にようこそ、ってか?」
オレの言葉で一瞬光岡は「やっぱり」と「がっかり」のないまぜになった表情を見せた。しかし、
すぐに肩から力を抜き、笑った。
「みんな、いつから知ってたの?」
「うーん、オレと諸星は去年の夏合宿のときからだ。……牧は一年の夏から知ってたってよ」
「わたしにも話しておいてくれたら良かったのに……」
うつむき加減でぽつりと言ってから、顔を上げて笑いかけてきた。
「なーんて、言えないか、やっぱりね。わたしがみんなの立場でもわたしに言えないよね」
明るく振る舞っているが、多分に落胆の色はあるようだ。
本当に、光岡の言う通り、恋敵が男というのもなかなか不毛なことだろう。だから光岡は知らない
方が良かったのだし、オレたちも秘密は最少人数の間にとどめておいたのだ。もちろん秘密は
知っている人間が少ないほど密度が濃くなるし、知らない振りをしていれば甘さも刺激も味わうことが
できるということもある。だが、不幸にも秘密は漏れてしまった、本人の大ボケによって。
こうなったらいっそのことどれだけの人間に広まるのか確かめてみたい気もするこのごろだ。
大人数に広まっても秘密は秘密、要は当の本人たち、特に三井が秘密の存在を信じていればいいこと
じゃないか?
「光岡、いつ気づいたんだ? ……ああ、もしかしたらあの合コンの日か?」
「うん」
光岡が肯定するのにオレはかなり大袈裟にため息をついて見せた。
「あの日は特にチョーシこいてたからな、三井のやつ。でも、やつの恋人が男だっていうのは想像が
ついても、そこでどうして仙道ってことがわかったんだ?」
「それはね……」
光岡は順序立てて説明を始めた。
二年前の夏、光岡が三井に告白をしたとき、三井は好きなタイプの「女」のことを語ったのだと
言う。
「その言葉は忘れたことがなかった。だって、わたしとはずいぶん違うタイプだったし、
そのときも何となく違和感があったから」
光岡は自分の言葉に頷いた。
「それにね、彼、一緒にバスケができたら楽しいって言ってたのよ。でも普通あんまりデートで
バスケはしないし、したとしても三井くんの性格じゃ、女相手はあまり楽しくないんじゃないかと
思ったの」
「なるほどな」
好きだ何だと言いながら、光岡の三井に対する性格把握はかなり正確なようだ。
これだから女は怖い。
「そうしたら、金曜のあの言葉でしょ、『女とはバスケをしない』って。それじゃ、バスケを一緒に
する彼女は男だってことじゃない」
お説ごもっとも。ただし、言わせてもらえば、『彼女』の役割をこなしているのはどうも
三井の方じゃないかという気がしている。いや、単なる推測に過ぎないが。
「河田くん、何考えてるの?」
「い、いや、何でもねえ」
果てしなく想像が先走りそうになったので、現実に戻してくれた光岡の言葉に感謝した。
いずれにしろ、あのとてつもなく天の邪鬼でプライドの高い三井がどの面下げて恋愛しているのか、
まったく考えも及ばないことだった。もっとも相手があの仙道だからうまくいっているのかも
しれない、などと近頃はだいぶ毒されたことを考えている。
さて、話を戻すと、光岡は二年前の夏に聞いた三井の好きなタイプと、合コンの席で自分が
仙道について言ったことが、すっかり符合していることに気づいたのだという。
それに気づいたことで錯綜していたパズルはすっかり完成し、全体像が見渡せるようになった
のだった。
「で、感想は?」
オレはいささか興味があって聞いてみた。
「そりゃ、ちょっとショックだよ。好きになった人に男の恋人がいたなんて、女の沽券に関わるよね」
それはその通りかもしれないが、恋敵が同性だろうが異性だろうが、恋愛関係は所詮好みと
タイミングの問題だろうと思うから、振られた方が劣っていることにはならないだろう。そうだ。
普通の男なら仙道より光岡の方がいいに決まっている。
「別にそんなことねえだろ。三井が変わってるだけで、光岡自身には何も傷なんてつかねえよ」
「河田くん……」
オレの言葉を聞いて、意外なことに気丈な光岡が絶句し、その目がみるみる潤んできた。
やばい。
そう思ったときはもう涙の粒がせり上がってくるところで、予期せぬ展開にオレはすっかり
面食らってしまった。
どうしてこんなところで、急に泣くんだ。オレは別に何も悪いことはしていないじゃないか!
ちょっと思ったことを言っただけなのに……だから苦手なんだ、女の相手は!
周りの視線が急に気になり始めて、オレはケーキのフォークを握ったまま固まってしまった。
ど……どうすればいいんだ?
ハンカチで涙でも拭いてやった方がいいのか? でも、ハンカチなんていつも持ってるわけ
じゃねえし、ズボンのポケットにつっこんだ汗拭きタオルではちょっと何だろうし……。
それとも汗臭くてもタオルを貸してやった方がいいのか?
光岡が俯き、瞬きをしたようだ。
ええい、ままよ、とズボンのポケットに手をのばしたオレの視線の先に、そのとき卓上の
紙ナフキンが飛び込んできた。反射的に手をのばして光岡に紙ナフキンを差し出すのと、
光岡が膝の上で握りしめていたハンカチを手に顔を上げたのは、ほとんど同時だった。
「河田くん……」
涙に濡れた目を丸くして光岡はしばらく何も言わなかった。だが、やがて肩が小刻みに震えだし、
すぐに再び顔を伏せてしまった。遅れて声が漏れてくる。嗚咽のようにも聞こえるが、
それは間違いなく笑いを飲み込もうとする声だった。
「……や……やだ……おかしい……河田くんたら……」
引きつけるように笑いながら、光岡は顔を上げた。目はまだ涙で濡れているが、もうすっかり
立ち直っている。笑いの発作が収まるのを待っていると、声を震わせながら言った。
「河田くんが慌ててるのって、初めて見た」
オレは柄にもなくしばらく何も言えなかった。ナフキンを手の中でくしゃりと丸めて何気ない
振りを装ってテーブルのケーキ皿の上に置いた。
いま泣いたと思ったらもう笑ってやがる。かーっ、これだから女は!……と同じ感想を繰り返す。
言っておくが、オレは三井や仙道みたいに男とつきあいたいわけじゃあない。だが、
女はどうもわからなくていけない。光岡なんかは普段ほとんど女を感じさせないのに、
肝心なときはこう来るってわけだ。
何だか、こめかみに汗が浮いてきた。店内は冷房が効いているので、これはきっと冷や汗という
やつだろう。
光岡はひとしきり笑って笑いの発作を収め、息を吐いた。
「……まだ心のどこかで期待してたんだよね、きっと」
「ああ?」
「三井くんのこと。だって中学のときから見てたんだもん。……そばにいるし、仲良くしてるし、
一度振られたからって簡単に割り切れるものじゃないよ……」
今度こそ光岡の顔は大きく歪み、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。それは止めどなく流れて、
胸の中で押さえつけられてきた感情を洗い流してでもいるかのようだった。
オレはズボンのポケットを膨らませていたタオルを引き出すと、涙の重さに徐々に俯いてきた
光岡の頭の上にかけてやった。
光岡はそれに気づき、タオルの端を顔にあてた。
「……臭い」
涙声でそんなことを言う。
「贅沢言うな」
オレがそう言うと、光岡は泣き笑いの声をあげ、それから汗臭いのもお構いなしにタオルで顔を
拭った。オレは黙って目を逸らした。向こうの方のテーブルで女どもがちらちらとこっちの様子を
窺っていたが、もうそれはあまり気にならなかった。
「ごめん……」
光岡の謝る声がしたので目を戻すと、敵はすでに顔を上げて毅然とオレの方を見ていた。
目が赤く腫れていたが、それ以外は憑き物の落ちたようなさっぱりした表情をしていた。
「ありがとう。河田くんと友だちでいてよかった」
「なあに言ってんだ、いまさら」
光岡は笑った。
「三井くんや仙道くんとも友だちでいてよかったと思えるようになりたいよ」
「……おう、がんばれ」
別に光岡を励ましたいという気持ちはなかった。ただ、いつもの調子でオレは続けた。
「あの二人のことじゃ、遊べるぜ。今度はせいぜい楽しませてもらおうじゃないか」
喫茶店を出ると初夏を思わせる日差しが照りつけてきた。下旬とはいえまだ五月なのにこれだ。
夏のことを思うとうんざりする。
大学へ戻るとキャンパスを学食に向かって歩いた。ちょうど昼飯を済ませた連中の第一波が引ける
ところで、キャンパス内の道は混んでいた。
光岡はクラスの女友だちと約束があるということだったが、とりあえず途中までは一緒に歩いた。
人目を引く二人連れが向こうから来るのに気づいたのは、学食入り口に通じる坂の上に出た時だった。
「おう」
悪びれず手を挙げて、そいつ、三井は声をかけてきた。隣りというか、半歩ほど遅れて仙道が
付き従っている。この頃ではもうだいぶ警戒心が薄らいできたらしく、二人でいるところを見られることに
慣れてきているようだ。
オレの隣りで光岡の体がほんの少し緊張するのを感じたが、それもたぶん近づいてくる二人には
伝わらなかっただろう。
「何だ、おまえたちこれから昼メシか?」
三井はオレたちの前で足を止めて言った。
「オレはこれから学食だけど、光岡はオトモダチとイタリアン・レストランで優雅にランチだとよ」
女子大生と男子大学生の差はこんなもんだ。
「へえ、いいですね。もしかして、東門のちょっと先の道を入ったところにある新しい店ですか?」
それは感じのよい笑みを浮かべながら仙道が言った。
「へえ……仙道くん、知ってるんだ。さすが、神奈川一のタ……」
「タ……なんだって、光岡?」
光岡が途中まで言って慌てて言葉を飲み込んだのに、三井は仙道をからかういいネタを見つけたとでも
言いたげに食いついた。よせばいいのに、結局傷口を大きくするのは自分なのだ。
「何でもないわよ」
「タラシ……だろ?」
オレはもちろん楽しめるものは素直に楽しむ主義だ。ちょっとばかり光岡の背中を押してやった。
「河田くん……。友だちがいのある人だよね」
ずいぶん下の方からきっと睨んでくると、今度はため息をついて三井と仙道の方を向いた。
「別にわたしが思ったわけじゃないからね。ただ、有名だったもん、陵南の仙道はすっごいタラシだって」
「ええっ?」
光岡の言葉に仙道が不満の声を上げた。
「ひどいなあ、知花先輩だって知ってるでしょ、オレが本当に真面目なバスケットマンだってことは」
「でも、あんな店知ってるなんて、やっぱりって感じするよ」
全てを見通したせいか、光岡の対応はかなり厳しげな気がする。女の敵は女というが、この場合、
敵は男だったのだ。
「そりゃ、オレだってデートしようとか思ったときには、それなりに洒落た店とか入りたいなんて
思うことはありますから」
三井を前にした仙道は、この男にしては珍しいほどの真剣さで反論してきた。どうもこんなところにも
二人の力関係が忍ばれてしまう。
まっとうなつきあいをすれば、仙道というやつも粗雑に扱われることはなかったろうに、哀れな話だ。
「へえ……」
しかし三井は意外にも素直な反応を見せた。仙道にそんな望みがあるなど、きっと考えたこともなかった
のだろう。何しろ深く深く潜行した間柄、のつもりなのだ。
「でもよ、そんなところ、きっと入りにくいぜ。どうせ行くんなら……」
そこで我らが三井くんは掘った墓穴から飛び出してきた。
「いや、だから、その、バスケ部の連中で行くには似合いの店じゃねえだろ、ってことさ」
穴は、途中で掘るのを止めても残る。うまくごまかしたつもりでも、目の見える人間にはたとえ
足首程度の深さの穴だって判別できるのだ。
「やっぱり、昼は学食、夜は定食屋か居酒屋が一番落ち着くよな」
笑いながら同意を求め、もう失言のことは忘れたようだ。仙道は何となく釈然としないようにこちらの方を
見ていたが、やがて目を逸らした。
三井と違って本当の本当に深いところでは聡い仙道のことだから、オレたちが二人の秘密に気づいている
ことを察したのかもしれない。
だが、やつにとって大切なことはオレたちがどう考えているかではない。三井が安らいだ気分で
いられるかどうかなのだ。その仙道の気遣いは端で見ていて並大抵のものではないとよくわかり、
そんなに三井が好きなら一生二人で幸せにな、などと仏のような心が湧いてきてしまう。
「仙道くんってさ、きっと永遠にお洒落な店なんて行けないよ」
オレと同じことを考えたのだろう、光岡が言った。
「知花先輩、オレに恨みでもあるんですか?」
たれ気味の眉をさらに下げたような印象の情けない顔で仙道が受けたものだから、光岡はついに
噴き出してしまった。
「恨み……はないわけじゃないかもね。でも違うよ、永遠に行けないって言うのはね……」
光岡はそこまで言って、仙道に屈むよう合図した。そして仙道が膝に手を当てるようにして背を丸めると、
その耳元に何事かささやいた。
怪訝そうだった仙道の顔が少し戸惑ったように変化し、光岡が離れても狐につままれたような顔を
していた。
「何だよ、二人でこそこそと」
三井が少し気に障ったように言った。これは一種のやきもちではあるかもしれないが、それは仙道と
光岡の接近度に対するのではなく、自分の目の前で秘密がやりとりされていることから来ているに
違いない。
「何でもない、何でもない。それじゃ、時間だから」
光岡はひらひらと手を振ると三井の反撃の余地を残さずに走って行った。
「おい、光岡いま何て言ったんだよ。ずるいぞ、おまえ一人だけ!」
謎をつきつけたまま当事者の片方がトンヅラしたのだから、三井はもう一方の当事者にくってかかった。
「それは……」
喉元を締め上げられたまま珍しく口ごもると、仙道は何か聞きたそうな目でオレを見た。
それにオレは頷いて見せた。
一瞬やつは苦笑するような何とも言えない表情を見せると、むきになる三井と向かい合い、
優しげな顔で言ったのだった。
「オレが年上の美人とつきあっているって知花先輩思いこんでるみたいです。だからイタリアンって
感じじゃないんじゃないかって」
さすがだ。急ごしらえの言い訳とは思えない。
三井は締め上げた仙道のシャツの喉元をそのままにしばらく動かずにいた。仙道は後はもう何も言わず
三井の顔をにこにこと見ているだけだった。
試合中にも時々感じることだが、仙道の放つ雰囲気には何と言ったらいいのだろう、一種鎮静剤の
ようなものが含まれている。チームが相手の攻勢に浮き足立っていても、あいつの一言と笑顔で収まる
ことがあるのだ。それは本人も意図したものでなく、きっと人徳(というとちょっと違うような気も
するが)というもので、強気一辺倒に見える三井に実は一番良く効くに違いない。
案の定三井は怒りの矛先を緩めた。
「ふん……てめえがどんなやつとつきあってどんなとこに行こうが、オレァ別に興味ねえけどよ。
……な、河田?」
すっかり二人の世界を作っていたくせ、突然思い出したように話を振ってくる。それで慌てるような
オレでもないが、調子を合わせてやっているのだから、少しぐらいはおこぼれに与ってもいいような
気にもなってくる。
「そうでもねえよ、なあ仙道、おまえ、本当に年上のカワイイのとつきあってんだろ?」
からかい半分に言ったが、仙道は全く動じる様子もなかった。
「そうですね……まあ河さんがそう思うなら、そういうことにしておきましょう。
でも横取りはなしですよ」
仙道は冗談なのか本気なのかわからない反撃をしてきた。それにしてもちっとは人を見て攻撃するか
どうか考えてほしいものだ。オレは癇癪持ちでわがまま放題の恋人なんて持ちたくはないんだ、
コイツと違って平和な一生を送りたいからな。
遊びもここまでで、いい加減このとんちんかんな二人連れとおさらばしようと思っていたところに
都合よく三限の予鈴が鳴った。とりあえず今度のコマに講義は入っていないが、こんなやつらといつまでも
つきあって食いっぱぐれるのはごめんだ。
「それじゃ、オレはメシだから行くな」
「おう」
三井は仙道とオレの交わした会話のきわどさも気づかず、三井は機嫌良く受けた。オレは急いで学食に
足を向けた。
きっとこの先も、三井がいる限りおもしろおかしく過ごせるだろう。あと二年は切ったが、
オレの大学生活はきっと最後までバラ色に違いない。
三井と仙道と秘密に乾杯。
オレは心の中でグラスを掲げた。