「三井さんのご両親って、素敵ですねえ」
 別荘を出るなり仙道は言った。
「ああ?」
 声の方を向くと、にやけた笑顔がすでにそこにあった。
「お母さんは若くてきれいだし、お父さんは、ああいうのをロマンスグレーって言うんでしょ?」
「……そうかあ?」
 私道を別荘の敷地の出口へと向かいながら三井は言った。 シャンパン二杯で少し頬が上気しているのがわかる。
 ささやかなニューイヤー・パーティの後、三井の両親は一階の主寝室に降りていった。 三井はその隣りにある小部屋をいつもは使っていたのだが、 この日は仙道とともに二階のツインルームを使うよう言われ、渋々従った。 もっとも息子と仙道の本当の関係を知ったら、そんなことは言わなかっただろう。 まったく、知らないというのは恐ろしいことである。
 ともあれ、すぐに眠ってもよかったのだが、アルコールが入り少しハイになって 近くの神社に初詣をしに行こうということになった。そうすれば酔いざましになるし、 帰ってきて風呂に入れば気持ちよく眠れるだろう。
 厳しく冷たく張りつめた夜の大気の中を二人肩を並べて歩いた。公道に出たころには 別荘からの光は届かなくなり、月明かりと疎らな街灯だけが頼りになっている。 海沿いの道路は切れない車列のせいで明るいが、山の上は全く様相を異にしていた。
「でも一番素敵なのは三井さんをすごく大事にしてることですよね」
 忘れたころに前の話を続ける。三井は眉をひそめ、相手の顔を仰ぎ見た。
「……おめえなあ、こんなとこでゴマすったって何も出ねーぞ」
「やだなあ、本気でそう思ってるんすよ」
「てめえ……オレより年下のくせしてわかった風なこと抜かすんじゃねえよ」
 最終的に優位を保てるのは年齢だけだというのも悲しいが、三井はその絶対的な切り札を ちらつかせた。仙道は肩をすくめ、口の端に薄い笑みをはいた。 ワイングラス二杯のシャンパンはその男の表情を少しも変えていなかった。
 しばらくそのままの流れで黙って歩いた。それでも間が持たないという感じはなかった。 暗くて寒い人通りのない夜道を歩いているのに寂しさは全く感じなかったし、 海へ向かって吹く冷たい風も気にならなかった。
 三井は冴えた夜空を見上げた。そして不意に強烈な孤独感に襲われた。 それは高一の晩春、バスケットボールを失った松葉杖の日々の心許なさと似ていた。 バスケに復帰するまで、彼は宇宙空間を永久にさまよい続ける動力の切れた宇宙船のような 毎日を過ごしたのだ。
 やりきれない寂寥感を持て余し、三井は仙道に言った。
「おまえさ、バスケやめたらどうするか考えたことあるか?」
「え?」
 唐突な問いかけに仙道は聞き返してきた。
「オレ……そんなこと考えもしないうちに放り投げたことがあっただろ、だからな……」
「三井さん、バスケやめること考えてるの?」
 妙に真摯な声。三井は仙道の懸念を笑って打ち消した。
「やめねえよ。オレはこの先何があっても自分で納得するまではやめらんねえってわかってんだ。 たとえ大学から声がかからなかったとしても、きっとどこかで続けてた」
 仙道は足を止めた。
「……駄目ですよ、三井さん」
「ああ?」
 三井は仙道を睨めつけた。下がった眉の下で目が笑っていた。
「何が駄目なんだよ、おい!」
 続けるほどの才能はないからいい加減で諦めろと言いたいのか。
 かっとなって相手の胸ぐらを掴む。笑みは多弁な口元にまで降りてきていた。
「どうせやるなら全日本目指しましょう。……いきなりアメリカじゃいくらなんでも だいそれてますから。とりあえず全日本入り」
 十分だいそれたことを考えている男は襟元を掴む三井の手に手を重ねた。
「約束ですよ」
 顔を近づけて言われ、三井は気圧された。冗談ともつかぬ口調だが、 仙道の目は本気の色をのせているような気がしたのだ。 しかし口元の笑みで我に返り手を振り払った。
「全日本だあ? 全国も経験してないうちに大きく出たじゃねえかよ」
「あいたっ、そこ突かれると立場弱いっすよ。……三井さん、意地悪だなあ」
 キス寸前まで近寄った顔が表情を崩す。
「そんなことは今年結果を出してから言えよな」
「そうですねえ……全国は未知の領域だし、いい選手もたくさんいるだろうし」
 そう言ったきり珍しく仙道は考え込むようにして口をつぐんだ。
「……何しょぼくれてんだよ。言っとくけどな、おまえは全国でも相当いい線いってっぜ。 オレが保証する」
 行きがかり上励ますと、仙道が目を瞠る。
「三井さん、どうしたんですか……気遣ってくれてるみたいだけど」
「何だよ、悪いかよ、本気でそう思ってるから言ってんだ。……本当にオレ、 おまえのことは好きかどうかわかんねえけど、おまえのバスケットは好きだし、認めてるんだぜ」
「三井さん……」
 いきなり仙道の腕が腰にのびてくると体ごと引き寄せられ、きつく抱きしめられた。
「オレ、がんばります。もう負けませんから」
「何急に盛り上がってんだ、バカヤロウ、放せってば」
 とんだ墓穴掘りだった。仙道は三井を解放するどころか、腕の力をいっそう強めた。
「何度でも言います。湘北にも負けませんよ。三井さんがオレのバスケを好きだって 言ってくれたから、思う存分やって、流川も桜木も宮城も……みんな蹴ちらして、 陵南が勝ちます」
「てめっ、オレは馬の鼻先の人参じゃねえんだ、こんなことでやる気出したり 引っ込めたりすんじゃねえっ!」
「それでも」
 仙道の手が顎をすくい、顔がこころもち上向きになったところで唇が降りてくる。 彼とのキスにはまだ戸惑いがあったが、受けてしまえば意外なほど違和感がなかった。 諦めてしばらく身を任せていると、仙道は顔を離した。
「……これが二つ目の約束」
 眩しそうな目をして言い含めるように漏らす。
「ああ? んだって?」
「一つ目は三井さんとオレの全日本入り。二つ目は陵南が全国へ行くこと。 いまのキスで契約成立ね」
 二の句が継げなかった。何という自信、何という厚顔。 仙道の大胆さはいい加減わかったつもりでいたが、それでもいつも振りまわされる。 しかし同時にどこか爽快なところがあった。
 三井はやっと、ジェットコースターを楽しむような気分になった。 口角を上げ、にやりと笑って見せる。
「おまえな、それじゃ順番が逆だろう」
「え?」
「一つ目が陵南の全国、二つ目が全日本入りだろ、フツー」
「うーん」
 仙道は腕を組み、天を仰いだ。
「まあ、どっちだっていいでしょう?」
 挙げ句の果てに言った言葉がそれだ。厚顔、大胆、そして大雑把。 本当の天才なんて、そんなものなのだろう。何だか細かく考えるのがばからしくなった。
「そうだな。要は中身だよな」
「そうそう」
 調子よく答える男にお灸を据えてみたくなる。
「それじゃあ、約束破ったらどうすんだ?」
「うーん、そうですね」
 もう一度仙道は空を睨み、考え込んだ。それから気の利いた冗談でも思いついたかのように くすりと笑った。
「こういうのはどうでしょう。もう三井さんに会わないってのは?  ……何にしろ、そんなことになったら三井さんに合わせる顔がないものなあ……」
「だからオレを餌にすんなって!」
「どんな罰でもいいんですよ、結局ね。この約束は守るつもりですから」
 相変わらず人を食った話を続ける相手に、三井はあきれ返った。
「言ってろよ。……おまえな、陵南の全国はともかく、おまえやオレの全日本入りは、 結果の出んの、ずいぶん先のことになるぜ」
「そこがつけ目です」
 仙道は片目をつむり、すかさず言った。
「そういうやつだよな、おまえって」
 口ではそう言ったが、逸らした目の端で盗み見た笑顔に肩の力が抜けた。 素直に胸の内を覗けば、仙道の約束を信じたがっている自分がいる。 それを認めたとたん心が軽くなり、世界が広がった。
 宇宙の片隅で心細い生を営んでいる寂しさもいまは感じない。 知らぬ間に三井の隣りを定位置に決めた男の顔が、体の奥にまで温もりを伝え、元気の素になる。 仙道の大らかさはいい。
 三井は足を踏み出した。間を置かず仙道はついてきた。
 寒ささえも心地よい、澄んだ空気の流れる夜だった。



次へ