|
結局そんな風に、妙に生真面目で頑迷な自分と、もう一人の流されやすい自分との
シーソーゲームはずっと続いていくのかもしれないと三井は思う。
近くの神社で初詣を済ませて帰るともう三時近くになっていた。別荘の一階はすでに明かりが消え、
静まり返っている。
脱いだコートを廊下のクロゼットにかけると、仙道のコートも引き受けながら三井は言った。
「日の出は見てえし、これから風呂入ったりしてると、もう寝てる暇はねーな」
仙道が下がり眉をいっそう下げる。
「それじゃあ、時間つぶしに一戦交えましょうか」
「……念のため聞いといてやる。何のだ?」
「それはもちろん、三井さんとオレの愛の……」
問答無用で三井は仙道の頭をひっぱたいた。
「何言ってんだ、てめえ。頭腐ってんじゃねーか?」
「駄目ですか」
「ったりめーだ。新年早々盛んじゃねえよ、ケダモノ」
「年中盛るのは人間ぐらいのものでしょ? オレってすごく人間らしいと思いませんか?」
にっこり笑って言うので、耳をつまんで思い切り引っ張ってやった。そして低い声で言い足す。
「ケダモノ以下!」
冷たい目で一瞥をくれ、足音も荒く浴室に向かう。ドアを開けて照明をつけ、
脱衣室に上がって浴室を抜けた。洋風の造りの中で、そこだけが和風の快適さを取り込んでいた。
蛇口をひねると透明な温泉が湯気を上げて迸り、大人二人が余裕で入れる浴槽にたまり始める。
海側は全面ガラス窓になり、湯に体を沈めたまま海を眺めることができるようになっていた。
それだけのことを済ますと今度は浴室の前のランドリールームの扉を開けて、仙道に声をかけた。
「ここに洗濯機と乾燥機があるからな。服を脱いだら……違うって、風呂に入ってからだ!」
早速服の襟元に手をかけた相手に三井は怒鳴る。
「……ったく、裸になることしか考えてねえ……」
ぶつぶつと半ば独り言のように呟いて気を取り直し、廊下をいちばん奥まで進むと、
突き当たりのドアを開けた。
そこは渋めの床材の上に絨毯の敷かれた広い部屋で、大ぶりのベッドが二台据えられていた。
照明は入ってすぐのところに照度の低いライトがつけられているだけで、
部屋全体を明るく照らし出すものは何もない。ちょうどホテルの部屋のようにそこかしこに
ぼやけた闇が残っている。すでに二人の荷物はその部屋の造りつけのクロゼットに
しまい込まれていた。
三井は自分の荷物を開き、パジャマを二着取り出した。一着はオーソドックスな
薄いブルーの綿ネルの前開きパジャマで、三井のお気に入りだった。
もう一着はゆったりとしたスエット・タイプの上下。それなら仙道の体格でも何とかカバー
できるだろう。パジャマと下着を抱え室内履きを手にして寝室から出、
リビングにいる仙道に一声かけた。
「着替えここに置いとくからな。……先に入るぜ」
返事は待たずにドアを閉め、さっさと服を脱ぎ始める。篭の中に無造作に下着まで落とし、
浴室に入った。いきなりガラス戸が開いたのは、体を洗い終え、
たまった温泉に片脚を突っ込んだときだった。
「失礼しまーす」
仰天して振り返った先には懲りない男がいた。
「せ、仙道!」
「さっきここを覗いたら、十分二人入れそうだったんで来ちゃいました。
広くてきれいな風呂ですね」
「てめえ、誰が一緒に入るって言った!」
声を荒げても仙道は少しも気にしない風で、上がり湯の蛇口のところに陣取ってから
肩越しに湯舟の縁に腰掛けている三井を見る。
「一緒に入ろうとは言われなかったですけど、入ってくるなとも言われなかったし。
……別にいいじゃないですか、男同士なんだから」
正論をぶつしたり顔が気に食わない。それよりも、男のケツを狙っているやつの
言うことではないと思う。三井はそう言おうとして口を開きかけたが、
仙道の言葉の方が早かった。
「心配しなくても大丈夫。オレ、三井さんの気持ちを一番に考えたいから、
少し紳士でいようと思います」
急に顔が熱くなる。まだ全身湯に浸かっているわけではないのに、のぼせたような感じだ。
「あ、でもお願いはしますけどね。だって三井さんが誘ってくれるなんてまず考えられないもの。
だからたまには甘い顔してやって下さい」
そのまま黙々と体を洗い始めるのを見て、三井はずるずると肩まで温泉に沈んだ。
自分が女だったら、仙道は最良の恋人だったかもしれない。だが現実には男なのだから、
こだわりは捨てられない。戸惑いもある。
バスケット選手としては最高の印象度。年下だが気のおけない友人。
そして臆面もなく男相手に恋を語る男。
「簡単に使い分けできたら苦労しねーや」
呟いた声は水音に紛れて消えた。とりあえず一年も仙道との関係も始まったばかりだった。
一足先に浴室を出た三井は寝室ではなくリビングに戻った。
ベッドに横になるとすっかり眠り込んで日が高くなるまで起きられないような気がしたからだ。
だだっ広い部屋もすっかり暖房がきいて気持ちよく暖かかった。
ソファに陣取って髪の水気を拭っていると、じきに仙道が出てきた。頭からタオルをかぶり、
パジャマ姿で歩いてくる。パジャマの袖丈とズボン丈が少々足りないのが情けないが、
長めの前髪をおろした万人向けのハンサム振りと妙に合っていたし、
「天才・仙道」の厭味を消していた。彼は三井の向かいの安楽椅子に腰をおろした。
完徹は了解事項だった。
間をもたすためテレビをつけ、それからしばらく他愛のない話を続けた。
そのうちにどうしても瞼が重くなってたまらなくなったので、コーヒーを煎れようと
いうことになった。仙道が煎れるのを買って出、三井は必要なものを一通り出して
電気ポットをオンにしてからリビングに戻った。
ソファに座り、漫然とテレビに目を向ける。仙道の手並みにはいささか不安があったが、
とりあえず割られて困るカップは出さなかったから大丈夫だろう。三井はソファの肘掛けを
枕にして横になった。一度大きくあくびをする。にじむ視界の中で魔物が甘い誘いをかけてくる。
少しだけ目をつむったら? ちょっとの間だけなら大丈夫。
この上なく甘美な誘惑に三井は少しだけ身を委ねてみることにした。瞼を閉じてのびをする。
気持ちよくて、自然に口元がほころびる。テレビの中の賑やかなやりとりは遠のいていった。
コーヒーの香りがどこからか漂ってくるのはわかったが、もう目は開けられない。
いま彼は夢うつつの至福の境にいた。
……三井さん?
遠いとも近いともいえないところから声が降ってくる。いい気持ちで返事だけした。
……コーヒーいらない?
いらない。
考えるより先に答えを出し、身じろいだ。ほかに何も欲しいものはなかった。
ただそのまま眠りの世界に溶け込んでいたかった。なのにすぐに大きく体を揺り動かされ、
三井は抗議の声を上げた。閉じようとする瞼を無理やり開ける。目の前には男の笑顔があった。
ひどく嬉しそうな、優しい瞳だった。安心して目をつむると額に柔らかい感触を覚え、
ついで快い振動を感じた。振動はしばらく続き、やがて体が自由になる。
ひんやりとした清潔なシーツの感触に頬ずりし、体を優しく被う暖かさに微笑んだ。
そこで幸せな微睡みは完結し、深い闇へと落ちていく。
……安心してゆっくり眠って下さいね。
暗闇の中の一条の光のように不思議に耳に入ってくる声に大きく頷きを返し、
彼は意識を手放した。
「……さん……三井さん」
体を揺すられて、三井は半ば現実を取り戻した。寝返りを打とうとして
何か重いものにのしかかられているような気がして、無意識に押しのける。
「いてっ、三井さん、オレですってば、オレ!」
そこで本当に覚醒した。ぼんやりとした明かりに照らされた薄闇の中、
目を凝らせば浮かび上がるのは仙道の顎。喉輪のように仙道をのけぞらせているのは自分の手だった。
彼は慌てて手を離したが、離した後でベッドの上に押さえつけられているのに気づき、
思わず相手の頬を殴りつけていた。
「バカヤロウッ、何してやがる!」
「何って、起こしにきただけですよ」
言われて我に返り身を起こすと、確かに仙道はベッド脇に座り、
そこから手をのばしているだけで、別に三井の寝込みを襲おうとしているわけではないようだった。
「ひどいなあ、三井さん、低血圧?」
「ちげーよっ! ……紛らわしいことすんじゃねえ、大バカヤロウ」
ごまかしついでに仙道の頭をぽかりとやる。それからまだ暗いのに改めて気づき、悪態をついた。
「何でこんな夜中に起こすんだよ」
「夜中じゃないですよ、もう朝」
「え?」
時計を見ると仙道の言う通りだった。
「ここから見る日の出がすごくきれいなんでしょう? オレ、三井さんと一緒に見たいから、
起きてもらいました。安眠妨害してごめんなさい」
眠る前の全ての記憶がつながり事情を理解したのは、そのときだった。
完徹するつもりだったのに眠ってしまったことはそのときになって初めてわかった。
たぶん仙道が一人眠らずに三井のちっぽけな願いを叶えようとしていたことと、
謝るのは仙道の方ではないということも。
「……顔、洗ってくる。そこで待ってな」
三井は洗面所に急ぐと顔を洗い、眠気をすっきりと洗い流した。そして一度浴室に入った後、
玄関のクロゼットから二人のコートを出して寝室に戻った。寝室ではスポーツバッグの中から
ソックスや手袋やセーターやマフラーといった防寒具を引っぱり出す。
とどめは使い捨てカイロだった。三井は目を白黒させる仙道になるべく厚着をするよう言った。
三井がパジャマの上からセーターを着込み、スキー用ソックスを履くのを見て、
仙道もようやく手を動かし始めた。そうこうしているうちにも、空の黒は藍へと変わり、
さらに紺青へと移り変わろうとしている。夜明けは間近だった。
全て身につけるとその上からコートを着、仕上げに使い捨てカイロを持つ。
仙道にもカイロを分けて言った。
「覚悟しろよ、寒いぜ」
「承知です」
寝室からバルコニーに通じる窓を開けると冷たい風が部屋の中に入り込んできた。
未明の大気は暖かみの一片もなく冷え切っていて、無謀にその中に踏み込もうとする者を威嚇する。
それでも三井と仙道は敢然と一歩を踏み出し、並んでバルコニーの際に立った。
「……寒いけど暖かい」
仙道の正直な感想に三井は笑いを漏らした。失笑や嘲笑ではない、
もっと温かくこみ上げてくる笑いだった。
やがて紺青は澄んだ青へと変わり、その青も急速に色を変えていった。
そして水平線のあたりが白くなったと思うと、太陽は周囲を焼いて頭をかいま見せた。
光は全世界のあらゆる不安を駆逐するかのように領分を拡大していく。その烈しさ、厳しさ、
そして鮮やかさ。三井は目の潤むのを感じた。
「三井さん……」
仙道に呼ばれてその方に目を向ける。すると涙が一粒、右目からこぼれた。彼は慌てた。
「……風が冷てえからだ……」
言い訳すると、淡い光が不意に遮られ、三井の顔に影が落ちた。
素直になれない唇は仙道の唇に封じられていた。自然な流れだった。
温もりを伝え合うような穏やかな清々しいキス。手袋をしていない仙道の手の冷たさを
頬に感じながら、身を任せる。いつの間にか太陽は全身を水平線の上に現していた。
新しい朝の到来だった。
三井は体をひき、顔を上げた。
「オレさ、去年の正月はどん底だった。何もかもなくしちまって、もう取り戻せないと思ってた」
仙道は一瞬どんな反応を示したらいいのかわからないといった顔を見せた。三井は素直に続けた。
「でもバスケが戻ってきた。オヤジやオフクロも元のままだった……泥沼にはまったって、
這いあがるのに遅すぎることなんてないんだよな、きっと」
三井が言うと、朝日の中、仙道が軽やかに笑った。
「もちろんです」
三井も笑った。
「……中入ろうぜ。もう一度風呂入って、少し寝た方がいい」
「風呂って……」
「一緒に入ってやる。……ただし、一緒に入るだけだからな」
「それだけだって、オレ嬉しいです、すごく」
「安上がりなやつ!」
悪態をつきながら寝室に戻った。部屋の中に入ると、室内にそぐわないコートや防寒具を脱ぎ去り、
争うように浴室に飛んでいった。
それから仲良く浴室の窓から光を受ける海を見た。
後はゆっくり休んで、遅く起きたら母親の作った雑煮を食べる。
好きな人たちと何もしないで過ごす贅沢。
三年ぶりの正月の醍醐味を、三井はたっぷりと貪るつもりだった。
終わり
|