|
父親の運転する車は幸い大した渋滞にかからず、順調に距離を稼いだ。
市街地を抜けて海沿いの道に出たころから少しずつ車が詰まり始めていたが、
もともと電車を利用すれば一時間ほどの近場であり、あと一息というところまで来ていた。
左手に広がる海は黒く蠕動していた。陸と海と空の境は満月より少し欠けた月と人工的な光で
区切られている。後部シートに仙道と隣り合って座りながら、
三井は妙な非現実感にとらわれていた。
両親と仙道の四人で別荘に行くなど、わずか二日前には考えられないことだった。
それがいまでは仙道は、生まれてからずっと生活を共にしてきたかのように馴染んで車の中にいる。
それはひとえに仙道のまとう空気のせいだろう。厭な感じはしなかった。
やがて車は海と別れ、山道へと入る。木立の間から見えかくれする海は、
月の光を映す波頭だけが銀色に輝いていた。別荘に近づくにつれ、
三井の中で三年前に止まっていた時の流れの一部がゆっくりと動き始めた。
何ということもない道のカーブや山腹に生い茂る木々までが、感覚の空白を埋めていく。
すぐに車は私道へと逸れ、少しだけ走って停まった。
連絡を受けた管理人が気を利かせたのだろう、すでに建物には灯が点り、
主一家の到着を待っていた。門灯のほかにもリビングにつけた照明が、
夜の闇の中暖かく人を迎えている。
「さむ……!」
車から降りるなり厳しい寒さが身を包み、首と肩に余分な力がこもった。
言葉は口から出たとたんに細かい霧になって凍結し、空へ返っていく。
それでも心は少しも冷えない。
鍵を開ける父親の後に中に入ったとき、懐かしい空気に包まれてしばらく三井は
身じろぎもせず立っていた。何もかも三年前と変わりなかった。
「あっ、すいません」
背中に衝撃を覚え振り返ると仙道がいた。車に積み込んであった荷物を抱え無警戒に
入ってきたので、立ち止まっていた三井に気づかなかったらしい。
「大丈夫ですか? オレ、うっかりして」
三井はそこでやっと我に返った。
「……人を壊れ物扱いすんじゃねーよ」
乱暴に廊下を進み、キッチンのドアを開けて持たされた食料品の包みを調理台に置く。
後から仙道が入ってきたので、そこからカウンターを抜けてリビングに出た。
山の斜面を利用して建てられているため、玄関は二階に位置している。
リビングは三十畳ほどはあるだろうか、二階の半分ほどを占めている。
玄関とは反対側の海に面した部分は全面が窓になり、相模灘を眼下に収めることができた。
父親の行った七年前の大規模な改修で建物の趣はだいぶ変わり現代的になったが、
竣工以来変わらないのがその眺望だった。そのため、この別荘は二階が客用フロアとなり、
専用の浴室と化粧室が作られていた。
「きれいですね」
仙道は驚いたように言った。
「ああ、いいだろ? オフクロが嫁に来たときのおまけだってよ。まあ近いこともあるしな、
しょっちゅう様子見に来てるらしいぜ
三井はそこで窓辺へ行き、仙道を呼んだ。
「来いよ。夜だからあんまりわかんねえかもしんねえけど」
隣りに立った仙道と一緒になって、頬を寄せんばかりに近づいてガラスの向こうを見る。
見えるのは山の黒を両脇に従えた藍を煮詰めたようなひたすら黒に近い海と、
それより幾分明るい空だった。沖合いでは航行する船の明かりが動いている。
三井はそこで目の焦点をガラスにあてた。夜の闇を背景にガラスは鏡の役割をし、
二人の男を映していた。その虚像の中の仙道に目を向ける。
すると予期せぬことに視線がかち合った。
驚きはなかった。どこか自然な感じがした。
仙道の目は温かくて優しくて、心が穏やかになった。
ちょうど適温の風呂の湯の中で手足をのばしたときのような心地よさだった。
しかしそんな気持ちは両親がリビングに入ってきたときに消えた。
その瞬間自分が落胆を覚えたことに気づき、三井は小さく笑った。
「何、どうしたの、三井さん」
「んー」
笑いを収め、上目遣いに下級のエースプレーヤーを見た。
「おまえって、宇宙人みたいな」
「はあ?」
「いつの間にかやってきて、ずっと最初からいたって顔してさ」
仙道は何も言わなかった。だから三井は言わなくてもいいことまで言った。
「……いなくなるときも急にいなくなるんじゃねえのか?」
「三井さん、寂しい? そんなことになったら」
「バカ抜かすんじゃねえよ」
両親が忙しく動きまわり始めたのを背中で感じながら小声で言う。
途中母親が声をかけてきたのに適当に返事をすると、ガラスに映る仙道に目を戻した。
向こうの世界の仙道は同じ世界の三井を見ていた。
「そーんなことあるわけねえだろ」
「オレは寂しいですよ、三井さんのそばにいられなくなったら。だってきっとずっと憶えてるもの、
こうして一緒に過ごす一晩一晩を」
三井は嗤った。
「よく言うじゃねえかよ、そんなに記憶力良かったか、おまえ」
言いながら頭をこづく。
「インハイのとき広島で魚住がぼやいてたぞ。バスケのことでは心配いらないんだが、
ときどき集合時間を忘れたりしてポカがあるって」
「いやだなあ、魚住さん、広島まで行って母校の恥をふれまわるなんて」
頬をかきながら『歩く陵南の恥』は屈託なく笑った。そして続ける。
「三井さんはね、特別なんです」
そう言う笑顔に三井は一瞬見とれた。不覚だが、事実だった。
「寿さん、仙道さん、甘酒を温めたからいらっしゃい」
タイミングよく母親の声がかかり、三井は窓から離れた。
リビングのテーブルでは熱い飲み物が湯気を上げていた。豊かな香りがそこを中心に広がっている。
麹から作る本物の甘酒の苦手な三井は、母親が作るこの酒粕甘酒なら口にできた。
湯でといた酒粕に適量の砂糖と隠し味の塩を入れて一煮立ち。甘みを控えた飲み物は、
冬になると外で遊んで芯まで冷え切って帰ってきた三井を体の中から温めてくれたものだった。
「あったかいなあ」
湯呑みを大きな手で掴んで仙道はぽつりと漏らした。
「ごめんなさいね、もうすぐ暖房が利いてくると思うんだけど」
三井の母親が謝ると仙道は慌てて手を振った。
「いや、そういうつもりじゃなかったんです。でも、この暖かさって、
ちょっとぐらい体が冷えてた方がよくわかっていいですよね」
そう言って大ぶりの湯呑みに嬉しそうに口をつける。搾ったばかりの粕だから、
比較的アルコール分は強いのだが、仙道を酔わすまでにはいかない。三井も同様だった。
そのままソファに座って四人でカードゲームをした。
水道管をのばしながら他人の水道管には水漏れさせ、自分の管は修理していくというゲームで、
邪魔の応酬で白熱した展開を見せた。そして三回目のプレーで父親に続き母親が上がったとき、
その音は遠くから響いてきたのだった。
「あ、除夜の鐘……」
のんびりしすぎて他人に漏水させる暇もなく自分の管の修理で忙しい仙道が、
カードの束を前に顔を上げた。
「あら、ほんと?」
「いよいよ今年も終わりか……」
すでに勝ちを収めた両親は余裕で次の鐘の音を待つ。
「仙道っ、おまえの番だぞ、早くやれ」
「ああ、すいません」
三井が漏水カードを仙道の水道管に接続して言うと、
仙道は手の内のカードに目を落として言った。
また鐘が鳴る。
それは深い山の中から響いてくるように、重い音で耳に届いた。
「なんかいいですね」
仙道はまた漏水させられかねない鉛管のカードを無造作に置きながら言った。
「……早くしねえと二年越しのゲームになっちまうぞ」
一回目も二回目も三井と仙道でビリ争いをし、低次元の戦いで一勝一敗だった。
だから今度のがその年の最下位決定戦となる。三井としては絶対に負けたくないところだった。
幸い手元には有利なカードが残っていて、もう少しで上がりそうだった。
「そうですね、スピードアップしましょうか」
言葉とは裏腹にゆっくりとカードを見渡し、おもむろに三井の管に漏水した絵の鉛管をつなげた。
しかしそのささやかな妨害は三井にとっては痛くもかゆくもなかった。
「やったっ!」
その漏水を絶対腐食しない銅管のカードで封じ、三井はビリ脱出を確定的にした。
「あー、負けちゃいましたか……」
大して悔しそうでもなく仙道は敗北宣言をした。時計を見れば、新年まであと五分を切っている。
滑り込みセーフの勝利だった。
それまでのもやもやした気持ちを飲み下しすっきりした三井の耳に鐘の音が届く。
不意にその一年間の出来事が頭の中を走馬燈のように駆けめぐった。
心を抑えつけどうしようもない自己嫌悪に苛まれた日々。
宮城に半殺しにされて病院の白い天井を見つめて過ごしたこと。体育館殴り込み事件。
バスケ部への復帰−。それから先は夢中でバスケだけをやって過ごした。バスケしか見えなくて、
失った時の大きさに涙したこともある。しかしいまではその何もかもを否定せずに見つめて
いこうと思えるようになった。
カードをまとめ片づけている仙道を彼は横目で見、それから前の安楽椅子に仲良く座り
音声をしぼったテレビに見入る父母に目を向ける。
父親はいつの間にか白髪が増えていたし母親も心なしか年をとったようだ。
それはたぶん歳月のせいばかりではないだろう。
三井はもう一度目を横に戻した。
いつかこのバカヤロウとのことも納得できることがあるんだろうか。
図ったように仙道が顔を上げ、目を細めた。
鐘が鳴る。この年もほとんどが過去の領域に流れていく。
新しくやってくる年は茫漠とした未来の一部だった。
「……なんかさ、十二時過ぎたら打って変わって『おめでとう』って感覚がすごいよな」
「でもオレは好きですけどね、そういうの。三井さんは嫌いですか?」
「別に……嫌いじゃねーさ」
テレビをちらと見ると、新年の到来は秒読み段階にきていた。
「くたびれたバッシュを脱ぎ捨てるみたいにさ。……でもきたねえ靴にだって愛着はあるだろ?」
「三井さんって……」
その後は聞こえなかった。ちょうどテレビ画面が新しい年の始まりを告げ、
三井の注意が逸れたせいもある。そのまま両親との新年の挨拶になだれ込み、
父親の開けたシャンパンで乾杯をしているうちにうやむやになり、聞き返す機会を逸してしまった。
まっさらな夜は、もう未来への漠とした期待をはらみ始まっていた。
|