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三井家の玄関先で仙道は天性の才能を遺憾なく発揮した。
甘いマスクでにっこり。それだけで三井の母は話にも聞いたことのない息子の友人の出し抜けの
訪問を受け入れてしまった。それも大晦日の夜という、初対面にはいささか難のある状況で。
「まあ、大きいのねえ。寿さんもいい加減大きくなったと思ったけど、
こうして見ると小柄に見えるから不思議だわ」
「オフクロっ!」
上がり口のところで感慨に浸ってしまった母親に三井が苦り切って声を荒げる。
すると三井家の主婦は己れの役割に目覚めたようだった。
「あら、ごめんなさい。それじゃあ、お上がりになって、仙道さん。
寿さんのお友だちをお呼びするのは本当に久しぶりで、至らないことばかりかもしれないけど」
「いいえ、そんなことは」
好感度抜群の笑みを浮かべ仙道が返す。三井はその隣りで無言のまま靴を脱ぎながら、
一時の気の迷いでどうにも面倒なことを背負い込んだような気がしてならなかった。
「おい、仙道、二階行くぞ」
半身になって、まだ下足していない仙道を促す。
すると長身の色男は慌てて靴を脱いで家に上がった。
そして次の瞬間背を向けてしゃがみ込み、自分のと一緒に三井の脱ぎ散らした靴まで揃えたのが、
また女性の心のツボを押さえたらしい。
「それじゃあ、お邪魔します」
立ち上がり頭を下げてとどめの一撃。
それで仙道は三井の母のお気に入りランキングに初登場一位という快挙を成し遂げた。
しかも赤丸つきである。
こいつの正体知ったら腰抜かすぜ、オフクロ。
心の中でむっつりとそう呟いて三井は仙道から母親に目を移した。
いや、心臓止まるかも……。
一晩で変化してしまった仙道との関係を思い、三井は頭痛を覚えた。
母親の上機嫌との激しい落差に、フローリングの床に足からめり込んでいくような気分になる。
そして憂鬱の原因は人の気も知らずにこにこと後についてきた。
「寿さん、すぐにお食事にしたいの。降りて来られる?」
母親の言葉に振り返らず承諾の返事をすると、三井は仙道を従えて階上に上がった。
三井家の二階には廊下を挟んで部屋が四つある。そのうち二部屋を三井が使い、
残りは来客用の寝室だった。
「……すごいですねえ、三井さんのうち」
吹き抜けの空間からリビングを見おろして仙道は言った。
「別に。……広いだけだ」
それがどれだけ恵まれたことなのか自覚もなく三井は答えた。
ついでに言えば、広いだけではなく、立派できれいだった。
「オレんちなんて狭いから、家に帰るといつも粗大ゴミ扱いなんですよ」
仙道は振り返り、微笑みかけてきた。三井は肩をすくめただけで、自室の前の部屋を指さした。
「おまえはそこの部屋を使え。いつ誰が来ても泊まれるようになってるからな」
「えっ、三井さんと別々なんですか?」
「ったりめーだろ」
「ええっ、そんなのつまんないっすよ」
相手の不平に取り合う気の全くなかった三井は荷物を部屋の中に放り込むと仙道に背を向けた。
「とにかくメシだ。早くしろよ、置いてくぜ」
「三井さん……」
構わず廊下を階段の方に向かうと、仙道が急いで荷物を下ろす気配が伝わってきた。
足を止めると長いコンパスですぐに追いつく。三井は振り返って仙道の目を見上げた
「清らかに新年を迎えるんだろ? だったら寝るのが別の部屋だって問題ねーじゃねえか」
笑って先に階段を下りる。仙道は何を思ったか三井の腕を掴んできた。
もう一度振り返ると相手は爽やかな笑みを浮かべ、とんでもないことを言った。
「正直者になるのは来年からにしようかな」
三井は目を剥いて、腕を拘束する手を振り払った。
「腐ったこと抜かしてんじゃねーよ。ったく、どうしようもねえやつだな」
三井はそこで階下の様子を窺った。特別な空気は伝わってこない。
日常生活の波長より少しピッチの高い、大晦日独特の気ぜわしさは漂っているような気がしたが。
「だからな!」
三井は下を見たまま言った。
「寝るまではずっと一緒にいてやるから、これくれえ我慢しろ」
「三井さん」
背中から仙道の腕がまわり、三井の体を軽く抱き込んできた。
鎖骨のあたりに右手が止まり、吐息がうなじをかする。しばらくそのままでいると、
不意に小さな音が耳に届いた。ダイニングに通じるドアの開く音だ、と思ったら、
母親の声が後追いしてきた。
「寿さん、まだ?」
「い……いま行くよっ」
慌てて仙道の腕をほどき、三井は足音も高く階段を駆け下りる。
その後から仙道もゆっくりとついてきた。
三井と仙道がダイニングに入ったときには父親はもうすでに食卓の定位置についていた。
三井の父親は普段はあまり口数の多い方ではなく、ややもすれば機嫌を損ねているという風に
とられかねない人物だったが、仙道には一目で好感をもったらしく、
挨拶から会話はスムーズに展開していた。
「急がせてごめんなさいね、仙道さん。でもお蕎麦だからのびてしまうとおいしくないし」
三井の母やテーブルにすばやく蕎麦の入った器を並べ、言った。
「お蕎麦、お好きでしょ? たんと上がってね」
すでに箸を取り上げていた三井は、その母親の一言に手の動きを止めた。
改めて広いテーブルの上に目を走らせると、四人分の食器がきちんとセッティングされている。
「さあ、どうぞ」
「はい。いただきます」
手を合わせて食前の挨拶をし嬉々として箸に手をのばす仙道だったが、
三井は感じた疑問を口に出さずにはいられなかった。
「オフクロ、どうして仙道が蕎麦好きだって知ってんだ?」
横で蕎麦つゆに薬味を落としていた仙道が顔を上げた。
「……そういえば、そうですね」
さすがの暢気者も不思議に思ったらしい。
「オレって、そんなに蕎麦が好きそうな顔してますか? 三井さんのお母さん、
すごく勘がいいんですね」
「ち……」
ちげーよ、そんなんじゃねえ。寝ぼけたこと抜かすな、このタコ!
喉元まででかかった言葉を飲み込んだのは、不良時代に身についた口の悪さを、
もう両親の前では出したくなかったせいもある。そして三井が突っ込みそこなった一瞬の隙に、
母親が機嫌良く真相を白状したのだった。
「実はね、仙道さんのお母様からお電話いただいてしまって」
「ああ?」
「あ、オレ、オフクロに三井さんちの電話番号聞かれた」
そこで仙道は信じられないことに蕎麦を一啜りした。
「……うまい! うまいです」
「ほんと?」
「蕎麦も言うことないですけど、このつゆも絶品です」
ダイヤが好きだからといって鑑定眼があるとは限らないように、
通と言うにはほど遠そうな彼は、蕎麦につゆをたっぷりつけてうまそうに喉を通す。
「まあ、嬉しい。お蕎麦はお父さんに買ってきてもらったんだけど、おつゆは自家製なの」
「三井さんが羨ましいなあ……いつもこんなうまいものが食べられるなんて」
感慨深げに仙道の口に出した言葉に、三井の母は舞い上がった。
「ほんとにねえ、仙道さんみたいに上手に褒めてくれる人がいてくれたら、
わたしもお料理の作りがいがあるんだけど。お父さんも寿さんも何も言ってくれないのよ。
……寿さんが女の子だったら良かったのに。そうしたら仙道さんにお嫁さんにしてもらって……」
「あ、いいですねえ、それ」
「オフクロっ、それで仙道のオフクロが何だってっ?」
とんでもない話の展開に、三井は声を高くした。このままだと横に座っているバカが
チョーシこいて何を言い出すかわかったものではない。
「そうそう」
母親は三井の誘導に乗ってきた。
「それでね、ご丁寧にご挨拶して下さったので、仙道さんのいらっしゃることがわかったのよ」
道理で二人で帰ってきて驚かなかったわけだ。
「よかったわ、支度が間に合って。まだまだおかわりはたくさんあるから、ごゆっくりどうぞ」
「はい、それじゃ、遠慮なく」
遠慮という言葉など端から無関係な仙道は、女殺しの笑みを浮かべて再度蕎麦に箸をのばした。
それからあっという間に彼は数人前分の蕎麦を平らげた。
その食べっぷりは三井の母親に食卓に着く暇を与えなかったが、
それでも彼女は文句の一つもこぼさず給仕にまわっていたし、
父親は父親で息子の友人の豪快さにいたく感じ入っているようだった。
やがて自分の前に並べられた料理をすべて腹に納めると、仙道は箸をきちんと揃えて置き、
ごちそうさまと言って手を合わせた。そのころには三井も食欲を満たしていたし、
母親も何とか食事にありついていた。年配者受けする仙道のおかげで大晦日の夕餉は和やかに進み、
三井もずいぶん気楽になった。
母親がその話を切り出したのは、父親がリビングに引っ込んでから、
そのまま食卓でみかんを食べながら当たり障りのない話をしているときだった。
洗った食器を乾燥機に入れダイニングに戻ってくると、エプロンをはずしながら何か
話したそうにしているのを仙道が気づいて水を向けたのだった。
もちろん三井自身も母親の様子には気づいていたのだが、さりげなく気を使うことができず、
無視していた。
「え、別荘? これから?」
「ええ。前はお正月は毎年あそこに行ってたでしょ? ……久しぶりにどうかなと思ったの」
三井家には海の別荘と山の別荘があり、三井が高校に入るまでは一家は正月を
海の方で過ごしていた。
そこは早くから温泉地として開け、文化人や政治家らが別邸を構えた土地で、
すぐ近くの熱海ほどの賑わいはなかったが、その分落ち着きのある格調高さといったものが
日々の空気の中に馥郁と漂っているようなところだった。その別荘はもともとは母方の持ち物で、
母の曾祖父の代に建てられ、何度かの改修を経て現在に至っている。
「いいぜ」
そこは彼にとっても気に入りの別荘だった。
「仙道さんもいいかしら?」
「あ、オレもお邪魔していいんですか?」
「あら、もちろんよ」
てめえ一人この家に残してどうすんだよ、バカヤロウ。
呑み込んだ悪態を胸の内にしまい込み、三井は立ち上がった。
厚かましくもさらにみかんに手をのばしかかった仙道の足を、母の目を盗んで踏みつけると、
目を上げてきたところで顎をしゃくる。
「来いよ。支度するから。……オフクロ」
三井は母親に視線を移した。
「すぐ行くんだろ? 早くしないと、渋滞次第じゃ車ん中で年越すことになっちまうぜ」
「そうね、そうよね」
母親は何故かほっとしたように微笑むと、リビングでゴルフ道具の手入れをしていた父親を
せき立てにかかった。それを後目に三井はもう一度仙道を連れて二階に向かった。
「パンツはくれてやる」
階段を上がりながら三井は言った。
「え?」
下の方から聞き返してくる声に、彼は階段を上りきったところで足を止め、振り返った。
「パンツだよ! どうせもう一泊する用意なんかしてきてねーんだろ?」
「ああ……はい、すいません」
少し戸惑ったように仙道は答えた。
「未使用のだからな、当然。……パジャマは貸してやる」
「あ、それだったら……」
三井はそこで緊張感もへったくれもなく眉の下がった仙道の胸ぐらを掴み上げた。
「サイズが合わないのはわかってんだよ。厭なら着なくたっていいんだぜ」
「……何も着なくて、三井さんだけ着ていたい……」
仙道の言葉の意味がわかった瞬間、額の血管が膨張し、
襟元を締め上げる手に思わず力がこもった。上昇する体温と逆に、声は低くなる。
「いまここで突き落としてやろうか?」
「や、冗談ですってば、冗談」
「ヘンタイ」
乾いた感情で三井は仙道を突き放した。手を離し、相手に背を向けてそのまま自室の前まで行き、
ドアノブに手をかける。
「着替えは向こうに着いたら洗え。全自動だから風呂入ってる間に済むだろうからな」
「はい」
「荷物持てよ。コートも忘れんな」
柄にもなくてきぱきと指示をし、それからまだ階段のところに立ったままの男を見た。
目が合うと嬉しそうに笑う。三井の気分が高揚しているのはそのせいではなかったが、
にわかに躍りだした幸福感を抑えることができず口元に笑みが浮かんだ。
唇までもが軽くなって自然に言葉がこぼれ出る。
「あの別荘はいいぞ。海が一番きれいに見える。……きっと毎年行きたくなる」
「来年分の予約、できますか?」
束の間夜明けの海の幻を見ていた目は、すぐに現実にいる柔らかい表情の男を映した。
「そんな先の予約は取ってねーよ」
言って自室に身を滑らせる。仙道は入ってこようとはしなかった。
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