* * *
それから一週間は穏やかに過ぎていった。
しかし神奈川の高校バスケットボール界はまさに波瀾の連続だった。
まず十八年連続優勝を目指す海南大附属が決勝リーグの緒戦で敗れたのである。
そして神奈川のバスケ・ファンは十九年ぶりに地元の大会で王者の敗北する場面を
目撃することになった。
人々の記憶に残る白星を挙げたのは、二年連続三位に甘んじた陵南高校だった。
魚住という大型センターの抜けた穴を、それまでとは違うバスケ・スタイルを展開する
ことで埋めていた。中心となっているのは、もちろん仙道だった。陵南は海南を、
まるで自分の方が王者だとでも言いたげな横綱相撲で下していた。勢いに乗る陵南は
そのまま翌週の翔陽戦にも勝利を収め、決勝リーグの成績を負けなしの二勝とした。
もうひとつの台風の目は湘北高校だった。二枚の強力なフォワードと、彼らを最も
うまく動かすことのできるポイントガードのおかげで、前年より小粒になった翔陽を
圧倒した。続いて海南も連破し、元王者の強力なOB連に盛大なため息をつかせた。
「信じたくないな……」
あまり見かけぬ憂い顔で肩を落としているのは、「神奈川の帝王」として鳴らした
牧である。彼は練習後の体育館で床に座り込みボールを磨きながらその日何度目かの
ため息を漏らした。
「牧、おまえってずいぶん往生際悪かったんだな」
隣りでボールを磨く手を止めて三井は言った。
この時点で湘北と陵南がともに二勝、海南と翔陽が二敗ということは、翌日の最終日
を待たずしてインターハイ出場の二校は決定したことになる。以前は海南・翔陽が
二大強豪として君臨していたが、神奈川の勢力分布図はわずか二年で塗りかえられた
わけである。あとの関心は優勝とMVPの行方に絞られていた。
常勝の冠がついにはずれたチームの前キャプテンは、いきなりの転落にかなり
ショックで受けているらしかった。三井は無造作にボールを指の上でまわした。
「勝つ方がいれば負ける方がいるのは当たり前だろ。……まあおまえんとこの後輩には
残念なことかもしんねーけど、夏が駄目でも冬だってあるし、第一やる気なら大学
だってあんだろ。おまえもこんなんでいちいち落ち込んでんなら、おとなしく深体大に
行ってた方が良かったんじゃねえか、牧」
「三井……」
牧は驚いたように目を向けてきた。その顔を見て三井は思わず笑ってしまった。
自分と比べて倍も大人だと思っていた老け顔の二枚目が年相応の青さを見せている。
「……牧って可愛かったんだな、知らなかったぜ、オレ」
こみ上げてくる笑いを抑えることができず顔を背けたが、肩の震えは止まるどころか
いっそう大きくなった。
「三井……おい、三井!」
牧が片手で彼の肩を揺すってきたが、笑いは溢れて止まらなかった。しばらく牧は
無駄な努力をしていたが、ついに諦め、またため息の回数をひとつ増やした。
「まったく、おまえってやつは……」
それから先は続かなかった。やっと笑いを収めた三井が顔を上げると、それに
気づいて目を向けてきた。
「……おまえが初めてだぜ、オレのこと『可愛い』なんて言ったのは」
物心ついたころから親だって言ってくれたことがないと前髪をかき上げながら
冗談混じりに続けるその表情は、すでにいつもの大人の顔に戻っている。
「だって本当だもんな。そういや、おまえまだ十八歳なんだよなあ、オレよりガキだろ」
なおも意地悪い笑みを口元にはりつかせて言ったが、もう牧は動じている様子は
見せなかった。
「まあ言ってろよ」
牧は再びボールを磨き始めた。三井としてももうつつきがいがないので途中で
放り出していたボールを拾い上げて仕事を続けた。
神奈川県大会の決勝リーグの勝敗結果を牧と三井の元にもたらしたのは
マネージャーの知花だった。土曜のこの日、練習は午前と午後の早いうちにあり、
午後の練習の休み時間に情報が伝えられたのである。当然のことながら三井の機嫌は
上向きになり、そうなると正直なもので練習のプレーも絶好調になった。牧は海南の
敗北の事実をあっさり聞き淡々と練習をこなしていたので、最初のうちは別に何も
感じていないのかと思った。が、すれ違いざま大きなため息を耳にして気づいた。
そうして見れば牧にしてはポカが多かった。帝王の名に恥じぬ堂々とした風貌のため
見過ごしがちだが、牧も自分と同学年の学生なのだと三井はそのとき実感したのだった。
「なあ、牧」
最後のボールを磨きながら三井は言った。
「今日飲みに行こうぜ」
「飲みに?」
牧はボールをかごに戻しながら答える。三井は立ち上がった。
「おう。湘北の祝勝会と海南の残念会だ。……ぱーっとやってふっきって、明日は
後輩どもを元気づけてやれよ」
もちろんそんなことを言えるのも、湘北と、ついでに陵南も全国を決めたからなのだ
と、三井は心の隅ではわかっている。だから少し気が咎めた。そして柄にもないことを
言っていた。
「よっしゃ。今日はオレのおごりだ。駅前にでも繰り出そうぜ!」
「その話、乗った!」
後ろからかかった声に振り向いて驚いた。いつの間にか河田と諸星がにやにや顔で
立っている。
このルーキー四人組は何やかや言いながらも行動を共にすることが多くなっていた。
三井としては好んで一緒にいるわけではないのだが、気がつけば周りにはよく三人の
顔があった。
「おい、おまえらにまでおごってやるとは言ってねーぞ!」
眉をひそめても二人は全く意に介さなかった。
「光岡、おまえも来るかあ?」
先輩マネージャーと一緒に雑用を済ませていた知花が体育館に戻ってきたのを目敏く
認め、河田が声をかける。彼女は目を輝かせて駆け寄ってきた。
「なに、なに、どこか行くの?」
「三井のおごりで飲みに行こうって話」
据わった目でにこりともせずに河田はとんでもないことを言った。
「わあ、ホント? 三井くん」
オレはそんなことは言ってねえ! 頭の中で弾けた言葉は、しかし口の中で脆く
崩れた。女の子の前でいい恰好をして見せたいのは男の本能だった。三井は眦を決した。
「よっし、てめーら、駅前の居酒屋の『飲み放題食い放題九十分コース』でいいなっ?」
そこらへんが彼のカッコつけの限界だが、バイトができず親からの小遣いに頼る
ばかりの身分としてはしようがなかった。格安で酔っぱらえる店を選択し、週末の
懐具合があまり寒くなり過ぎないようにする。翌日は仙道との約束もあるし、こんな
ときぐらいはおごってやりたいとも思うのである。
気がつけば体育館にはもう彼ら五人しか残っておらず、大急ぎで後始末をして部屋に
戻った。それから着替え、いったん寮に寄って荷物を置いていくことにした。知花を
ロビーで待たせ、四人それぞれ自室に戻る。三井は財布にカードが入っているのを
確かめてロビーに戻った。
電話がかかってきたのは、五人揃って玄関を出ようとしたときだった。寮母が三井を
見つけて声を張り上げた。
「三井くん、電話よ、佐藤くんから」
「えっ、佐藤?」
敷居をまたごうとしていた足が思わず止まった。自分がどんな過剰な反応を見せた
のかわかったのは、不審げに集中した他の四人の視線に気づいたからだった。
「……ったく、しようがねえなあ」
不承不承といった態でまわれ右をし、動揺を隠す。はいたばかりの靴をまた脱いで
上に上がってから、やっと振り向く余裕ができた。
「悪い。一足先に行っててくれよ。すぐに追いつくから」
「おう、じゃあな。待ってるぜ」
意外に淡泊な牧が受けて四人は外に出た。窓口に置いたままになっている受話器を
取り上げて耳に当てたままそれを見届け、三井はやっと口を開いた。
「おう、オレだ」
『あ、仙道です』
電話の向こうからはいつも通りののんびりした口調が返ってくる。念願の全国行きを
実現したのだからもう少し昂揚しているところが感じられても良さそうなものだが、
流川の無表情ともまた違い、この男はほとんどいつも一定の領域でしか感情を表さない。
「……報告か、今日の」
『あ……わかりました?』
「馬鹿でもわかんだよ、そんなこと。で?」
結果はわかっていても聞いてやる。
『決めましたよ、全国』
またもいつもの能天気な声。もっとはしゃいでくれなければ、密かに用意していた
祝いの言葉も素直に口から出るものではない。
「よかったじゃねーか。……で?」
『で……って、三井さん、忘れちゃいました? この間会ったときに約束したこと』
素っ気ない返答に電話の声が曇る。
『全国に行けることになったらすぐに会ってくれるって言ってくれたでしょ。
だから……』
だから頑張ったなどと言われた日にはどうしてくれようと思う。世の中もっと
頑張り甲斐のあることがあるはずだ。
「あーっ、わかったよ、明日だろ? でもたぶん夜になるぜ」
『もちろんオレは三井さんを一晩独り占めできるんなら文句はないんですけど』
期待を裏切るようなことをされても、仙道はその理由を聞かない。まるで三井の嘘も
言い訳も全て込みで抱え込みたいとでもいうように。もっとも、もう三井にも意識的に
仙道に隠していることも隠したいこともないのだが。
「……理由、聞かねえのかよ」
『え、あ……そうですね、どうしてですか?』
「湘北が優勝すっから、まずそっちの方で盛り上がんだよ」
一瞬の間があり、それから息をつく気配が伝わってきた。
『それじゃあ、やっぱりうちが勝たなくちゃ』
「ああ?」
『だってそうでしょ、負けるわ三井さんと会う時間が短くなるわじゃ、いいことひとつ
もないですもの』
「てっめえ、言いたい放題言いやがって」
仙道相手に毒づくのは癖のようなもので、決して怒っているわけではなかった。
口元が何とはなしに緩んでしまうのは、きっと電話線の向こうにいる男の悪影響に
違いない。
「まあいいか、今日はおまえの頑張った日だし、ちょっとぐらい言わせてやったって。
……明日はどうする? 横浜あたりで会うか?」
返答はすぐにはなかった。受話器からはなんの音も伝わってこず、少し不安になる。
「おい、仙道、聞いてんのか? 寝てんじゃねえだろうな、おい!」
『……どうしたの、三井さん今日は優しい……』
仙道の声がやっと返ってきた。耳元をくすぐるような囁き声だった。その響きで
三井の脈は速まり、言葉の意味を理解して一輝に頭が熱くなる。
「どうせオレは優しくねえよ!」
勢いで電話をたたき切らなかったのは上出来だった。
「どうせひねくれ者なんだからよ、明日の約束はチャラにしようか?」
『そんなこと言わないで下さい……明日会えないなら、今夜寮に押しかけて
行っちゃいますよ』
冗談が冗談に聞こえない。いや、端から本気なのかもしれない。
『……横浜のどこにしましょう』
三井の混乱の収まり際に仙道はタイミング良く先を続けた。それまでのやりとりなど
すっかり忘れてしまうような絶妙の呼吸だった。
「昔、親に連れられてったホテルがあんだ。ロビーならわかりやすいし、知ってるやつ
に出くわす危険性もねえから、そこにしようぜ」
『ホテル……ですか?』
含みのある声音あった。三井は眉間に皺を寄せた。
「言っとくけどな、晩メシ一緒に食うだけだぜ。コーコーセーのくせして
何考えてんだ。まだ夏休みに入ってねえんだから、月曜は学校行かなきゃならねえ
だろーが!」
『えー、それだけですか?』
「おまえな!」
『あっ、はい、わかってます。明日は会って話ができればそれだけでいいんです』
素直に引き下がる仙道に三井はホテルの名前と待ち合わせ時間を告げた。本当は
部屋を取ってもいいと思っていた。高校生が門限破りと午前様を覚悟するなら、
多少の余裕はある。三週間ぶりに声を聞いて、気持ちは確かに緩んでいた。
そんなに長い空白ではないはずなのに、仙道の声を聞いてどこかほっとしている
自分がいた。
「じゃあな。……観に行ってやるから、明日、頑張れ」
最後にそう告げてすぐに電話を切る。その瞬間、仙道がどんなに舞い上がったか
など、三井には考えも及ばないことだった。
「うそ……」
電話ボックスの中で受話器を握りしめたまま仙道は呆然と呟いた
聞き間違いでなければ、三井は激励してくれたことになる。そんなことは初めて
だった。恋人と言えるようなつきあいを始めてから半年経つが、どう記憶をひっくり
返してもこう素直に「頑張れ」と言われたことはなかった。翌日に行う当の試合が
対湘北戦だったから、なおのこと三井の言葉は信じられなかった。
虚しい発信音だけを遠くの方で繰り返す受話器を見やり、やっとフックに戻そうと
する。途中で思いついてそれで頭を叩いたら痛かった。少なくとも夢ではないらしい。
仙道はボックスを出ると、外の空気を胸一杯吸った。少し離れたバス停のベンチで
待っていた連れが手を振るのも、このときは目に入っていなかった。
陵南高校バスケ部は、その日の試合で初の全国進出を決めた。意気揚々と学校へ
引き上げたバスケ部員たちは、気持ちの高まるまま体育館で一練習した。試合の疲れは
あまり残っていなかった。
自主練で逸る心を抑え、それから残ったメンバーでファミレスに乗り込んで夕食まで
の一時しのぎをした。そして西の空に日が傾いたころには仙道は寮に帰り着いていた。
あとはゆっくり休息をとって次の日の試合に備えるだけだった。
呼び出しがかかったのは風呂に入って部屋に戻ったときだった。寮母の指示で
父兄応接室に走ると、そこには女がいて、ソファに腰を下ろさずすっと芯の通った
後ろ姿を見せていた。彼女は振り向いた。亜沙子だった。
どうして彼女がそんなところにいるのかすぐにはわからず目を白黒させたまま
応接室の外で立ちすくんでいると、彼女は笑顔で近づいてきた。
「環ちゃんだって嘘ついちゃった」
小さな、しかしよく通る声で告げる。
仙道の姉の環は二十三歳で普通のOLをしている。亜沙子とは年も違うし見た目も
全く違う。しかし姉本人を知らなければ、年より上に見られがちな仙道と若く見えて
きれいな亜沙子とは五歳違いの姉弟として通らないこともなかった。寮母にした
ところで、彼女が過去仙道の守備範囲に入っていたとはなかなか考えにくいに
違いない。もともと寮則といえば門限厳守と法律遵守ぐらいだったから、他人でも
面会できないことはないのだが、余分な面倒は避けるに越したことはないと賢明な
彼女は判断したのだろう。
「……びっくりした」
やっとのことでぽつりと漏らすと彼女はこの日の試合を観にきていたのだと告げた。
「おめでとう。あとは優勝ね。今日はもうゆっくり休むだけなの?」
風呂上がりの、前にたらしたままの髪を見て彼女は言った。
「一応明日も試合なんで」
「……これから出られない?」
「これからですか?」
彼は少し考えた。翌日は大事な一戦があるが、いまから特別にすべきことはない
から門限までならつきあってもよかった。それでも越野の怒った顔や彼をなだめる
植草の困った顔がふと脳裏をかすめ珍しく迷っていると、亜沙子が追い打ちをかけて
きた。
「一足先にお祝いしてあげようと思って。明日からしばらく時間を空けられないから
今日中にと思ったの。何でもおごってあげるわよ、ステーキでもお寿司でも焼き肉でも」
体育会系の高校生を釣るには食欲を刺激するのが一番だった。たとえファミレスで
空腹を癒してきたとしても、腹はすぐに減る。亜沙子は過たずそこを攻撃し、仙道は
簡単に落ちた。
「行こうかなあ……」
「いいじゃない。ご飯を食べるだけなんだから、誰に遠慮することもないと思うわ」
「うーん……そうですね。それじゃ、ちょっと待って下さい。着替えてきます」
仙道は急いで部屋に引き上げ、結局制服のズボンと半袖のカッターシャツを身に
着けて一階に下りた。一応高校生の正装である……というのは建て前で、それ以上
きちんとした服を持っていないのだった。
髪はいちいち立ち上げている暇がないので、自然に任せた。それに前髪を下ろして
いれば自分とはわからないだろうから、かりに知っている人物に出くわしたとしても、
大事な試合を前に夜遊びする不届きなやつという誤解を受けることはないだろう。
一九○センチ台の長身だけでも十分目立つのに、彼はそう思い込んでいた。
出がけにもう一度亜沙子が寮母に挨拶をし、二人で連れだって外に出た。彼女の車の
駐めてあるパーキングに向かう途中、見かけた電話ボックスで三井に連絡を入れた。
翌日の予約はなるべく早く押さえておきたかったのである。
彼は相変わらず突き放した乱暴な物言いをしていたが、心なしか甘さを感じさせて
くれ、仙道を感激させた。とりわけ電話を切る直前の「頑張れ」の一言は見事は
KOパンチだった。頭の中は一瞬にして真っ白になり自分がいまどこで何をして
いるのかもすっかり消え去って、バス停で待っていた亜沙子を忘れて寮に帰りかけた
ほどだった。さすがに呼び止められて我に返ったが、嬉しさがじわじわ広がって顔に
出てきてしまう。口元を手で押さえて真顔を保つ努力をしたが、果たして成功して
いたかどうかはわからなかった。
パーキングで彼女の車は、一年のうちで最も日の長いこの時期のまだ明るい
空の下で、鈍い光を受けていた。まず亜沙子が運転席に着き、仙道が何とか助手席に
収まった。
「さて、どうしましょ。何が食べたい?」
サングラスをかけながら亜沙子は言ったが、仙道が考える間に先を続けた。
「やっぱりお肉かな。食べ盛りの男の子だし、好物でもお蕎麦じゃちょっと寂しいし。
お肉なら、近くにいいお店知ってるんだけど、そこでいい?」
否やのあろうはずがなかった。もともと長いつきあいで互いの好みは多少なりと
わかっている。悲しいかな、仙道に関する彼女の把握ぶりは三井より確かだった。
亜沙子は車を動かし、巧みな運転で車道に乗り出した。目的の店は二十分ほど
走った先にあった。幹線道路からはずれ、隣りがどこかの会社の保養所で向かいは
公園という立地は暗くなれば静かに通り越して寂しくなるだろう。ちょっと見には
懐石料亭という風情だが、指定の場所に駐車して打ち水をした玄関先から中に入り、
さらに奥へと通されると、独特の匂いが鼻孔に入り込んでくる。
「……何の匂いですか?」
「しゃぶしゃぶよ。食べたことない?」
「はあ……」
仙道はこくりと首を振った。話には聞いていたが、なぜか仙道家の食卓に上ることは
なかったので、口に入れたことはなかった。もっとも彼は家族の中でしゃぶしゃぶを
食べたことのないのが自分一人だという事実には思い至らないだろうが。
ともあれ初めて口にした牛肉の鍋物は非常に美味で、結局彼は数人前を
食べ尽くした。亜沙子は冷酒の入ったグラスを傾けながら、ときどき鍋に肉を
泳がせていた。会話はもっぱらその日の試合や来るべきインターハイのことに
集中した。
ゆっくり食事をして外に出ると、もう夜の闇はあたりをすっかり
おおい尽くしていた。
「少し歩かない?」
車のところまでやってきたとき、彼女は言った。
「車はしばらく預かってもらえるし、この道をずっと行くと海に出るのよ」
「いいですね」
こころもち上気した彼女の頬に気づき、仙道は答えた。
初夏の快い潮風を身に受けながら二人は海に向かって歩いた。梅雨の晴れ間の空に
いびつな月が黄色く輝いていた。やがて、海沿いの歩道のところまで来ると、
近くの階段から浜に下りた。細いヒールの靴をはいた彼女は歩きにくそうだったが、
ゆっくりと足を運び、乾いた砂の上に腰を下ろした。二人はぽつりぽつりと会話を続
けていたが、やがて彼女は仙道の肩にもたれかかり、寝息をたて始めた。仙道は
当惑したが、しばらくの間亜沙子に肩を貸すことにした。
目の前にはただ寄せては返す海だけがあった。耳にはすがすがしい波の音。
慌ただしい一日が、やっと落ち着きを取り戻す。改めて一日を思い返すと、
インターハイの切符を手に入れたことよりも、三井の声を聞いたことの方が
嬉しかった。
明日、頑張れ。
その一言はどんな声援より有効に彼の力を引き出すだろう。
仙道は三井の顔を思い浮かべた。おかしなことにすぐに浮かんでくるのは眉間に皺を
寄せた怒ったような顔ばかりだった。三井なら仏頂面でも構わないのだが、本当に
いちばん好きな表情は……。
そう、これ。
臆することなく真正面から視線を射込んでくる顔を記憶のひだの中から引き出して
仙道は微笑む。あんな顔で「頑張れ」と言われたら、全国制覇どころか世界征服だって
できるのではないだろうか。
「……さん」
思わず声に出して名前を呼んでしまったことに自分で驚き、肩を揺らした。その肩に
かかる重みに改めて気づき目を向ければ、眠っていたはずの女と視線が合う。彼女は
すぐに視線を正し、舌を出した。
「狸寝入り、ばれちゃったわね」
「えっ、そうだったんですか? 気がつかなかった」
目を丸くすると亜沙子は微苦笑した。
「……心ここにあらずって感じだったものね」
そう言って、不意に目に浮かぶ表情を変えた。
「さっき電話してたの、彼女にでしょ?」
「えっ、あ、ああ、まあ……」
何とも歯切れの悪い返答をし、頬をかいた。
「試合、観にきてくれたの?」
「いいえ」
即答すると彼女はため息をついた。
「冷たい子よね……」
「いや、そんなこと……」
「そんな子は放っといて、結婚しちゃおうよ、わたしと」
三井をかばう仙道の言葉を遮って亜沙子の言ったことは、すぐには理解
できなかった。目の前には彼女の笑顔があり、ひとつひとつの言葉は理解できるのに、
なかなか意味がつながらない。答えに窮していると、亜沙子は続けた。
「……彰くんはずっとバスケのことだけ考えていればいいのよ、わたしが食べさせて
あげるから」
仙道は無言のまま瞬きを繰り返した。言われていることの意味がわからないから
何も答えられず、ただ真意の知れない女を見ているだけだった。
そんな時間がどれだけ流れただろう。彼女は急に笑い出した。仙道の戸惑いは大きく
なった。
「やだ、彰くん、本気にした? 冗談よ、冗談」
彼女は立ち上がった。ミニのタイトスカートについた砂をはたき落としながら、
それまでの発言を笑いに紛らす。
「さ、行こ。アルコールはもう抜けたし、明日も大事な試合だから、早く帰さないとね」
彼女に促されて仙道は立ち上がった。簡単に砂を払ってから一緒に歩き始める。
まだ頭の中は混乱したままだったが、亜沙子が冗談だと言うならそうなのだろう。
階段を上るときは二人とも無言だった。舗装道に出たとき、沈黙の重さに耐え
かねたように彼女が口を開いた。
「ごめんね、変な冗談言っちゃって。……仕事とかで色々あってむしゃくしゃしてた
し、彰くんって優しすぎるから困らせてみたくなったんだわ」
疎らにしかない街灯のせいで彼女の表情はよく見えなかったが、笑顔も少し傷ついて
いるような気がした。彼女の発言が本気なら、彼も本気で答えなければならなかった
だろうし、冗談でも別の対応の仕方があったのではないだろうか。来た道を
たどりながら、仙道は亜沙子には本当のことを打ち明けようと決心した。
「亜沙子さん」
名前を呼ぶと彼女は顔を上げた。
「オレの好きな人はね、本当はそんな冷たい人じゃないんですよ」
彼女は小さく頷いただけだった。
「口は悪いしすぐに手が飛んでくるけど、優しい人なんです。オレがその優しさに
つけ込んでるだけで……。実際オレのことではすごく負担をかけてるのに、文句
言いながらでもそれに耐えてくれてるし」
「素直じゃないのね」
「そこが魅力のひとつです」
「……げっぷが出そうよ」
仙道は笑って詫びた。
「すいません。でもまだ序の口です。その人のどういうところが好きとか言い
始めたら、きっとオレ、止まらないと思うんですよね」
彼女は呆れ顔で肩をすくめた。
「……初めて話したとき、オレはその人の目に惚れました。毅くて潔くて、何より
熱く燃えてて」
「女の子の話じゃないみたい」
「亜沙子さん、実は……」
仙道はそこで異変に気づいた。彼の視線をたどって亜沙子も息を呑む。前方七、
八メートルのところで、数人の男たちが狭い歩道を塞ぐようにして陣取っていた
のである。座り込む者、立って煙草をふかす者、姿勢や行動は様々だったが、
一様に服装は乱れ、剣呑な目をしていた。仙道は亜沙子をさりげなく車道側に移し、
連中を刺激しないで通り抜けようとした。亜沙子の緊張をほぐすため、笑顔で他愛の
ない話題を振った。二人は男たちの脇をすり抜け、前に出た。彼女が安堵の息をつく。
だが安心するのは早かった。
「よう、かっこいい兄ちゃん、いい女連れてるじゃねえの」
「これからいーことすんだろぉ?」
脱色した短髪の男がずいと近寄ってくる。その後ろでカマキリのように痩せた男が
にやりと笑った。そのほかに三人。全員仙道と同じぐらいの年頃だったが、やたら
疲れたような空気を背負い、若さは感じられない。後ろの二人は何かに酔っているのか
動きが鈍かった。
「オレたちにもお裾分けしてほしいんだけどなあ。なあ、ネエちゃん、いいだろ……」
「やめてよっ!」
カマキリが手をのばすと亜沙子はその手を気丈に振り払った。
「ひでえなあ、ネエちゃん、触られるのもイヤなんて、オレ傷ついちゃうよ」
しおらしい口調で言うと、カマキリは下卑た声で笑った。
「すいません。ちょっとびっくりしたんです。許して下さい」
仙道は亜沙子をかばうように立ち、いつもののんびりした口調で謝った。不良どもは
一瞬面食らったようだったが、その分怒りに火のつくのは速かった。
「てっめえ、チョーシっくれてんじゃねーよ。痛い目に遭いたくなかったら、さっさと
女置いて逃げな」
彼らは仙道の身長に最初のうち気圧されていたらしいが、彼の放つきわめて穏和で
人畜無害そうな雰囲気と穏やかな物言いに、がぜん威勢を取り戻していた。獲物を前に
舌なめずりをする不良どもからは、確かにすさんだ生活の悪臭が体の端々から
ふんぷんと臭ってきた。仙道は腹を据えた。
まず一人一人に目を留め、瞬時に力を見抜いていく。まず問題になりそうなのは
三人だった。短髪とカマキリともう一人。残りは足元もおぼつかない。しかし採るべき
方策はひとつだけだった。
ちょうど街灯の下での睨み合いに、互いの顔はよく見えた。
彼はいちばん前にいる短髪を睨めつけ、相手の濁った目に苛虐心の火の灯るのを見て
からやにわに視線を落とした。短髪もつられて足元に目をやる。そこをすかさず
向こう脛を蹴った。第一撃を受けた男が呻き声を上げてバランスを崩すと、カマキリは
よろけてきた彼を支えるのに精一杯で、応戦するどころではなくなった。
「亜沙子さん!」
仙道はすぐに混沌に背を向け、彼女の手を取って走った。逃げ切るしか道はなかった
彼のような男には、喧嘩は物好きに首を突っ込まなくとも巻き込まれて何度かは
経験のあるものだった。見た目より腕っぷしが強く、もちろん運動能力にも優れた
彼は、そこそこに渡り合える自信はあったが、亜沙子をかばいながら三人を相手に
するのはきつかった。何より時期が悪い。こんなことで警察沙汰にでもなったら、
せっかく全員で勝ち取った全国への道が閉ざされてしまう。
ヒールをはいた彼女は走りにくそうだった。二度ばかり転びかかって彼はスピードを
落とした。前方には歩道橋が迫っており、そこを渡って少し行けば例の店に逃げ込む
ことができる。横断歩道は遙か先だ。車道にはほとんど車は走っていなかったが、
彼女にガードレールとその前の植え込みを越えるのを期待することはできなかった。
彼は迷わず歩道橋の階段を選択した。軽い彼女の体を半ば抱えるようにして階段を
上りきる。転がるように先を急ぎ、階段を下りかかったところで彼女が悲鳴を上げた。
同時に前へ進もうとする力が抵抗を受け、彼女と手が離れてしまった。振り返ると、
三番目の男が彼女の手首を掴んでいた。
「へっ、つかまえだぜ」
歪んだ口元から狂気じみた声が漏れた。階段の上と下で、亜沙子を挟んで対峙する。
男の目は残酷な喜びに細められる。次の行動はさすがに予測できなかった。
男はもがく亜沙子を引き寄せてから、思い切り突き放した。
「行っちまえ」
乾いた声が仙道の耳に届き、ゆっくりと彼女は落ちてきた。彼は均衡を失った
体勢のままその体を受け止めた。後ろへと体が傾く。時はひどく緩やかに流れ、
どうしようもない絶望感を長引かせる。すでに仙道の体も段上にとどまることは
できなくなっていた。
落ちる。
現実は覚悟に忠実に訪れ、彼は亜沙子の体を抱いたまま階段を落下した。
途中、フラッシュバックのように三井の顔が浮かんでは消えた。
仙道はそこであるべき未来を経験していた。
コート上で彼は湘北と戦っていた。
三井は観客席にいた。
試合中の仙道にその三井の表情がわかるわけがないのに、いまはなぜかわかった。
応援する三井は、試合の展開でくるくると表情を変えた。
笑う。叫ぶ。息を詰める。また笑う。腕を振り上げ、選手のようなガッツ・ポーズを
とる。
胸が苦しくなるほど好きだと思った。
試合は最高に盛り上がり、会場は割れんばかりの歓声に席巻される。しかし仙道の
耳にはひとつの言葉しか聞こえない。
明日、頑張れ。
静かな声が試合場の声援よりひときわ大きく聞こえたとき、頭の中で全てが弾け、
真っ暗になった。
体が動きを止めて、全身をおおう熱い感覚が一点に集まりだしたとき、耳元で
女の叫び声が起こり、ついで車のタイヤのきしむ音が聞こえた。それが意識を飾る
最後の音となった。