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体育館の整備も完了し、私立陵南高校バスケットボール部は初の全国進出を狙い、
いっそうハードな練習期間に突入した。基礎からゲーム形式の練習まで、目一杯
効率的に組んだメニューを全員がこなしていく。すでに緒戦の相手は海南大附属と
決まり、朝練や居残り練習のため、高校として常識的な時間内には体育館にボールの
床を打つ音の消える時間はほとんどなかった。
そして当のバスケ部員がいちばん驚いていたことに、全て仙道が求心力となっている
のだった。
年中平熱感覚のマイペースなキャプテンは、監督から尻を叩かれこそすれ周囲に
熱を発散することなどまずなかった。それがどうしたわけか決勝リーグ突入を二週間後
に控え突然のバーストである。田岡監督はその豹変ぶりを訝りはしたが、待ちに待った
ことであり、結局は手放しで喜んでいた。深体大から彼の進路に対する打診があった
との噂もあり、監督の機嫌はいまや天井知らずに上昇中だった。
体育館の時計が八時をまわると自主練も終わりを告げる。さすがにその時刻になると
ベンチ入りメンバーぐらいしか残っておらず、最後の始末は彼らが自分でやらざるを
得なかった。
「今日も一日きつかったあ……」
体育用具室の隅にボールを片づけながら越野が漏らすと横で植草がため息をつく。
「もう何か食わないと一歩も動けないよ」
世紀の部活時間を終えてから、女の子たちからの差し入れで少しエネルギー補給を
したというのに、もうそれは激しい三対三のときにすっかり燃やし尽くされてしまって
いた。
「こっちも終了。お疲れさん」
掃除部隊がどやどやと用具室に入り込んでくると、モップを壁に立てかけていく。
キャプテンも平部員も、学年さえも関係のない自主練後の風景だ。それでも下級生部員
の目には仙道への敬意とか憧憬のようなものが見て取れる。普段のしまりのない実体を
見ているのに、不思議なこともあるものだと越野などは思うのだが、そう思っている
本人自体、バスケットボール選手の仙道彰には絶大な信頼を置いているのである。
「おい、帰り何か食ってこうぜ」
越野が言うとに賛意の答えが返ってくる。
「仙道、おまえもたまにはつきあえよ」
そう言うほどつきあいが悪いわけではないのだが、たまに「寮のメシがうまいから」
というふざけた理由で部員同士の集まりをすっぽかす男に牽制球を放ると、越野は
居残り部員の帰り支度をせき立てにかかった。
部室に引き上げると、リッチな私立校ならではの温水シャワーを入れ替わり
立ち替わり浴びてざっと汗を流し、手早く着替えた。総勢十二名の暑苦しい団体は
通学路にある陵南高校バスケットボール部御用達のラーメン屋になだれ込んだ。
閉店間際のその時間帯は彼らの貸し切り状態で、店の親父をてんてこまいさせながら
嵐のように当座の食欲を満たしていった。そして店を出たときにはもう十時近くに
なっていて、寮生の後輩たちは泡を食って挨拶し走り去っていった。
「……おまえも寮にいるんだろ、急がなくていいのか?」
未だのんびりとしている仙道に福田はぽつりと漏らす。三年ただ一人の寮生は
肩をすくめた。
「あいつらは第二だろ、オレは第一だから」
「……第一のが遠いじゃないか、何ぼけたこと抜かしてんだよ、仙道、門限九時
なんだろ?」
越野がつっこむと仙道は悪びれた様子もなく言った。
「大丈夫だよ」
「何が大丈夫なんだよ」
下がり眉の下の目が無邪気に笑っている。
「一階に門限過ぎてからも窓から入れてくれるやつがいるんだ。点呼もいい加減だし。
だから大丈夫」
「……おまえ、よくあるのかよ、そういうこと」
呆れた越野が聞き返すと仙道は首を横に振った。
「そんなにないって。……たまーに野暮用で電話かけに出るぐらいだよ」
「ふーん、野暮用ね。何、今度の彼女はおまえからアプローチしないと相手にも
してくれないのかよ」
「残念ながら」
仙道の肯定の答えに周囲がどよめいた。
「信じらんねえっ。おまえに冷たくする女がいたのかよ。おい、どこの誰なんだ?」
「ノーコメント」
いつもと同じ底の知れぬ笑みで仙道ははぐらかす。三年生を中心としたメンバーは
ますます好奇心を刺激され、仙道をつっついた。が、意外にガードは固く、肝心の
ことは何も探り出せなかった。
越野はそのときふと、妙な予感にとらわれた。
「……そんなことはないと思うけどさ、仙道、おまえ、やっとやる気出しただろ、
それって、彼女のためか?」
「うーん、そうだなあ、彼女……ってわけじゃないんだけどさ、
その人に見限られないように、がんばらなきゃって思ってるけど。
どうせ決勝リーグが終わるまでは絶対会ってくれないし」
越野は自分の疑問を口に出したことを後悔した。
彼は仙道のことを認めている。どんなに私生活のおぼつかないキャプテンだって、
才能に感服しているから何とか耐えていられるのだ。ことバスケに関しては、
仙道の器は越野の想像に余る。
ところがいまその天才は、昨年の敗退を機に一学年下の勝者たちに世評では
水を開けられた恰好になっている。少なくとも全国的な知名度ではそうだった。
チームメートに恵まれなくて全国に行き損なった悲劇の天才なんてあんな
へらへらした男には似合わない。
海南と湘北の全国行きを指をくわえて見ていなければならなかった者たちは皆、
その苦さを胸に据え、再度の挑戦を誓ったのである。今年は自分たちが仙道を支え
全国に乗り込むというのは無言の了解事項であり、苦しい練習に耐えるための
エネルギー源だった。
その熱意が通じたのか、最近例になくやる気になっている仙道を見て越野も
いっそう燃えていた。それが女のせいだとは。火のついた闘争心に水がかけられた
ような気がして彼は肩を落とした。
「……仙道、おまえって……」
がっくりと肩を落とす越野の脇には、いつの間にか福田がいた。彼は重い唇を
開いた。
「何が理由だって結果が出ればいい」
「福田……」
迫力のある顔に頼もしさを覚えながら、越野は気を取り直した。
目標は陵南高校全国制覇。
決して大それた望みではないはずだった。
キャンパス近くの喫茶店は、昼食時を過ぎたその時間帯でも賑わっていた。
三井はコーヒーカップをソーサーに戻すと腕の時計を見た。そろそろ次の講義の
時間だった。
「もう四限が始まるから、オレはこれで……」
彼はそう言うと椅子から立ち上がり、自分の分の勘定だけをテーブルに置いた。
男四人女三人の七人グループは急な休講で空いた時間を利用して喫茶店になだれ
込んだ。光岡知花も一緒だったが、四人がけのテーブルを二つつなげた端と端になり、
あまり話はしなかった。代わりに残りの二人が三井の横と前に来て何かと話題を振って
きたので、何とか時間は過ぎていた。
「わたしもそろそろ……」
光岡知花もバッグの中から財布を出しながら立ち上がった。
「えっと、ケーキセットはいくらだったかしら」
手をのばして注文票を確認しようとするのを、隣りに座っていた男の手が遮った。
「今日はオレのおごり。……女の子だけな」
彼、西尾がそう宣言すると、黄色い歓声が上がった。知花は一瞬戸惑ったような
表情を見せたが、友人たちの喜びように押されて西尾に礼を言った。
結局次の四限に講義があるのは三井と知花だけで、残りの五人は席を立たなかった。
二人は肩を並べて といっても身長差が三十センチ近くあって言葉通りには
ならなかったが 外に出た。
「三井くん、次は何号館?」
「うーんと、九号館の901講義室だったかな」
「じゃあ近くだわ、わたし八号館だから。……そうだ、それならこれからこの日の
練習は一緒に行かない?」
「ああ、いいけど」
「よかった」
そう言って彼女は愛らしい彼女を見せた。
知花とは同じクラスで部活も同じということがあり、行動をともにすることが
多かった。可憐な外見とは逆に、彼女の中身はかなりさばさばしている上にしっかり
していてパワフルで、会う回数がかさむごとに「女」を意識することは少なくなって
いた。雰囲気こそ違うが、湘北の美人マネージャーと相通じるものがあるのである。
それでもふとした折にそんな風に微笑みかけられると、ひょっとしたら惚れられている
のだろうか、などと思って胸が躍ってしまう。もっとも全員に平等に向けられる笑みを
見ていたら、そんな自惚れは長続きしないが。
二人は正門前の横断歩道のところまでやってくると、信号待ちで足を止めた。
「そういえば三井くん、さっきずいぶん盛り上がってたねえ」
「うーん、そうかな、バスケのことを色々聞かれたんだけど」
残念ながら彼女たちはバスケについてはほとんど無知に等しかったので話が通じず
往生した。
「三井くん人気あるから、バスケ部にもファンが増えるかもね」
「冗談だろ、光岡」
三井は苦笑した。知花は冗談とも本気ともつかぬ表情を浮かべている。
「本当よ。背は高いしハンサムだし、口元の傷痕がまたセクシーなんだって。
……抱かれたい男っていうより抱きたい男だって、誰かうまいこと言ってたなあ……」
知花の発言に三井は目を丸くした。しばらくは当惑で声も出ない。ちょうど
信号が青になって、やっとのことで我に返った。再び歩き出しながら、三井は口を
開いた。
「……女っていつもそんな話してんのか?」
「いつもってわけじゃないけど……あ、三井くん、気にしちゃった?」
「別に」
口とは裏腹にこころもち顔を背けて黙り込む。
まったく、何で女にまで抱かれなくちゃなんねえんだよ。
喉元まで出かかった不満はとうてい口には出せない。せめて仙道の野郎が
ミーハー女どもと次元が同じだと思うことで溜飲を下げるしかなかった。
「そういえば、明後日から決勝リーグ始まるね」
三井の不機嫌が勝手に解消するのを待ったかのように知花が言った。彼は目を上げた。
湘北の最初の相手は翔陽と決まっていた。そして次の土日で海南、陵南と
あたることを、二、三日前に宮城からの電話で聞いて知っていた。
「海南、翔陽、陵南、それに湘北……どこが勝っても不思議じゃないけど。……ねえ、
三井くん」
「あ?」
「三井くんの予想は?」
知花は関心に満ちた目で見上げてきた。
正門から続く銀杏並木の緑は恰好の日陰を作ってくれる。彼女の顔に頼りなげな線の
細さを感じて三井は少し戸惑ったが、心は後輩への期待ですぐにいっぱいになった。
「そりゃあもちろん、湘北の初優勝」
胸を張って答えると、ほんの付け足しのように後を続ける。
「それからインターハイ行きの残りの切符は……陵南だろうな」
「わたしは一番手が陵南、次が湘北だと思うわ」
知花は挑発するような目を向けてきた。
「今年こそは仙道くんの年になってほしいって願いも込めて」
「なんだ、光岡は仙道のファンだったのか」
思わず眉をひそめて声を上げると、彼女は三井の顔を覗き込んできた。
「なーに、その顔。いけない? 牧さんだって言ってたじゃない、仙道くんには華が
あるって。それに見た目もカッコイイし、やっぱりファンになっちゃうわよ」
三井は舌打ちをした。
「仙道みたいな見てくれだけのやつにきゃあきゃあ言って、だから女はやなんだよ」
三井の言を受けて知花は悪戯っぽく微笑んだ。
「でもいちばん好きなのは三井くんだからね」
「え……?」
一瞬真に受けたものの、知花の言うことはバスケットのことだとすぐにわかった。
それもお世辞半分だと思うと妙にきまり悪くて、三井は慌てて咳払いをし、腕の時計を
見る振りをした。
それからはどうという会話を交わすわけでもなく八号館に着き、知花とは
講義終了後にそこの入り口で待ち合わせることを約束して別れた。九号館までの
わずかな道のりを歩いている間、知花の細い肩が時折腕に触れてくる感触が
くすぐったかったのを思い出した。「女の子と並んで歩く」というのはこんな感じの
するものなのかと思うと、何だか照れくさかった。