* * *
「あんときも思ったけどよ、おまえの部屋って、ほんっと殺風景な」
家具といえばベッドに勉強机、ローチェストだけの部屋を見回して三井は言った。
「前はCDラジカセぐらいはあったんですけど、姉貴に持ってかれちゃったみたい
ですね」
「ふーん」
三井は仙道の言葉に答えるでもなく、彼の脇をすり抜けて二面あるその部屋の窓の
小さな勉強机側の方を開放した。気持ちよい風が頬を撫でて室内に入り込んでくる。
桟に手をついて外に目をやると、庭の隅に根を下ろしている柿の木の濃い緑が見えた。
三井家のようには敷地に余裕のないため隣家と接近しているが、木の葉の生み出す
目隠しで程良いプライバシーを保っている。
三井はしばらくそのまま六月の微風に身を晒していた。夏の気配が強く感じられ、
これからあの長い梅雨に入るのが嘘のようだった。
「三井さん、どうしたの?」
仙道が背後に近寄っているのはわかっていた。三井は口角を上げたが、
振り返らなかった。
「……おまえのオフクロさんによ、『三井さんみたいないい友だちがいて良かったわ』
なんて言われちまったぜ」
女言葉を誇張して言ってから笑ってやった。
「そんなにおかしいですか、オフクロの言ったこと」
仙道は腰を抱くように手をまわしてきた。
「だってよ」
三井は相手の腕の中で身を翻した。窺うような仙道の表情を目に収め、腰に
まわった手を引きはがす。
「こういうのは『友だち』って言わねえだろ、フツー」
仙道が顔を寄せてくる。開け放した窓が少し気になったが、三井は仙道のキスを
受け止めた。
「……それじゃあ『恋人同士』?」
挨拶のようにあっさり唇が離れると、予想通りの能天気な科白が降ってくる。
三井は思い切り仙道を睨みつけてやった。
「バーカ。論外だ」
「……つれないなあ」
前髪をおろした見慣れぬ仙道は軽い調子で言って笑う。三井も笑いながら
窓から離れ、勉強机に腰を下ろした。
「だからずっと言ってったろ、オレはおまえの酔狂に合わせてやってんだって」
「三井さんは優しいから」
「おう」
「……彼女ができたら遠慮しないで話して下さいね」
髪が下りているからだろうか、いつもは自信たっぷりに見える顔が少し不安げに
見えた。それが何だか気にかかってしばらく何と答えたらいいのかわからなかったが、
不意にある事実に思い当たり、ふき出した。
「仙道、おまえ光岡のこと言ってんのか?」
「え?」
「あっ、と、名前は知らなかったっけ。先週体育館で見ただろ、あいつだよ」
光岡知花とはあれから三度顔を合わせている。二度は講義室、そして一度は
体育館で。
「あいつな、結局バスケ部のマネージャーになったんだ。すっげーバスケおたくでさ、
もう話が盛り上がる盛り上がる。神奈川出身だからおまえのこともよく知ってたぜ。
……そうだ、今度紹介してやろうか?」
仙道は目を見開き、それから立て続けに二度瞬きをした。
「おまえから見りゃあ一コ上だけどよ、可愛い顔してっからそんな風に見えねえし……
あっ、おい、仙道……!」
予感もなくいきなりきつく抱きしめられ、三井は慌てた。
「オレ、いまは三井さんで手一杯だから」
耳元で深い声が囁く。そのまま首筋にキス。机の上でのしかかられて、三井の上体は
仙道の腕に守られたまま後ろへと傾く。いつの間にか唇は塞がれ、抗議は呑み込まれて
しまう。シャワーと休息でも鎮まらなかった対戦の余韻は形を変えて浮上し始める。
だが、さすがに抵抗感は拭えず、残っているありったけの力を振り絞って仙道の体を
押しのけた。
そのときちょうど測ったようにノックの音がした。
「彰、入るわよ」
三井はそれこそ飛ぶような勢いで窓際のところまで退き、仙道の母親がドアを開けた
時には何気なさを装って外を眺めていた。
「お茶とお菓子持ってきたから」
振り返ると盆の上にフルーツケーキと明らかにそのケーキの残りが入っていると
わかる細長い箱、そして紅茶の乗っているのが見えた。
「……ケーキがあるなんて珍しいなあ」
立ち直りの速い仙道が漏らすと、母親はそれを勉強机の上に置いた。
「いただきものなのよ。ほら、憶えてる? 三軒先の柘植さんちの亜沙子さん。
あんたよく遊んでもらったでしょう。しばらく見ないと思ったら昨日ひょっこり
訪ねてみえてね」
「へえ……」
「まあますます磨きがかかってびっくりしたわよ。それで何とかって有名なお店の
だって。言うだけあっておいしいんだけど、環はダイエット中だって言ってほとんど
食べないし、母さん一人じゃ食べきれないし。だから好きなだけ上がってってね、
三井さん」
「あ、はい」
三井は軽く頭を下げる。母親は笑みを浮かべ、それから仙道の方に向き直った。
「それじゃあ彰、母さん今日はこれから出かけるわね。環は夕方に帰ってくるって
言ってたから、何だったら夕飯作らせればいいわ」
そこでもう一度三井に視線を戻す。
「三井さん、ごゆっくり。このぼんくら息子じゃろくなおもてなしもできないでしょう
けど、またこれに懲りずに遊びにきてちょうだいね」
行きがかり上三井が首を縦に振ると母親は出ていった。部屋の中の空気は急に静かに
なり、思わず仙道と目を見合わせた。「ぼんくら」のレッテルと貼られた息子は肩を
すくめた。
「……とりあえずお茶にしましょうか。ケーキも切ってあるし」
「そうだな」
毒気を抜かれた三井は素直に答えた。仙道は盆をそのままカーペット敷きの床に
下ろし、二人で胡座をかいて紅茶をすすすりケーキをつついた。
自覚した熱は宙ぶらりんになって放り出され、妙に白けた空気の中、淡々と
二切れ目に突入する。それを半分ほど食べたとき、三井はふと思いついたことを
口にした。
「そういえば、このケーキ持ってきた近所の亜沙子さんって、
先週会場に来てた人か?」
「え……」
仙道は予想外の質問を受けたとでもいうように目を上げた。
「ほら、メロン持ってきた、すっげー美人の。……あっ、そういやあのメロン
どうした?」
立て続けに言うと仙道はくすっと笑った。
「何だよ、何がおかしいんだよ」
少しむっとして三井は詰問口調になる。仙道は頑是ない子どもを見るような目つきを
した。
「三井さんの気になるのって美人のこと? それともメロンの行方?」
「う……」
口ごもる三井を見て仙道は続けた。
「まずメロンですけど、部員全員で分けました。おかげでうんっと薄っぺらく
なっちまいましたけど」
仙道は親指と人差し指で一センチほどの厚さを示してメロン一切れの薄さを
強調した。
「けっ、お人好しだな。独り占めすりゃあいいだろうがよ」
いつもの伝で三井は憎まれ口をたたくが、いかにも仙道らしいと腹の中で
納得している。仙道は仙道でそれを笑って受け流してから、仕切り直しとばかりに
居住まいを正した。
「で、最初の質問ですけど、答えはイエスです」
「え……最初のって、何だっけ?」
「やだなあ、三井さん、そんなんじゃ告白もしづらいじゃないですか」
目一杯情けなさそうな表情を作って言う。
「告白って、何だよ」
「メロンの美人はこのケーキを持ってきた近所のお姉さんで、ついでにオレの
最初のひとってこと」
告白という言葉にそぐわぬ軽さであっけらかんと仙道は吐いた。聞いた三井にも、
その事実以上の意味は感じとれなかった。
「……ふーん……」
「ふーんって……それだけですか? ちょっとぐらいこだわってくれたって
いいじゃないっすか」
「こだわれって……てめえ、オレにやきもちやけってのかよ」
三井は仙道の頭を叩いた。
「百年早えんだよ」
言いながら亜沙子という女の顔がちらついた。ひとまわり上と聞いていたから
オバサンかと思っていたら、案に反して完成されたとびきりのいい女だった。
初めて共にした夜に聞いた仙道の女性遍歴の端緒の話は、そのとき初めて現実感を
伴って三井の脳裏に蘇りつつあった。仙道のその過去に嫉妬を感じたのだとしたら、
それは亜沙子という女にではなく、むしろ仙道に対してだった。
「てめえにゃ、もったいねえな」
胸に芽生えたほんの小さなこだわりの兆しを誤解されたくなくて笑みを浮かべる。
仙道は真正面から視線を射込んできた。
「何にしてもオレの通ってきた道だし」
そこで右の頬に左手を添える。
「……そうしてオレは三井さんに会ったんです」
「そんなこたあ女に言えよ。……泣いて喜ぶぜ」
仙道の右手が二人の間で邪魔になっているカップや皿の乗った盆を脇へ滑らせ、
そのまま三井の背にまわっても彼の口調は甘くならない。それでもゆっくり
カーペットの床に押し倒される。
「……オレって、女の子喜ばせるより三井さん困らせる方が好きみたい」
額から三井の前髪をすくようにかき上げ、仙道は唇を押しあててきた。
「おまえが趣味悪いのはよーくわかってたつもりだったけどよ」
ほどよい疲労感に依怙地なガードは緩くなる。三井は小さな声を立てて笑った。
「やっぱりサイテーの趣味してるわ」
仙道の背中に腕をまわして彼は誘いに乗った。
窓からは初夏の風が入り込んでくる。
ワン・オン・ワンで昇華しきれなかった若い欲求をもてあまし、二人は体と体の
対話に入った。
体に訴えると三井の反応は口よりは幾分素直だったが、それでも仙道の前向きな
意志を余さず受けとめるほど寛容ではなく、結局は一歩引き下がる形となる。
オレはことはどう思ってるの? 少しは必要だと思ってくれている?
まさかね。
声に出さない問いかけに自分自身で答えて仙道は自嘲ぎみに唇をゆがめる。
ほかにも聞きたいことは山とあるが、あえて結論を迫ろうとはしない。そんなことを
したら藪をつついて蛇を出すことになるだろう。
オレってずいぶんずるいのかも……。
心の中で呟いて、今度は小さく笑った。組み伏せた三井が閉じていた目を開き、
眉をひそめる。
「……何がおかしいんだよ」
シャツをたくし上げられたまま仙道に身を任せ、三井は軽い準備運動の後のように
額にうっすらと汗を浮かべていた。目は潤み、声は気怠げに低い。いくら凄みを
きかせて睨んでいるつもりでも、それでは逆効果だ。
「別に……何てこともないんですけど」
三井はそこで仙道の体を押しのけようとした。が、仙道としてもせっかくのご馳走を
逃すつもりはない。抵抗を封じてから、彼は白状した。
「ちょっとした思い出し笑いです」
「……危ねえな、おまえ、それ満員電車でやったら周りの人間が退くぞ」
「はは……」
笑って受け流そうとすると三井の手が上がって軽く頬を打つ。
「ごまかすんじゃねーよ。何がおかしかったんだよ、え?」
仙道はその手をつかまえて強く握った。
「……三井さんと知り合う前のことですよ」
「ああ?」
「つけがまわってきたかなあ……なんて」
そう言って唇を封じる。さらに強引に攻め込んで、何とか三井の気を逸らすことに
成功した。もっとも三井が本当に仙道の言動にこだわっていたのなら、そんなことで
振り切ることはできなかっただろうが。
男同士で抱いたり抱かれたりがおかしいなんてことはよくわかっているつもりだ。
だがこと三井に関してはそんな常識的ブレーキが利かない。「本気」の二文字を
噛みしめて、やはり仙道は苦笑せずにはいられなかった。
この気持ちがあれば、いつまでも夢を見ていられる。ときには現実が見えても、
いくらでも幸せでいられる。
彼は三井の胸に一度唇を押しあて、それから胸の上で止まっているTシャツを
脱がせた。自らもすばやく上半身裸になると、素肌と素肌を合わせる。カーペットの
上にしどけなく投げ出された腕は微動もしなかった。初夏の気候と少しの疲労と
それまでの軽い戯れが三井の気力を奪っているらしい。
ふと不安に駆られ、仙道は体を起こして一度名前を呼んだ。三井が目を開くのを見て、
やっと安堵する。
「……眠ってるのかと思いました」
問いかけるような目に懸念を白状すると、三井はふいと視線をはずした。
「バカヤロウ……そんな鈍感じゃねえ」
小声で言って顔を背ける。向けられた横顔は、今度はきつく閉じた瞼のせいで
寝顔には見えない。仙道は無警戒に晒された首筋にキスし、耳たぶを軽く噛んだ。
夏の先触れの湿気を含んだ風は、濃い倦怠感の中にごく微量の媚薬を含んでいる。
仙道は衝き動かされるように三井のジーンズと下着を脱がせ、手指を全身に
めぐらした。やがてしっとりと汗ばんだ互いの肌が呼び合い熱が高まったとき、
彼は三井の腰を引き寄せた。くぶもった声が耳元をかすめる。もはやそれに斟酌する
ことなどできずに最後まで体を進めると、しばらくの間、三井との合一感に身を
委ねた。
精神的にいちばん満たされるのは、たぶんこのときに違いない。一度動き始めて
しまうと後は本能的な快楽を求めるだけで、もう二度と直前の高みへと戻れず、
欲望の色を濃くして既定の終末へとひた走ることになる。全ての瑣末な想いが
灼ききれる真っ白な光の中に放り出されるまで。
三井の口から喘ぎ声が漏れる。それは快楽に溺れているというより、
むしろ苦しげだ。実際三井が譲歩して受け入れることになる負担は計り知れない
だろう。それでも仙道は三井に荷重をかけずにはいられない。
互いに余裕がなくなるそのときまで待ち、仙道はやっと天国の幸福を手放す決心を
した。唇を一度合わせてから降下する階段へと一歩踏み出す。それから後は、
これまでに手探りで築いてきた陶酔のレールの上で、走り出した体感に気持ちが
振りまわされる時間だった。快楽は、それがどんなに不自然なことでも機会を
持つごとに新しいレールを増やし、思いがけぬ落差で仙道を翻弄する。それは彼の
余裕を少しずつ切り崩し、気がつけば歴戦のつわものをただの見習い兵士に変えて
しまっていた。初めて戦場に放り出された少年のように仙道は簡単な罠に見事はまって
急速に昇りつめ、悦びの頂点に立つ。そして完全なホワイトアウト……。
それはたぶん束の間のことで、抜け落ちた意識はジグソーパズルの断片のように
戻り始める。感覚は、背中を走るちりいと熱い痛みで呼び覚まされた。
体を退き荒い呼吸を整えながら仙道は三井の顔を見た。彼の顔を黙って見つめて
いたいときがあっても、いつも当の本人がいやがるので果たせないが、このとき
ばかりは防御がお留守になる。額に下りた前髪は乱れ気味で、常に前面に出ている
負けん気が姿を消している分いっそう頼りなげだ。
たまらなく愛おしさを感じ、汗ばむ三井の額に仙道は唇を押しあてた。瞬きほどの
間の、だが確実なキスは、三井の重い瞼を上げさせた。潤む目が色っぽい、などと
思わせてくれたのはほんの少しの間で、すぐに不興の色を示し三井は顔を背ける。
「熱い……どけよ……」
低い声で言って身をよじるので、仙道はゆっくりと体を離した。汗をかいた体を
まだ夏になりきらぬ季節の風がくすぐっていく。
三井は無言で体を起こすと全裸のまま仙道の部屋のドアを開けた。家の中は
ひっそりと静まり返っていた。彼は動きを止め、振り返る。半開きのドアが空気の
通り道となり、風は部屋の外へと逃げていった。
「……もう一回シャワー浴びてくる」
言うなり大胆にも狭い廊下に踏み出し、階下に下りていく。慌てた仙道も一糸
まとわず後を追い、タオルを用意して浴室から三井の出てくるのを待った。
曇りガラスを透かしてぼんやりと動く肌色にもどかしさを感じる暇もなくドアは
再度開き、三井が姿を現した。その濡れた肢体を抱くようにしてバスタオルでくるみ、
脱衣室の外に送り出す。入れ替わりに浴室内に入り、仙道もざっとシャワーを浴びた。
背中の傷には、シャワーの湯がしみて初めて気づいた。その痛みが何だか嬉しかった。
さっぱりとして二階の自室に戻ると、着衣を整えた三井は座るようにしてベッドに
よりかかり、あっさり睡魔の手に落ちていた。今度こそ疲労が三井の心身を支配した
らしい。
「……やっぱり」
少々気抜けしてうつむき加減の相手の顔を覗き込む。
「いつもこれだもんね……ねえ、三井さん?」
「……ん……」
返事のつもりなのか、くぐもった声を返すおとなしく素直な恋人。気を取り直した
仙道の目にあまりにも幸せそうな寝顔が飛び込んできて、思わず口元がほころんだ。
いつも足りないと感じているものが、こんなときには満たされている。自分でも何が
欲しいのかよくはわからないのだが、きっとそれは三井の体でもなければ言葉でも
ないのだろう。
仙道ははかない多幸感に身を浸し、しばらくそのまま三井を見守っていた。
小半時で三井は目を覚まし、気怠い午後はそこでおしまいになった。
気持ちの良い午睡から醒め、三井はエネルギー充填五十パーセントといった
態だった。しばらくはぼんやりとしていたが、やがて何とか体を浴室まで運び、
この日三度目のシャワーを浴びる。そのうちに体の細胞にエネルギーが行き渡り、
口の悪さや態度の大きさも復活していた。
二人はそれから大急ぎで帰り支度をして、仙道の実家を後にした。夕方に帰宅すると
言っていた仙道の姉は、ありがたいことにそのときまでにはまだ帰らなかった。
西の空は赤くなり、楽しかった一日は一抹の寂しさとともに暮れていく。駅までの
道のりをゆっくりした歩みが長くする。二人はなぜか寡黙になる。
「……これで本当にしばらく会えなくなりますね」
駅前の喧噪が近づくとぽつりと仙道が言った。三井は口角を上げる。
「……って、決勝リーグにケリがつくまでの三週間だろ。こんな風に毎週会ってんのが
おかしいんだよ」
仙道は目を丸くした。
「そう言われればそうか……どうかしてるなあ、オレ」
「チョーシこいてんじゃねえよ。甘い顔すりゃつけあがって」
三井は仙道の尻を叩いた。しかし目は上機嫌に笑っている。
「……まあ、全国決めたら会ってやるよ。決勝リーグ終わってからな」
「その日すぐに?」
「おい、祝勝会すっぽかすのか?」
「三井さんのためなら、もちろん!」
三井は声を上げて笑った。
「……チームメート、うまくまいてこいよ、ポイントガード」
三井が片目をつむると仙道は親指を立てた。
幸せな一日だった。美しい夕焼け、初夏の微風、快い疲労。交わした言葉こそ
多くはないが印象に残る会話。互いのちょっとした表情。傷の甘い痛みさえ。
記憶のページを繰るたび、それらは胸の痛くなるようなほろ苦い感傷を呼び起こす
ことになるだろう。
次に顔を合わせるときの事態を、このときの二人は知る由もない。