* * *
三井の背中が階上に消えると、それを待っていたかのように河田の後方の角のところ
から忍び笑いが漏れてきた。彼は振り返った。
そこには「愛知の星」がいた。風呂場から出てきたのだろう、髪は濡れていたし、
肩にタオルをかけて頬を上気させていた。
「おう、諸星、聞いてたのか」
「……なんか賑やかにやってたからな。別に立ち聞きするつもりじゃなかったんだ」
諸星大はそこでにやりとした。
「河田、おまえ人が悪いよ」
「しようがねえだろ、面白いんだ、あいつからかうと」
早々にセンターのレギュラー・ポジションを射止めた強面の大男は独特の調子で
笑った。
山王工業のバスケ部に籍を置いた者なら、河田がちょっかいを出すのは特に気に
入っている人物だけだということを知っているだろうが、物理的・心理的に手荒な
スキンシップを受ける方はたまったものではない。ともあれ三井にはそれを
ありがたがる気持ちはないだろう。
「可愛いよな、ほんと。何考えてるのかすぐわかるし。おまえの気持ちもわからない
わけじゃないぜ」
「だろ?」
「にしてもあれじゃ敬遠されるだけだ」
「それはまずいな」
河田はそう言うといつも変わらぬ座った目つきで諸星を見た。
「オレの方は三井と仲良くなりたいんだがな……まあ愛情表現がちょっと複雑だから、
わかりにくいかもしれん」
言ってから笑い出す。
「何にしろ三井のやつ、日曜はデートと見た。嬉しそうな顔してたんだ。口では
ずいぶんきついこと言ってたが、知り合ってこの方あんな顔見たことないからな」
「でも相手はヤローだろう?」
「そんなの嘘だろ。この前女の子から電話があったって牧が言ってたし、
あの嬉しがりようは普通じゃないぜ。なあ、高橋……」
河田はカウンターの小窓越しに当番学生の名前を呼んだ。高橋と呼ばれたスポーツ
刈りの学生が振り返るのを見て続ける。
「いまの電話、女からだろ?」
「いんや、男」
「男……」
河田が言うべき言葉を失い、諸星も押し黙る。妙な間が過ぎたが、小窓から
流れてくるCMの賑やかな音声に現実感が戻った。意を決したように口を開いたのは
諸星の方だった。
「おまえ、いま何考えた?」
「たぶんおまえと同じ」
「……あの飲み会のとき、おまえに技かけられてへろへろの三井見て鼻血吹いたやつが
いたっけな……」
「オレの目から見てもあれは危なかったぜ」
「……デートの相手、男だったりして」
目を見合わせて二人とも力のない笑いを漏らした。
「まさかな」
同時に同じ言葉を発し危ない連想を必死で打ち消しながらも、
「あなたの知らない世界」に考えが行ってしまうのを止められない二人だった。
さて、仙道と約束した日曜は、待ちに待った末ようやくやってきた。
いつものスポーツバッグにタオルや着替えを詰め込み、意気揚々と目的地に向かう。
寮では中学時代のバスケ部仲間と三対三をするという口実で通していたので牧が
興味を示したが、それは何とか振り切った。
私鉄に乗ってターミナル駅に出、そこから地下鉄を乗り継いで目的の駅で降りる。
ホームから階段を上って改札に出ると、そこには長身の大バカヤロウがすでに待って
いた。三井は軽く手を挙げると歩み寄った。
「遠いところまでわざわざすいません」
「別にそんな遠かねえよ」
仙道を目の前にするとなぜかまっすぐな物言いができなくなる。きっとこの女好きの
する顔が人好きのする笑みを浮かべているのが気にくわないせいなのだろう。
せっかくの楽しい気分も半減だ。
しかしそんな三井の気分の下降線も気にかけず、仙道はいつものようにソフトな
態度で接してくる。
「それじゃあ、行きましょう。あ、荷物持ちます」
「いいよ、そんな重くねえし、女じゃねーんだから」
三井は差し出される手を払って言った。
仙道は陵南バスケ部のネーム入りのTシャツとジーンズ姿で、肩に陵南カラーの
スポーツバッグをかけていた。
「おまえ、どっから来た」
「寮からですけど」
「そのカッコでか……」
首から下をじっくり見て眉根を寄せると、仙道はちょっと困ったように首を傾げた。
「変ですか? 一応上だけは羽織ってきたんですけど、暑いから脱いじゃいました」
「羽織ってきたのって、まさか陵南のジャージじゃねえだろうな?」
「ただのパーカですけど。……いや、出がけに越野に出くわしたら言われちゃいまして
ね、『ジャージを私服代わりに着るんじゃない!』って」
三井はため息をついた。所詮仙道はそういうやつだ。越野というのはずいぶん細かい
ところに気のつくタイプのようだが、仙道のような男を相手にしているとそのうち
禿げるのではないだろうかと、余計なことながら思ってしまう。
三井が心の中で苦労性の越野に「成仏しろよ」と手を合わせているのも知らず、
仙道は眉を下げて言う。
「とにかく行きましょう。三井さんも気に入ってくれると思いますよ」
そう言ってすかさず三井の背に腕をまわし歩くのを促すので、素直に肩を並べて
歩き出した。背中にまわった仙道の大きな手はとりたてて無体な所業には及ばずに
淡泊に離れていった。
目的の場所は、駅から通り沿いに十分ほど歩いたところにあった。十二階建ての
オフィス・ビルの脇の道を入り、その裏側にまわりこむと、忽然と近代的なビルが
姿を現す。仙道の話によると、それは仏教のさる宗派の寺の建物ということだったが、
抹香臭さは全く感じられなかった。そのビルのピロティを抜けたところに、そこだけ
切り取ったように煉瓦の壁があり、バックボードとリングが取り付けられていた。
「へえ……なかなか」
人目は全くないのに、寺の低層のビルと広い敷地のおかげで陽当たりが良い。
休日のせいであたりはひっそりと静まり返り、心ゆくまでバスケを楽しめそうな
環境だった。
「三井さん、荷物はここに置いて下さい」
見ると端の方に木のベンチがあり、仙道が自分の荷物を下ろしていた。そして
スポーツバッグを開くと、中からボールを取り出してその感触を確かめるかのように
二度地面にバウンドさせた。独特の音が三井の闘志を刺激する。彼はベンチに駆け
寄って荷物を置き、Gジャンを脱いでTシャツ姿になった。
「やろうぜ、仙道」
足首をまわし、手首を振りながら言った。アキレス腱をのばしていた仙道は了承の
返事をした。
一対一の攻防戦は仙道のオフェンスから始まった。低い姿勢で迎え撃ち、一歩も
中へ入れまいとする。三月の引退試合で対峙したことはあったので、三井は多少仙道の
癖をわかっているつもりだった。必ずカットしてやる、との意気に燃えて、虎視眈々と
隙を窺った。
が、当てが外れた。視線がぶつかると、この常春男は何を思ったか、闘志を殺ぐ
ような、やたら嬉しそうな笑みを浮かべたのだ。三井はむっとした。
しかし三井の抗議は口から出る前に葬り去られた。
仙道が風のように脇をすり抜けたのに気づいたのは、彼がリングに向かって
踏み切ったときだった。風圧に押されるような感覚で振り返ると、長身が優雅に
宙を泳いでいた。そのままリングにボールをたたき込む。豪快なダンクショットが
この男ならではの華麗さをまとう瞬間だ。何も言えずに立ちすくんでいると、
着地した男はボールを拾い、歩み寄ってきた。
「三井さん、隙を見せたら駄目ですよ」
ボールを投げてよこすと仙道は言った。三井は我に返り、頭に血を上らせた。
「卑怯だぞ、てめえ! 油断させやがって!」
「油断?」
真顔で首をひねるのを見て、三井はうろたえた。考えれば仙道が微笑んだだけで冷
静を失ってしまう自分の方に問題があった。と、そこまで反省して、矛先を再び
仙道に向けた。
あの笑顔が何か良からぬことを考えているように見えるからに違いない。
「くっそ、負けねえぞ……!」
口の中で呟いて仙道を睨んだ。そして次ははっきりと言った。
「今度はオレのオフェンスだ。手加減はしねえぜ」
「オーケー」
仙道は腰を落とし、磐石のディフェンス態勢をとった。三井は半身になり、
ボールを守るようにドリブルを続けた。隙は見えない。正攻法でインサイドに
入り込むのは至難の業だったし、といってそのままシュートを打たせてくれるような
生やさしい相手ではない。三井は体重をこころもち右に移してから、左にまわり
こんだ。仙道の長い腕が視界から消える。
「おっしゃ!」
気合いで切り込んでジャンプした。完璧なフォームから放たれたシュートは、
だがボールが最高点に達する前にたたき落とされていた。振り切ったはずの仙道が
いつの間にか前にまわりこんでいるのを見て、三井は舌打ちした。
「危ない、危ない」
仙道は弾んだボールを掴んで言った。
「見事にひっかかるところでしたよ」
「だっせーな、あんなフェイントに簡単にはまんなよ」
「三井さんこそ簡単にシュートに行きすぎたでしょ」
鋭い指摘で言葉に詰まった。仙道は相も変わらずの笑顔だったが、二度三度と
ボールを地面に弾ませているうちに顔つきが変わっていった。
「さあ、それじゃあ、そろそろエンジンも温まってきたし、本気で行きましょうか」
短すぎる攻防に満足できないとばかりに仙道は挑発的な目を向けてきた。三井は
その目が嫌いではなかった。肩をまわしてから深呼吸をする。梅雨入り間近の
蒸し暑さで、早くも額にはうっすらと汗が滲んでいた。膝の調子は悪くない。
体力もだいぶ戻ってきた。集中すれば、やられっぱなしということにもならないだろう。
しかしそれからの展開は三井にとって非常にハードなものとなった。オフェンスも
ディフェンスも仙道はいままで三井の対したことのある相手の中でトップクラスだった。
悠然と機会を窺い、一点のほころびを見つけて鋭く抜くオフェンス。どっしりと構え、
体をとりまく空気の層まで圧迫してくるようなディフェンス。そしてそれだけの力を
見せながら、仙道の器量はまだ底を見せなかった。三井は必死で守り、攻め、数本に
一本、シュートを決めたりスティールしたりした。
もっとも、普段仙道が地道に練習に打ち込んで陵南メンバーとは一対一で
負け知らずなのを知れば、三井は少しはいい気分になったかもしれないが、それで
仙道との格差が縮まるわけではなかった。
それでも少しずつ休憩をとりながら午後にかかるまで目一杯仙道とのバスケットを
満喫し、最後は三井の勝利でワン・オン・ワンを打ち切った。
「三井さん、午後に予定はありますか?」
汗をタオルで拭いながら仙道が言うので、三井はベンチで脱力したように座ったまま
首を横に振った。
「それじゃ、メシ食ってきましょう」
「おう」
端からそのつもりだった三井は二つ返事をし、それからおもむろに首にかけた
タオルで顔を拭った。Tシャツは汗を吸って背中に張り付いていた。
「うへえ……」
肌にひやりとする感触に思わず声が出た。
気持ちが悪い。着替える前にシャワーを浴びたい。
顔をしかめて上を向くと、図らずも仙道と目が合った。下がった眉の下の目は
笑っていた。
「このまま着替えるの、気持ち悪くないですか?」
心の中を読んだように言葉を投げてくる。肯定の返事しかできないような絶妙の
タイミングだった。
「それじゃあ早いとこ行きましょう」
そう言ってスポーツバッグを肩にかけるので、つられて三井も立ち上がった。
「行くって、どこだよ」
「メシが食えて、汗を流せるところ」
にこにこと笑い、自信たっぷりに歩き始めるので、素直に従う。
「健康ランドみてーなとこか?」
「まあそんなもんです」
「へえ。……そいつは助かるな」
汗を流してさっぱりできるという事実を三井は単純に喜んだ。公衆浴場のような
ところなら仙道も不埒な真似に及ぶことはないだろうし、その上で食欲を満たせる
なら一石二鳥である。
通りを駅とは反対方向に向かい、三つ目に行き当たった角を曲がって何度か右折と
左折を繰り返し、すっかり住宅街といった趣のところに入り込む。それでも三井は特に
疑問も持たず仙道と肩を並べて歩いていた。が、最終目的地のある一角にやってきた
ときは、さすがの三井にも仙道の意図が読めたし、道に迷わなかった訳もわかった。
「てめーんちじゃねーか、ここは!」
二週間前に初めて訪れた家を前に三井は叫んだ。
「はい。メシが食えて、汗が流せます」
「それはそうだけどよ!」
「遠慮はしないで下さいね」
返事を待たず腕を掴んで引っ張るので、否応なしに仙道家の玄関口に立つことに
なった。しかしそのまま相手の思うつぼにはまるわけにはいかない。
「遠慮なんてしてねーよ!」
手を振り払って言うと仙道は笑った。
「大丈夫ですよ、別にとって食ったりしませんから」
人を食ったことを言ってもう一度三井の手首を掴むと、さっさとドアを開けて中に
入り込んだ。気に染まぬまま家の中に引き込まれ、狭いたたきに並んで立つような
格好になったとき、三井はその家の雰囲気が前に訪れたときとは少し違っていることに
初めて気づいた。
空気が動いている。三井がそう感じたのとほぼ同時に仙道は靴を脱ぎながら口を
開いていた。
「ただいまー」
声に応じるように玉暖簾の向こうから年配女性が顔を出してきた。一度夏の銀座で
顔を合わせたことのある、仙道の母親だった。
「彰? どうしたの、急に帰ってくるなんて……」
そこで母親は大柄な息子の背後に立っている三井に気づいたようだった。
「あら……?」
三井はぎこちなく頭を下げた。こんなときは、仙道の面の皮の厚さが羨ましくなる。
何と挨拶しようか迷い、気まずい思いで前を窺うと母親と目が合った。
「やっぱり、三井さん!」
認識の光が相手の目に宿ったかと思うと、名前を呼ばれていた。母親はエプロンで
手を拭いながら短い廊下を玄関先までやってきた。
「まあまあ、いつも彰がお世話になって」
「あ、いえ」
顔を覚えられている意外さに三井はますますどうしたらいいかわからなくなった。
だが仙道の母親は息子同様細かいことに頓着せずににこにこしていた。
「さあ、どうぞ。狭くて散らかってますけどね」
そんな言葉で請じ入れられた仙道の実家は、平均的な日本のうさぎ小屋である。
しかし3LDKという間取りの庭付き一戸建ては、いかに庭が狭かろうと築年数が
かさんでいようと、山手線内側という立地を考えれば不足がないどころかおつりが
くるくらいの住居であろう。もっとも成長しすぎの長男のおかげで狭苦しく見えは
するが。
促されるまま応接間兼居間に少々窮屈に収まったソファに座ると、母親は引っ込み、
またすぐに麦茶を盆に乗せて戻ってきた。
「お昼はもう済んだの?」
「まだ」
仙道が答えると母親は三井に向き直った。
「ちょうど良かった。昨日はカレーだったのよ。ご飯はジャーに入ってるし、すぐ
支度できるわ。……三井さん、カレーは嫌いじゃない?」
「あ、好きです」
三井は正直に申告した。
「ちょっと待っててちょうだいね」
さらりと言って仙道の母やキッチンに向かった。その笑った目元に仙道との共通点が
あるが、息子の下がり眉は父親譲りらしい。もっともいかにも「やり手主婦」と
いった感があるのは、眉のせいばかりではないだろう。自分の母親と比べ格段に
歯切れの良い話し方をする仙道の母親に少し圧倒されながらも、三井の最初の緊張は
弛んでいた。
居間に二人だけになると、無意識のうちに目を上げ仙道を見ていた。あのきびきび
した女性から、どうして仙道のようなのんびり屋が生まれたのだろうと思うと
不思議でならない。彼はテーブルの向かいで麦茶に口をつけており、中身を一気に
飲み干すと空のコップをテーブルに置いた。
「三井さん、メシ先にしますか、それとも風呂?」
のんびりした口調で仙道が言ったのは、テレビのホームドラマで見る夫婦の会話の
ような言葉だった。
三井は少しの間どう答えようか迷ったが、仙道の言動にいちいち目くじらを立てる
気力は残っていなかったので簡単な返答をした。
「……シャワー浴びたい」
「わかりました。メシの方はオフクロにちょっと待ってもらいます」
言うなり仙道は立ち上がり、キッチンの母親のところに行った。そしてすぐに
戻ってくると三井を浴室に伴った。
「一緒に入りたいところなんですけど、あいにくうちのフロは狭くて」
浴室のドアの際で耳元に囁かれ、三井はさすがに拳を握りしめた。が、いわばそこは
敵地で、暴発して損をするのは三井の方だった。彼は奥歯を噛みしめ、言葉だけで
一矢報いようとした。
「おまえ、この前もそう言ったぜ」
三井の反応を見越していたように仙道は唇の端で薄く笑う。
「服脱いでる間に湯が出るようにしておきますから。勝手はもうわかりますよね。
……それじゃあオレは遠慮します」
そう言って仙道はあっさりと脱衣室から出ていった。
三井はすぐに裸になると浴室の中に踏み込んだ。
そこは明るい色のタイル張りで掃除の行き届いた清潔な空間だった。彼は気分良く
頭からシャワーを浴びて汗を流した。
真剣勝負の後のシャワーは一服の清涼剤だ。たとえ結果がさんざんだったとしても、
気分転換にはなる。心身ともにリフレッシュして脱衣室に上がると、そこにはすでに
バスタオルと三井のスポーツバッグが置かれていた。彼は全身の水気を拭い、
着替えを出して身につけた。その頃には鼻は食欲をそそる匂いをかぎつけていた。
空っぽの胃がすぐに反応を始める。
くうくうと情けなくなるほど鳴り続ける腹をなだめながら、三井は居間に戻った。
ところがソファに陣取っているはずの仙道の姿が見えない。思わず入り口のところで
立ちすくんでしまったが、一瞬の後妙な気配とともに肩に加わった重みに声も出ない
ほど驚いた。
「いい匂い」
肩に顎を乗せた仙道が三井の隙だらけの首筋に軽く唇をつけてから言う。慌てて
体を引き身構えると、目が合った拍子に腹の虫が盛大に騒いだ。仙道の眉がぴくりと
動き、三井は赤面した。
「もう一時過ぎましたものね。オレもペコペコですから」
くすくすと笑いながら仙道は三井の手をとり、食卓に引っ張って行った。促される
まま椅子に腰を下ろすと、タイミング良く大盛りのカレーライスが差し出される。
「さあ、どうぞ。どんどん食べてちょうだいね」
勢いに押され三井は「はい」と返したが、スプーンを手にとるのはためらわれた。
卓上にもう一人分の皿が供される気配はなかったし、気がつけば仙道はダイニングを
出ていくところだったからだ。
「あの、仙道……くんは?」
「ああ、あの子も先にシャワー浴びるっていうから、お先にどうぞ。もう少ししたら
ピザも届くから、遠慮はなしよ。……あっ、そうそう、お茶出しましょうね」
慌ただしく仙道の母が冷蔵庫にとりつくのを見て、三井は思い切ってスプーンを
手にした。そしてそのスプーンをカレーの中につっこむ直前に、ひとつ忘れていた
ことがあったのを思い出した。スプーンを握ったまま、彼は深呼吸した。母親が
冷蔵庫からペットボトルを出し、コップを手に振り返ったところで口を開いた。
「いただきます……!」
「はい」
既視感のある笑顔を目に収めてから、三井はぎこちなく下を向いてカレーを口に
運んだ。一日前に作ったというチキンカレーは味がしっくりとなじみ、混ざり合った
香辛料が食欲を刺激する。そして胃の中を走り回っていた空腹の虫は一度の嚥下で
やっと動きを止めた。後は本能のままに手が動いてスプーンを口に運んだ。夢中で
空腹を癒していると、目の前に麦茶の入ったコップとペットボトルが置かれた。
「お口に合うかしら」
「……!」
冷や汗をかく思いがした。仙道ならば一口目で褒めていただろう。三井はその状況に
自分を一人にしておいていった仙道を恨みながら、それでも次善の策を考え、清水の
舞台から飛び降りるつもりになってその答えを口に出した。
「すごくうまいです」
仙道の母親は嬉しそうな顔をした。ちょっとしたことでお手軽に喜ぶ息子と
そんなところが似ている。だから三井の口も軽くなった。
「食べるのに一所懸命で口きくのをわすれるぐらいうまいです」
「そう、良かったわ。それじゃあいくらでもどうぞ。彰の分も食べちゃっていいのよ」
三井の母より少し年かさに見える仙道家の主婦は気さくに行って三井の緊張を
ほぐした。彼は止めた手を再び動かし始めた。
「おばさんね、何かちょっと安心しちゃったわ」
前の椅子に腰を下ろし、中身の減った三井のコップにペットボトルから麦茶を
つぎ足しながら言った。
「彰ってあんな子でしょう? ミニバス始めてからバスケバスケで、うちに友だち
連れてきたのは小学校の低学年のとき以来なものだから」
そこでほうとため息をつく。
「あの子ったら、友だちがいないのかしらとか思って心配してたんだけど……
三井さんみたいないい友だちがいれば安心ね」
「いや、オレはそんないい友だちでも……」
口に入れようとしたスプーンを皿に置いたまま三井は言った。
「仙道、くんにはもっといい友だちがたくさんいますよ」
三井は陵南のメンバーを思い浮かべ、再び食べる方に専念し始めた。
そうして一皿目を食べ終え、二皿目がテーブルに出されたときに仙道は戻ってきた。
上半身裸で、肩にタオルをかけている。
「あー、腹減った! オフクロ、オレにも」
大声で注文してから、彼は母親が立ち上がったばかりの三井の向かいの席に座った。
「三井さん、どうですか、なかなかでしょ」
乱暴に水気を拭っただけの前髪の向こうから独特の優しげな目が微笑みかけてくる。
「おう」
「下手に外の店に入るよりよっぽどいいと思ったんです」
「……おまえの考えたこたあ、間違ってねえよ」
仙道だけに聞こえるように声を低めて言う。すると仙道は相好を崩した。
その表情に嘘や作為がないなら、まったくこの男はどうして三井自身のこぼす
いきあたりばったりの言葉に喜びを見いだすことができるのか、理解不能だ。
感情を素直に口に出すことの苦手な三井には何だか決まり悪いような気持ちさえ
湧いてくる。
「ちっとばかり面食らったけどな」
上目遣いで睨んでも敵の笑顔は少しも曇らない。三井は肩をすくめて二皿目の
カレーをスプーンですくい上げた。ちょうどそのとき仙道分の皿が差し出された。
「うちのオフクロの煮込み料理って結構いけるんですよ、カレーとかシチューとか」
スプーンを掴みながら彼は言った。カレーの皿を置いて背を向けた仙道の母は
そこでひたと動きを止めた。それに気づいて三井が目を上げると、一口目の
カレーライスをぱくついた仙道の向こうで母親が目をつり上げて振り返るところだった。
「そういえば彰、あんた先々週帰ってきて冷凍庫のシチュー食べちゃったでしょ!」
「ああ……うん、そうだっけ?」
「そうだっけ、じゃないの! 母さんはね、お父さんのところから帰ってきてから
食べようと思ってたのよ、それなのに……」
オレも食べました、とはさすがに三井も言い出せなかった。取り繕いもせず三井の
目前で仙道を責め立てる母親は、それでも妙に明るくドライで、小言の速射砲に
馬耳東風を決め込む息子との対比がおかしかった。そのうちに宅配ピザが届き、
シチューの恨みは忘れ去られたかっこうになった。
カレーとピザとで食欲を満たし人心地がついてから、二人は仙道の部屋へと場所を
移した。