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 宮城を先頭にメンバーがコートに向かい、更衣室には三井と赤木だけが残された。しんとした 室内で二人はしばらく無言で立っていたが、同時にため息をついて顔を見合わせた。
「……何か置いてけぼり食らったみたいだな」
「先を歩いてるのはオレたちの方なんだがな」
 三井が苦笑いを浮かべて言った言葉に、赤木が答える。胸に抱える寂しさに似た気持ちは同じ なのかもしれない。三井は目を上げた。
「大学の方はどうだ?」
「厳しいが、まあ何とかやっている。三井は?」
「まずは体力をつけなきゃ話にならんだろ。……でもまあ、オレがレギュラーになったときには 深体大を定位置から引きずり下ろしてやるぜ」
 そう言うと目の前でいかつい顔が緩んだ。
「優勝決定戦で会おうな」
「おう。首を洗って待ってろ」
「そろそろ戻るか。前の試合が終わったようだ」
 赤木の言葉に三井は頷いた。開け放したドアからざわつきが伝わってくる。
 二人は肩を並べて部屋を出た。通路を階段の方へ向かうところで、ちょうどコートから引き上げて くる陵南のメンバーたちとすれ違った。記憶のある顔にねぎらいの言葉をかけながら階段の一番下 までくると、集団から少し離れて最後尾を悠然と歩いてくるキャプテンに行き当たった。首にかけた タオルで汗を拭っている。
「仙道」
 赤木に呼び止められ、彼は少し驚いたような顔をした。三井は瞬間赤木の陰に身を隠したつもり だったが、もちろん無駄なことだった。
「あ、赤木さん……三井さんも」
「緒戦突破だな。おめでとう。当然過ぎて特に嬉しくもないか?」
「いや、そんなことはないっすよ」
 仙道は顔の前で手を振った。
「決勝リーグは大学の先輩と観にくることになってるんだ。……いい試合を見せてくれよ」
 赤木はそこまで言って、冗談めかしてつけ加えた。
「いや、もちろん湘北戦は手を抜いてもいいからな」
「駄目ですよ」
 相変わらず底の割れぬ笑顔を作り、それでも意外な素早さで仙道は答えた。
「陵南はもう負けませんから」
 彼はほんの一瞬、真摯な目を向けてきた。
「約束があるんです」
 その一言で三井は前の年の暮れのことを思い出した。
 日本一のシューターに追いつくため日本一になる   この大勘違いヤローはそう言った のだ。三井はその言葉を深くとらえていなかったが、仙道は真面目に考えていたのだろうか。 ともあれ相手もそれなりに天賦の才に磨きをかけていることをいまの三井は知っている。
「生意気な」
 赤木はふっと笑うと、すれ違いざま仙道の肩を叩き、階段を駆け上がった。三井もその後を追って 無言で脇を通り過ぎたとき、仙道に呼び止められた。
「あ、そういえば三井さん……」
 三井は狼狽した。赤木がひとつ先の踊り場で振り返る。それに気づいて必死の思いで取り繕おうと したが、仙道とのもっともな接点など見つかるはずもなく、赤木に背を向けて表情を隠すのが 精一杯だった。仙道は顔つきを少しも変えず続けた。
「牧さんに言われたことなんですけど、ちょっと」
 牧の名前が出ると、赤木の動く気配がした。
「三井、オレはもう席に戻るからな。また会おう」
「お……おう」
 慌てて肩越しに振り返ると赤木の巨体は階上へ消えていくところだった。しばらくそのまま 元チームメートが去っていくのを耳で追っていたが、やがて何の気配も感じられなくなると目を 前に戻した。つい先刻の喧噪が嘘のように静かだった。
「で、牧が何だって?」
 あくまでも他校の先輩然として口を開く。
「嘘ですよ」
 仙道は平然として言い、階段を上ってきた。TPOをわきまえず、いつもの余裕の笑顔だ。 三井は思わず後ずさった。
「あ? 嘘? 何がだ」
「だってせっかく三井さんと会ったのに、すれ違いじゃつまらないでしょ。だから」
 仙道は一段下で足を止めた。いつもは見おろしてくる目が逆に見上げてくるのが新鮮だった。
「なかなか会えないんだから偶然は大事にしたいと思うんです。これって、真面目に試合した ご褒美ですよね」
「けっ、なーにが真面目だ。いちいち相手に合わせてんじゃねーよ、かったりい。おかげでうちの 監督、福田のがいいなんて抜かしやがったぜ」
 仙道は目を見開き、二度立て続けに瞬きをした。それからまた元の笑顔に戻る。
「そうかあ、オレ不合格ですか」
「笑ってんじゃねーよ、コノヤロウ」
「残念だな、オレのパスで三井さんにバンバン三点決めてもらおうと思ってたんだけど」
「やなこった」
 思いきり顔をしかめて言うと、仙道は声を出して笑った。何でも冗談にしてしまうその男の態度に 三井は少し苛立った。
「……おめえ、脳みそ溶けたみてえなことばかり抜かしてて、万が一ドジふんでみろ、 一生会ってやんねえからな」
「わかってますよ。だから頑張ってるんです」
 仙道がそう答えたとき、上の方から足音がした。こんな場所では聞き慣れない、細いヒールが コンクリートを打つ音だった。三井が目を上げると音の主はすぐに姿を現した。汗くさい体育館の 階段にそぐわぬ落ち着いた大人の女性。それも理知と艶の同居するかなりの美人で、男なら目を 向けずにはいられなくなるような魅力があった。当然三井も無意識のうちに見とれたが、その美女が 自分の前で足を止めるとは予想もしなかった。
 当惑する彼の視線の先で彼女は満面に笑みの花を咲かせた。さながら咲きこぼれる白い芍薬の ような美しい笑顔で、紅を引いた完璧な唇は笑みの頂点で開いた。
「彰くん」
 少し低めの声が呼んだのは三井の連れの名前だった。
 彼は女に初めて気づいたのか、驚いたような顔をした。
「亜沙子さん……」
 名前を呼ばれた女は段を降りてきた。
「来ちゃった。はい、約束の差し入れ」
 手にした紙袋を差し出すとき、彼女は言い足した。
「決勝リーグ進出、おめでとう」
「……手ぶらでも良かったのに。でも嬉しいです。……あ、果物ですか?」
 東京ローカルの老舗果物店の名前が紙袋に記されているのに気づき、仙道が言う。
「メロンよ。彰くん、好きだったわよね?」
 そこで彼女は初めて三井に目を向けた。
「ごめんなさい、お友だち?」
「あ……先輩…になるかもしれない三井さんです」
 箱入りのメロンを下げた仙道はいつもと変わらぬ表情で言った。
「大きいのねえ。彰くんの友だちって、みんな背が高くて素敵なのよね」
 そう言って彼女は三井に微笑みかけて会釈した。
「初めまして。彰くんの昔の彼女です」
「え……」
 三井の頭の中には一瞬「理解不能」の赤ランプが点った。そしてやっとその意味を解したときも、 どう対処したらいいのかわからなかった。冗談として笑ったらいいのか、それとも……。
 三井の逡巡に答えたのは彼女の笑い声だった。
「やだ、真に受けないで。冗談よ、冗談。本当は近所のお姉さんです。彰くんがこーんな小さい ころから知ってるの」
 女は自分の腰あたりに子どもの頭があるような手振りをしながら言った。
「亜沙子さん!」
 珍しく仙道がうろたえたように口を挟む。それを見て三井は笑ってしまった。仙道にも「可愛い」 子ども時代はあったのだ。いまとなっては信じ難いが。
「仙道、あいつらの試合そろそろ始まっからオレもう席に戻るわ。話の続きはまた後でな」
 そこで女の方を向いて軽く頭を下げた。
「それじゃあ」
「ごめんなさいね、お話の邪魔して」
「いいえ。どうせ大した話じゃないですから」
 ふっくらとした笑顔を目に収めて踵を返すと、数分前に赤木の上っていった階段を駆け上がる。
「三井さん、今度連絡しますから」
 背中に仙道の声が後追いしてきたが、三井は振り返らず返事をしただけだった。



 その日湘北バスケ部の新チームはすばらしいデビュー戦を飾った。
 キャプテンになった宮城はいっそう鋭い動きを身につけ、その判断力といい運動能力といい 神奈川一のポイントガードであることは疑いなかったし、流川、桜木という二枚のフォワード陣の 破壊力は健在だった。特に桜木の成長ぶりは初心者だった頃から一年を経てもめざましく、 センターの穴を埋めていた。また好シューターがうまい具合に一年生で入ってきていた。いままでの ところ三井ほどのシュート成功率はもちろん望むべくもなかったが、鍛え方しだいでは計算できる 得点源になりそうだった。
 終わってみれば百点ゲームのダブルスコアで、陵南とともにシード校の圧倒的な力を見せつけ、 決勝リーグ三つ目の席を確保した。
 第四試合で登場した海南大附属も順当に勝利した。十七年に渡る神奈川県内での不敗神話は その一勝で十八年目に突入した。帝王牧の穴は厚い選手層で埋め、危なげがなかった。
 翔陽、陵南、湘北、海南大附属。四強の出そろう決勝リーグは三週間後に幕を開けることになる。



 仙道から電話があったのは翌日の晩のことだった。
「おう、オレ」
 コードネームは〈佐藤〉。電話で連絡をとるとき、仙道は「三井の中学時代の友人・佐藤」を 名乗る。ちょうど三井の友人知人にその姓を持つ人物がいなかったからだ。そのため、 「佐藤くん」から電話がかかってきたとき、三井はいきなり横柄な口調になる。
『あ、三井さん、昨日はどうも』
「何か用か?」
 受話器の向こうから騒音が聞こえてくる。もう九時は過ぎているのに、外の公衆電話からかけて いるのだろう。高校の寮ならとっくに門限は過ぎているに違いない。
『いや、用ってほどでもないんですけど。……昨日はまさか三井さんが観にきてくれると 思わなかったんで嬉しかったです』
「てめえを観に行ったわけじゃねえや」
 意地っぱりで照れ屋の性分が嘘をつかせる。正しくは「てめえだけを観に行ったわけじゃねえ」だ。 電話の向こうで仙道が笑った。
『そうでしたよね。三井さん、後輩思いだから』
 電話線を通って伝わってくる声は本気でそう思っているかのように響いた。あの何を考えている のかわからない、育ちすぎの水芭蕉のような顔が見えないせいかもしれない。
 ふと中学一年のとき尾瀬のハイキングで見たその湿原の代名詞のような花が脳裏に浮かび、 滑稽な連想に口元が緩んだ。あれは清楚というより間抜けだった。そう思ったら水を向ける余裕が できた。
「……ゴマすったって何も出ねーぞ。言いてえことははっきり言え。まさか女みてえに無駄話する ために電話してんじゃねえだろうな」
『冷たいなあ。めったに会えないんですから、たまには電話で声ぐらい聞いたっていいでしょ』
「昨日会ってるだろーが!」
 三井の余裕など仙道のとぼけた一言ですぐに吹き飛んでしまう。思わず声が高くなり、彼は 慌てて周囲を窺った。
 寮生用の電話は寮母の部屋の隣りに設置されていた。そのため夜の八時までは寮母が面倒を 見てくれるのだが、それ以降は一年生の当番になっている。わずか三畳ほどの部屋に学生が詰め、 かかってきた電話を取り次ぐのである。共用電話のため長話を禁じられているし、そんな訳で 何となく会話を聞かれるのがはばかられることもあり、廊下からカウンターの小窓越しに電話を 取るのが寮生の常だった。もちろん三井もその習慣に倣っていたが、それでもそのときの大声には さすがに第三者の目が気になった。
 三井の後ろめたさいっぱいの視線の先で、当番の学生はテレビを見ながらカップ麺を食べていた。
「……ついでに言えば先週も会ってる」
 頭を抱え込みたい気分で言った。
『オレは毎日だって会っていたいから』
「寝言言ってんじゃねー! 長電話は禁止なんだ」
 もう一度、小窓の向こうの電話番に目をやる。相手はテレビの前で笑い転げていた。
「……用件は簡潔明瞭に。わかったか」
 旧式の黒電話に貼ってあるシールの上の注意書きを三井は読んだ。仙道は了承の返事をした。
『わかりました。それじゃあ、簡潔明瞭に。今度の日曜、デートしませんか? 決勝リーグ前の 最後の休みなんです』
「陵南てのはずいぶん余裕あんだな。みんな一日も休まねーで練習してるころだぜ」
『いや、たまには休養も必要ですからね……というのは建て前で、配線工事で体育館が使えない らしいです。どうです?』
 断ってやろうかと一瞬考える。結論が出ないうちに仙道は続けた。
『この間東京でいいリング見つけたんです。駐車場の一角なんですけど、ちょっと奥まったところに あって前にあるビルが目隠しになってるんで、ほとんど誰も使ってないみたいなんですよね。 ……ワン・オン・ワン、やりませんか?』
「え……おまえと?」
 慌てて発した声は少しうわずっていたかもしれない。
「ほかに誰がいます? 駄目ですか?」
「やる!」
 三井は即答した。仙道との一対一をそれまで考えない方がおかしかったのだ。
『良かった。じゃあ駅で待ち合わせしましょう』
 胸の中心に居座り続け、いつも仙道と対するたびにその存在を主張するわだかまりに似た思いを そのときは忘れていた。待ち合わせの場所と時間はとんとん拍子に決まり、三井は上機嫌で電話を 切った。
 鼻歌を口ずさみながら無防備に振り返った三井だったが、目を上げて心臓が止まりそうなほど 驚いた。
 つり目のゴリラのような迫力のある顔が突き出される。元山王工業の河田だった。桜木の言う ところの「丸ゴリ」である。まったくうまいことを言うと思ったが、チームメートになってからの 三井自身の感想としてはゴリラというよりサイである。しかしやばい電話を切り、振り返った とたんにドアップを拝むと、そんな表現では足りない筆舌に尽くしがたい凄さがある。
「かっ、かっ、かっ、河田、いきなり何だ!」
「いきなりって、帰ってきたら嬉しそうに電話してるのが見えたからな」
 Tシャツに短パン、手からコンビニの袋を下げて河田が言う。三井は頬をひきつらせた。
「誰が嬉しそうだって?」
「おまえ」
 ごつごつとした顔をぴくりとも動かさず、コンビニ帰りのサイ男は返してくる。三井はこの男が 少し苦手だった。入寮後初めての飲み会でいきなりプロレスの技をかけられ、失神しかかったことが あるからだ。もちろんギブアップしなかった意地っぱりな三井にも問題はあるのだが、だからと いって気絶寸前までやるか、フツー、というのが三井の言い分である。
「嬉しそうなんかじゃねえ」
「照れてるべ」
「ちげーよっ! 相手はヤローだっ」
「はあ、ヤローから電話がかかってきて嬉しそうだったのか」
 三井は言葉に詰まった。ああ言えばこう言う。同じセンターでも赤木のくそ真面目でまっすぐな 気質とはまるで違う相手についついけんか腰になってしまうのを、自覚していても止められない。
「だから嬉しそうなんかじゃねーって言ってるだろーが!」
 三井はむきになって反論し、河田の反応を窺った。河田の三白眼には不審の色が隠れているような 気がしてならなかった。そのため続けて何もやましいことはないとあらん限りの表現でまくしたてた が、さして多くない語彙が尽きたとき、とうとう切れた。
「部屋に戻る!」
 一声吠えると足音も高く廊下を突っ切り、階段を上った。同じ三階に部屋のある河田は後を 追って来なかった。


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