* * *
当日は快晴だった。
監督や牧と一緒に寮から出発し、知花とは会場の最寄り駅で待ち合わせた。
例年通りシード校の登場するこの日は観客の入りが段違いで、熱気が館内に充満していた。
ただ例年と違うのは、「万年緒戦敗退チーム」だった湘北がシード校として登場することである。
観客席には各校のOBの顔もちらほらと見えていた。
翔陽のOB連は藤真を中心に集まっていた。それぞれ別の大学に進んでも、優しげなマスクを
した絶対君主は隠然たる力を維持しているようだった。
監督と知花を先に席へと座らせ、牧と一緒に翔陽の席の方に行ってしばらく雑談していると、
それを見かけて懐かしい面々が集まってきた。深体大に進みポスト杉山と目される赤木。バスケを
きっぱりとやめて家業を継ぐ道を選んだ魚住。そして多彩なOBたちの顔に引き寄せられてくる、
第一試合に組まれている翔陽以外の湘北、陵南、海南の現役選手たち。その顔ぶれはそのまま
群雄割拠する神奈川の立役者たちの集まりであり、周囲を圧倒していた。
そしてそれだけのメンバーが集まると悶着の起こるのが常である。例に漏れず似たもの同士の
桜木と清田が角をつき合わせ始めた。そのいがみ合いは流川の発した「どあほう」の一言で瞬時に
矛先を言葉の主へと変え、今度は三つ巴の騒ぎ と言っても流川はほとんど無言、無表情
だったが になった。それを脇から実況中継しているのが相田彦一で、先輩軍団はその年
の二年生たちの無駄な元気さに半ば感心しながら、しばらくの間傍観していた。
やがてどうにもうるさくて収拾がつかない段になって、やっと彦一の実況中継が陵南副キャプテン、
越野の一喝で片が付いたが、もっとひどいサル山のボス争いは海南キャプテンの神が介入しても
収まらなかった。どうも卒業から約二ヶ月ぶりにOBたちと会い、ハイになっていさかいが
グレード・アップしているらしい。
赤木と牧は目を見合わせ、ため息をついた。結局方法はひとつしかないと思い決めた瞬間、
胸のすくような快音が響いた。それも続けざまに二回。
「こらーっ! あんたたち! 人様に迷惑かけるんじゃなーいっ!」
誰よりもよく通る声が大男どもを黙らせる。頭を押さえて呆然と立ちすくむ野生児二人のすぐ
そばに、トレードマークのハリセンを手にしたグラマラスな姐御が立っていた。
まずは桜木をひっぱたき、返すハリセンで清田を黙らせる。その間およそ○.三秒。必殺技の
切れ味はますます磨きがかかっているようだ。
彩子は赤木と三井のいることに気づくとうってかわって愛想の良い笑顔を見せた。
「赤木先輩、三井先輩、お久しぶりです」
美人マネージャーは一段と迫力を増しており、神奈川バスケ界のスターたちに囲まれても
気後れした様子はなかった。
「ひどいっすよー」
他校のマネージャーの越権行為に、清田は元キャプテンに泣きついた。しかし牧は甘い顔は
しなかった。
「おまえが悪い」
拳骨を頭に見舞うと牧は神の方に向き直った。
「……神、苦労をかけるな」
別に清田の身内でもないのに牧が言うと、言われた本人は大して問題児の扱いに苦慮している
ようでもなく笑みを見せた。どうも底の知れない男である。
桜木の方はというと、宮城に蹴りを入れられていた。
「やれやれ、どこもキャプテンは大変か」
牧はぽつりと漏らし、三井が真っ先に気づいていたことにそのとき初めて関心がいったようだった。
「そういえば、陵南のキャプテンはどうした?」
目当ての人物の不在に気づき、牧は言った。
「……また遅刻か?」
魚住が言うと、越野は渋面を作って頷いた。
「もう中間管理職の気分ですよ」
ため息をついて肩を落とす。越野はさらに続けた。
「実はさっき交番から電話があって……」
「交番?」
魚住の顔の険しくなったのに気づき、越野は慌てて悪い連想を否定した。
「いや、別にやばいことじゃないですから」
彼が声を低めて幾分恥ずかしそうに話し出すのに、三井は無関心を装いながらも耳をそばだてた。
駅構内でベンチに座っていた仙道はあくびをした。
休日の試合では、陵南高校バスケ部員たちは体育館の最寄り駅で集合することになっている。
時間は厳守。遅れた者はさっさと置いていく、というのは建て前で、十分前後は遅れてくることの
多いキャプテンより先に着いていればセーフというのが実情だった。
そしてこの日、どうしたわけか珍しく三十分前には楽々到着する電車に彼は乗っていた。
インターハイに対する意気込みが前面に出て、というわけではなく、単に目覚まし時計の設定を
間違えただけのことだったが、さすがにその時刻では集合場所に部員の顔は見えなかった。
何につけてもおおらかな仙道は、遅刻することに大して良心の咎めを感じていないかわりに、
待たされることも全く苦痛に感じていなかった。もっとも三井との待ち合わせでは若干様相を異に
したが、とりあえずこの日は、シーズン初の公式戦に臨むという緊張感もなく、構内の人の往来に
ぼんやりと目をやっていた。そのうちについ眠気を催し、挙げ句の果ての大あくびであった。
仙道は目元ににじんだ涙を指で拭い、姿勢を正した。そのとき、危なっかしい人影が彼の視野の
中に入ってきた。
いかにも人混みを歩き慣れていないという心許ない足どり。おそらく七十前後の老女であろうが、
手にはぱんぱんにふくれあがった紙袋を下げていて、それがひどく重そうに見えた。
考えるより先に彼は立ち上がり、老女のところに歩いていって紙袋の手を掴んだ。相手は驚いた
ように顔を上げた。
「重そうですね。お手伝いします」
そう言ってにっこり笑うと、警戒心まるだしだった皺だらけの顔が和んだ。まったく、
人好きのする二枚目は得である。今度の場合が得かどうかは別にして、世の女性は全て年齢を問わず
この仙道の笑顔の前には武装を解除するだろう。
老女は頼りついでに小さな手提げから紙切れを取り出した。促されるままに仙道がそれを見ると、
住所と簡単な地図の書き付けられたメモだった。聞けば娘一家の引っ越したばかりの新居を訪ねる
のだという。仙道はしばしその紙とにらめっこし、やおら頷いて大きな荷物を軽々と持って
自信満々の足どりで歩き出した。目的の家はそう遠くなく、老人の脚でも十分もあれば着く
距離だろうから、集合時間までに悠々帰って来られる、最悪の場合でもいつもの時間には戻れる
だろうと思ったのだが、彼は重大事実を忘れていた。土地勘のない老女と方向に勘の働かない仙道
との組み合わせでは道に迷うのは火を見るより明らかなことだったのである。
十分とちょっと歩いて閑静な住宅街に行き当たる予定が、あるはずのない国道を目の前にして
仙道は足を止めた。
「すいません。道間違えちゃったみたいです」
「あらまあ、ごめんなさいねえ。重い物持たせて無駄に歩かせて」
「いえ、オレのせいですから」
そうだ、おまえが悪い、と三井なら嵩にかかって責めたてるところだろう。実際大した根拠も
確たる信念もなくあさっての方向へと足を向ける仙道のせいだったのだが、そう思わせないところは
人徳である。
が、状況がそれで打開するわけではない。自分一人なら何とかなるが、老人連れでやたら
歩きまわるわけにもいかないだろう。さてどうしたものか、と通り沿いに目を走らせて彼は
救いの神を見いだした。
「あそこで道を聞きましょう」
五十メートルほど先にある交番を指さして言い、再びゆっくりと歩き出した。
交番に到着し、目的の家の住所を告げると、案の定ほとんど正反対の方向に来ていたことがわかり、
結局交番から娘の家へ連絡を入れて、車で迎えに来てもらうことになった。
お役御免になった仙道は交番の時計を見て、すぐに駅に戻ることにした。集合時間まであと五分
しかない。来た道を走って戻っても間に合うかどうかは微妙だった。彼が先に戻ることを告げると
老女は何度も頭を下げ、重そうな荷物の中から何かを取り出した。それはまだ走りのサクランボ
だった。上品に赤い粒が宝石のように並ぶとびきりの極上品を、老女はお礼だと言って押しつけて
きた。仙道は遠慮したのだが、結局はありがたく押しいただいて、スポーツバッグに詰めた。
彼は交番を飛び出した。来た道をランニングのつもりで逆方向に大きなストライドで駆け抜けて
いく。五月の陽射しは強く、空気はそろそろ湿気を増しつつあったが、風を切って走るのは爽快
だった。改めて思えば、インターハイに至る戦いの幕開けにふさわしい好天だった。気持ちも
自然引き締まり、運ぶ足は軽快に跳ねた。
しかしこの期に及んでも仙道はやはり仙道だった。
駅に戻っているつもりが、足を向けた先は人通りが多くなるどころか、気がつけば一戸建ての
住宅にとりまかれ、出歩く人影はほとんど見かけないようになっている。穏やかな日曜の午前の
住宅街だが、見覚えのない風景だった。彼は走るのをやめ、潔くまわれ右をした。また交番の
厄介になる事態に陥ったようだった。
ただひとつ、例の交番まで無事にたどり着けるかどうかが疑問だったが、とりあえず何時間も
迷ってはいられない。結局試合中並みの細心の注意を払って道を選び、車の通り過ぎる音を頼りに
国道に達して、ようやく交番にたどり着いた。
先刻世話になった若い巡査は仙道を見ると「今度は何をしに来たんだ」というような、曖昧な
笑みを顔にはりつけた。すでに娘夫婦の車に拾っていってもらったらしく、老女の姿はなかった。
最初仙道は駅までの道を教えてもらおうと思っていたのだが、賢明な巡査のすすめで会場に電話を
入れ、副キャプテンの越野を呼び出すことにした。
「……というわけで、しっかりした一年坊をいま迎えに行かせてるんすよ」
越野は苦り切った表情で息をついた。
「まったく、ただ寝坊で遅刻したって言われた方がどんなに気楽か……」
突き放したくても突き放せない面倒見の良い人間が貧乏くじを引く。そういう意味で越野は
まさしくその年の犠牲者で、陵南バスケ部の副キャプテンとして最適の人材だった。
三井は魚住と越野のやりとりを聞いて冷や汗をかく思いがした。
恥ずかしいやつ……。
とんでもないやつだとはわかっていたが、高三にもなって道に迷って警察の世話になるとは。
越野の話の展開に沿って暑くなったり寒くなったり、三井の交感神経は刺激され放しだった。気分は
ほとんど身内である。
その事実にも気づかずあたふたする一方で、不意に連れの存在を思い出した。隣りにいる牧に
不審に思われていないかどうか心配になり、横を盗み見る。帝王は顔を背け、肩を震わせていた。
牧はそのまましばらく忍び笑いをし、それでも何とか笑いのツボから抜け出して、顔を上げた
ときにはもうすました表情を作っていた。
何を考えているのか顔を見ればすぐわかると言われる三井は爪の垢でも煎じて飲んでみたいところ
だった。
そんなこんなで神奈川のスターたちが賑やかに旧交を温めている間に時は過ぎ、いつの間にか
観客席はほぼ満員になっていた。続いてざわつきが歓声へと変わった。
「お、時間か?」
牧の声につられてコートに目をやると、第一試合の武里と翔陽の選手たちが入場してくるところ
だった。
「それじゃあオレたちも席に戻るとするか」
赤木が言い、OBも現役選手たちも、それぞれの席へと足を向けた。三井は途中まで湘北メンバー
たちと一緒に移動していたが、自然に流れを離れて監督と知花のいる席へと向かって宮城に呼び
止められた。
「三井サン、どこ行くんスか」
「え……?」
振り返ると、湘北バスケ部員たちは要領の良いマネージャー連の手際で最前列に席を占めていた。
宮城は三井から二段下のところで振り返り、見上げてきた。
「あっ、ああ、オレ、連れがいてもう席とってるんだわ」
だいたいの方向を指さして言った。宮城が足を止めると今度は桜木まで気づいて降りた段を再び
上ってくる。
「ミッチー、オレたちと一緒に観ようぜ」
「そうっスよ。久しぶりなんスから」
二人に揃って詰め寄られ、ゴールデン・ウィークのディズニーランドの件をふと思い出して
後ろめたさに襲われた。
「いや、でも……」
口ごもって足を引くと、後ろにいた誰かにぶつかった。反射的に謝って振り返る。いつの間に
回り込んでいたのか、流川の無表情な顔に遭遇し、三井は驚いた。美形の鉄仮面は口を開いた。
「センパイ……」
三井は思わずたじろいだ。
「何なんだよ、おめーらっ! ガキみてーにいつまでもつるんでんじゃねーや!」
どうしたらいいかわからなくなって声を荒げる。宮城が何か言いたそうに片眉を上げたところへ、
牧が首を突っ込んできた。
「無理言うなよ、おまえら。三井は彼女連れなんだから」
「ああ?」
一瞬の静寂の後、どよめきが宮城と桜木を通じて関係者全員へと伝染していった。が、牧の
言ったことを理解して一番驚いたのは三井本人だった。
「牧、何言うんだよ、おまえ!」
「隠すなって」
三井の困惑に牧は取り合おうとしない。二の句が継げずに呆然としていると、知りたがりの
スズメたちが押し寄せてきた。
「なーんだ、三井サンもやっと人並みにつきあってくれる彼女ができたんだ。……教えて下さいよ、
彼女、どこっスか」
「彼女じゃねーよ」
「水くせえぞ、ミッチー」
桜木は不満げに言うと、今度は牧に向き直った。相変わらず上級生を上級生とも思わない態度で
畏れ多くも帝王の肩に腕をまわした。
「なあ、じい、教えてくれよ、ミッチーの彼女」
「てめっ、赤毛ザル、牧さんに失礼じゃねーか!」
清田が咬みつくのを神が抑え、牧はそれを笑顔でいなす。それでも暴れる清田の反対側から
三井が桜木の顔を押し退けた。
「バカヤロウ、先輩の言うことが信じらんねーのか、桜……」
抗議する三井の口を大きな手が塞いだ。文句はそれでせき止められる。
「アンタは黙ってた方がいい。……口開くとうるせえ」
無表情で三井を人の輪の外に押しやると、流川は牧の桜木とは反対隣りに滑り込んだ。
他人のことには全く興味がありません、の右代表のような顔をして、この端麗なマスクの二年生は
牧の発言のどこに関心があるのだろうか。
年下のくせに生意気なヤローに蹴りを入れようとしても人垣に邪魔され果たせない。
憤懣やるかたない三井は、諸悪の根元・牧を睨みつけた。
牧は光岡知花を本当に三井の彼女だと思い込んでいるらしく、そのあがきを照れだと解釈している
ようだった。彼は笑いながら彼女の座る席を指さした。
「えっ、あのおっさんの隣りに座ってる……?」
牧が首を縦に振ると、宮城は絶句した。桜木は束の間見とれ、我に返ると「ハルコさんには劣るが、
ミッチーにはもったいない」と呟いて短気な先輩の一層の怒りを買った。流川は腕組みをして息を
つく。その他大勢の関係者は同じようにそれぞれ意外だという意思表示をしていた。
「てめえら、どうしてオレに可愛い彼女がいたら意外なんだよ!」
三井は誤りを正すことを忘れ、怒鳴った。
まったく、大学の連中にしろ、こいつらにしろ、三井寿を見くびりやがって。オレがその気に
なれば女の一ダースや二ダース簡単に落としてやるぜ。
彼は人の壁の際に立ち、思い切りふてくされて心の中で呟いていた。
「へえ、あれが三井さんの彼女ですか」
「悪いか?」
背後から降ってきた声に何も考えず無愛想に答える。
「可愛いですね」
「ああ、可愛い……」
そこで三井は息を呑み、後ろを見上げた。
「うわあ……!」
視線の先には十年一日のようににやけた笑いを浮かべる天才バスケットマンがおり、
三井のあげた奇声に一斉に注意が集中した。
「やだなあ。そんなに驚かないで下さいよ」
これを驚かないで何を驚けと言うのか。三井の頭の中には一瞬にして抗議や弁解が充満したが、
結局口から転がり出たのは全く違うことだった。
「てめえ、どっから湧いて出た!」
「湧いて出た……って、オレは虫じゃないんですから……」
頬をかきながら情けなさそうに言う。今季初の公式戦を控えているとは思えない緊張感のなさだ。
もっとも緊張感がないと言ったら「三井の彼女」のことで大騒ぎしていた連中もそうだ。
しかし指定席は二つ。その事実は動かせない。仙道の登場に、桜木や流川は剣呑な目を向けてきた。
チームとしては倒した相手でも、一対一ではまだ破るべき厚い壁に違いない。
姿を現しただけでとたんに騒ぎを収拾してしまった仙道は、そのときの三井にとってはまさしく
救いの神だった。しかし、桜木がいつも通り「センドーはオレが倒す」とかます前に、上の方から
降りてきた魚住が仙道をつかまえた。
「あ、お久しぶりです、魚住さん」
如才なく頭を下げると二メートルの巨漢はため息をついた。
バスケを高校限りとし速やかに仙道へと全権を委譲したこの男はいま板前修業をしているが、
バスケへの未練には断ち切りがたいものがあったらしい。昨年のインターハイで、大根の桂剥きを
しながら赤木に活を入れたのは、いまや語り草になっているし、こうしてベスト4を決める試合にも
顔を出している。
「みんな観客席にいるって聞いて来たんですけど、いや、賑やかなんですぐわかりました」
「陵南はもう控え室に戻ったぞ。第二試合だからな」
親指で出口の方を指し、魚住は言った。
「ああ、そうでしたか。でも見つけてもらえたからおんなじですよ」
悪びれず笑うのを見て前キャプテンは肩を落とした。
「……まあ、とりあえず控え室へ行け。越野が一人で難儀してるぞ」
「わかりました」
仙道は答え、湘北と海南の入り混じったメンバーに笑顔を向け、手を挙げた。
「それじゃあ」
彼が暢気な応対をするほど周囲の空気の張りつめるのがおかしい。完全な当事者でない三井には、
そのコントラストがよく見えた。仙道が向けた背に桜木は飛びかからんばかりだったし、無表情な
流川も射抜くような視線を向けている。清田はすっかり真顔になっているし、一年生たちは息を
呑んで神奈川の名物プレーヤーを見つめていた。
そんな緊張感の中を長身の優男は悠然と階段を上りかけた。牧が仙道に近づいたのはそのときで、
仙道は足を止めて振り返った。彼は牧の言うことに耳を傾けていたが、一瞬視線を三井に向け、
目が合うと柔らかい色を瞳に乗せて、再び牧へと目を戻した。彼は頷き、牧は離れた。
「おい、おまえのところ、仙道を狙ってるのか?」
いつの間にか赤木がそばにいて、三井に聞いてきた。牧と仙道の接触の意味は隠すまでもなかった。
三井は目を上げた。
「おまえのとこもか?」
「当然」
赤木はそのいかつい顔に自信たっぷりの笑みを浮かべた。
「味方につけたらあんなに心強いやつはいないからな。今年はあいつも全国区になるだろう。
……仙道は深体大がもらう」
三井も笑みを返した。
「まあ、頑張れよ。健闘を祈ってるぜ」
「余裕だな。……今年のラインナップでもう十分だってのか?」
「さあな」
彼は曖昧な返事をした。仙道は純粋にチームメートとして見れば絶対に欲しい選手だが、
三井個人とすれば面倒を背負い込むことになるのは確かで、そういう事態はできるだけ避けたかった。
ともあれ、天才プレーヤー仙道彰の争奪戦は熾烈を極めることになるだろう。赤木の宣戦布告は
まだその端緒に過ぎない。
やがて試合前の練習が終わり、観客席の人間はそれぞれの席に着いた。
三井は牧と二人で知花を挟むようにして座ることになった。牧の大ボケのおかげで最初のうちは
バカヤロウどもの目が気になったが、それも試合が始まるまでのことで、前半戦の熱っぽい展開に
余計なことは忘れた。
翔陽は前年より小粒になっていたが、まとまりのある良いチームだった。武里もとりあえず
シード校として残るだけのことはあったが、後半になると地力に勝る翔陽が突き放し、最終的には
七ゴール差で勝利を収め、何とか藤真を満足させた。
第二試合の選手たちがコートに姿を現すと館内のボルテージは一層高くなった。
仙道にはひっきりなしに黄色い声援が浴びせられていて、その中を彼は当然のように泳ぎまわって
いた。
「すごい人気だな」
「華がありますからね、あいつには」
感心したように監督が呟くと、牧は答えた。
三井の視界の中で仙道は淡々とパスを出しシュートを放っていた。バスケをしているときの彼は
普段のお気楽ぶりからは想像のつかないほどどっしりとした存在感があった。魚住という大型
センターが抜け、その穴は結局埋まらなかったというのに、チーム自体には危なげな空気は少しも
漂っていない。いい意味での余裕の見える練習だった。
短い練習時間が終わり、両チームのスタメンが整列すると、熱気はいや増した。
緊張が凝縮し、視線がセンターサークルに集中する。そしてティップオフ 。
ぎりぎりに絞られた弓弦が放った矢のように、陵南メンバーの闘志は解き放たれた。
一段と鍛えられた選手たちは仙道を中心に自在に動き、地道にベスト8に勝ち上がってきた
相手チームを圧倒した。といって、仙道がその本領を発揮しているというわけではなかった。
彼はダンクも決めることはなかったし、むしろ鈍器で殴打するようなオフェンスを見せる福田を
前面に出し、自身はそれほど派手なプレーをすることはなかった。
「思ったより地味な選手だな、四番は。……うまいことはうまいしセンスはあるが」
監督が呟くと、牧は何か言おうとした。しかし知花の方が一瞬早く口を開いていた。
「違いますよ、監督。仙道くんって、相手に合った力しか出さないんです」
彼女は牧の方を見た。
「去年の海南戦はすごかったんですよ、牧さんとの一騎打ち。わたしには互角に見えたけど」
「牧と互角?」
それ以上の保証の言葉は監督には不要だったらしい。牧は苦笑いした。
「……危ないやつですよ。大胆でクレバーなバスケをする……あいつの恐さを一番よく知っている
のはオレでしょうね」
そのときのことを三井は牧本人から聞いたばかりだった。残り五秒、二点負けている状況でわざと
牧に追いつかせ、ファウルを誘ったという。仕掛けたやつはもちろん凄いが、それにはまらなかった
牧も凄いと三井は思う。果たして自分が牧の立場になったら見抜くことができただろうか?
そこまで考えて三井は小さくかぶりを振った。
自分には端からそんな機会は与えられないだろう。
「……だろ、三井?」
牧に同意を求められて三井は我に返った。
「え、あ、ああ」
訳のわからぬまま生返事をする。牧は見すかしたような表情を浮かべると、監督に向かって続けた。
「オレは海南OBということを抜きにすれば、正直なところ湘北戦を楽しみにしてるんですよ。
三井と赤木が抜けても、あのフォワードの二年生コンビがたぶん仙道の力を引き出してくれる
でしょうからね」
牧の目には心からの期待が込められていた。
「深体大もやつを狙ってるらしいぞ」
三井がぽつりと漏らすと牧は頷いた。
「赤木は知ってるからな。まあ幸いいまのところ陵南と深体大の間にはパイプはないし、
情勢は五分五分ってところじゃないか?」
「おい、牧、まだとると決めたわけじゃないからな、あの四番」
監督は未だ仙道の力に懐疑的だった。
三井は小さく笑った。
彼の大学から誘いのかからないのが不運かどうか別にして、監督を一目惚れさせられなかったのは
実力の何割かしか出していない仙道自身が悪い。何にせよ、早晩仙道が大学や実業団のバスケット
指導者たちの垂涎の的となるのは確かで、そのときにこの監督の目の色がどう変わるのか楽しみ
だった。
前半戦は結局圧倒的な流れのまま陵南ペースで進み、後半に入ってもその勢いは衰えなかった。
すでに相手チームは戦意を喪失し、緊張感のない展開となった。
第三試合に登場する湘北の面々はすでに観客席から引き上げていた。残り十分を切り、陵南が
百点を突破したのを機に、三井は選手控室に後輩たちを激励しに行くことにした。
高校生活三年目に良い思い出を残してくれた体育館の通路を通り、控室になっている更衣室の
ドアを開けると、懐かしい騒々しさが耳に飛び込んできた。
「おっ、ミッチー!」
桜木が目敏く見つけて声を上げる。三井になついている可愛い後輩は尻尾を振らんばかりの勢いで
近づいてきた。もう先刻の彼女騒動などすっかり忘れている大柄なガキは、体力に任せて手荒い歓迎を
してきた。三井はしばらく振り回されていたが、やがて頭に一発お見舞いして体を離した。見ると
部員たちが目を向けてきている。笑ってはいるのだが、その笑みは少々ぎこちない。無表情の流川と
図太い桜木は例外だったが、全員見事に肩に力が入っていて、宮城なども見た目にはそれほど
ぴりぴりしてはいないものの、キャプテンという立場になって初めての公式戦で緊張しているのが
伝わってくる。観客席でのサル同士の争い収拾で後れをとったのがその証拠だ。三井は腰に手を
あてて不敵な笑みを浮かべた。
「おめーら、ベスト8ぐれえでびびってんじゃねーぞ。……まあオレがいなくなって心細いのは
わかっけどよ」
ざわついた室内に不思議によく声が通った。
はっとして顔を上げる者、身じろぐ者、口をつぐむ者。部員たちはそれぞれに多彩な反応を
示したが、ワルモノ軍団の残党の意地には瞬間的に火がついたようだった。
先鋒は一番近くにいた桜木だった。
「びびってなんかいねえぞ、ミッチー。この天才率いる湘北がベスト8ごときで……!」
桜木はいきなりつんのめった。小柄だが人一倍攻撃的な四番がいつの間にか近寄っていて腰の
あたりを蹴り上げたらしい。
「調子にのんな、バカ花道」
「ふぬっ、リョーちん!」
一度息を呑み憤然と振り返った桜木に、今度は流川の平坦な調子の声が降る。
「てめえが率いてるわけじゃねえ、どあほう」
そうなるとまた入部以来の小競り合いの幕開けだった。しかし尋常な頑健さでない二人の
殴り合いは、慣れていない者の目には殺し合いに見えるらしく、笑って見ている二、三年生の後ろで
初々しい一年生部員たちがあたふたしていた。無駄に元気なのも困ったものだが、更衣室の緊張感は
たちどころにひいた。どうせ年中行事だし体力と闘志をそれほど消耗しない分には構わないと三井と
宮城が高みの見物を決め込んでいると、いつの間に更衣室に入ってきていたのか、赤木が姿を現して
角突き合わせる二人の頭にそろって拳骨をお見舞いした。
「バカモノ、大事な試合前になんだ、このざまは!」
キングコングの咆哮に騒ぎはただちに収まった。そしてちょうど更衣室の興奮がほどよく鎮まった
とき、ノックの音がして安西先生とマネージャー頭の彩子が入ってきた。
「おや、三井くんに赤木くん」
安西先生がメガネの縁に手をやって言った。
「ご無沙汰しています、安西先生」
二ヶ月ぶりに尊敬する恩師と顔を合わせ、自然に口調が改まる。そばにいるだけで安心できる
雰囲気は未だ損なわれていなかった。
「二人とも、元気でやっているようですね。顔を見せてくれて、みんなも心強いでしょう」
柔和な笑顔でもう二言三言やりとりすると、安西先生は現役部員たちへと目を移した。とたんに
室内は静まり返り、空気が引き締まった。
「さて、今季の緒戦です。きみたちに振り返るべき過去はありません。ひとつひとつ、
これからの試合を大切にしていきましょう」
簡潔な言葉で監督はメンバーの士気を奮い立たせた。そして監督と三年目のつきあいになる彩子は
タイミングを外さず口を開いた。
「さあ、前の試合がもうすぐ終わるわよ。みんな、用意はいいわね?」
「おお!」
ほどよい緊張とほどよい昂揚に支配された男たちが一斉に応える。安西先生は微笑んだ。
「新生湘北のデビュー戦です。行きましょう」