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 月曜日の午前、久々の自宅通学で三井は一限に出るのは諦めた。どうせ大教室の一般教養で、 誰か友人からノートを借りれば済む講義だった。
 そうして三井は必修科目の二限終了後、新しくできた悪友たちと学食に向かった。
 十二時過ぎの学食はまさにカオスである。食べたいメニューをすばやく決め、要領よく食券を 買って、手際よく席をおさえる。この流れをしくじると、定食を乗せた盆を手にしたまましばし 路頭に迷うことになりかねない。
 この日の三井はまさにその状態で、友人たちと離れて空席を探すためさまよっていた。 しばらくうろうろしていると名前を呼ばれた。一列向こうの席で手招きしている人物が目に入る。 浅黒い肌にがっしりとした体格、十代とは思えぬ大人びた風貌。「神奈川の帝王」牧紳一である。
「こっち来いよ。ひとつ空いてる」
 自分の隣りの席を示して彼は言った。
「おう」
 地獄に仏と、三井はテーブルの列を迂回して呼ばれた方に向かった。
 牧は海南大には進まず、この大学を選んだ。もっとも海南大は、附属高校はバスケの強豪だが、 大学はそれほどでもない。だから外に出るのは珍しいことでなく、代々のバスケ部員もそうして きていたのだが、驚いたのは、大学日本一の深体大の誘いを蹴ったと聞いたときだった。
 いま二人が通っているのは、数年来四位と五位の間をうろうろしている大学である。 三井がこの大学に入ったのはここしか声をかけてこなかったからで、それが唯一の理由だ。 深体大から推薦の話が来ていたらそちらに行ったに決まっている。
 ところが牧は、深体大に行くとバスケットボールの選手になるか体育教師になるか、 二つに一つの選択肢しかないので、総合大学の中から卒業後の進路も考慮に入れて条件のいい ところを選んだと言った。嫌みなほどしっかりした男である。
 何はともあれバスケをすることしか考えていなかった三井からすれば、牧はそう考えた時点で 相当の大人だった。
 しかし二人が親しい友人づきあいを始めたのは、その後の牧の一言がきっかけだった。
「第一、万年一位のチームより、自分たちの力で順位を上げていく方が楽しいだろう?」
 常勝海南の元主将の言葉とは思えぬ発言だったが、それは三井の考えと一致していた。 二人の間にあった距離もそれで一挙に縮まったのである。
 三井は牧の傍らまで行くと空席に揚げワンタン定食ののった盆を置いた。それからきょろきょろと 周囲に目をやった。
「……一人か?」
 腰をおろしながら確かめる。
「ああ。今日は二限が休講だったから、ジムでマシンやってきた」
「はあ……さすがだな」
 この大学のキャンパスには、最近できたばかりの体育館があり、マシン・トレーニングのできる ジムが設けられている。せっかく恵まれた環境にあるのだから、三井も筋力トレーニングをするに やぶさかではないのだが、初めて行った連休明け、ジムの中に充満した臭いとマシンに残る汗の跡に 閉口して以来、足が遠のいている。
 牧は身長こそ三井と変わりないものの体格は段違いで、練習中に何度か接触して吹っ飛ばされて いた。普通ならば友人と喫茶店にでも入ってつぶしてしまう休講の時間帯をこうして地道に トレーニングに充てている賜物だろう。差がつくばかりの三井としては多少焦りを感ずる。
 ともあれ、その汗くさい体育館から戻ってきたとは思えぬ身じまいで牧は食事をとっていた。
 その牧の皿がもう半分ぐらい片づいているのを横目で確かめて、三井は箸を取り上げ、 かき玉スープを一口すすった。
「週末は楽しんできたのか?」
「ああ?」
 唐突に聞かれて思わず問い返した。気がつけば男臭いマスクがにやにや笑いを浮かべている。
「デートだったんだろ? 土曜に練習終わってからずいぶん楽しそうに出ていったじゃないか」
 楽しそう、とは心外である。仙道のにやけ面を思い浮かべて三井は心の中で悪態をついた。
「……違うって。家に帰ってたんだよ。親孝行だ、親孝行」
「本当か?」
「嘘言ってどうなるよ。マジ、マジ」
 揚げワンタンを口に放り込み、飯に後追いさせる。学食のメニューは、味はまあまあだが盛りが 良く、体育会系の面々に非常に受けが良かった。
「そうか、じゃあ彼女じゃなかったのか」
 牧は独り言のように言うと、片手で椀を持って味噌汁を飲んだ。その濃い顔に味噌汁椀は はまっているとは言い難いが、寮で寝食を共にして納豆やしらすおろしを食べる牧を見ているうちに 慣れた。
「わかんねーな、言いたいことがあったらはっきり言えよ」
 牧が何を勘ぐっているのかわからずに、三井は苛立ちを声に表した。
「女の子から電話があったぞ」
「あ?」
「土曜におまえが出ていった後に。『ミツオカ』さんって言ってたな」
「ミツオカ?」
 知っている限りの女の顔を思い浮かべても該当者はいない。高校のクラスメートにも不良時代の 訳ありの相手にもそんな苗字の女はいなかった。
「人違いじゃねーか、それ」
「ちゃんとご指名だったけどな」
「とにかく知らねえもんは知らねえよ」
 しばらく宙を睨んで考えると、さっさと結論を出して話を切り上げる。付け添えのサラダを つつきながら、矛先を牧に向けた。
「それよりおまえはどうなんだよ。デートの相手はよりどりみどりだろ?」
「まあ、それはな」
 自信たっぷりに言われてむかついたが、牧は小さな笑いを漏らした。
「冗談だ。オレは監督に呼ばれてたんで、どこにも行けなかった」
「監督に?」
 牧は頷くと、先を話し出した。



 この年、この大学のバスケットボール部は新人の獲得で大きな成果を上げた。牧を初めとして三井、 愛和の諸星、山王の河田  。いずれも上級生部員たちをすぐにも蹴落としてポジションを 奪い取ろうとしている逸材だった。そこで、次年度も同様の強化策を採るべく、いま方々にアンテナ を張り巡らしているのだと言う。
 監督は牧を呼んで、神奈川の三年生の有望株を聞きたいと言った。そこで彼が真っ先に名前を 挙げたのが  
  仙道か?」
 いきなり話題になったその名前に三井の声は少し硬くなったかもしれない。
「当然。おまえんとこの宮城やオレんとこの神や陵南の福田なんかもいいが、やはりピカ一は あいつだろう?」
 センス、技術、パワー  どれをとっても申し分ない。牧はそう仙道を評価した。 もちろん三井も認めていることではあったが。
 しかし仙道が同じチームになるというのは、ちょっとぞっとしない展望だった。
「次の日曜が決勝リーグ行きを賭けた試合だろ。だから監督と一緒に観戦することになったんだ」
「ふうん」
 無関心を装って三井はれんげでスープをすくう。しかし心はスープの方に向かっているわけでは なかったので、すくってはこぼし、すくってはこぼし、という状態を無意識で続けていた。
 牧は先を続けた。
「……だから、何だったらおまえも一緒に行かないか。湘北も緒戦だろ?」
 大会五日目のその日には、海南、湘北、陵南、武里の四校がシード校として登場する。 三井も後輩たちの調子を見てみたい気はあった。
「……そうだな」
 応援に来てほしいと仙道に言われたのは前年の大晦日だった。あれからそれらしいことを全く 言ってこないところを見ると、ほんの冗談のつもりだったのかもしれない。だからのこのこ顔を 出すのはあまり気が進まなかったが  
 湘北も出るんだ。おめえを応援しに行くんじゃねーぞ、仙道。
 その場にいない男に心の中で念を押して、三井は牧の方を向いた。
「行くよ」
 同意の返事をするとひねくれたかっこつけの自我が姿を消した。
 本当は、湘北の試合を観るのと同じぐらい、仙道のプレーを観るのも楽しみだったのである。



「じゃあ、また練習でな」
 昼休みもあと十分となり、三井は牧と別れて三限の第一外国語、つまり英語の講義の行われる 教室に向かった。
 外国語のクラス分けはだいたい学科のクラスの出席番号順に有無を言わさず決められている。 高校の授業の延長はそれほど興味を持てなかったが、必修科目のため、完全にドロップアウトする わけにもいかなかった。
 小さな教室の最後列の窓際に陣取り、三井はノートとテキストを開いた。それから頬杖をついて 窓の外に広がる風景に目をやる。銀杏並木は濃い緑に葉を繁らせ、その教室の自ら定位置と決めた 席から初めて外を眺めたときにはよく見えた石畳の道もいまはほとんど視界に入らない。
 また暑い季節がくる。重なり合った葉の作る蔭の向こうに初夏の陽射しが覗いている。
 倒れるまでボールを追った、ほんの一巡り前の夏を思い、三井の表情が和らいだ。
「三井くん」
 自分の脇で影が動いたのを感じたか感じないかのうちに、少し上から声が降ってくる。 明るく清々しい女の子の声だ。三井は目を上げた。
「ここ、座っていい?」
 隣りの席を指して言う。さらさらの髪をポニーテールにまとめた、目のぱっちりと大きい 可愛い子だった。
「え……あ、ああ、どうぞ」
 いきなりのことで面食らい、よそ行きの言葉遣いになる。
「ちょっと厚かましかったかな……。びっくりした?」
 親しげな様子に三井はますます当惑する。
「……ごめん、きみ、誰だっけ?」
「そう言うと思った。名簿で三井くんのすぐ後ろにきてるんだから、覚えてね」
 彼女は「とびきりの」といった感じの笑みを見せた。
「……光岡知花って言うの」
「光岡……ミツオカって、ひょっとして寮に電話かけてきたのって……?」
「当たり!」
 笑顔が弾ける。訳もわからないまま、三井はその健康的な明るさに見とれていた。
「わたしね、角野高校出身なの。男子バスケ部のマネージャーやっててね。憶えてる?  去年のインターハイ予選で二試合目に湘北にボロ負けした高校」
 光岡知花と名乗った女子学生はくすくすと笑った。
「負けたのは実際悲しかったけど、あの試合、悪いことばかりじゃなかったな。……だって武石中の 三井くんにまた会えたんだもの」
「え……?」
 どう反応したらいいのかわからず、三井はうろたえて瞬きを繰り返した。彼女は懐かしそうに目を 細める。
「感動したのよ。フォームとか全然変わってないんだもん。わたし、一目でわかったんだから」
 そこで意味ありげに視線を振ってきた。
「……ずいぶん感じは変わっちゃってたけどね」
「どうせ人相悪くなったってんだろ?」
 木暮のおせっかいが中学時代の三井の写真をバスケ部の部室に持ってきたときの騒ぎを三井は いやというほど憶えている。どいつもこいつもやたら大げさに驚いて写真と実物の三井を遠慮も なしに穴の開くほど見つめた挙げ句、「信じられない」の一言で締めくくる。 宮城などはわかった風に、「やっぱり生活が荒れると顔に表れるんスかね」などと言って肩を すくめたものだった。
 男だから顔に傷があったって目つきが悪くたってどうでもいいじゃないか、と三井は容貌のことは 気にも留めていなかったのだが、あまり集中砲火的に言われたので、何となくこだわりができて しまった。
 しかし光岡知花はあっさりと否定した。
「えーっ、違うよ。大人っぽくなって素敵だって思ったんだよ」
 正面切って言われると、それはそれで何となく真実味に欠ける。それにやたらぎこちない気分に なった。そんな三井の心中も知らず、知花は先を続けた。
「……それからも何度か湘北の試合、観に行ってね……」
 彼女はいったん口を閉じた。
 折悪しく食堂ではぐれた悪友連中が教室に入ってきた。入口の方が一瞬ざわめいて、それから 通路を隔てた一帯に落ち着く。
「……だから大学に来て教室で三井くんを見たときはびっくりしちゃった。おまけに学生番号で 隣り同士なんて。わたし、光岡って苗字にこれほど感謝したことってなかったなあ……」
 薄化粧の清楚な顔をほころばせて言う。
 理想の恋人って、もともとこんなタイプだったんだよな、と三井は心の中で呟いた。
 アイドル歌手のような可愛い顔に弾む口調。肩幅は狭く、袖口から覗く手首はひたすら華奢で、 下手に掴んだら折れてしまいそうだ。
 なのに現実で三井に愛を囁く相手は、殴っても蹴ってもびくともしない大男だった。
 仙道のことはもちろん嫌いではないのだから、一緒にいて楽しくないこともないのだが、 何だかやはりいまの関係は異常なのではないかと、こんなときつくづく思い知らされてしまう。
「……でね、今度の日曜なんだけど」
「あ……うん?」
 癪なことに半分あのバカヤロウのところに飛んでいっていた心を目の前の女の子の上に戻して 三井は答えた。
「もしも暇だったら、インハイ予選、観に行かないかな、と思ったの。だから思い切って 電話してみたんだけど」
「それだったら……」
 牧と先約がある。残念だが断ろうと思ったとき、別の考えが閃いた。
「牧や監督と行くことになってるんだ。それでよければ、一緒にどう?」
「えっ、牧さんって、あの海南の?」
 三井が肯定の返事をすると彼女は目を輝かせた。
「すごーい、すごい。三井くんだけじゃなくて、牧さんもだなんて、この大学って、そんなに バスケ強かった?」
 牧の方は「さん」づけで自分は「くん」であることに気づき、三井は苦笑いしたい気分だった。 神奈川の高校バスケットボール界ナンバーワン・プレーヤーとの格の差を思い知らされたような気が したのだ。そして、心穏やかでいられなかった本当の理由についても気づいていた。彼女の言葉には、 この弱い大学に三井がいるのは意外でなくとも、牧がいるのは意外だという含みがある。しかし、 それも二年間横道に逸れていたからには仕方がない。三井は気を取り直し、かぶりを振った。
「いや」
 齢十九にして後悔だらけの人生である。が、全く取り返しのつかないことなど滅多にないのだと、 この頃は思えるようになってきた。三井はにやりと笑った。
「だけど、今年から強くなる」
 事実だった。どうした天の気紛れか、本来強豪の深体大に入って当然の選手がこの大学のチームに 集まってきていた。この年に入学したメンバーだけでも十分上位を窺えるだけの力がある。
「リーグ制覇も夢じゃない?」
「おう」
 三井が請け合うと知花は笑った。それは決してからかいの響きを持ったものではなく、 素直な期待の伝わってくる笑いだった。
「ねえ、ほんとにわたしも一緒に行っていいの?」
 彼女は目を輝かせて約束の確認をしてきた。三井が肯定の返事をして、さらに後を続けようと すると、前のドアが開いて講師が姿を現した。光岡知花は大ぶりのショルダー・バッグからノートと テキストを慌てて出し、講義に備えた。三井も前に向き直り、雑談はもう終わりと思ったとき、 横から手がのびた。見ると可愛いメモ用紙に十桁の数字が書き付けられていた。それに気づいて 彼女の顔に目をやると、微笑みが返ってきた。
「詳しいことが決まったら、知らせてもらえる?」
 声を低めて彼女は言う。教壇では早速講師が授業を開始していた。
 三井が答えるのをためらっていると、知花は続けた。
「わたしの部屋専用なの。気軽にかけてね」
 三井は少々気圧されていた。いきなりのこの展開は見かけによらない彼女の大胆さを表していたし、 何より面倒くさいことをしょい込んだような気もしていた。が、かわいこちゃんに電話番号を 教えられるということ自体は悪いことではないだろう。ピンク色のファンシー・メモ用紙を手に取ると 彼は承知の意を伝え、黒板の方に向いた。



 講義はちょうど定刻に終了した。
 三井はリュックにテキストや筆記用具をしまい込むと席を立った。知花のところにはすでに友人の 女子学生が集まってきていたので、軽く声をかけるだけで別れた。三井が悪友たちに囲まれたのは、 そのすぐ後のことだった。それはさながら廊下でつるし上げといった恰好だった。
「おい、三井、おまえいつ知花ちゃんと親しくなったんだよ」
「え? 知花ちゃんて、光岡知花のことか?」
「他に誰がいるんだよ」
 すごい勢いで詰め寄られて三井は壁を背に一歩も退けなくなった。
「何なんだよ、おまえら。親しくなんかしてねーよ。さっき初めて口きいただけだって」
 相手の勢いに押され、ひきつり笑いを浮かべて別にしなくてもいい言い訳をする。先頭を切って 三井にくってかかった西尾はしばらくの間まじまじと彼の顔を見ていたが、やがて体を引き、 何を納得したのか頷いた。
「そりゃそうだよな。見てくれはともかく、おまえみたいな中身のないやつ、クラス一可愛い知花 ちゃんが相手にするわきゃねえよな」
「何だよ、そいつは」
 瞬間湯沸かし器の性分が火を噴く。
 コート上ではあまり目立たぬ体格も、一般学生の中に混じれば大柄と言って差し支えない。 少なくとも身長だけをとれば並以上だ。さらにガンのつけ方も一応心得ている。腕力が実際は なかろうと、取り囲んだ連中を怯ませるには十分の迫力を三井は持っていた。果たして学生たちは たじろいで口ごもった。
 こんなとき、三井は自分が一年前からどんなバケモノどもを相手にしてきたのか思い知らされる ことになる。桜木に流川、それから小柄でありながら少しも迫力負けしていなかった宮城、すでに 監督の貫録を漂わせる牧、さらに年上の男相手に鷹揚な恋人ぶりを見せる仙道といった面々を思い 浮かべ、彼は余裕を取り戻した。
「……オレ、その知花ちゃんに電話番号教えてもらったぜ」
 不遜な笑みを口の端に浮かべて言った。
「日曜はデートなの。デ・エ・ト」
 見栄というより、男どものうろたえようがおかしくて、騒ぎを煽る。
「おまえ、『さっき初めて口きいたばかり』だって言ってたじゃないか」
「おう。だから、あっちから誘ってきたんだって」
 嘘はついていない。
「『中学時代から忘れられなかったの。こんなところでお会いできるなんて、夢みたい』……ってな」
 ものは言いようである。
 西尾を筆頭に男どもは往生際悪くその言葉を信じようとしなかったが、そのとき脇を通りかかった 女の子のグループの中から光岡知花が声を上げた。
「それじゃあ、三井くん、日曜のことよろしくね。電話待ってる」
 笑顔で手を振る。すると女ばかりの賑やかなグループが一瞬静まり返り、それからざわめきを さざ波のように広げて階段の下に消えていった。
 動かぬ証拠を突きつけられ、男連中は肩を落とした。
「まあ、そういうわけだ。もてる男はツライぜ。悪かったな」
 騒ぎは三井の増長した高笑いで締めくくられた。


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