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「久しぶりね。もう二年以上経つなんて、わたしもオバサンになるわけよね」
 誘われて入った喫茶店で向かいに座った女は、そんなことは思ってもいないというように ころころと笑った。
 柘植亜沙子、二十九歳。本職は通訳。仙道と「長続き」した唯一の女性である。 知的美人を絵に描いたような彼女は、最近テレビのニュース・ショーなどで顔を売っている。
「そんなこと、ないっすよ。ますますきれいになって」
「彰くんはますます大きくなって」
 アイスティーのグラスから伸びるストローを細い指で弄び、冗談めいた口調で言う。
「部活はどうなの? うまくいってる?」
「そうっすねえ……今年あたりはどうにかなるかなって思ってるんですけど」
「あら、ずいぶん謙虚じゃない」
 亜沙子は目を瞠った。仙道はアイスコーヒーを吸い上げてから口を開いた。
「オレはいつも謙虚ですけど」
「謙虚って言葉の意味、知ってる? 彰くん」
 すかさず言われて仙道は面食らった。
「え……? 何か違ってますか?」
 彼女はため息をついた。
「だって、そうでしょ。高校選ぶ時だってすんなり東京で決めるつもりかと思ったのに神奈川へ 行くっていうし、だったら海南大附属かと思うじゃない。そうしたら陵南だって……選んだ理由が 『勝って当たり前のところじゃつまらない』でしょ。今でも憶えてるわよ」
「あれ、そんなこと言ったかな、オレ」
「言ったわよ、忘れたの?」
 呆れたと言いたげに声のトーンが高くなる。
「……まあとにかく、いつもいつも落ち着き払って、『何でも知ってます』って顔してて、 中学生のくせに嫌みだったわよ」
「やだなあ。何でも知ってたわけじゃないってのは亜沙子さんがいちばん良く知ってるでしょう?」
 大人の女は飲んでいたアイスティを喉の奥でつまらせた。しばらくの間むせて咳込む。 しかし咳はいつの間にか止み、肩が震えだした。それは一度痙攣のように大きくなると、 にわかに笑い声が漏れた。
「なんだ、全然変わってないんだ」
 目に涙を浮かべて彼女は言った。
「少し安心したなあ……彰くんはやっぱりそうじゃなくちゃね」
 ぴんとこない言い回しに仙道は曖昧な笑みを作る。彼女は目を細めた。
「本当はね、去年一度彰くんの試合観てるのよ」
「へえ……」
 意外な告白に仙道は眉を上げる。
「夏の県大会の決勝リーグだったと思うけど」
「なんだ、それなら声かけてってくれれば良かったじゃないですか」
 そう言うと彼女は微笑んだ。
「だって、あんまりすごくて、わたしの知ってる彰くんとは別人みたいで、とてもそんなこと 考えられなかったわ」
「残念だなあ。亜沙子さんなら大歓迎だったのに」
「……変わってないのね、そういった如才ない言葉がすぐ出てくるところも」
 心持ち目を伏せて言うと、すぐに艶やかな笑みを作る。
「彰くん、彼女は?」
 聞かれて一瞬言葉に詰まった。
 亜沙子とは、いわゆる「大人の関係」が一年続いた。
 そもそもは互いの実家が近所同士というつながりだったのだが、幼いころから見知っている 「美人のお姉さん」に誘われるままベッドをともにしたのが中三の春。そうして一年が過ぎ、 生臭い感情を知ることもなく、場数だけが豊富な高校生が出来上がった。いまでも仙道は 亜沙子に特別なプラス感情もマイナス感情も抱いてはいない。
 だから即答できなかったのは彼女のせいではなかった。
 彼女ではないけれど、どうしようもなく惹かれている人はいる。
 「彼女」と言われて思い浮かべたのが自分の顔だと知ったら、三井は怒りと屈辱に眉を つり上げるだろう。それからたぶん蹴りの一発二発……。
「……彰くん……?」
 亜沙子の声で我に返る。
「どうしたの? 急に黙り込んだと思ったらにやにやしちゃって……気持ち悪いったら」
「え……?」
 どうも無意識に頬の筋肉が緩んでいたらしい。仙道は慌てて手を頬骨のあたりにあてた。 蹴られたり殴られたりする痛みを承知で口元がほころんでしまうとは、さすがにどうかしていると 思う。
「彼女とうまくいって幸せでたまらない、ってところかな?」
 亜沙子はからかうように聞いてきた。
「いや、彼女ってわけじゃないんですけど」
「うん?」
「大好きで、すごく大切にしてる人はいます」
「ふうん……」
 気のない風に返事をすると、左手でクリップ式のイヤリングをはずし、しばらく弄んでから 再び耳たぶを噛ませる。
「ピアス、やめたんですか?」
 何気なく仙道は聞いた。
 つきあっていたころ、彼女は耳に穴を開けた。確か寒い時季だった。二人で歩いていたとき、 なんとはなしに入ったアクセサリー店で買ったピアスのためだった。黄金色の小さな花に輝く石の ちりばめられたもので、仙道が見つけたのだが、似合いそうだとふと漏らしたら、 彼女もそれを一目で気に入った。その後に仙道は、体の一部に穴を開けなければ使えない装身具の あることを知ったのである。
 彼女は肩をすくめた。
「傷口がきれいにならなかったから、やめちゃった。……ねえ、それより、彰くん……」
 彼女は柔らかそうなウェーブ・ヘアを額から掻き上げた。
「その彰くんの大切な人って、どんな人?」
 からかうように目を覗き込んでくる。
「えー、どんなって、そうだなあ……」
 三井が二人の仲を絶対に表沙汰にしたがらないので、自然と仙道の開放的な性格にも安全弁が つくようになっていた。
「……大学生です。一つ年上」
 当たり障りのない事実を挙げていく。
「でも、ものすごく可愛い人で、どうしようもないくらい惚れてるんだけど……」
「だけど?」
「……オレのわがままで迷惑かけてるとこあるかなあ、なんてたまに思ったりするんすよね」
「何なの、ずいぶん弱気じゃない」
 苦笑混じりに言われたが、事実だからしようがない。
「誘えば渋々でもつきあってくれるし、嫌われてるわけじゃないんだろうけど」
「でも、自分と同じ気持ちじゃないような気がする。……そうなんでしょ?」
 胸の内を読まれて仙道は驚いた。
「よくわかりますね」
「わたしも経験あるもの」
 亜沙子は両肘をテーブルにつき、指を組んでそこに顎を乗せた。
「誘えばついてくる。一緒にいるときは結構楽しんでるみたいだし、嬉しくなるようなことも ときどき言ってくれる。……でもよく考えるとそれって特別なことじゃないみたいなの。 楽しいことは楽しい……ただそれだけのことなのね。……結局こっちの気持ちなんか平気で 置き去りにしてくれる」
 そこで彼女はいったん口を閉じた。少しの間無言で視線を向けてきたが、ふと目の光を和らげて きれいに紅を引いた唇を開いた。
「鈍感な子供を相手にするとそういう目に遭うのよ」
 きれいな脚を誇示するように組み替えて、彼女は含み笑いをした。
「まあ、せいぜい苦労しなさい」
「ひどいなあ、亜沙子さん」
 冷たく突き放されて仙道はぼやく。
「一度痛い目に遭えば、もっといい男になるわよ」
「オレ、痛いの嫌いだし、これ以上いい男にならなくてもいいっすよ」
 冗談で言って笑う。気の利いた軽口だと思ったのだが、亜沙子には受けず、なぜかかえって 興ざめしたようだった。
「彰くんが言うと冗談にならない」
「……はあ?」
 何が気に障ったのかわからなくて間の抜けた合いの手を入れると、彼女は深く息をついた。
「ホント、中身はほとんど変わってないのにねえ……」
 仙道には読みようのない複雑な表情で目を向けてくる。
「大したもんだわ、この彰くんにそこまで気を遣わせる彼女は」
「いや、だから彼女ってわけじゃ……」
「じゃあ、意中の姫君?」
 彼女の言葉に仙道は吹き出した。
 性別もそうだが、姫君と表現するには三井はあまりにも柄が悪い。しかも過去の素行不良の報いで 顔に縫い傷の痕まである。ついでに前歯三本も自前のは喧嘩で失い、人工歯根のサファイア・ インプラントというやつだそうだ。とんだバイオレンスなお姫さまである。
 しかし反面、体育会系ののりの口の悪さを除けば、わがままも自尊心の高さも執着心の薄さも、 全て育ちの良さの裏返しで、それも何もひっくるめて仙道は三井に惹かれているのだった。
 一度泥にまみれて、その後再び元の場所に戻ってきた三井は、亜沙子流の言い方をするなら、 姫ではなく、たぶん  
 仙道は笑いを収めて前を見た。亜沙子はすっかり鼻白んでいるようだった。
「何なの、そんなにおかしいこと、わたし、言った?」
「……姫っていうより……」
「うん?」
 亜沙子は目で促す。
「天使ですね」
 その言葉を舌に乗せたとき、自分がどれほど幸せそうな笑みを浮かべたか、 仙道にはわからなかった。
 天使  
 端からはどんなに陳腐に聞こえたとしても、それは仙道の乏しい修辞能力にしては、 出色の表現だった。
 仙道の脳裏に浮かぶ天使は、端正な顔と均整のとれた肉体を持つ青年だった。 そしてこの天使の背からのびる翼には大きな傷が残っている。
 その傷こそが無垢の脆弱さとは一線を画す力を象徴しているのだと、初めてともに過ごした夜に 気づかされた。すでにただの関心から特別な好意へと移行していた仙道の想いは、そのとき もうひとつ上の段階へと進んだのだった。
「……へえ……」
 亜沙子は身を乗り出した。
「そんなことまで言われたら、ますます興味が湧いてきたわ。……ね、今度紹介してよ」
「駄目です」
 仙道は即答した。
「いいじゃないの。どうして駄目なの?」
「どうしても」
 三井のプライドと「まともな恋愛」に対するこだわりがきっと許さない。
 彼のことだけにはしっかり気のまわる仙道はあっさり拒絶したが、亜沙子の笑みは消えなかった。
「……こんなオバサンじゃ、勘ぐりもしないでしょ? それともすごいやきもちやきさん?」
「全然。やきもちやいてくれるぐらい好きでいてくれればいいなって思いますよ」
「なんか、報われないのねえ」
 拍子抜けしたと言いたげに亜沙子は肩を落とす。
「でもいいっすよ。十分幸せですから」
 日陰者の悲哀をものともせずに言うと、彼女は苦笑した。
「何だか会わせてもらわなくてもお腹いっぱいになっちゃったみたい……ごちそうさま」
 そこで左手首の時計に目をやった。
「さあて、これ以上あてられるのも何だし、もうそろそろ出ましょうか」
 口紅と同色のマニキュアを塗ったきれいな指先でオーダー票を掴むと、すっと立ってレジに 向かう。仙道は慌てて後に従った。
「亜沙子さん、オレが出します」
 財布の中から千円札を抜き出して、先にレジで支払いをしている亜沙子に差し出すと、 彼女はやんわりと断った。
「高校生が背伸びするんじゃないの。今日のところはお姉さんがおごってあげるから。 おごらなきゃならない人は別にいるんでしょ」
「でも……」
「その代わり、また試合観に行ってもいい?」
 釣り銭を受け取って財布にしまいながら言う。
「それはもちろん、いつだって大歓迎です」
「よかった。差し入れしたげるから、絶対勝つのよ」
「任せて下さい」
 仙道の答えに亜沙子は満足そうに頷く。それからサングラスをかけて印象的に輝く瞳を隠した。


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