*     *     *


 唇には唇。
 対等の立場からのたぶん初めての行為は、そこから始まった。
 膝に負担をかけないよう、座った仙道に三井が対面する。三井にとって与えられてばかりだった ものを返す形だった。その体勢は不慣れな二人を戸惑わせたが、動き出せば後戻りはきかなかった。
 邪魔な服はベッドの下に脱ぎ落とした。じかに体を合わせると空白の期間が改めて実感される。 二ヶ月だ。慣れかかった接触も新鮮な感覚を呼び起こす時間だ。まして心の中が違う。それまでの 経験は一切あてにならない。
 仙道の唇に首筋をたどられ、三井の体に小さな震えが走った。自分の方が攻勢に出ているつもりが、 いつの間にか主導権は仙道に握られている。それではいけないような気がしてあがいたが、 振り切る前につかまって再び唇を塞がれた。少し前まで希望を失っていた魂は三井の告白で力を 得たらしい。
「おまえ……さっきとずいぶん違うじゃねえか……」
 貪るようなキスの後唇を解放されて、三井は言った。声は鼻に抜け、甘えたような調子になる。 仙道は笑みを返してくるだけだった。
「殊勝なおまえも……可愛かったぜ」
 挑むように言って長い前髪をかき上げてやると、今度は答えた。
「可愛いって、三井さんに言われても嬉しくないっすよ」
「何だよ、それ」
 思わず尖らせた唇を仙道が人差し指でつついた。
「三井さんね、可愛いって思われたくなかったら、あんまりしゃべらない方がいいです」
 目を細めて言うので、三井は思わず眉をひそめた。
「誰がオレの話してんだよ。オレがてめえの……」
 仙道は無遠慮に三井の唇を手で塞いできた。
「だから……」
 その後が続かない。ただ見つめられるだけでは、三井には何を言いたいのかさっぱりわからない。 言いたいことがあるならはっきり言えと心の中で呟いたとき、手が外され代わりに唇が近づいてきた。
 無理に口を塞がれていたことが不満で、三井は一度キスを拒否するように顔を逸らし、それから 抗議の意志を込めて仙道を睨み付けた。しかし目の先には予期していたような軽い笑みではなく、 三井の心を和ませる温かい目があった。いつもいつも彼はその温もりに包まれていたのに、気が つかなかった。そして気づいてからも自分の心をさらけ出すのを避けようとしたのだ、仙道が深く 傷ついていたのも知らずに。その鈍感さに胸のつぶれる思いがした。
 唇の重なった瞬間に三井はきつく目を閉じた。
 今度こそは素直になる。彼は悲壮なまでの覚悟で仙道のうなじに手をまわし、もっと親密な つながりを求めた。仙道は最初ためらったが、すぐに三井からの働きかけにのってきた。飢えを 癒すようにお互い求め合い与え合ってから、唇を離し、見つめ合い、そしてただ抱き合う。心の解放 された三井は、そんなことにさえ満たされる。しかしもっと強く仙道を受けとめられる展開を彼は 知っていた。
 わずかに身じろぎ、背にまわった仙道の腕の力が弱まったのをきっかけに体を離し、ぎこちない 働きかけを始めた。唇にキス。首筋にキス。胸元にキス。思い切った行動に出てからおずおずと頭を 上げると、仙道の当惑したような視線とぶつかった。いつも任せてばかりだった三井はふと不安に 駆られる。
「よくねえ……?」
 小声で問いかけるのに仙道はゆっくりとかぶりを振って答えた。しかしそれを確認して三井が顔を さらに下へと動かし唇を脇腹に押しあてると、すばやく仙道の手が三井の頬をとらえた。三井は顔を 上げ、首を傾げた。
「……三井さんがサービスしてくれるのは嬉しいけど……」
 微苦笑を浮かべながら言う。
「暴走しちゃうと大変だし、いまはオレに任せてもらえませんか?」
 優しい声で言われ、顎へと移動した手で促されて、三井は体をずり上げた。
 三井が全てを委ねることが、仙道の望みだと言う。それなら三井にとってもいちばん無理のない ことで、肩の力が抜けたような気がした。
 それを察したのだろう、仙道はくすっと笑う。
「もちろん、最後は三井さんに協力してもらわないと、駄目だと思うんですけど」
 窺うように顔を覗き込まれて、三井は大きく頷いた。
「おう、任しとけ」
 ベッドの上の会話とは思えぬやりとりをして、二人は再び沈黙した。そろそろじゃれ合いも きかないほどに気持ちは高まってきていた。
 それからの二人は自然の流れのままに行動した。
 仙道の手と唇が三井の肌をたどり、三井がそれを受けとめる。その行為は、少し前までは三井に とって特に意味のあるものではなかったはずなのに、体中に走る戦慄に甘い余韻があった。いや、 以前には、正体のない不安が認めさせなかったのだろう。
 思わず声が上がりそうになるのを、仙道の肩口に顔を埋めることでこらえ、シーツについた手指に 力を込める。そしてついに最後の一線を越えるときがきた。
 その姿勢は必然的なものであったし、三井も覚悟を決めていたつもりではあった。が、無意識に 体が抵抗するのは止められなかった。
 仙道への前向きな想いと、どうしようもない恐怖心と自尊心のないまぜになった複雑な感情とが せめぎ合う。そして体とともに心をも引き裂こうという苦しみに呻吟していた三井を救ったのは、 不意に頬に当てられた恋人の大きな手だった。
 自然につむっていた目を開けると、下に仙道の顔があった。額に汗を浮かべ、少し余裕を失って いるような表情をしている。
 そのとき、三井は理解した。いまこのとき、こうしているのは、仙道の全てを受け入れるためで あることを。彼は無理をするなと言っているようだった。しかし、無理なことなど、もうあるはずが ないとわかった。
 気持ちが楽になると、体からも緊張がほぐれていく。仙道とひとつになる行為は、初めて三井の 方からの歩み寄りで完遂された。
 後はもう何もする気力が残っていなかった。倒れそうになる上体をかろうじて支え、何もかもを 仙道に託した。快楽は二の次だった。息もできないほど苦しくて、その分だけ仙道に許している 領分の大きくなったような感覚があった。
 体の中心から伝わってくるものが、精神的な喜びなのかそれとも肉体的な悦楽なのか、もう わからなかった。ただそれは茫漠とした海に放り出されるまで続き、やがて三井の意識は波に 呑まれて消えた。



 体を分かってからも三井はしばらくそのままでいた。
 早鐘のような鼓動が収まり、熱く流れていた血が平熱を取り戻すまでそうしているつもりだった。 もっとも体の奥深くに沈み込んだ熱はもう冷めることもないだろうが。
 顔を横に向ければ、やはり息の乱れに眉根を寄せている端正な顔があった。三井の様子に気づき 瞼を上げるとすぐに微笑みかけてくる。柔らかい表情で見つめられて鼓動が再び細かくリズムを 刻み始めたので、三井は混乱してすばやく上体を起こした。
「あ、いて……」
 腰の疼痛はいつもよりきつかった。思わず漏らした呻き声を聞きつけ、仙道が慌てて体を起こして きた。
「大丈夫ですか、三井さん? ちょっと無理させちゃいました?」
 はらはらと、いかにも心配だというように言ってくるので、三井はつい手を出してしまう。 気がつけばいつもの癖で仙道の頭をひっぱたいていた。
「心配いらねーって。……二ヶ月ぶりだったからな……」
「でも……」
 平手打ちされた頭に手をやりながら、それでも引き下がらない。そんな仙道を無視して三井は ベッドサイドから足をおろし、立ち上がろうとして思いとどまった。
 振り向くと寝乱れたシーツの上で仙道が居心地悪そうにしている。飼い主に見放された犬のような 様子が何だか可愛いとさえ思えてくる。彼はため息をついた。
 素直になろう  そう心に決めても、実行するとなったら結構難しい。 とどのつまり三井は三井で、一朝一夕に性格など変わるわけがないのだ。
 それでも仙道に三井は何らかの答えを与えてやらなければならないのだろう。
 彼は肩をすくめた。
「てめえとつきあうんだ、ちょっとぐれえの無理は承知なんだよ、いちいち心配すんな」
 そこで照れくさくなって再び前を向く。
「……だから、元気になったら、また一緒にワン・オン・ワンやろうな」
「三井さん……」
 柄にもなく励ますようなことなど言ったものだから、頬の熱くなるのがわかった。それから どうしたらいいのかわからずに俯いたまま固まっていると、後ろからそっと腕がまわされてきた。 肩に仙道の顎がかかり、耳元で囁かれる。
「ありがとう……」
 三井の胸が温かくなった。自分の気持ちに気づくのが遅すぎなくて良かったと思った。



 ロマンティックなひとときも、後始末を考えればムード半減である。
 母親と姉が買い物に出た隙を窺って二人はそそくさとシャワーを浴び、身仕舞いを整えた。
 気がつけばもう外は暗くなりかかっている。帰宅した母親にすすめられて、三井は夕食をご馳走に なることになったばかりか、勢いで一泊していくことになってしまった。
 仙道の母親の料理の腕は、三井の母とまた方向性は違っていたが確かで、三井の舌も満足させた。
 食後もしばらく食卓を囲んでおしゃべりをしていたが、環が買ってきた花火をやろうということ になり、母親を除く三人は猫の額ほどの庭に出た。仙道が狭い縁側に座り、普通より大きななりを した三人は小さな花火に興じた。炎と火薬のもたらす様々な光の花やシャワーを見ながら彼らは 童心に返り、はしゃいだ。
 仙道の姉に友人から電話がかかってきたのは、一通りの花火を楽しみ、線香花火を残すだけに なったころだった。
「じゃあ、後は二人でやってね」
 彼女が抜けた後、仙道と三井は二人だけで庭先に残された。
 蒸し暑かった昼間と比べ、夜になって多少過ごしやすくなっていた。湿度が低いのだろうか、 時折吹きすぎる風が露出した肌を心地よくくすぐっていった。しばらくはクーラーのきいた部屋より も自然の風に晒されていたくて、二人は何もしないまま縁側に座っていた。風鈴の音や花火の煙の 匂いが妙に懐古の情を呼び起こした。
「……なんか、気持ちいいな……」
「ええ」
 三井が幼い頃家で花火をしたときはこんな情趣は漂っていなかったが、それでも心をかき立てる 何かがあった。
「線香花火、やろうか」
「いいですね」
 仙道は花火をする前あたりから少し寡黙になっていた。普段からそれほど多弁の印象は 与えなかったが、黙り込むのは珍しく、その分三井がはしゃいでいた感もあった。
 いまも三井が率先して花火の束をほどき、マッチをすった。
 三井には仙道の気持ちがよくわかっているつもりだった。体のコンディションが不十分なときには、 精神面も不安定になりがちだ。おかげで二年間を棒に振った馬鹿もいる。だから、努めて明るくして 気分を盛り上げたかった。
「線香花火ってさ、やってて何かちょっとうらさびしくなるんだよな、こう地味でしょぼしょぼして てさ」
 火のついた花火はちょうど火薬が勢いよく燃え始めるところだった。その火をもう一本の線香花火に 移して、それを仙道に持たせた。
「しっかり持ってろよ。下手に動かすと途中で玉が落ちておじゃんになっちまうからな」
 三井の手から下がるこより状の花火の先から八方に火花がちりちりと弾け出す。少し遅れて仙道の 方からも火の粉がはぜるように飛び始めた。オレンジ色の炎の花は多少いびつだったが、美しく咲き、 そして終息へと向かった。
「あーあ、終わっちまった。やっぱり五、六本まとめてやった方が派手でいいかな」
「オレは好きですけどね、ちょっと控え目だけど、情緒があって」
「ふーん」
 仙道の言葉が己れのガキっぽさを浮き彫りにしたようで三井は頬を膨らませた。調子にのって 言わなくてもいいことを言ってしまったような気がした。
「……ま、とにかくまだたくさんあるから、やろうぜ」
 前言をごまかすようにマッチを取り上げる。いまどき珍しい箱入りマッチだ。料理屋の名前の入った しゃれた小箱から軸が木のマッチを一本取り出すと、箱にすりつけて火をつけた。指先から下がった 線香花火に火を移すと、今度はそれを仙道の花火にも続けてつけた。
 小さな花火はその命を燃やし始めた。
「……三井さん」
 炎の花を見つめていると仙道が声をかけてきた。
「うん?」
 生返事をする。すぐには彼は何も言わなかったので、顔を上げた。
 仙道は一心に花火を見つめているようだった。
「何だ、仙道」
 目の前の男が遠く感じられて、わけもなく不安が胸の中に広がった。
「言えよ」
 仙道はしばらく無言で、線香花火が寿命を全うしてから顔を上げた。その顔に浮かぶ晴れ晴れと した表情は何なのだろう。
「オレたち、一度白紙に戻しましょう」
「な……に?」
 一瞬何を言われたのかわからなかった。耳に入ってきた言葉をじっくりと咀嚼し脳細胞が吸収する まで三井は微笑んでさえいたかもしれない。しかし言葉が避けえずひとつの意味を突きつけてきた とき、彼は頭を殴られたような気がした。思い切りこめかみから張り飛ばされたような感じだった。
 つい先刻気持ちを確かめ合ったばかりなのに、それはどういうことなのだろう。
 すでに三井の指のつまんでいる花火はただの燃え殻となっていたが、 そのことに彼は気づく余裕などなかった。
「それは……別れるってことか……?」
 仙道は寂しげに微笑んだ。
「オレね、やっぱり駄目なんです」
 そこで目を伏せる。部屋の明かりを背にし、表情は翳りに沈んでいた。
「このままじゃ三井さんとつきあっていけない。……エゴでもなんでも」
 再び目を上げたときには、吹っ切れたような強い色があった。
「三井さんの前では、かっこいい男でいたいですから」
 そう言ったときの仙道の顔を何と表現すればよかっただろう。三井にはわからなかった。しかし その面には静かな決意が表れているだけで、負の要素はかけらも見いだせなかった。
 光の下で才能に恵まれて進んできた彼は、逆境にいったんは足を止めても、今度はもっと強くなる べく歩き出そうとしている。冗談でもそのきっかけとなれることは、誇れることなのかもしれない。
「……バ……カヤロウ」
 口をついて出たのは三井のいつも通りの悪態だった。急速にかすむ視界の中で仙道が笑っている。 三井の涙ぐらいでは影響されるはずもない確たる足場が築かれているのはわかっていた。
「バカ……勘違いすんなよ」
 三井は必死になって笑顔を作った。
「おまえ……いつオレの前でかっこよかったんだよ」
 もう泣き笑いは止められなかった。遠くでテレビの音声がさんざめいている。胸がしめつけられる ように痛くて、だが妙にすがすがしいものを感じていた。
「バスケやってるときだけじゃねえか」
「はい。だから」
 仙道は静かに答えた。そのとき事故以来彼の背中にたたまれていた大きな翼が広がるのを、 三井は見たような気がした。
 バスケに関することなら、もう三井には出る幕はなかったし、決意を翻させる理由もない。 何をどう言おうか考え、口に出しかかっては逡巡し、また考え、そしてやっと言った言葉は月並みな 単語の羅列だった。
「……二度と弱音を吐くんじゃねえぞ」
「はい」
 いまさら言わなければならないことはなかったが、感情と理性が引き裂かれる痛みを紛らわすように 言葉をつながずにはいられなかった。
「オレにはおまえの気持ちなんてきっと本当にはわかんねえから……待つなんてことはしねえからな」
「わかってます」
「早いとこ可愛い彼女作って楽しく暮らすんだ」
「三井さんなら大丈夫です」
 三井は笑った。喉のあたりに涙の味がした。
「……ちっとは引き留めろよ」
 いつ用意したのか、並んで座っている仙道が横からフェイスタオルを差し出してきた。三井はそれを 顔に押し当てた。
「いつかまたきっと、ワン・オン・ワンしましょう」
 それはもしかしたら最高の提案かもしれなかった。仙道に対する愛情とバスケット選手としての 彼への敬意は不可分であったから。
 三井はタオルに顔を埋めながら頷いていた。
 風がうなじの上をそよと通り過ぎていく。真夏の夜は生煮えの気持ちを置き去りにして更けて いこうとしていた。



 その夜、三井は仙道の部屋の床に敷いた布団で休んだ。
 花火の後、涙を拭って顔を上げたときには、なぜか気分はすっきりしていた。不思議なほど さばさばして心の中は凪いでいた。
 彼らは寝床に入る前からバスケットの話で盛り上がっていたが、明かりを消して横になってからも しばらくはベッドの上と下で話を続けた。
 まるで明日も部活で顔を合わせる友人同士のように、笑い転げ、共通の知人のことを肴にしさえ した。
 しかし二人で歩む道はその日限りで途絶えているのだった。
 閉め忘れたカーテンのせいで、朝の訪れは早かった。
 二人は顔を合わせて朝の挨拶を交わし、一緒の食卓で何気ない会話を交わしながら朝食をとった。 三井が帰るときも、とりたてて大げさな別れ方をしたわけではなかった。「それじゃな」の一言で 三井は背を向け、一晩を過ごした家を出た。
 現実感がないと言ったらそうかもしれない。三井はやっと覚えた駅までの道をたどりながら、 午前中の練習をさぼった言い訳を考えていた。外泊は予定外だったし、事情を知らない河田や諸星 あたりが何と言ってくるか考えると頭が痛くなった。監督にも無断の外出で、問題山積の朝だった。
 その建物に気づいたのは、信号待ちで周囲に目をやっていたときだった。
 六月の初めに仙道と一対一をしたときの、あのバスケット・リングに行き着くための目印だった。
 三井は何も考えず、そのビルに足を向けた。行ってみれば記憶は鮮やかで、すぐ前の日に来たか のように三井を導いた。
 目印のビルの脇を入ったその裏側のビル。ピロティを抜けた先に煉瓦の壁。ポールはなく、 直接壁に埋め込まれたバックボードとリング。唯一あの日と違っていることがあるとすれば、 三井が独りだということと、中学生ほどだろうか、少年のグループがいて三対三をやっていること だった。スタイルから入った感のある少年たちはお世辞にもうまいプレーヤーとは言えなかったが、 楽しんでボールを追っていることだけは伝わってきた。
 三井はしばらく彼らのバスケを見ていた。そして自分がバスケを始めた頃のことを思い出していた。
 初めてパスが通ったとき。初めてシュートが決まったとき。初めて試合に勝ったとき  。 どの瞬間にも大きな喜びがあった。そして、初めのうちは厳しい制約でしかなかった細かいルールが 体の中にリズムとして刻み込まれ、ボールを意のままに操れるようになってからも、その度ごとに 喜びや発見はあった。手ひどい挫折もそのためのスパイスだったのかもしれない。
 だから。
 あの感動を再び初めから味わって、きっと仙道はもっと大きなプレーヤーになる。
 前の晩に見せられた確固とした決意の瞳を思い出して彼は心の中で呟いた。
「すみませーん」
 高い声や低い声の合唱に我に返ると、足元にボールが転がってきていた。彼はそれを拾い上げ、 しばらく手の中で遊ばせた。
 少年たちはボールを待っていた。三井はそれを投げ返そうとしたが、途中で思いとどまった。
 ゆっくりとボールを掲げ、狙いを定める。
 頭の中に描いたのは高く美しい軌跡。
 何度もなぞってきた理想の曲線。
 ボールのたどる弾道はいつも明確に彼の心を反映していた。迷っているときは迷いのままに、 前向きなときは鮮やかに。
 いま三井は切実な夢を乗せて手首を返す。
 イメージ通り、カラフルなボールはきれいな放物線を描いて飛んだ。
 三井はゴールに背を向けた。
 結果は確かめるまでもなかった。ボールは過たずゴールを射抜くだろう。
 すぐに少年たちから上がった驚嘆の声ももはや三井にはどうでもいいことだった。
 三井は歩を止めず、親指を立てた右手を肩越しに上げて見せて応えただけだった。
 彼の行く手には歓声と拍手で彩られたコートが待っているだろう。
 諦めないで前向きに歩いていけば、そこできっと道は何らかの形で重なるに違いない。





終章