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 三井の大学生活の一年目はめまぐるしく過ぎた。
 バスケ中心の毎日だが、三井なりに講義にも頑張って顔を出した。友だちが増えて、人並みに ガールフレンドとデートの真似ごともした。合コンに学祭。ノートのコピーに代返。ごく普通の 学生のすることを三井も経験して、高校生の殻を脱ぎ落としていった。
 暑さの収まった秋口からは真面目に自主トレーニングにも取り組んだ。相変わらず牧には 吹っ飛ばされてばかりだったが、一試合フルに出場しても十分耐えられる体力はついていた。 過去に根ざしていた三井の自信は、そこに至ってやっと時のギャップを乗り越えたのだった。 そして冬を迎え来季のチーム作りを睨むころには、得難いシューティングガードとしてユニフォームを 手に入れていた。
 同じころ、周囲にも変化があった。
 宮城が大学を決めた。バスケットではほとんど話題にもならないミッション系の大学だ。 いくつか声がかかった中からそこを選んだ決め手は「アヤちゃんと一緒だから」ということらしい。
 そんな風に全国クラスの高校最上級生はそれぞれに進路を決定していたが、その中に仙道の 名前の挙がることはなかった。
 実際インターハイの県予選を最後に彼は高校バスケットボール界に姿を見せなかった。 全治四ヶ月の怪我。リハビリしてトレーニングして、では選抜にも間に合わなかったのだろう。 そのことに三井の心が痛まないわけではなかったが、最後に会ったときの彼の目の光を信じたかった。
 光岡知花は変わらずバスケ部のマネージャーを続けていた。可愛らしいルックスで先輩たちの アプローチも続いているらしいが、それまでのところ決まった彼氏ができたという話はないようだ。
 三井との間も最初のうちは多少ぎくしゃくしていたが、彼自身あまり心に余裕のなかったせいか 余計な気を遣うことがなく、かえっていい方向にことが運んだようだった。気がつけば変わらず いつもの五人で飲みに出たりしていた。
 秋口に柘植亜沙子が渡米していたことは、クリスマス時分に大学の寮に舞い込んだカードで 知った。
 半ば自分のせいで重傷を負った相手を一度しか見舞いに訪れなかったことは、薄情と責めるに足る 行動だったかもしれないが、それは彼女なりのけじめのつけ方だと、三井にはわかった。そして そのとき改めて彼女の告げた「仙道をよろしく」という言葉を思い返し、彼女の真意を理解したの だった。もっとも仙道自身が別れを望んだ以上、三井にできることは何もなかったが。
 年が改まり、厳しい寒さの中にひっそりと生命の息吹が感じられる季節は、四年生の追い出しと 寮の部屋替え準備に追われた。推薦で入学してくるメンバーの顔ぶれも決定し、ほぼ一年間寝起き した部屋を明け渡す。そのころには三井の学年の部員もだいぶ淘汰されていた。
 そして、春。
 不穏な世情に新生の季節の訪れも忘れられがちになり、騒然とした日々が続く。それでも水も 空気も温み、時は流れ続けていた。
 桜の花は長かった春休みの終わりを告げるように咲き始めた。本格的には講義の始まらないこの 期間も部活の方は動いていて、推薦入学のエリート新入部員たちは練習に合流している。「前年より 不作」と評された顔ぶれは、三井から見ても小粒だった。
 新年度の混沌は花見の季節が終わるころまで続き、気がつけば白く煙っていた桜もすっかり寂しい 外見を晒していた。
「花が散ればあとは毛虫がつくだけか」
 キャンパス内の植え込みにぽつんと根を下ろしている桜の木を通りがかりに見て、三井は独り足を 止めて呟いた。
 土曜のキャンパスは講義がない割に賑わっている。部やサークルの活動に出てくる学生が 少なくないためだろう。三井が出てきているのも、やはり練習のためだ。バスケ部は正式には この日が今季の練習始めだが、すでにチームは動き始めていていまさらの感があった。
「三井」
 呼ばれて前を向いた。先を歩いていた牧が五メートルほど先で足を止め、三井がついてこない ことに気づいて訝しげな顔をしている。三井はバッグを肩にかけ直し、歩き始めた。
 牧とはその一年で親友と呼べるような間柄になった。
 あの夏の日に東京から戻った三井は結果だけを一言で彼に報告した。それ以上のことは 話さなかったし、牧の方も聞いてこなかった。そのさりげなさは大きな救いだった。
「どうしたんだ、三井」
 彼が早足で追いつくと牧は言った。
「……いや、花見の季節も終わったなって思っただけだ」
「へえ……」
 牧が関心を引かれたかのような笑みを見せる。心の中を見すかされているような気がして、 三井は話題を変えた。
「そういえば昨日のニュースで見たか、ジョーダン」
 バスケットの神様は春先に「I'm back」の一言でアウェーのコートに舞い降りた。それはまるで 運命の好転の知らせのように三井の心に届いた。
「ああ、見たけど?」
「……まだ本調子じゃなさそうだけどな。でも、やっぱり戻ってきたんだよな」
「バスケが好きなら戻ってくるさ」
「え……?」
 三井は思わず問い返したが、牧は後を続けようとはせず、別に意味のないことのようにあっさりと 話を逸らした。
 体育館脇の部室棟に着くと、彼らは手早く着替え、コートに集まった。上級生が顔を出すころには、 下級生は全員集まっているのが体育会の基本である。この日からは一般入試で入ってきた学生も 加わるため、体育館には見知らぬ顔が混じっていた。新しい部員の参加によって体育館内は適度な 緊張感に包まれていた。定刻まであとわずかとなり上級生も顔を揃え始め、コーチや監督も教官室に 入ってきているのが見える。前の年は少し硬くなっていた三井も、一年経つと余裕で周囲の様子を 目に収めることができた。
「まずいな……」
「あ?」
 横で牧の漏らした言葉を三井は聞きとがめた。窺うように目をやると、彫りの深い顔立ちの男は 肩をすくめた。
「教養の講義で一緒になったやつがいて、バスケ経験者だっていうから部に誘ったんだ。一般入試で 入ってきたやつなんだが、まだ来てないみたいだな……」
「最初っから遅刻じゃ、睨まれるぞ」
 とんでもないやつを誘ったものだと三井は牧の、その割に少しも慌てた様子のない顔を見る。
「悪いが、三井、ちょっと更衣室を見てきてくれないか」
「ああ? 何でオレが行くんだよ、てめえのダチならてめえで……」
「オレ、ちょっと北先輩に呼ばれてるんだ。それとも、おまえが代わって相手してくれるか?」
「う……」
 三井は返答に詰まった。
 副主将のごつい顔を思い浮かべて、できるならそんな役目は遠慮したいと思う。牧の頼みは 理不尽だと思ったが、一刀両断にできない根がお人好しな三井だった。
「昼メシおごれよ」
 牧は笑うだけで答えなかったが、三井は昼食代が浮いたと独り決めしてコートを出た。
 まったく、新入部員のくせして最初から練習に遅れるとは肝が太いのを通り越して大学バスケを 馬鹿にしている。
 かつて「高校バスケを馬鹿にしている」と言われた三井はそんなことを考えながら部室に足を 向けた。
 野球部やラグビー部、サッカー部などと比べればさほど人数が多いとは言えないバスケ部だが、 それでも全部員数をさばききれるほど部室は大きくない。目立って強い部ではないからなおさらだ。 だから一年の非推薦入部組は一般学生用の更衣室を拝借することになっている。
 更衣室の前までくると、案の定中に人のいる気配がした。この日は一般開放はしていないから、 中にいるのはこそ泥でなければバスケ部の一年生ということになる。
 最初が肝心と、三井は一度深呼吸してドアを開けた。
 乱暴にドアの開く音に中の人物が驚いたように顔を上げる。その瞬間三井は夢の続きを見ている ような気分になった。視覚だけが離脱しているような感じだった。
 驚きに瞠目していた「彼」は次第に目を細めていく。柔和な笑顔は少しも変わっていなかった。 こころもち下がった眉もふざけた髪型もそのままだった。ただ、別れたあの日、松葉杖がなければ 支えていられなかった体を両脚がしっかりと受けとめていた。
「三井さんとワン・オン・ワンしにきました」
 深く響きのよい声がその口から飛び出し、三井の聴覚を刺激する。そうなって初めて、三井は 現実と夢とを区別することができた。
 一言も口に出せなかった。何か言おうとしたら、それまでに伝えられなかったことや会えない 期間に話したかったことがあまりにも多すぎて喉元いっぱいにふくれあがり、かえって言葉が 出なくなってしまった。
 ドア口に突っ立ったまま足も言うことをきかない。ただ、目の前に仙道が元気でいるという現実を 自分に納得させるためだけに憎まれ口をたたいた。
「バカヤロウ……初めっから遅刻しやがって……ジョーダンみたいにかっこよく決めろよ」
 涙を飲み下すだけの強さは身につけたつもりだった。しかし実際にはどうか、三井には わからなかった。
 仙道が笑った。



 三井の心の中に張りつめた絃(いと)がある。その細く、だが強い絃が笑顔に共鳴して震えた。






終   









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