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 翌日になって三井は仙道の家に連絡を入れた。逃げ腰になっている自分自身に対し、 退路を断つためだった。
 電話を受けた仙道の母親は本人を出させると行ったが、それは三井の方からやんわりと断った。 顔を見ないで話したら、つまらぬ意地を張ってしまうような気がしたのだ。まず一歩踏み出さない ことには、何も解決できない。
 牧と顔を合わせるのは、一晩隔てるとかなり勇気のいることだったが、彼が少しも態度を 変えなかったのでそれをそのまま受け入れた。
 そんな風に、仙道の不運はあっても、三井の時間はいつもと同じように過ぎていた。空腹を覚え、 眠りもする。朝起きればまた腹が減っている。顔を洗う、歯を磨く。食堂に向かう。何もかも、 仙道を置き去りにして三井の生活は滞りなく進んでいく。それは現在と同じように未来も変わらない だろう。だが、それだけではいけないということはわかっていた。
 彼は昼過ぎに寮を出た。駅までの道をゆっくり歩きながら何をどう話そうか考えたが、 堂々めぐりで何の役にも立たなかった。もうひとつ、仙道の家まで無事にたどり着けるのかという 不安もあったが、それは己れの記憶に頼るしかなかった。
 覚えのある駅に降り立った時には再び弱気の虫が顔を出し、そのままUターンしようかと思った。 が、改札のところで思いもかけず女の声に呼び止められて戻り損なった。振り返ると、そこには 柔和な目元をした若い女がいた。二十代初めというところだろうか、女性にしてはかなりの長身で ある。一目見て彼女の正体は知れた。
「三井くんでしょう? すぐにわかったわ」
「あの……仙道くんのお姉さんですか?」
「わかる? やだわー、そんなに似てるかしらー?」
 屈託なく笑う表情には既視感があった。どうやら性格は母親似らしい。大らかということでは 共通していても、おっとり型の弟とは正反対のようだ。
 それにしても、環といったか、その仙道の姉がどうして駅にいて声をかけてきたのか わからなかった。三井の表情から「理解不能」という言葉を読みとったのか、環は笑った。
「お迎えにきました。彰がどうしてもって言うんで」
「迎えに……ですか?」
 三井が言うと環は頷いた。
「うちにいらしたのは一度だけなんでしょう? だから心配なんですって。母からも頼まれちゃった し……」
 実は三井が寮を出た後、牧が連絡を入れたのだが、緊張した三井にはその辺の裏事情など推し量る 余裕さえなかった。
「さあ、行きましょ。こんな暑いところでぐずぐずしててもしようがないし」
 そう言って環が歩き出すので、三井は半歩後ろからついていった。歩き出してみれば、 どの角を曲がるかとか、何番目の信号を渡るかとか、まるで覚えていないことに気づいた。 全て仙道に任せきりにしてきた迂闊さに心の中で舌打ちした。
 思えばいつも三井のそばには世話焼きの誰かがいた。甘えているつもりはないのに、結果としては 一人立ちしていない中途半端な自分。いい加減脱皮しなければならない時期だった。
「元気ですか、仙道くん」
 気にかかっていることを尋ねてみる。強がりの電話を真に受けて一ヶ月以上も放ったらかしにして おいたことに良心の呵責を感じた。
「そうねえ……バスケができなくてちょっとはしょげてるかと思ったら、意外に元気で拍子抜けする ぐらい。……そうそう、そういえば……」
 環は思いついたように続けた。
 合宿を終えた陵南のメンバーがインターハイに出発する前に仙道の見舞いに来たのだという。
「寮に置きっぱなしになってたボールを届けてくれたのよね。何だかみんなで大切そうに持ってきて。 恭しく捧げ持ってきたって感じなのよ。聞いたらマイケル・ジョーダンのサイン・ボールなんです ってね」
 仙道の姉は無頓着に言った。たぶんバスケにはほとんど関心がないのだろう。
 そんなことを話しているうちに二人は仙道の家に着いた。玄関を入ると待ちかねたように母親が 出てきて三井を迎えた。彼が乗り継ぎのターミナル駅のショッピングセンターで買った手土産を 渡すと、母親は盛大に礼を言ってから続けた。
「さあさ、二階へどうぞ。あの子の部屋、おわかりになるわね。脚が治ってないので、迎えにも 出られなくてごめんなさい」
 心の準備もないままに三井は二階へと追いやられる。もっとも下手に考えない方がいいかとも 思った。
 階段をのぼり、短く狭い廊下を端まで行く。閉まったドアの前で一度足を止めて深呼吸すると あとは勢いでノックした。
「どうぞ」
 応える懐かしい声。胸の中で心臓が飛び跳ねた。自覚という麻薬はどうしようもなく三井の全身を 支配していた。
 そっとドアを開ける。彼はベッドの端に腰掛けていた。Tシャツの下は短パンで、左脚の膝から 下が白いものに覆われている。それは痛々しいというより不思議な光景だった。
「よう」
 いつものようにぶっきらぼうに挨拶をする。仙道は微笑んだ。
「いらっしゃい。感激だなあ、三井さんが見舞いに来てくれるなんて」
 道々聞いていたように、それまでと少しも変わらない仙道がいた。
「どうしたんですか、そんなところで。どうぞ中に入って下さい」
 促されて三井は仙道の部屋に入った。
 最初に来たときと同じように、そこは殺風景な空間だった。主の気性を表しているのだろうか、 特に凝った飾りもない部屋で、五月のあの日に初めて足を踏み入れたとき、寮住まいの間に色々な ものを整理されてしまったのかと思った。が、当人に言わせると中学時代からそのままだということ だった。
「その椅子にでもかけて下さい」
 勉強机のところを指して彼は言った。三井はそれに従い、背を前にして椅子をまたいだ。
「一ヶ月ぶりですね」
「おう」
「こんなに早くばれるなんて思わなかったっすよ」
 まるで何か楽しいことを企んでいるかのようにさらりと口に出す。
「馬鹿にすんじゃねえよ。インターハイに出てなきゃ、自然にばれることだろうが」
 平生通りの口調で応答するが、それでも照れくさくてまともに顔が見られない。視線を泳がすと ベッド脇に立てかけてある松葉杖に気づいた。それは脚のギプスや包帯よりも三井の胸を衝いた。
「そうかあ。そういえば今日は開会式だったんですよね。この前陵南の連中が来て言ってたなあ」
「他人事みてえだな」
「そういうわけじゃないんだけど。一応キャプテンですから」
 苦笑する。
 ちょうどそのときノックの音がして母親が顔を出した。三井の持ってきた菓子と紅茶を置いて すぐに出ていったが、その間会話は途切れ、インターハイの件はそれでおしまいになった。
「ところで、大学の方はどうですか?」
 母親が去った後、仙道は茶と菓子をすすめながらさりげなく話題を振ってきた。
「おう、夏休みで練習漬けだ」
「こんなところに来ていていいんですか。日曜も自主練とかあるんじゃないですか?」
「心配すんなよ、そんなこと」
 目の前の男はそんなことにまで気をまわす。いい加減ガキではないのだから、過保護はやめにして 欲しかったが、少しほっとしたのはいつもの彼と変わらずに感じられたからだろう。
 応対が変わらないから三井も普段の彼を取り戻しつつあった。仙道が好きだという自覚を 都合のよい方向へと曲げて二人の時間を楽しむ気になっていた。
 そう、こうしていて楽しいなら、特に告白することもないではないか。いやなら一緒にいない のだし、それは仙道もわかっているだろう。
 三井はその選択を逃げだとは思わなかった。
 それにしても牧も取り越し苦労をするやつだ、と心の中で呟く。
 仙道の力になってやれ、と牧は言った。しかし本人がこうして元気でいるのを見たら、いまさら 力づけることもないように思えた。
 強烈な日差しはその部屋に直接入り込んではこなかった。ただ外で木漏れ日がきらきらと揺れ、 夏の午後の鮮やかさを伝えてくる。聞こえてくるのは蝉の声だけ。今朝までの悲壮な覚悟が嘘のように 穏やかな時だった。会話は弾み、以前と同じようにバスケ中心の話が盛り上がっていた。
「そういえば、陵南の連中が見舞いに来たときに、ジョーダンのサイン・ボール持ってきたんだって な」
 ふと環の言っていたことを思い出して三井は言い、部屋中に視線を巡らした。
「オレにももう一度見せてくれよ、どこだ?」
「ああ」
 仙道の表情が少し硬くなったような気がした。
「あれは……出しとくと汚くなっちゃうんで、しまいました」
「汚くなるって、寮では出しといたんだろ?」
「ええ、まあ……」
 歯切れの悪い応答に三井の胸に澱となって沈んでいた不安が浮上する。そうして改めて部屋を 見てみると、前二回来たときには壁に飾ってあったポスターがはがされていた。
 かろうじてバスケ少年の部屋だとわかった仙道の自室は、見事なまでにその色を払拭され、 無個性になっていた。
 それは、高一の初夏、病院から帰ってきた三井の行動をなぞっていた。彼は部屋にあったバスケを 思い起こさせるもの全てを捨てたり片づけたりした。仙道の場合はたったポスター一枚だった。 それだけだったが、サインは発していたのだ。
 そのことに思い至ったとき、三井は無責任な安堵感にとどめを刺された気がした。
「仙道……おまえ、膝、本当に大丈夫なんだろうな?」
 恐る恐る言葉を口に出すと相手は笑った。
「どうしたの、急に」
 それまでならその笑顔ひとつで騙されていた三井は、今度ばかりは安心できなかった。逆に 何となく踏み込めないものを感じ不安はいや増していく。
「……おまえさ、病院から電話かけてきたことあったろ。あれって、たぶん手術の前の日かなんか だったんじゃないか?」
「あー、そうだったかなあ……」
 相手は顔色ひとつ変えずに返してきた。
「……おまえ、オレに嘘ついて、どういうつもりなんだよ」
「嘘って、オレは三井さんに余計な心配かけたくないから……」
「それこそ余計なお世話なんだよ!」
 思わず声を荒げると、仙道は目を丸くした。それから瞬きをくりかえすと、我に返ったように 笑い出した。
「やだなあ、三井さん、ほんとに心配してくれてるみたい」
「してんだよ!」
 いったん感情が迸ると抑制はきかなかった。
「何だよ、この部屋! ジョーダンのサイン・ボール、どこにやったんだよ! あのポスターは!」
 表面から窺い知れない分、仙道の傷は深いのかもしれないと、唐突に思った。そういった傷口は 決して癒えることなく内部から崩壊を進行させていく。ぐれた三井など、ある意味ではまだ健康的 だった。
「何だ、それならボール、差し上げますよ。もうオレ、必要ないですから」
「必要ない……?」
 三井は息を呑んだ。
「必要ないって、どういうことだよ! まさか、バスケをやめるつもりじゃないだろうな?」
 思わず椅子から立ち上がり、ベッドに座る仙道の前まで移動した。目の前には相変わらずの笑顔。 それをこれほどに手応えのないものと感じたことはなかった。
「……やりたくても、オレ、大学からも実業団からも手引かれちゃったんですよね」
「仙道……」
 三井が力なくその場にひざまずいて仙道の顔を見上げると、仙道は少し困ったような顔をした。
「やだなあ……三井さんにそんな顔させるつもりはなかったのに。オレのことは心配しないで下さい。 三井さんには前だけを見ていてほしいんです」
「……仙道……おまえ」
 鼻の付け根がつんと痛んだ。昨日泣いたばかりだというのに、涙腺は底なしに涙を供給する。 三井は首を振って生理現象を拒否した。
「おまえ、何わかった風なこと抜かしてんだよ……何諦めてるんだよ……推薦が駄目になったからって、 バスケまで諦めることねえだろう?」
 そう言いながら自分の言葉は欺瞞だとわかっていた。ぎりぎりの部活復帰で現在通う大学の推薦を 勝ち取った三井には言えることではなかった。しかし、このままでは間違っていると思う。三年生まで 真面目に部活をやり、天才と謳われ、そのプレーを目にしたものなら誰もが将来の日本バスケット界を 背負って立つと認めている仙道が、ここにきてこんな目に遭うなど何か違っている。
「もう大人ぶるのはよせよ……」
 三井は腿の上に置かれたままの仙道の手に自らの手を重ねた。
「平気なはずないじゃないか。怪我して好きなバスケができなくて……。オレにだって少しは その痛みがわかるんだぞ……おい、こっち向けって!」
 珍しく目を逸らす仙道に三井は声を放った。しかし彼はそれに従わなかった。
「少しも傷ついてない振りして後ろ見て……それで問題が解決するんなら、オレは二年間も無駄に しなかった! なあ、仙道……」
 一言も応えなくなってしまった男に必死の思いで取りすがった。手の上に重ねていた手は上へと 上がり、腕を掴んだ。それにつれて上体をせり上げると仙道にのしかかるような恰好になる。横に 向けられた余裕のない表情はいまの仙道の置かれた状況を象徴していた。
「簡単に諦めるなよ……おまえはバスケをやってなきゃならないんだって」
 何も返らないことに苛立って仙道の体を揺すって顔を近づける。
「なあ、強がるなよ……」
 どう言っても受け入れてもらえない哀しさに三井の目に涙がこみ上げてきた。それでも攻め込む 意志を失わず、片手を仙道の腕から離して背けられた顔を前へ向けようとした。しかし、三井が 実力を行使するまでもなかった。
 仙道はゆっくりと三井の方に顔を向けてきた。口元は微笑んでいるが、決して晴れやかではない 寂しげな笑みだった。
「もう、別れましょう」
 残酷な宣告が下される。三井は声もなかった。
「いままでオレの独りよがりにつきあわせてごめんなさい。こんなオレじゃもう三井さんには ふさわしくないし……」
 哀しみは一瞬のうちに怒りへと転化した。反射的に三井は仙道の頬を叩いていた。
「寝ぼけたこと抜かすんじゃねえよ! 自分のが優位に立ってないと嫌だって? ずいぶん勝手な 話じゃねえか!」
「オレ、そんなつもりじゃ……」
 打たれた頬をそのままに仙道は呆然と呟く。三井は仙道の反論を遮った。
「ふさわしい、ふさわしくないはな、オレが決めるんだ!」
 真っ向から視線を射込んで言った。もう目からこぼれるものを止められなかった。
「オレが……オレが好きになったやつはそんないじけた男じゃなかったぜ」
「三井さん……」
「……おまえが何事にも動じない完璧な人間だなんて、誰が決めたんだよ。苦しいなら苦しいって 言えよ……オレが受けとめてやるから……!」
 仙道は何も言わなかった。ただ、それまでの全てを拒否するような表情ではなく、当惑している ような様子があった。そして、少し遅れて仙道の見開いた目から光るものがこぼれ落ちた。
 三井が仙道の胸ぐらを掴んでいた手を緩めると、それに見入ってしまった。つきあい出してから 初めて見る涙だった。
 気持ちの荒れはそこで急速に収まっていった。何よりも驚きの方が大きかった。
 そして驚いたのは仙道の方も同じだったのだろう。決して目にしたことのない無防備さを表して 三井を見ている。しばらくそのままでいたが、不意に我に返ったように彼は目を背けた。動揺して いるのか、視線が定まらなかった。
 そんな仙道を、三井は初めて年下だと実感した。いつもは独特のペースに巻き込まれていたし、 実際普段は格段に練れた大人だった。しかし、やはり成長し切れていない瑞々しい部分もあったのだ。
「あんま我慢すんなよ」
 わき上がってくる優しい気持ちに、三井は仙道の耳元で囁いた。片腕を背にまわし、もうそれ以上 相手のプライドを傷つけないようにやんわりと体を抱き寄せる。冷えた部屋で体温が心地よく伝わって きた。
 ときどきリズムを乱す蝉の鳴き声。自転車のベルの音。子どもたちの元気な声。数々の音が 通り過ぎていった後、仙道の身じろぐ様子に三井は体を離した。仙道を見上げると、情けなさそうな 顔が目に飛び込んできた。
「……三井さん、やばいっすよ」
 言うことの意味がわからなくて、首を傾げる。
「オレ、我慢できなくなりそう……」
「あ……」
 仙道の追い込まれたのっぴきならない状況を三井はやっと理解した。彼は体を離し、立ち上がった。 そのままドアの方に向かうのを、仙道は名残惜しげに目で追ってくる。三井はドアのところまでやって くると内側から鍵をかけ、振り返った。
「やろうぜ、仙道。オレも同じ気持ちだ」
 二人の本当の関係を始める、そのための第一歩を三井は踏み出した。


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