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 八月  。  照りつける太陽と蒸し風呂のような湿気。冷夏とはいうものの日本の夏の気候はスポーツに向いて いるとは言いがたい。
 もう夏休み期間に入りキャンパスは閑散としているが、バスケ部員たちにまとまった休みは なかった。かえって講義に関係なく集中的に練習のできる絶好の機会であり、一日一日がハードを 極めていた。
 大学生活最初の夏休みを、遊びといえばクラスの連中と一度遊園地のプールに行っただけで、 三井は部活一本やりで送っていたが、バスケ馬鹿を自認する三井にとってそれは決して苦しいだけの 毎日ではなく、ある種の喜びに満ちた充実した時だった。
 そう、バスケをしたくてもすることのできなかったあの七百に余る昼と夜を考えれば、耐えられない ことなど何もなかった。あの時代、夜の公園のリングの前で何度見えないボールを操ってシュート 練習をしたことだろう。きついメニューに音を上げないでいられるのも、全てあのときの無念さが 礎となっている。
 そしてこの日も三井は猛練習を乗り越え、体育館の後始末にかかっていた。体はかなりの疲労を 覚えていたが、それでも最初の頃よりかなりましになっているだろうか。強化練習の始まった頃は 体を引きずるようにして寮に戻っていたのが、壁をひとつ越えて練習以外のことを考えられるように なっている。
 これぐらいの体力があれば、むざむざ流川にエースの座を渡すようなこともなかったのに、 と三井は強気なことを考え、一瞬の後に苦笑いを浮かべた。理由を見つけられれば痛手は軽くなる だろうが、真実を見極めない限り成長は望めない。あの時点で確かに流川の力はエースとして三井を 凌いでいた。しかしプレーのスタイルはどれがベストだとは言い切れないはずだ。
 何にしてもあのチームは最高だったと思う。そして赤木と三井の巣立った後も問題児軍団残党を 中心に新たな湘北伝説を作りつつある。インターハイも不安はないだろう。
 そういえば……。
 三井はそこで湘北の後輩たちがインターハイ開幕を翌日に控え宿舎入りしていることを思い出し、 後で電話をして激励してやろうなどという気持ちになった。陵南の宿舎にはさすがに電話する勇気は ないから、運が良ければ湘北の方から仙道のことも聞けるかもしれない。全国を間近に控えては、 能天気な仙道も余計なことを考える暇はなかったと見え、一ヶ月以上声も聞いていない。それを 寂しいとは思わないが、何となく物足りないような気がするのは否定できなかった。ともあれ、 そんなことに思いが至るのも多少の余力があればこそで、体力作りは毎日の積み重ねが肝心だという ことを改めて三井は噛みしめていた。
 最下級生の義務を済ませ、三井はモップを引き受けて用具置き場に片づけているところだった。 半ば自分の世界に飛んでいっていた彼は、そのとき名前を呼ばれ、飛び上がった。振り返ると、 小柄なマネージャーが目の前にいた。いつの間に寄ってきていたのだろう、まるで気がつかなかった。
「光岡かよ、びっくりさせるなって」
「驚かすつもりじゃなかったけど」
 知花は肩をすくめた。
「……三井くん一人で百面相してるんだもの。なーんか、全然心だけ別の方に飛んでっちゃってる って感じだったわよ」
「べ、別にそんなことねえよ」
 そうは言っても少し顔が熱くなるのが自覚できた。当惑を隠すために彼は続けた。
「それより、何だよ」
「あのね……今日これから予定ある?」
 どことなく切り出しにくそうに知花は言った。それがいつもの彼女の様子と違和感があって 三井は返答に詰まる。
「あ、駄目ならまたで構わないんだけど」
「いや、別に」
「だったら、ちょっとつきあってもらえないかな」
「……元気だなあ。これから飲みにいくつもりかよ」
「そうじゃなくて。ちょっと相談したいことがあって」
 しっかり者のマネージャーは意外なことを言って三井を再び驚かせる。
「……オレでいいのか?」
 知花が頷くので、三井は嬉しくなった。もともと頼られるのは嫌いな方ではない。完全にケア できるかどうかは別にして、彼はある意味で親分肌なところもあった。
「それじゃ、ここで待ってる」
 渡されたメモ用紙には駅前の商店街から少しはずれた喫茶店の名前があった。
「え……?」
「ごめん。みんなには内緒なの。じゃね」
 返事もしないうちに知花は踵を返した。三井は狐につままれた気分で細い背中を見送った。
 それからはいつも行動を共にしている面々に何と言い訳しようか考えるのが大変だった。夏休みに 入ってからというもの、体育館と寮の往復しかしてこなかった実績がたたって何を言っても 信じてもらえないような気がした。結局買い物にいくという理由でチームメートと別れ、指定の 喫茶店に向かった。
 そこはちょっと洒落た感じの店だった。それほど広くないが、テーブルはゆったりと配置され 照明もほどよい明るさで、自慢のケーキと紅茶で時を過ごすのにふさわしい空間だった。間違っても バスケ部の連中が迷い込んでくるような店ではない。
 知花は奥の窓際の席で三井を待っていた。来慣れない場所にうろうろと長身を運んでいた三井と 目が合うと、彼女はわずかに手を挙げて微笑んだ。
「待ったか?」
 三井は向かいに腰を下ろすと聞いた。知花はかぶりを振った。
「ううん。そんなに」
「そうかー。よかった」
 一度道に迷ったとは言わぬが花かもしれない。タイミングよく近づいてきた店の主人に知花の 目の前に置かれているのと同じアイスティーを注文すると、ほっと一息ついた。
 そして改めて状況を確認すると、何だか少し緊張した。知花とそんな形で二人きりで会うのは 初めてだし、場所もいかにも女の子が好みそうなところで、違和感があった。それでも飲み物が やってくるまで部活のことを皮切りに差し障りのない話をして、緊張は徐々にほぐれていった。
 三井の注文したアイスティーが運ばれてきて、それまでの会話がいったん途切れると、そもそも どうして自分がそんなところにいるのかということを彼は思い出した。
「それより、相談って何だよ」
 三井は促した。知花はストローでアイスティーをゆっくりかき回しながらグラスを見つめている。
「何の話だか知らねえけど、せっかく来てやったんだから、気が変わったなんて言うなよな」
 香りの良い紅茶をストローで吸い上げてから言うと、彼女は顔を上げた。
「ねえ、三井くん、この前プールに行ったの、楽しかったね」
「ああ?」
 三井は眉を上げた。
「光岡な、おまえ……」
「ほら、あの日わたし、西尾くんと帰りが一緒になったでしょう」
 三井に最後まで言わせず、知花は強引に話を続けた。
「あ、ああ、そうだっけ?」
 記憶に残っていないことで、生返事をする。知花は目を窓の外に向け、続けた。
「告白されちゃった。……おつきあいして下さいって」
 彼女の言葉に三井は瞬きを返すことしかできなかった。ほかにどう反応すればいいのか わからなかった。
「三井くん……」
 知花は彼の名を呼ぶと、視線を合わせてきた。その顔にはいつもの快活な表情はなく、何かを ひたむきに思いつめているような色がある。三井はますます混乱した。
「……つきあった方がいいかな?」
 完全に予想外の展開だった。
 西尾は何かとつっかかってくる嫌みなやつだが、根は悪い男ではない。見た目だって並以上は いっていると思うし、何より人との対し方がスマートだ。きっと女の子とつきあっても二人で楽しむ 術を心得た及第点の恋人となるに違いない。
「西尾は悪いやつじゃないし……」
 どうして他人の恋愛沙汰に首を突っ込まなければならないのかわからずに答えかかると、 知花の声がかぶさってきた。
「ごめんなさい……ほんとはもう決心してるの」
 知花はそう言うと大きく息をついた。そして一度空を睨むと、再び三井に目を向けてきた。 今度は迷いのない目をしていた。
「断るって決めてるの」
 問い返すのを許さぬような、毅然とした態度で結論を口に出してから、彼女はふっと緊張を解いた。 一度探るように三井を見て続ける。
「……わたし、ずっと三井くんのことが好きだったんだ」
「え……」
 三井の後頭部に衝撃が走る。ごく軽い、しかし物理的な衝撃に近いものだった。
 初めて光岡知花を見たとき、「こんな可愛い子が彼女だったらいいのに」と思った。そして同じ バスケ部員として接するようになると、その愛くるしさとはまた別のさっぱりした気性と明るさに 惹かれた。一緒にいると楽しかったし、話も合った。彼女の肩に触れてその細さに胸が躍ったことも ある。だが、こうして告白されても戸惑うばかりだった。
「気がつかなかった……」
 己れの迂闊さに歯がみする思いで三井はしぼり出した。知花の唇が細かく震えるのが見えた。 それでも彼女は勇気を奮い起こすように続けた。低く、抑えたような声だった。
「わたしじゃ三井くんの彼女として不足?」
 三井は驚いて顔を上げ、慌ててかぶりを振った。逆のことはあっても、決して不足などということは ないと思った。しかし  
「それなら……」
 知花がさらに言いつのろうとすると、彼は再び視線を膝元に移して答えた。
「ごめん……。光岡はいい友だちで、その、考えられないんだ、特別な風には……」
「時間をかけても……?」
 頷いた。光岡知花は特別な人間にはならないと、なぜか確信できた。
 彼はしばらく下を向いたまま目を上げず、知花の言葉を待った。しかし、じきに不自然な沈黙に 気づき、顔を上げた。
 視界に飛び込んできたのは、見開いたままの目だった。その目は飽和状態の涙をたたえ、 三井の見ている間に一筋の光るものをこぼす。
 声はなかった。ただひっそりと彼女は涙を流していた。そしてそれを三井はなす術もなく 見つめていた。
 真夏の景色は窓の外だけの世界で、暑さは二人の足元で歩みを止めている。物音もしない。 木のテーブルに哀しみの珠が一粒二粒こぼれ落ちて、店の中を憂愁に閉ざしていく。三井が我に 返ったのは、カウンターの奥でガラスとガラスのぶつかる音がかすかに聞こえた時だった。
 彼はポケットの中からティッシュを出すと、知花に差し出した。彼女はそれを受け取ると、 一枚引き出して涙を吸い込ませた。
「……ごめん」
 涙声で言うと、微笑もうとする。努力は最初のうちうまく形にならなかったが、やがていつもの 笑顔が戻った。
「ごめんね」
 彼女はもう一度言うと、濡れたティッシュから手持ちのハンカチに換えて涙を拭った。三井は 首を横に振った。
「勝手に気持ち押しつけて。……三井くんがいい友だちだって言ってくれたの、嬉しかった」
 健気に微笑むと、一度鼻をすすり上げて大きく息をつく。
「西尾くんのことはやっぱり断る。あ、別に三井くんのせいじゃないから、気にしないでね」
 目が赤いのを除けば普段と変わりない知花がいた。三井は彼女の強さに感動さえした。
「……ね、三井くん、聞いていい?」
「え、何を?」
「三井くんって、彼女いるの? バスケ一筋で彼女がいるように見えなかったから強引に迫ったのに、 こんなことになっちゃって」
 冗談めかして言い、真正面から興味を隠さず見つめてくる。それまでの経緯から、本当のことを 話さなければならないと思えてくるような表情だった。
「いまはいないけど」
 プライドを守り唇を尖らせて言うと、彼女は笑った。そしてその後に真顔になった。
「それじゃ、好きな人は?」
「いないよ、まだ」
「それで、わたしは駄目なの? なら、どんな人がタイプなの? 教えて」
 三井は考え込んだ。しばらく考えて、ぽつぽつと口に出した。
「そうだな、まず、オレの言うことをよく聞いて……最初はまずそんなところかな」
 ひとつひとつ確かめるように挙げていく。知花は黙って聞いていた。
「それから、ちょっとぐらいのことじゃ怒らなくて、こせこせしてなくて……大らかっていうのかな、 ボケてんじゃないのかと思うぐらいゆったりしてて。オレより年下なのに大人でしっかりしてるかと 思うと、妙にガキっぽいところもあったり。……でも、一緒にいると何となく安心できるところが 一番だな」
 そこで自分がどんなに優しげな顔をしたのか、三井にはわからなかった。
「あ、それからバスケはやっぱりうまい方がいいよな、一緒にできたら楽しいし」
「誰のこと言ってるの?」
 知花の言葉に三井ははっとした。
 いま、彼は仙道のことを思い浮かべて話していた。
 どうかしている。
 背中に冷水を浴びせられたような思いがした。
 「好きな人のタイプ」だろう。そこでどうして仙道が出てくるんだ。
 頭の中は混乱し、返すべき言葉を失う。認められない感情は行き場をなくして三井の胸の内で 渦巻いていた。それはたぶんきっかけひとつで収まるものだった。そしてきっかけは知花の口から 与えられた。
「三井くん、好きな人いるんだね。気がついてないだけで、その人のこと、すごく好きなんだ」
 再び、頭の中を衝撃が走った。今度はもっと強い衝撃だった。
 オレは仙道を好きだったのか。
 初めて自分の本心と対峙し、彼は畏れさえ感じた。それまでずっと逃げ続けてきた認識は、 厳粛で崇高な響きがした。
 男相手に恋愛もへったくれもあったものじゃない。あんなのはただの遊びだし、溺れるものか。
 肩肘張って続けてきた関係は、いつから三井の頑なな心をとかしていたのだろう。
「……帰らなきゃ……!」
 衝き動かされるように腰を上げ、慌てて注文票を掴んだ。
「おごるから! ゆっくりしてろよ!」
 苦笑を浮かべる知花をおいて、三井は店を飛び出した。
 オレ、きっとこの暑さでいかれちまってるんだ。そうじゃなきゃ、あんな可愛い子を振ってまで 仙道のやつを選ぶ理由なんてないじゃないか。
 寮までの道を走りながら三井は何度も繰り返した。第一どうしてすぐに寮に帰らなければならない のかもわからなかった。しかし頭の中の醒めた部分が疑問を投げかけても、体は言うことを聞かず 、脚が勝手に走り続けていた。やっと寮へとたどり着いたときには、練習後の疲れが出て全身が だるくなっていた。
「どうしたんだ、三井、まるで痴漢にでもあったみたいな顔してんぞ」
 迎えた河田の軽口も耳の中を風のように通り過ぎていく。何も反応せずに脇を通り自室に 飛び込むとベッドの上に仰向けになった。幸い同室の諸星は不在で、彼は存分に自己嫌悪に 浸ることができた。
 急に静かさの中に放り込まれると、自覚した想いが重くのしかかってくる。
 仙道が本気であることはずいぶん前から信じていた。三井のどこがいいのかわからないが、 いつもあの青年特有の優しさに包み込まれているのだけはわかっていた。それが心地よかったくせに 意地っぱりな三井は踏み込んで考えようとしなかった。
「……これからどうしたらいいんだよ……」
 泣きたい気分で独り言を漏らす。
 あの笑顔もあの物言いも、強気でいなしていられるうちは良かった。だが、こうなってしまったら、 どんな顔をして会ったらいいのかわからない。
「冗談じゃねえよ……」
 蚊の鳴くような声で呟いて寝返りを打つ。
 もしかしたらこのまま会わずにいれば互いに気持ちは冷めていくものなのかもしれない。仙道に 会えなくて寂しい思いをしたことはないし、思えば中学時代の可愛らしい恋愛ごっこもぐれていた頃の 腐れ縁も、いつも時が絆を弱め、想いを風化させてきたではないか。
 しかしもし仙道から連絡をとってきたら−そしてそれまでのことを考えれば当然の展開だろうが、 そんなことになったらいたずらに避けるのも不自然な気がした。
 しばらくそんな風に往生際悪くあがいていたが、結論が出るはずもなく、三井は迷いをふっきる ように上体を起こした。
「風呂に入ってこよ」
 水とまではいかなくとも、頭からシャワーでも浴びれば少しは気分がすっきりするかもしれない。
 三井はタオルと着替えを手に風呂場に行き、誰も入っていないのを幸いに頭から勢いよく ぬるま湯をかぶった。それからざっと体を洗い、湯船につかってからさらにもう一度、今度は水を 浴びた。真夏でもシャワーから迸る水は肌には冷たく感じられ、三井は震え上がった。酔狂もそこで おしまいだった。結局心は晴れたというより、もやもやとしたものを包み込んで一応の鎮静化を 見たというのがふさわしかった。一度ため息をついて結論を先送りすると、彼は風呂場を出た。
 窓から覗く夏の空はまだ明るかった。仙道と最後に会ったあの日からすると、本当はずいぶん夜の 訪れが早くなってはいるのだが、あの雨の日の記憶にはひたすら陰鬱な風景が刻まれている。それに 比べれば暮れかかった空も明るく輝いていた。
 消化しきれぬ想いを胸に、それでも幾分楽天的な方に振れながら、三井は廊下を進み受付の前を 通り過ぎようとした。
「おう、三井、ちょうどよかった」
 電話部屋から河田がぬっと顔を出す。当番の時間までまだ間があるというのに、この男は寮母の 部屋に入り込んでちゃっかりスイカのお裾分けにありついている。三角形に切った夏の果物は、 ごつい手で必要以上に小さく見えた。
「電話だぞ、長距離らしいから急げ」
「お、おう」
 慌てて窓口に駆け寄ると受話器を差し出しながら河田はにやにや笑って言った。
「いーなー、三井はもてもてで。年下のカ・レ・シからだぞ」
 その瞬間、自分でもわかるほど顔が熱くなった。当惑を隠すように受話器をひったくると カウンターに背を向けた。心臓が抑制もきかず飛び跳ねている。
 三井は応答する前に一度深呼吸した。それでも脈の速さは変わらなかったが、少しはましに なったような気がした。彼は口を開いた。
「おう、オレ」
 ぶっきらぼうに言い放つ。電話の向こうは騒がしく、一呼吸おいて声が返ってきた。
『三井サン? オレ、オレ。……っこら、花道、後でまわしてやるから受話器離せって!』
 相手は宮城だった。張りつめた気持ちがにわかに弛緩した。
「何だ、てめーかよ」
『あっ、冷たい言い方っスね。可愛い後輩が決戦を前に電話してきてるってのに』
「決戦って、緒戦もまだじゃねえか。……それとも何か、新キャプテンの宮城くんはよくできた 先輩のありがたーい激励を聞きたいとでもいうのかよ」
『……よくできた先輩って、誰のことっスか?』
 宮城の物言いは相変わらずだった。
『ダンナはいまさっきわざわざ宿舎に電話くれたんスよ。木暮サンなんか、出発のとき駅まで 見送りに来てくれたし。それなのにもう一人のセンパイは、何だ、てめーか、だもんなあ……』
 そばにいればそれでまたきっと悶着に発展するだろうに、電話線を隔てた距離に三井は冷静で いられたし、ほっとしさえした。何があっても三井自身の位置は少しも揺らいでいないのが確認 できたような気がしたのだ。
「てめえが電話してくんのが早すぎんだよ。もうちょっと待ってたらこっちからしてやったのに」
 一応言うことは言ってから口調を改める。
「……冗談はともかく、頑張れよ。今年は色々プレッシャーがあって大変だろうけどな。ま、 ちょっとぐれえのプレッシャーでへこたれるてめえじゃねえだろ」
『もちろんっスよ』
 電話の向こうから誇らしげな声が伝わってきた。「奇跡」と形容された前年の快進撃を再現して やろうという意気込みがある。三井は知らず微笑んだ。
「できれば、陵南と決勝であたったらいいな」
 調子にのって夢のようなことを言うと、宮城の反応がいつになく鈍く、三井は戸惑った。
「どうした? オレ、何か変なこと言ったか?」
『いや、その陵南がどうも仙道抜きみたいなんすよ』
「えっ?」
『ダンナの話だと深体大も手を引いたってことだし、故障してるらしいです。……決勝リーグの後に 見舞いに行ったときは大丈夫そうだったんスけどね……おい、花道、いい加減にしろって!』
 電話の向こうはやたら賑やかだった。後輩たちのわめく声が三井の鼓膜を刺激する。しかし 受話器を耳にあてながらも三井の周囲からは意味のある音が消えていった。
『ミッチーか?』
 威勢のよい声が飛び込んでくる。何とか返事はしたが、目の前がちらつき膝が震えて、立っている のがやっとだった。電話の相手は元気にしゃべっていたが、三井の生返事に「何かあったのか」と 心配げに聞いてきた。三井は気力を奮い起こし、意外に繊細な後輩の不安を拭ってやった。
 電話はテレカの度数が尽きてあっさりと切れた。三井は受話器をおくとその場を離れた。
 悪い夢をみているようだった。
 あの日、仙道は元気だった。いつのもように柔和な笑顔で三井を迎えた。いつのもように ろくでもないことを言って三井を怒らせた。いつものように  
 不意に、病室に入ったときに見た仙道の姿が脳裏に蘇った。
 丸めた背は途方に暮れているようではなかったか?
 あの時に抱いた違和感、声をかけるのをためらった空気を、三井は当日の湿気さえ感じるほどに 鮮明に思い出した。
 あのバカヤロウ!
 一度も仙道がベッドから降りようとしなかったことにいまさらながらに気づき、胸の中で 毒づいた。
 一時的にしろバスケのできない痛みを三井は骨身にしみてわかっていた。初めて入院した病院で、 昼間の強気と正反対に夜は心細さを抱いて眠った。きっと仙道もそうだったはずなのに。
 三井はふらつくような足どりで階段をのぼり始めた。まずは部屋へ戻りたかった。踊り場まで あと少しというところまで来たとき、誰かが下から駆け上がってくるのがわかった。
「三井」
 名前を呼ばれる。ゆっくり振り返り、牧の顔を認めた。その刹那、片足が段を踏み外した。 がくんという衝撃とともに体はつんのめり、無様に階段を落ちそうになった。しかしもう少しで膝を つきそうになったときに体が引き戻された。
「……びっくりさせるなよ」
 牧はため息をついて言う。
「悪い」
 そんなに心配されるほどの落ち方でもなかったのにと思いながら顔を上げると、妙に真剣な表情が 目に映って思わず謝っていた。牧は三井の腕を掴んで踊り場まで上がった。
「本当に、もうこれ以上オレの夢を壊してくれるなよ」
「夢?」
 帝王らしからぬ言葉に三井は問い返す。牧は頷いた。
「ああ。高校時代、ポイントガードとして一緒のチームでやってみたい選手が二人いた。……同じ 県内にだ」
 牧は真正面から三井と向かい合い、続けた。
「三井、おまえとはこの大学で一緒になった。嬉しかったよ。おまえのシュートにはずっと惹かれて いたから」
「牧……」
 帝王の吐露に三井は驚いた。
「もう一人は……」
 牧の口から漏れる前にその名前はわかった。彼は苦いものを飲み下すような顔をした。
「……監督が仙道は獲らないと決めたそうだ。いや、うちだけじゃない。ほかのところからも 一切引きはないだろう」
「……どうしてだ?」
 牧は天を仰いだ。
「あの事故で膝をやってたらしい。七月の初めに手術して、全治四ヶ月だそうだ。インターハイ どころか、国体や選抜もアウトだな。……わかるだろう、故障が残らなかったとしても、実績のない 選手はどこも相手にしてくれない」
 三井は眩暈を覚えた。階段の手すりにつかまり、体を支える。
「どうして……」
 しぼり出した声は震えていた。
「どうしてって……それはいま言った通り……」
「仙道がどんなにすごいやつかってことは、神奈川のやつなら誰だって知ってる! それがどうして こんなことにならなきゃいけないんだ!」
「三井……」
 牧が戸惑ったような表情を浮かべているのも気にならなかった。運命の神の理不尽な仕打ちに 三井は気が遠くなるような思いがした。
「牧だって、そんな簡単に夢を諦めんのかよ!」
 三井は牧を押しのけて階下に向かおうとした。
「どこに行くつもりなんだ」
 牧が押し止めるように進路を妨害しにかかる。
「監督に直談判してくる! 仙道を獲らないと必ず将来後悔するって、言ってきてやる!」
 三井の視野は極端に狭くなり、ただ闇雲に前へと進もうとした。
「離せよ、牧!」
「頭を冷やせ! 監督のところに行くのはそれからだ!」
 牧というディフェンスは試合中と同じように、いや、それ以上に堅かった。もみ合っても びくともせず三井の前進を阻止している。三井は焦り、思いつくままに罵声を浴びせた。
 そうこうしているうちに階上や階下で騒ぎを聞きつけて人の出てくる気配がした。牧の反応は 素早かった。
 大きな手が上がったかと思うと頬に衝撃を感じ、三井は怯んだ。その隙を牧はついてきた。
「おまえがここで問題を起こして仙道が喜ぶとでも思ってるのか!」
 叱声は千枚通しのようにじかに三井の頭の中心を突き刺した。体中の力が即座に萎え、彼は牧に 抱き留められる恰好になった。
「どうした、喧嘩か?」
 階上から降ってくる声に牧は何事もないと答えると、三井の背に手をまわしてきて、階段を のぼるよう促した。三井は素直にそれに従い、自分の部屋に戻った。
 体が重かった。頭がずきずきと痛んだ。胸がむかついてたまらなかった。
 明かりの消えた部屋に二人で入ると、三井は自分のベッドに腰をおろした。牧は扉を閉めたまま 動かなかった。物音は何もしなかった。
 夏の暮れかかりの空は強烈な光に倦んだような青色をしている。東向きの部屋は外界より暗く 沈んでいた。
「三井、おまえ……」
 先に言葉を発したのは牧だった。
「おまえ、仙道のことなんかどうでもいいんじゃなかったのか?」
 三井の体が反射的にぴくりと動いたが、心の中はもうどうにでもなれという気持ちだった。
「オレたちつきあってんだ」
「……え?」
 牧にはどういうことかわからなかったらしい。それはそうだろう。だから、もっと決定的な言葉を 口にした。
「オレと仙道」
「それって……」
「ホモってことだよ」
 吐き捨てるように言った。その言い方はどこか違う気がしたが、一番わかりやすい表現だった。
 三井はそれ以上何も言えず牧の答えを待った。嘘でもいいから否定以外の答えが欲しくて彼の 反応を窺った。しかし尊敬に値するチームメートの表情は硬く、三井の胸の中に絶望的な諦念が 増殖していく。
 理解を期待するどころか、それまで積み重ねてきた友人としての信頼関係も台無しだと思った。 牧は侮蔑の色こそ浮かべていなかったが、ありありと困惑の表情を見せている。もしかしたら この突発的な告白のせいでチームメートとしての礎さえも失ってしまうかもしれない。しかしもう 後戻りはできなかった。
 どれくらい沈黙が続いただろうか。じりじりとした焦燥感の果てに牧の声が三井の名を呼んだ。 知らず知らずのうちにうなだれていた三井は顔を上げた。
 牧は真剣な目を向けてきていた。苦渋を滲ませたその表情のまま牧はやがて思い切ったように口を 開いた。
「……三井は仙道が好きなのか?」
 硬い声を聞いて唇の端に苦笑がのぼる。
 冗談でもそんなことはないと、昨日までの彼なら言い切ることができただろう。
 自嘲に口元を歪め、あえて直接答えようとはしなかった。そのかわり、自分の気持ちを正直に 認めそれを整理するためにぽつりぽつりと言葉を漏らした。
「オレは……別に男が好きなわけじゃないぜ。でも、仙道といると、楽しかったんだと思う」
「『思う』?」
「素直じゃねえからな、オレは」
 笑って続けた。
「いつもいやいやつきあってるつもりだった」
 仙道と一緒にいる理由を好意以外のせいにして、無理矢理納得のいく答えをひねり出していた 自分の強情さと、それからそれを悟らせないほど全てを受けとめてくれていた仙道の懐の深さに 思いが至り、目から鱗の落ちる気分がした。
「あいつはオレのことを好きだなんて、あの顔でぬけぬけと言うんだ。オレは……」
 感情が急速に高まり呼吸が乱れて言葉に詰まった。そうなるともう崩れるのは時間の問題だった。 喉元にせり上がってくるものを必死で飲み下そうとしたが、うまくいくわけがなかった。
「……オレはそのことをそんなに重く考えてなかったし、いつも適当に相手してた」
 こらえていたものがそこで一気に噴き出した。
「自分でもこんなにあいつにはまってるなんて……ちっとも思わなかったんだ!」
 泣くものかと思っていた。男なのだから、人前で泣いていいとは思わなかった。しかしバスケ部に 戻るきっかけとなった湘北での事件のときと同じように涙は止めることもできず目から溢れだして いく。
「素直に認められるのはバスケの選手としてだけだった。いままではそれだけだった……。でも、 今日……」
「光岡に告白されて気づいたのか」
 牧の意外な言葉に三井は顔を上げた。彼は苦笑いを浮かべていた。
「どうして知ってるのかって? 光岡の気持ちはバスケ部の連中ならおまえ以外みんな知ってたさ。 ……かわいそうにな、あんなにいい子なのに、ろくでもない男好きになって……」
 牧は前髪をかき上げた。
「……おまえも趣味が悪いよ、あんなでかい男」
 三井は涙を流しながら頷いて、自嘲するように笑った。
 牧は離れた三井からでも聞こえるようなため息をついた。それから目を逸らして肩をすくめ、 再び三井に視線を戻したときには笑っていた。
「でもいいやつだってのはオレも認める。……お互い好きなら、もう外野が何を言うことも ないだろう」
「牧……」
「とりあえずおまえとチームメートでいるのに何の障害にもならないだろうし」
 牧は肩をすくめた。
 驚かされてばかりの一日だった。まさかこんなにあっさりと認めてもらえるとは思っていなかった。
 牧は静かに歩み寄ると続けた。
「仙道のところに行ってやれ。いまあいつの力になれるのはおまえだけかもしれない」
 牧はその浅黒い腕をのばして三井の頬に触れた。打たれた跡はそれほど痛まなかったが、 牧の思いやりが伝わってきて心が和んだ。
「本当はオレの役目かと思ったんだが……頼むぞ。ちょうど退院して家に帰っているそうだ。 明日にでも顔を出してやれ」
 三井が頷くと彼は離れ、そのまま部屋を出て行った。
 空は急速に藍色へと移り変わっていた。三井にとって一番長い日がやっと終わろうとしていた。


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