* * *
先刻までの悲愴感が嘘のように、三井は軽い気持ちで階段を上っていた。
怪我は大したことがなさそうだったし、何より彼が天才故の孤独を強いられていたわけではない
ということが嬉しかった。三井はそこまで考えて足を止め、小さな笑いを漏らした。仙道に孤独と
いう言葉は似合わないと気づいたのだ。
「なーに深刻になってるんだか」
自分で自分の頭を小突いて再び階段を上り始める。しかし三階にやってくると足どりは重く
なった。三年前のあの寒い初夏の記憶は、体育館で流した涙で払拭されたわけではなかった。
いまそこにいる理由に少しでも疑念が生じたが最後、彼はまわれ右して、タイミングよくドアの
開いたエレベーターに逃げ込んでいたかもしれない。しかし、ドジをふんだ天才バスケットマンに
何か皮肉でも言ってやりたくて、やっと病室まで体を運んだ。
その部屋にはベッドが六台据えられていた。仙道は入口から見て右側の窓際のベッドで上体を
起こしていた。大きな体が何となく居心地悪そうに丸められている。
入り口から声をかけるのがためらわれ、三井は小さく頭を下げて病室に踏み入った。仙道の手前の
ベッドはきちんと片づけられ、主のいないことを示している。昼下がりの病室は、雲のたれ込めた
窓外の風景とも相まって物憂い雰囲気を醸し出していた。
窓の方に目を向けていた仙道は、近づく三井の気配に反応したように、そこで不意に顔を動かした。
自分の方に向けられたその顔に三井は少なからず驚いた。
「三井さん……」
意外そうに名前を呼ばれて彼は軽いショックから立ち直った。
額には包帯が巻かれ、唇の左脇には大きなガーゼが絆創膏で留められている。まるで例の体育館
殴り込み事件直後の自分を見ているようで落ち着かなかった。
「……いや、面目ないなあ」
口元のガーゼのせいでかなりしゃべりにくそうに彼は言った。それでも暢気な口調は平生と少しも
変わらない。またも頭をもたげてきた不安をその一点で抑えつけ、三井は口を開いた。
「何だよ、おめー、そのツラ」
ベッドの脇に立って悪態をつく。
「まるで喧嘩でもしたみてーだぜ」
「はは……」
仙道は情けなさそうに笑った。三井はわざと渋面を作った。
「どうしてこんなことになった、え? 言ってみろよ」
「……歩道橋の階段から落ちちゃいまして」
相手の言動に拍子抜けした気分にさせられるのはいつものことだが、三井は耳を疑った。
「おまえ……」
二の句が継げなかった。三井は肩を落とした。自然にため息まで漏れてくる。それでも包帯の
下から柔和な眼差しを投げてくる男に向かって彼は続けた。
「……緊張感がなさすぎるぜ。優勝決定戦の前だろ、ぼけっとしてんじゃねーよ」
「いや、ほんとに、切ったのが顔だから意外に流血がひどかったらしいし、一時的に意識が
なかったんでCTにまでかかったんですよ」
「CT?」
聞き慣れない言葉を三井はおうむ返しにした。
「ほら、体を輪切りにしてX線撮影する……」
そう言われればテレビで見たことがあった。ドラマなどでそれが出てくるのはたいがい生死に
関わる病状を説明する重大な場面で、三井の顔は自ずと曇った。
ところが三井の顔色に反比例するように仙道の目はにこにこと細められていく。心配して損したと
思った瞬間わき上がってきた怒りを何とか収め、三井は尖った視線で仙道を見た。
「何がそんなに嬉しいんだよ」
「だって、三井さんにそんな顔させるほど心配してもらえるなんて思わなかったから」
「バカヤロウ。てめえ、自分の立場がわかってんのか? 神奈川ナンバーワン・プレーヤー
なんだろ? 陵南の連中にだって責任あんだぞ、エースってもんはな……!」
そこで仙道が変わらず眩しそうな目を向けてくるのに気づき、三井はあの副キャプテンの
もどかしさの一端を窺い知る思いがした。
「もういい。おまえにエースの自覚なんざ云々しようとしたオレがバカだった。……で、頭打って
ちっとはましになったのかよ」
「残念ながら、異状なしだそうです。すぐにこの病室に移されちゃいまして」
相手はちょっとやそっとの皮肉ぐらいで動ずるような人間ではなかった。仙道が軽く受け流して
相変わらずの笑みを向けてくるので、三井は目を逸らした。
改めて見る病室は広い分落ち着かない感じがした。急な入院ということもあったのだろう、
ベッドのまわりにはほとんど何もない。ただひとつ目を引くのは大きなボールで、それは恭しく
脇の物入れの上に鎮座している。例の神様のサイン・ボールを、チームメートがいち早く運んできた
らしい。なおも視線をめぐらすと、同室の入院患者と目が合い、後ろめたい気分で顔を背ける。
「おまえな、これでインターハイ棒に振るなんてことになってたら、へらへら笑ってもいられ
なかったんだぜ。反省しろよ」
「してますよ。……横浜の夜がだいなしですからね」
懲りない繰り言に上がりかかった拳を引っ込めたのは、額の包帯と口元のガーゼのせいだ。
さすがの三井でも怪我人に実力行使はできなかった。
まったく、みんなが心配してるってのに、本人がこれじゃあ、話にもなんねえだろうが。
三井は心の中で毒づいた。少しはしょげているかと思えば、普段と全く変わらぬ飄々とした態度。
これではわざわざ見舞いに来てやった甲斐がないというものだ。
「横浜かあ……。湘北の連中と繰り出すかな……」
あまりの無力感にぽつりとこぼした言葉に、マイペース男の顔色が変わる。
「三井さん、かわいそうなオレをほっといて遊びに行くんですか?」
「バッカヤロウ、誰がかわいそうだ!」
のばされた手を邪険に払い、三井はベッド上の仙道を見おろした。視点が変わるとものの見方も
変わってくる。いつもは見上げてばかりの大人びた顔は、こうしていると十八歳の頼りなさを映して
いる。もっともそう感じた三井の方も同じようなものだということを、当人は自覚していなかったが。
いま仙道はたれた前髪の下から、飼い主に叱られた犬のような目を向けてきている。なんだか
見ているうちに可愛げさえ感じたので、何を言っても手応えのないことに苛立つ気持ちも消え去って
しまった。三井はしばらくそのアングルからの眺めを楽しみ、脇の椅子に腰を下ろした。空気は目に
見えるほど和み、仙道も余裕の表情を取り戻したようだった。
「階段から落ちてくときね、オレが何を考えたか、わかりますか?」
仙道は静かに言った。
「そんなもん、わかんねえよ」
仙道の言いそうなことはこれまでのつきあいで察しがついた。たぶん臆面もなく言うのだろう、
三井があからさまにバカにするようなことを。人目を気にして身じろぐと、仙道は人差し指で自分の
耳をつつき、意味ありげに視線を投げてきた。年長者を呼びつけるようなそんなやり方は普段なら
絶対に許さないが、仙道の状態とまわりの人目が三井の腰を軽くした。彼は仙道の口元近くに耳を
持っていくと、答えを待った。
「三井さんのこと」
予想通りの答えだった。眉間に皺を寄せて体を離そうとすると、強い力で引き留められる。
三井は窺うように相手の顔を見た。仙道の顔は変わらず柔和だが、目の色は深い落ちつきを見せて
いた。三井が言葉を失うとその目が悪戯っぽく細められた。
「なーんてね。……信じました?」
頭に血が上って実力行使に出るのはたやすかった。三井は相手の両耳を引っ張ると言い放った。
「てめえが何考えてようと、オレには関係ねーよ!」
「いたた……三井さん、痛いっすよ……」
仙道が顔をしかめたのを見て慌てて手を離したが、波立つ気持ちは収まってくれない。再び椅子に
腰を下ろし、今度は上目遣いにベッド上の様子を窺うと、大人びた笑みが視界に飛び込んできた。
三井の気持ちの上の攻勢は脆くも崩れ、いつものひねくれ顔が表に出てきた。
「……ったく、いつもへらへらへらへらしやがって、嘘でもバスケのこと考えたとか言って
みやがれ。……どうせてめえなんざバスケだけしか取り柄がねえんだからよ」
「……三井さん、厳しいなあ……」
言って穏やかに笑う。いつもの笑みが消えたのは次の瞬間だった。
「亜沙子さん……!」
三井は振り返った。病室の入り口に彼女はいた。
試合会場で一度見かけただけの女は、あのときほどの輝くような美しさを発散してはいなかった。
もちろん美しいことは確かなのだが、どこか悄然として一歩退いた感じがある。手にした薄桃色の
花束が外の雨の匂いを運んでくるような、ひっそりとした立ち姿だった。
仙道と三井の視線を受けた女は病室内に歩み入ってきた。仙道の告白を聞いたせいだろうか、
動き出した女は生々しい艶を感じさせ、三井は身の置き所のない気分になった。彼女がゆっくり
近寄ってくる間にそわそわと立ち上がり、小さく頭を下げる。過去に関係のあった男女の会話など
聞きたいとは思わなかった。そんな現場に立ち会いたくもなかった。
「仙道、オレ帰るわ」
「えっ、もう?」
「おう。どんな具合なのか、うちの大学の監督から頼まれて見に来ただけだし、大したことねえって
わかりゃいいんだ」
自分でも意外なほどすらすらと嘘が口をついて出た。そうしているうちにも亜沙子はベッド脇まで
来て立ち止まった。三井はそれまでかけていた椅子を譲った。促されて前を通った女の右腕に白い
包帯が巻かれているのに気づく。妙な符合もあるものだが、あえて深く考えようとはしなかった。
ただにわかに張りつめたその場の空気から逃れるように、三井は病室を後にした。
そうしたこだわりを説明するのに最も適当な言葉を、このときの三井はまだ知らなかった。
「憶えてるわ、彼。先輩だったわよね、名前は確か……」
「三井さんです」
亜沙子が言うのに仙道は答えた。
脇ではナースステーションから借りてきた花瓶に生けられた花がほのかな香りを放っている。
隣り合うボールとはおよそ似つかわしくない。
「違うのね、彰くん」
大人の女のぽつりとこぼした言葉の意味がわからずに仙道は首を傾げた。
「わたしね、彰くんの言ってたこと、よく考えてみたの」
花の位置を直しながら彼女は続けた。
「……彰くんの好きな人、女の子ならずいぶん変わった子だと思ったわ。……でも『彼女』
じゃなければそうでもないのよね」
そこで顔を上げる。
「わからないと思う? しばらく入り口のところで見ていたのよ。笑い方や話し方や顔つき……
彼といるときは全く違うんだもの。……彰くんにあんな顔ができるなんて思わなかったわ。
いやになっちゃう」
「そんなことは……」
女は仙道の言葉を目で制した。
「……お世辞もいいけど、中途半端な嘘はつかないでね。わたしはそんなに柔な女じゃないし、
それは彰くんにもわかってもらえると思うわ……こんなこと守ってくれた彰くんに偉そうに言えた
義理じゃないかもしれないけど」
「亜沙子さん……」
仙道は彼女の名を呼んだ。呼ばれた女が微笑むのを見て仙道にはひとつしか言葉が
見つからなかった。
「……ごめんなさい」
「それはわたしの言うことよ」
彼女は寂しそうに目を伏せた。
「……ごめんね、大事なときにこんな目に遭わせて。それだけは、わたし、とても悔やんでるの。
埋め合わせる方法はないか色々考えたけど……いまやっと決心がついたわ」
そのまま一歩下がる。
「さよなら」
別れの言葉を口にしたとき、彼女は毅然とすらしていた。
「もう少し自信がもてるまで会わないことにしたの。いいお姉さんでいられるようにって。
……これ以上めめしいことを言って嫌われたくないわ」
やっと決心を口に出したとばかりに表情が緩み、昨夜からの疲れがほんの少し顔を出す。しかし
その表情を仙道はきれいだと思った。
「嫌うわけないじゃないですか。亜沙子さんみたいにいい女はきっといないよ」
本気だった。彼なりに長続きしたのも理由があってのことだったと、いまになって、もう全てが
過去になってしまったいまになって思う。彼女は笑みを見せた。
「ありがと。……いつかまた、試合観に行かせてね」
もう何も言えなかった。最後まで崩れずに背を向けた亜沙子が廊下の向こうに消えるのを
見届けてから、仙道は窓の外に目をやった。
雨脚は変わらず強かった。
初めての入院生活にもどかしさを覚えながら、彼は重苦しい鉛色の空に心を飛ばしていた。
「ちくしょう、ついてねー……」
雨の中、三井は独りごちた。
早々に病院を退散したものの、彼はバス停で足止めを食っていた。普段でも運行本数の少ない
そのバス路線は日曜の中途半端な時間帯はいっそう悲惨な運行状況で、あと少しのところで前の
バスに乗り損ねた三井は、三十分も雨の中で待ちぼうけを食わされる羽目になった。さらに運の悪い
ことに、スピードを落とさぬ車にひどい跳ねを上げられ、胸から下に水をかぶってついつい泣き言が
口をついて出てきてしまったのである。
それというのも全てあのお気楽野郎のせいだと思うとかなりむかついた。そして三井の不幸の
根源は、いま病院の屋根の下でとびきりの美女と楽しいひとときを過ごしているのだ。神様は
つくづく不公平だと思う。
オレなんかもう、これからあのむさくるしい寮に帰るだけだもんな……。
ぐっしょりと水を吸ったジーンズの冷たさに無情さを感じつつ、三井はため息をついた。
その一日大したことをしたわけではないのに、疲労が全身を蝕んでいる。実家に帰るという考えが
甘い誘惑をしかけてきたが、男たるもの一度家を出た以上、そうそう簡単に帰るわけにはいかない。
やせ我慢をしてバス停に立ち続ける三井の前を、そのとき静かに車が通り過ぎた。
その車はバス停から五メートルほど過ぎたところで停まり、助手席のドアが開いた。
見るとはなしにその一部始終を目で追っていた三井だが、車の中から女の声で名前を呼ばれた
ときにはさすがに驚いた。
「三井くんでしょ?」
二度目に呼ばれて我に返り、ためらいながら車に歩み寄る。運転席から身を乗り出していたのは、
先刻の年上美人だった。
「駅まで送るわよ。乗って」
まだ仙道を見舞っているとばかり思っていた美女は問答無用の誘い方をしてきた。乗るべきか
どうか三井は迷ったが、雨はひどくバスの車影は未だ視界に入ってきていない。心を決めるのは
たやすかった。彼は傘をたたみながら、自分のために開け放たれたドアから助手席に滑り込んだ。
車はすぐに動き出した。
「ひどい雨ね。……ずっとバスを待ってたの?」
「はあ……」
「乗り過ごしたんなら、病院に戻ってくれば良かったのに」
ハンドルを操りながらくすくすと笑うので、三井は赤面した。
「あ、まだ名乗ってなかったわね。柘植亜沙子です。名前で呼んでもらって構わないわ……三井くん」
そう言って流してくる視線は大人の色を見せている。少なからず混乱したまま言葉を探し、
何とか話のつぎほを見つけた。
「あの、ずいぶん早かったんですね」
「え、何が?」
前を見たまま亜沙子は答えた。窓の外には雨に濡れた街並みが続く。
「病院から帰ってくるのが」
三井が言うと亜沙子は微かに口角を上げた。微笑んでいるようにも見えるし、そうでないようにも
見える。しばらくしてやっと肉感的な唇は開いた。
「……用事を足しに行っただけだから、そんなに時間は必要なかったのよ」
「はあ……」
「今日は彰くんに謝りに行ったの」
意外な言葉に三井は瞬きを繰り返した。交差点でちょうど信号が赤に変わる。車は静かに停止した。
「……彰くんに怪我させたの、わたしだから」
「え……」
三井が不審の声を上げると、彼女はきまり悪そうに身じろいだ。
「……そんなことになると思わなかったのよ。全国行きのお祝いをしてあげたかっただけなの。
彰くんはわたしにとって弟みたいな子だし」
「弟、ですか?」
「ええ。変?」
「いえ」
三井は戸惑った。仙道から亜沙子との話を聞いていなければもしかしたら疑問にも思わなかった
ことかもしれない。
「ただ、弟ってほど可愛くないんじゃないかと……」
焦って付け足した言葉に女は微苦笑を浮かべた。
「わたしなんかから見ると、十代の子なんて可愛いものよ。三井くんも十分可愛いわ」
「え……」
彼が言葉を失うと彼女は小さな声で笑った。それから表情を引き締めて、前の晩のことの顛末を
話し出した。
大会終了後だと部の打ち上げとかち合うことから、その日に全国行きを祝おうと思い、無理に
夜呼び出したこと。楽しい夜だったのが、帰りの道で不良に絡まれ、歩道橋の階段から彼女が
突き落とされたこと。仙道が落ちていく亜沙子を身を挺してかばったこと。落ちたところで幸運にも
車が通りかかり、さらなる攻撃を逃れて仙道をすぐに病院に運べたこと。加害者はどうも薬中毒の
少年らしいこと 。
三井には多少の驚きはあったものの、仙道らしいと納得もできることだった。亜沙子が話し終わって
も三井は黙っていたが、それは彼女の話を少しでも正しく把握するために必要な時間だった。
信号が変わり車が動き出してしばらくしてから、三井はやっと口を開いた。
「オレ、そんなこと知らなかったから、またふらふら出歩いてドジふんだとばかり思って……
きついこと言ったかも」
三井の口の悪いのはいまに始まったことではないが、今回は場合が場合だけに仙道にもこたえた
かもしれない。
「大丈夫。彰くんはそんなことぐらいじゃへこたれないと思うわ。だって三井くんだって彰くんの
ことを思って言ったんでしょ?」
そんなに深い考えがあってのことではなく、ただ苛立ちから言葉をぶつけてしまうきらいのある
三井は彼女の言葉で反省した。だが亜沙子の保証は妙に説得力があり、少し救われる思いがした。
安堵感は三井の口を軽くした。きっと誰かに仙道のことを話したかったのだ。神奈川の高校バスケを
あまり知らない人間に。
「……あいつって、妙に抜けたところがあるんですよね、ぼけてるっていうか」
英雄的な行為をするのなら、フィニッシュまで決めれば恰好いいのに、仙道という男は最後の
ところで一本抜けている。
「体育館に天才仙道を見に来る連中はそんなことは知りもしないだろうなあ……」
三井はそこで運転席の方を見た。
「……あいつのバスケ、もちろんご覧になったことありますよね」
「ええ」
「すごいですよ。オレからみても、仙道は本物です」
本人には素直に言えないことが、彼女の前だとすらすらと口をついて出る。
「公式戦では一度しか戦えなかったけど、正直怖かったな」
前の年の死闘を思い起こして三井は言った。二人はほとんど試合中に絡むことはなかったが、
それでも三井は仙道の放つ迫力を肌で感じていた。流川の刺し貫くような鋭利さとは違う、
会場全体の空気を取り込んで自身台風の目になるような引力があった。
「でも、もっと怖いのは、それでもピークと思えないところで……夏の全国が終わったら、
全国の大学から引きがありますよ。オレの大学も名乗りを上げるだろうけど、深体大も狙ってる
らしいですからね」
いったん言葉を切ってから三井は笑った。
「でも、そのすごい仙道がバスケ以外ではからきしだなんて、近くにいる人間にしかわからない
だろうなあ」
言った後に三井ははっとした。陵南のOBでもない彼がさも親しげなことを言うのは変だと
自覚したのだ。当惑してそっと隣を窺うと、亜沙子はとりたてて気にしていないようだった。
「でも、そんな計算づくじゃないところがいいところじゃない?」
沈み加減に見えた亜沙子が笑って言った。
「バスケの天才でルックスが良くて……それでそつのない男だったらかえって嫌みよね」
「男のオレからすると、いまのままでも十分嫌みですけどね」
三井は笑いながら言い、さらに半ば独り言のように付け足した。
「うん、でも何やかや言ってつきあってられるのはそのせいかもしれないな……」
亜沙子がそれを聞いているのかどうかはわからなかった。すでに車は駅の近くまで来ており、
そちらに注意を引かれたのかもしれない。彼女はほどなく車を歩道に寄せて停めた。
「じゃあ、ここでいいかしら」
「御の字です。本当に助かりました」
三井は礼を言って雨の世界にすべり出た。ドアを閉め、歩道の上がろうとするところを呼び
止められる。振り返ると、下げたパワーウィンドウの向こうから亜沙子が顔を出した。
「三井くん、彰くんをよろしくね」
雨音の中、彼女はそう言ったように聞こえた。三井は首を傾げた。
「あ、でもまだオレの大学に来ると決まったわけじゃないんで」
返事をすると彼女は笑った。
「それじゃあね」
すぐに車は窓を上げ、三井の目の前で走り出した。彼は一度頭を下げると、駅舎に向かって
歩を進めた。
「おい、仙道入院したんだってな」
寮に帰るや、牧が目敏く近寄ってきて言った。全国出場の望みが断たれた海南は祝勝会どころ
でなく、後輩たちを励まして早々に帰寮したのだという。仙道のことについては情報がまだ何も
伝わっていないらしい。
「湘北の方は何か情報が入ってたか?」
「うーん、入院した病院ぐらいはわかってるけどな」
「それじゃ、うちと同じか」
牧はため息をついた。
「何だよ、牧、そんなに気になるのか?」
別に大したことはないと伝えたくなるほど帝王は仙道のことを心配している。が、それを言ったら
何もかもだいなしになる。
「それはそうだろ。神奈川ナンバーワンなんだぞ。三井だってあのセンスは買ってるだろ?
それとも全く気にならないって……」
「別にどうだっていいことじゃねえか」
素気ない返事をすると牧は肩を落とした。
「そうか……? それじゃあ、今度一緒に見舞いにでも行こうかと思ったが、迷惑かな」
「オレは関係ねえもん。行くならおまえ一人で行けば」
ことさら冷淡に牧をあしらった。戸惑う帝王の脇をそのまますり抜け、もうそれ以上ぼろを
出さないように三井は自室へと身を隠した。
仙道から電話があったのはその二日後のことだった。
折良く当番だった三井は直接電話を受けることができ、誰はばかることなくリラックスして
応答した。
「おう、具合はどうだ?」
『上々です。検査の結果も異常なしで、明日にでも退院できますから、もう三井さんに見舞いに
来てもらえませんね』
いつものようにのんびりした口調が電話線の向こうから伝わってきた。
「バカヤロウ。こっちだって色々大変なんだよ。いちいちてめーの見舞いになんか行ってられるか」
三井の方も相変わらずひねくれた物言いしかできない。
『厳しいなあ。……ともあれオレもこれから全国に向けて猛練習しなきゃならないし、
残念だけど当分会えませんね』
「てめえの間抜け面見なくて済んでせいせいすらあ」
またろくでもない切り返しをされるのだろうと予想して悪態をついた。しかし三井の憎まれ口を
仙道は珍しく受け流した。歯が浮くような言葉に対して構えた心が肩すかしを食い、いつの間にか
すっかり仙道のペースにはまっていることに気づかされ、三井は少しむっとして無性に意地悪なことを
言いたい気分になった。
「そう言えば、彼女、亜沙子さんだったっけ、もうおまえがオレの大学に来るなんて勘違いしてたぜ。
『彰くんをよろしく』って。……どうせおまえは深体大に行くんだから、よろしくもへったくれも
ねえだろうにな」
電話の向こうがしばし黙り込む。またも軽い応答はなく、期待もしていない答えが返ってきた。
『……三井さん、亜沙子さんの言ったことはあまり気にしないで下さいね』
「バカヤロウ。気になんかしてねえよ」
まるで嫉妬するなとでも言われているようで、今度こそ三井は小爆発を起こした。
「じゃあな。用事がないならもう電話切るぞ」
『ん……。それじゃ、おやすみなさい』
苛立ちのままに続けた言葉に仙道が返す。三井はぶっきらぼうに「おう」と受けた。
受話器を置くと三井は電話部屋の畳の上に寝転がり、しばらくぼんやりと天井の隅を見つめていた。
怒りはすぐに収まったが、正体の知れない苛立ちは油断していると降り積もる埃のように三井の
胸の内を覆っている。それがいつまで続くのか、どうすればすっかりきれいにぬぐい去れるのか、
彼にはわからなかった。