その部屋は不必要なもののあまり多くないさっぱりとした空間だった。
唯一の飾りといえば、大きなポスターで、それは黒人のバスケットボール選手が鮮やかに
リバースダンクを決めている写真だった。
部屋の主が生活の拠点を別のところに移して二年と少し。それでも部屋の掃除は行き届き、
いつでも快適に生活を始められる状態になっていた。
窓から朝日が射し込む。
五月の陽射しはすでに厳しく、眠りの世界から徐々に戻りつつあった彼は眩しさにもぞもぞと
体を動かした。すると胸の上の人肌のぬくもりを持つ重みも移動する。
同じベッドにもぐり込んでいた相手は小さく呻くと一度深く呼吸し、身を起こす気配がした。
つられて目を開き、それを無意識に追う。白くなめらかな背が窓の方に伸び上がった。
スポーツをやっているにしては細い腕がベッドのヘッドボードを越え、節のないきれいな手が
閉め忘れたカーテンを掴もうとする。二度ばかり掴み損ねたのは起き抜けでまだ目が満足に
開かないせいだろうか。あらわになった腰には何も着けていない。
彼は肘で体を起こし、無防備な腰のくぼみに唇を押しあてた。
カーテンを引いた手が瞬間こわばり、布越しにわずかに漏れる光の中、小作りの顔が振り返る。
くっきりとした二重の、意外に大きな目。整った鼻梁。つんとすましているような唇。
そして何よりも持ち主の気性を表す、一文字に上がった眉。それらが非常にバランス良く配置され、
彼の恋人はなかなかの美形なのだが。
「何しやがるっ!」
体の接触に未だ新鮮な反応を示す一学年上の恋人は身をよじり、眉をつり上げた。反射的に
降ってくる拳は無理な姿勢で勢いがなく、彼はそれを難なくとらえると手首にキスをした。
怒った顔もまた格別 と思えるほど惚れている相手。それが同性だったのは仙道彰にとっては
予期せぬことだったが、結局彼自身にとっては何の障害にもならなかった。ただひとつ誤算といえば、
手の内を全てさらけ出してどんなに好意を素直に表しても、相手がそれをあまり喜んでくれないこと
だった。
いまも、手首にしたキスの返礼に足蹴りを一発食らった。もっともほとんどきかなかったが。
「ひどいなあ、三井さん、キスしただけなのに」
前年の年末に告白から最終ライン突破まで一気に実現させてから、そうそう何度も体を重ねる
機会はなかった。何といっても時間に財力、ともに乏しい高校生である。それでも相手の三井の
ことを少しずつ覚えて、時には甘い気分に浸りたい仙道だったが、かりに砂糖を混ぜてもタバスコは
タバスコ、苺ジュースにはならないということを、身をもって確認中というところだった。
「いきなりすんなってんだ」
辛口の恋人は威勢よく言い放つ。
「でもこういうのは雰囲気の問題で、いちいち断るなっていつも三井さん言ってるじゃないですか」
「起き抜けに雰囲気もへったくれもねーだろうが!」
無意識に「雰囲気」を振りまく困った御仁は眉間に皺を寄せた。
諦念を込めて仙道は息をついた。三井とつきあうようになって、彼は忍耐という言葉を覚えた。
生来恬淡とした性格で、バスケができればそれでよかったころは我慢しなければならないものは
何もなかった。しかし人間は必ずしも彼の思う通り応えてくれない。
「……何だよ、そのため息は」
三井は頬を膨らませた。
「気に入らないことがあったらさっさと言いやがれ」
「いや、別にないっすけど」
「……高校生のくせに、大人ぶりやがって」
とりたてて大人ぶっているつもりは仙道にはない。いや、むしろ大人ぶっているのは年上風を
吹かす三井の方で、そんなところが可愛いなどと感じてしまう自分は、ひょっとしたら正真正銘の
オヤジなのかもしれないと思ったりしている。「おまえって、五百歳だって言われれば、納得できる
ところがあるんだよな」と言ったのは、口の悪い越野あたりだったか。
「コラ、何考え込んでんだよ」
三井は乱暴に仙道の前髪を掴んで、引っ張った。
「……たっ! 痛いっすよ、三井さん」
抗議しながら体を近づける。三井がヘッドボードにもたれて笑っているのを目にし、
身を乗り出して前腕を掴んだ。すると三井はふざけ半分で手を振り払い、脇をすり抜けようとした。
それを仙道は難なく抱き留めて阻止し、元気の良すぎる恋人をベッドの上に押しつける。
それでも三井は笑っているので、いたずら心を起こして両手首を右手一本でいましめた。
ついで両脚の自由も奪う。出会ったころ六センチ、九キロあった体格差は、ほぼ一年経って
離されこそすれ、少しも縮まっていない。抵抗が本気でなかったせいもあるが、力の差は歴然として
おり、三井はシーツの上に縫い止められた。
瞬間、三井の笑顔がこわばり、目に困惑の色がよぎった。仙道の若さもほとんど同時に反応し、
軽いじゃれ合いのつもりが冗談では済まなくなった。
熱をはらんだ息づかいが朝の静寂を際立たせる。そのまま顔を寄せて唇を重ねた。
朝一番のキスはどこか刺激的だった。それほど深くなくとも、自覚した欲求を容易に煽る。
左手を三井の内腿に滑らせると、押さえつけた体がぴくりと反応した。仙道は顔を離した。
三井は目の縁を微かに上気させている。彼は気怠そうに目を開けると言った。
「……手ぇ離せよ……逃げねえから……」
三井の両手を拘束したままの右手に改めて気づき、慌てて仙道は力を緩めた。
「……ったく、昨日あれだけやって、朝からこれかよ」
半ば泣きが入っているような鼻にかかった声が強い衝動を呼び起こす。
「自分でも意外なんですけど……」
苦笑いして言うと、三井は大きく息をついた。
「いいさ、こいよ……相手してやる」
自由になった手を背にまわしてくる。スレンダーな体を一度強く抱きしめて、仙道は動き出した。
キッチンには芳しいコーヒーの香りが広がっていた。
東京の閑静な住宅街にある仙道家はいつもと違う日曜の午前を迎えていた。
家の主は現在北海道に単身赴任中で、何ヶ月に一度かしか自宅に顔を見せない。そしてこの家の
主婦は金曜から夫の赴任先に飛んでいる。彼の地もそろそろ花の季節を迎える折りで、
嬉々として旅立っていった。さらに五歳上の姉は会社のテニス・サークルの旅行で、土曜の朝から
不在である。おかげで普段はめったに寮から戻らない仙道家の一人息子が甘い一夜を過ごす絶好の
条件が整った。それも、願ってもないこの一日に。
四月、三井は東京の大学に進んだ。もっとも寮と練習を行う体育館は神奈川にあるのだが、
同じ県内だから会いやすいかというとそういうものでもなく、ゴールデン・ウィークに一度会って
遊びに行っただけだった。
「ミルクと砂糖は好みで入れて下さいね」
コーヒーを注いだマグカップをテーブルに置くと仙道は言った。
遅い朝をとり終えたばかりで、ダイニング・キッチンには食後の倦怠感が漂う。
腹を満たしたのは近くのコンビニで仕入れた食糧と、それからたまたま冷凍庫で発見した母親の
手作りクリーム・シチューだった。母親が帰宅後それを食べようとあてにしていたことなどこの際
お構いなしである。
三井はマグカップに砂糖を軽く一杯入れ、それをスプーンでかき回し、紙パックから牛乳を注いだ。
その動作の一つ一つに緩慢さが感じられるのは気のせいではないだろう。
前日、夜もまだ浅いうちからベッドに入って想いを満たした。一回目は遠ざかっていたせいで
少し余裕なく、そして二回目はずいぶんと時間をかけて 。
それでも満たされるのはほんの束の間で、達した瞬間に高さの極みは手の届かないところに
後退していく。三井と過ごした片手に余る数の夜の間に、仙道は自らの貪欲さを思い知った。
肌を合わせるごとに欲しがる心は強くなる。朝っぱらから簡単に制動がはずれてしまうのもその
せいだ。
「きついですか、三井さん」
恋人の体の調子を心配して仙道は椅子に腰を下ろしながら言った。ミルクコーヒーを口元に運ぶ
三井を真正面から覗き込むように見ると、彼は眉を寄せて目を逸らした。
「……ちっとな。最後のが余分だったぜ」
「すいません。つらかったらゆっくり休んでって下さい」
そこまで言うと三井が何か言いたそうな顔をした。仙道は目を細めた。
「……って言いたいところですけど、今日は家に帰らなきゃならないんですよね?」
「おまえ、どうして知ってんだよ、そんなこと」
三井はマグカップを下ろして言った。
「だって」
仙道はダイニングの空いた椅子の上に用意しておいたものを手に取った。何ということもない
ビニールの袋に彼の気持ちのかけらが入っている。
「誕生日じゃないですか、三井さんの。オフクロさん、腕ふるって待ってるんでしょう?」
彼は手にしたものを差し出した。
「はい、オレからのプレゼント。おめでとうございます。……またオレより年上になっちゃうのは
残念ですけど」
せっかく少しの間同い年でいられたのに、時の流れは冷たい。
三井はしばらく目を丸くしていたが、仙道が促すとやっとビニール袋に手を伸ばした。
「……よく知ってたな、オレの誕生日なんて」
「そういうところは万端怠りなく」
笑顔で言うと三井は肩をすくめた。どうやら手放しで喜んではいないようだが、半分は照れ隠し
だと心得ている。
「開けてみて下さい」
「おう……」
彼は袋の口を開き、中を見た。怪訝そうに眉を寄せる。
「……ジャージ……?」
「いえね、陵南の四番の本物のユニフォームにオレのサインでもして渡そうかと思ったんですけど」
「いらねーよ、んなもん」
何考えてんだよ、てめえはよ、とぶつぶつ続けながらプレゼントの品を引っぱり出す。
それは赤を基調に白のラインの入った、NBAチームのユニフォームのレプリカで、胸のところに
チーム名が、そしてその下に前年の秋惜しまれつつ選手生活を打ち切ったスーパースターの番号、
二十三が黒文字に白の縁取りでついていた。
「ジョーダンは嫌いじゃなかったですよね」
三井の好みはすでに承知している。
「ったりめーだろ。……おっ、すげ……!」
番号のすぐ下に記された黒いマーカーの筆跡に目を留めて三井は息を呑んだ。
「おめ……どうしてこんなもの、持ってんだ……?」
ジョーダンのサインを認めて、しばらくは一言もない。しかし 。
「わかった。ニセモンだろ、こいつ」
挙げ句の果てに目を上げて言った言葉がそれでは、仙道の自信もぐらつこうというものだ。
「ひどいっすよ、三井さん。それ、本物ですからね、正真正銘の本物」
未だ信用のない己れの身を憾みつつ、彼はジャージを手に入れた経緯を話し始めた。
それがマイケル・ジョーダンのサインだったのはほとんど偶然のようなものだった。
一時帰国した留学中の従兄がアメリカから持ち帰ったのである。
従兄はスポーツ音痴で、NBAについても通り一遍の知識しかなかったが、友人に連れられて
ブルズの試合を観戦することになった。そこで仙道がバスケをやっていることを思い出した彼は、
選手の直筆サインを手に入れてやろうと決めた。選んだのがジョーダンだったのは、NBAに
無関心な彼でさえ聞いたことのある名前だったからだ。
結局サイン入りのジャージは、入手してからかれこれ一年近く後に仙道の元にやってくるのだが、
その間に当のジョーダンはいきなり引退し、二十三番は永久欠番になってしまった。
「そんなもん、オレが貰っちまっていいのかよ、おい」
事情を聞いて三井が複雑な表情を見せた。欲しいのは山々だが、何となく納得できないというのは
わからないでもない。仙道は頬を掻いた。
「横流しじゃいやかなあとも思ったんですが」
しかしどう知恵をしぼっても、どんなに金をかけたとしても、それ以上三井の喜びそうな
プレゼントは考えられなかったのだ。
「……そうじゃねえよ」
「え?」
「そうじゃねえって。おめえだって欲しいだろ?」
ジャージを握りしめて三井は言う。いったん手放したら跡形もなく消えてしまうとでも
考えているかのように力の入っているのがおかしくて、急に意地悪を言ってみたくなった。
「それはもちろん欲しいですけど」
言った瞬間に後悔した。彼はただ、一番好きな人の喜ぶ顔を見たかっただけなのだ。
「……なんて、嘘です。オレはちゃんとサイン入りボール貰いましたから」
ボールは寮に持っていっている。おかげで陵南バスケ部の連中がほとんど毎日拝みにくるという
おまけがついた。
「だから、遠慮なく受け取って下さい」
「本当か? 後でどうこう言ったって、もう返さねえぞ」
「三井さんなら大事にしてくれるって思うから」
やんわりと後押しすると、三井はしばらく惚けたようにジャージを見ていたが、やがて仙道に
目を移し空唾を呑んだ。
「ホントに、すっげえ嬉しい」
その一言で満足だった。
「オレも嬉しいです」
「……サンキュな」
「どういたしまして」
三井は破顔した。そしてジャージを広げ、もう一度サインを眺めていたかと思うと、
やおら頬摺りをした。
「……ジョーダンの匂いがする……」
うっとりとした声音で言うのを聞いて仙道は笑みを浮かべた。実際そのジャージをジョーダンが
手にしたのはわずかの間だし、一年近く寝かせていたのだから警察犬だって嗅ぎ分けは
不可能だろうに、物の歴史を読んで三井は幸せに浸っている。
ジョーダンは彼の好きな選手の一人でしかないというのが仙道の認識だったが、やはり「神様」
の比重は違うのだろうか。三井の舞い上がりようはいつまでも収まらず、反比例するように
仙道の心に複雑な思いが膨らんでいった。
「なんだか、妬けちゃうな……」
「ああ?」
ぽつりと漏らした言葉に三井が反応する。仙道は笑みを崩さず、繰り返した。
「妬けちゃいますよ、そんなにジョーダンがいい?」
三井は何を言われているのかわからないと言いたげに何度も瞬きをした。だが、やがて小さく
吹き出した。
「……ったく、てめえでよこしといて、因縁つけるこたあねえだろうによ」
「やっぱりオレよりバスケが大事ですか?」
「決まってら」
冗談めいた口調で本音の問いかけをすると、間髪を入れず答えが返ってくる。仙道は苦笑が
広がるのを止められなかった。
仙道の胸の中では、三井もバスケも同じぐらい大事だ。どちらかを選べと迫られることも
ないだろうが、両立できる熱情だと思っている。しかし三井は厳格に順番をつけようとする。
「何だよ、不満か?」
仙道の沈黙を三井が訝る。
「でもおめえとこういうことになったのだって、バスケがあったからだぜ」
「三井さん……」
名前を呼ぶと少し照れたように目を逸らす。
「おめえもオレも、バスケがなかったらただの穀潰しじゃねえか」
三井は唇を噛んだ。
「やめらんねえよな、だから」
「やめる気なんて、ないでしょう?」
「ああ」
手の中のジャージに目を落とし、三井はまだ浅いバスケット人生の中の、空白の二年間を
惜しむような表情を見せた。
「ジョーダンぐらいになれば、何もかもやり尽くした気になるのかな……」
「さあ」
「オレはきっと一生やっても足りねえんじゃねえかって気がする」
仙道は頷いて言った。
「がんばりましょう、お互いに」
先はまだ長い。
午後の早い時刻に二人は神奈川に戻った。
初めて言葉を交わした日と同じように仙道が先に電車を降りる。そして同じように三井の背を
見送ると、電車を乗り換えて《陵南高校前》に着いた。
思いがけない人物と再会したのは、寮までの海岸沿いの道に向かおうとした時だった。
「彰くん、じゃない?」
背後から呼びかける深いアルトの声。振り返ると濃紺に白いピンストライプの入ったスーツを
チャーミングに着こなした女性が立っていた。同系の紺のヒールからきれいな脚が伸びている。
栗色のセミロングの髪。耳には大ぶりのゴールドのイヤリング。目はサングラスに隠されて
見えないが、真っ赤な口紅を塗った肉感的な唇には覚えがあった。
「亜沙子さん……!」
口元に笑みをはき、女はサングラスをはずした。