* * *

「あー、腹減ったー!」
 十二時少し前に三井と仙道は空きっ腹を抱えて、廃坑跡を猛スピードの列車で降りてきた。そこですぐに目についたファーストフード店でカレーを平らげ、さらにその隣りでホットドッグを買って歩きながらぱくついた。ぶらついているうちにいつの間にか彼らはウェスタンランドからファンタジーランドへと入り込んでいた。

* * *

 ところで、人はそのときの都合で会いたくない人物に限ってばったりと顔を合わせてしまうものである。
 突き抜けた感性の持ち主である仙道彰にはそんな懸念はなかったかもしれないが、三井にはいまこの場所で会いたくない人間は両手両足の指に余るほどいた。
「おい、これ、ここ開きっ放しだぞ。危ねえんじゃねーか?」
 これとはお子様に人気のアトラクション《空飛ぶダンボ》、こことはダンボのどてっ腹である。戦々恐々と発言したのは、その体格と赤い髪で周囲の親子連れを思い切り恐れおののかせたメルヘンの似合わぬ男、桜木花道だった。
 湘北高校バスケ部関係者ご一行様総勢十名。リョータに花道に彩子、それに桜木軍団と、四月から新たにマネージャーになった赤木晴子と藤井さん、松井さんの面々である。もちろん三井にとって全員が好ましからざる人物であることに間違いはなかった。
 時間が来て二人乗りのダンボが上がり始める。中心から放射状にのびたアームのそれぞれの先端に乗り物がつき、回転しながら上昇する、よくあるアトラクションだが、意外にスリリングなのが花道の指摘通り、乗降口が開きっ放しのところである。恐いものなしのはずの花道は座席を掴んで体を硬直させた。
「大丈夫だって、花道」
 なぜか晴子ちゃんの代わりに隣りに座っている洋平は笑いながら声をかけたが、花道は一点を見つめたままだった。
「わかってら。こ、恐がってなんかいねーからな」
 力を抜きもせず、意地で作った笑みはこわばっていた。
 洋平は笑いを隠すため顔を背けた。花道が実はあまり高い所が得意ではないということを知っているのは彼だけだった。このダンボぐらいの高さなら大丈夫だとふんだのだろうが、腹の穴は計算外だったろう。
「あ……れ?」
 背けた目のずっと先に見覚えのある人影をとらえて彼は声を上げた。花道は相変わらず自分のことで精一杯で、まわりに目をやる余裕はなさそうだった。もう一回まわったところで洋平はその人物に目を凝らした。
 陵南の仙道……だよな。
 両目とも視力一.五。特徴のあるツンツン頭の持ち主は、たぶん神奈川のスターに間違いなかった。
 その仙道とおぼしき人物は立ち止まって女の子と話していた。それからすぐに視界をはずれたが、次にダンボがもう一度見えるところまでまわってくると、今度は二人で陰鬱な感じの建物に向かっていくところだった。そこまで目撃したところでダンボの回転が緩くなり、アームも徐々に降り始めた。花道に目をやると、やっと緊張を解いてほっと息をついており、止まったダンボから地面に降り立ったときには、いつもの偉そうなほどの元気者に戻っていた。
「面白かったねえ、桜木くん」
 後ろからかかった声に花道の顔が崩れる。
「そ、そうっすね。次はどこに行きましょうか、ハルコさん」
「えーっとォ……」
 赤木晴子が地図を出したところに彩子が首を突っ込んできた。
「《ホーンテッド・マンション》に行きましょうよ。ちょうど近くだし」
「何すか、アヤコさん、その《ホッテントット・マンション》ってのは」
 花道が聞くと彩子は大笑いして、思い切り花道の肩を叩いた。
「やーねえ、《ホーンテッド・マンション》よ。……つまり、おばけ屋敷ね」
「おっ、おばけ屋敷?」
 言うと同時に花道は後ずさっていた。彩子の目がきらりと光る。
 見抜かれたな、花道。
 彩子姐さんの鋭い眼力に、花道の秘密のひとつが暴かれたことを洋平は察した。実は花道は小学校六年生のとき、林間学校の肝試しで腰を抜かしたことがあったのである。
 こいつは景気つけてやんねえとハルコちゃんにもばれちまうか……。
 何という造りなのかはわからないが、いかにも「どんより」といった形容のふさわしい、ホラー物の洋画に出てくるような建物を洋平は見上げた。
 たぶんあれだよな、おばけ屋敷って言うからには。
「《ホーンテッド・マンション》ってあれですよね、彩子さん」
「そうよ」
「そこ、仙道が入ってきましたよ」
 洋平がぽつりと漏らすと花道が鋭く反応した。
「なにっ、センドー?」
「ああ、陵南の仙道。気づかなかったか、花道?」
 そんな余裕はなかったろうが、武士の情けで聞いてやる。花道はかぶりを振った。
「……彼女連れって感じだったけどな」
「へえ、彼女ォ……。なーんか興味津々ねえ」
「アヤちゃん!」
 リョータが条件反射的に叫び声を上げるが、バスケ部マネージャーの元締めであり、その十人の中で最も権限のある彩子姐さんは少しも動じなかった。
「だって、そうじゃない。仙道くんってやっぱりあれだけカッコイイんだから、もてて当然でしょ? ねー、晴子ちゃんもそう思うわよね」
「ええ。素敵ですよぉ」
 流川くんの方がもっと素敵だけど。密かにそう続けた晴子の胸中はどうあれ、恋する男二人の弱いところをげしげしと痛めつけていることに全く気づかないのか、姐御は仙道を持ち上げた。
「でもね、みんなに優しいんだけど、結局誰にも落ちないって評判だったのよ。それがこんなところでデートしてるんだとしたら……本命なんじゃない?」
「きゃあ」
 憧れのハルコさんがなぜかハート・マークつきで騒いでいるのを見て花道の目に炎が燃え上がる。
「おのれ、センドー」
 とりあえず流川のことは忘れて花道は吠えた。
「これ以上犠牲者が出ないうちに、この天才が息の根を止めてくれる!」
「オレも加勢するぜ、花道」
「おお、リョーちん」
 わかりあった男たちだけで局地的に盛り上がる。もっとも本当にわかっていないのは赤木晴子だけだったかもしれないが。
「いくぜ」
 気炎を上げて男たちは幽霊屋敷に敢然と立ち向かう。洋平が彩子に目を向けると、姐御はウィンクを返してよこした。

* * *

 時間はそれより少し前に遡る。
 三井と仙道はぶらつきながら《ピーターパン空の旅》の前を通り過ぎた。
「どこも混んでますね」
「まあな、ここはどこも並ぶつもりじゃなきゃ来れねえよ」
 三井はホットドッグの最後の一口を飲み込むと答え、もうすでに食べ終えていた仙道に手を差し出してきた。
「ほら、よこせよ、ゴミ。ついでに捨ててきてやる」
「あ、すいません」
 二人分のゴミを手に三井は近くの屑箱に向かった。足どりは弾むようで、水際立ってバランスの良い長身を軽やかに運んでいる。一度着ぐるみの子豚の前で立ち止まったが、すぐに歩き出した。
「あの……」
 遠慮がちな声がかかったのはそのときだった。気づくと、目の前、というより目の下に彼と同じ年頃の女の子が立っていた。頭のてっぺんが仙道の胸のあたりで、三井にじっと目をやっていたから気づかなかったのだろう。
「はい?」
 年上女性との初体験以来、彼はその手のつきあいで不自由したことはない。据え膳ばかりの三年間だったが、本人には「もてている」という自覚が欠落していた。そのため、端正なうえ優しげな顔でにっこり笑うと、たいていの女の子はちょっと胸をときめかせてしまうということがわからないのだった。
 おかげで笑顔の仙道にじっと目を向けられた少女の顔は少しの間感情の空白地帯になった。
「あれ、オレじゃなかったのかな……?」
 小声で言うと、少女は我に返った。
「ご、ごめんなさい。あのっ、シャッター押してもらえませんか?」
 手の中のオートフォーカス・カメラを突き出して言う。指さす方向には女の子が一人いた。
「あ、オレでいいんなら」
「もちろんっ。もったいないくらいですっ!」
 被写体としてならともかく、カメラマン仙道にどれほどの価値があるかは疑問だが、女の子はカメラを彼に押しつけて友だちの元に戻り、ポーズをとった。
「はい、撮りまーす」
 女の子たちにとって不幸だったのは、シャッターを押す直前にフレームの中に三井が飛び込んできたことだった。後日彼女たちは、見知らぬ男にピントの合った写真に首をひねることになるだろう。
「どうもありがとうございます」
 仙道が歩み寄ると同時に女の子たちの方も駆け寄ってきて、お礼を言った。それに気づいた三井が立ち止まって腕を組んだので、仙道はお礼攻撃を適当に切り上げて三井の元に急いだ。途中人混みに紛れるまで彼女たちと一緒の方向に歩いていった。もしその先を水戸洋平が見ていたならば、状況は少しは変わっていたかもしれない。だが現実には見ていなかったのだし、二人目の女の子も見落としていたのだった。
「よう、もててるじゃねえかよ」
 仙道はやっとのことで三井の元にたどり着いた。キャップの下の顔がにやにや笑いを浮かべている。
「見直してもらえました?」
「別に。おめえがもてるのはわかってっからな……あ、次ここな」
 気がつけば芝生の庭に見えたところには墓石が点在している。
「なんか、よく見たらおどろおどろしいところですね」
「おう、幽霊屋敷だからな」
 どうしたタイミングか、あまり行列しないうちにかなり入口に近いところまでやってきていた。あっという間に後ろに列が続いたのを見ると、たぶん運が良かったのだろう。それでも少し待たされはしたが。
 ゲートを通ると、まず最初に不気味な肖像画のある部屋に大人数が押し込められる。薄暗い部屋の中、人の流れに押されて二人は離ればなれになった。一瞬ひやりとしたものの、身長一九○センチを越す仙道が一八○センチ台半ばの三井の姿をとらえることは難しいことではなかった。さりげなくそばに移動し、腰に手をまわした。三井が何か言いたげに顔を向けてきたが、それを無視して耳元に唇を寄せて囁いた。
「最高っすね、ここ」
「ほざいてろ、バカヤロウ」
 端からはわからないように耳殻に口づけると抱いた体がぴくりと動いた。
 ショーはすでに始まっていた。天井が高くなっていくのか床が地下へと降りていっているのか、周囲の壁がのびていく。やがて真の闇が突然のカタストロフィーを誘った。雷鳴とともにほのかな明るさが戻ると、遥か上方で、天井の中心に首吊り死体が揺れていた。亡霊にとり憑かれた屋敷の、歓迎のセレモニーの終わりだった。
 すぐに壁の一部が開き、通路が現れた。部屋から出ると、その通路に並行してゴンドラがベルトの上を連なって流れていくのが見えた。
 仙道は三井の手を握ったまま先を急ぐ人々をやり過ごし、最後にゴンドラに乗り込んだ。セーフティ・バーが下がり、深い、より深い暗黒への旅が始まる。引き込まれる先は永劫の魂の迷路……。
 などとゴシック映画よろしくあおってみても、やっと三井と二人きりになって仙道の心は薔薇色だった。亡霊たちの怨嗟の声も全く耳に届いていない。
「……てめえ、ちょっとぐらい恐がれねーのか?」
 鼻唄混じりに闇の饗宴を見ている仙道に、とうとう三井は呆れた調子で言った。
「すいません。でも三井さんと二人きりだと思うと嬉しくて」
「……ったく、小学生じゃねえんだからよ。二人でいて、おててつないで、それで楽しいかよ」
「ええ、もちろん」
 仙道は先刻の女の子たちなら一発で腰がくだけてしまうような笑顔で三井を見たが、肝心の彼は流し目をくれただけでにこりともしなかった。
「……世の中間違ってるぜ、ホント」
 少しして三井は大仰に息をついた。
「おめえみたいなやつがもてるなんてよ。女どもは見る目がなさすぎらあ」
「三井さんにさえもててればいいんですけどね、オレは」
 いったい何度言えばわかってもらえるのだろう。仙道の想いをよそに三井は大きく身じろいだ。
「いっぺん『オレはホモです』って看板しょって歩け、てめーは」
「看板しょったら堂々とアプローチしますよ」
「やれるもんならやってみろ」
 売り言葉に買い言葉でそう言うと三井は前に向き直った。
 ゴンドラはちょうど、亡霊たちの舞踏会を見渡す位置にさしかかっていた。数人の男女がターンを繰り返しながら踊る。その様には一抹の暗さはあったものの、恐怖は訴えてこない。むしろ家が朽ちた生命を惜しみ、華やいだ往時を幻で語り継いでいるかのようだ。
 三井につられて仙道もそれに見入ったが、穏やかな幻視の世界はやがて終わり、魔物たちが跳梁跋扈する外界が迫っていた。まだ不思議と恐怖と畏怖に満ちていた、真の暗さを持つ夜の気配が忍び寄ってきていた。
 ゴンドラは後ろ向きになり、坂を下り始めた。その状態では人間の体勢はしぜん仰向け状態になるが、乗り物の背に身を預けきったそのとき、予期せぬことが起こった。
「あれ?」
「止まりましたね」
 ゴンドラがいきなり動くのをやめた。初めて乗った仙道は、最初、こういう趣向なのかとも思ったが、よくよく考えれば後ろのゴンドラの背以外何も見えないところで止まっては見せ場になりようがない。それに一本のベルトの上を連なって動いているのだから、他のところでもゴンドラは止まっているはずだ。
「これって、ひょっとすると、いつもはないことですか?」
「……のはず……だけどな」
 三井の声が少し緊張している。
「なんだ、じゃあオレってすごく運がいいのかなあ……」
「バカ、運が悪いんだよっ! 事故だったらどうすんだ……」
 そう言って三井はそわそわと体を動かした。確かに姿勢といい状況といい、気持ちのいいものではないが。
「……三井さん」
 肩を指先でつつく。
「何だよっ」
 うっとうしいと言いたげに振り向く三井の顎に手を添え、そのままキスに持ち込んだ。
 それは三井にとってはまるで予想外のことだったらしく、まるきり無防備に唇を開いた。しかしそこから先はお預けだった。先に進むことのできないこの状況ではあまり軽々しいスキンシップは身の毒だということもあったが、止まっていたゴンドラが動き出し、三井が我に返ったせいもある。彼は思いきり仙道の顔を押し退けた。
「ったく、見境のねえ野郎だな!」
「運は自分で切り開くもんですよ」
「へりくつこねんな」
 三井はわざとらしくシートの反対側にぴたりと身を寄せた。
 ゴンドラはB級ホラーを思わせる生々しく幾分ユーモラスな亡者たちの住む世界に入っていた。俗気の抜けない地獄の住人たちは侵入者を驚かそうとしてあの手この手で姿を現すが、痴話喧嘩もどきの会話を交わす二人の目にはほとんど入っていなかった。闇に息づく九九九の亡霊は己れの無力さを思い知っただろうが、彼ら二人がまだその存在に気づいていない追跡者たちもまた同類だった。

次へ