インターハイ予選の緒戦はゴールデン・ウィークのほぼ一ヶ月後にやってくる。
 仙道は珍しく持っていた生徒手帳のカレンダーを睨んでため息をついた。
 三井とは五月の連休のときに会う約束をとりつけていたのに、田岡監督は前年の雪辱を期し、休日返上で練習の姿勢を見せている。
 これはマジで仮病でも使わなきゃならないかな。
 練習と三井を秤にかけて彼は思った。
 三井とは半月近く会っていないし、互いに寮生活なので滅多に電話もできず、声も聞いていない。それは確実にもう半月続くのだが、そこまで我慢すれば会えると思うから練習に打ち込んでいられる。だがそれがもし駄目になったら?
 ストレスがたまって福田みたいになるかなあ……。
 そんなことをのんびりと考えていること自体繊細なチームメートとは違うのだということを仙道はわかっていないが、彼は彼なりに頭を悩ませていたのである。
 よし。仮病でいこう!
 仙道は固く決心し、机を強く叩いて立ち上がった。
「どうした、仙道」
 現国の河本が教壇で振り返った。
 我に返って、授業中だということもすっかり忘れて考えに没頭していたことに気づいた。じわじわと広がる痛みに、両手に目をやり、笑って口を開く。
「いや、ちょっと寝ぼけました」
 暢気な口調でけろりと答えたのに対し、初老の枯れた男性教師の見せた反応は眼鏡を上げることぐらいだった。
「そうか。おまえのことだから徹夜で勉強したなんてことはないだろうが、練習もほどほどにしろよ」
 言って再び黒板に向かう。頬をかいて着席し直す仙道に越野が赤面しながら咎めるような目を向けてくるのに気づいて笑ってしまった。
 越野の小言もすでにクラスの名物の感すらあるが、二年余の間噛みつかれ通しの仙道にはもうあまり効かなくなっている。
 チャイムとともに現国の授業が終わると、案の定越野が席を立って最後列の仙道のところまでやってきた。しかし、彼の十八番が始まる前に、もっとけたたましい騒ぎが廊下の方で起こった。
「仙道さん、越野さん!」
 二年の相田彦一。陵南バスケ部の瓦版屋である。彼は関西訛りのイントネーションで声を張り上げた。
「うるさいぞ、彦一」
「すんません、越野さん、大事なことで」
 彦一はぺこりと頭を下げるが、地声の大きさは生まれつきか、反省が少しも結果に表れない。
「いま田岡監督からお聞きしたんですけど」
「うん?」
「五月の三、四、五は練習休みだそうです」
「うんうん……えっ?」
 あまりの意外さに時間差で驚いてしまった。越野も目を丸くしている。
 さらに聞くと、三日から五日は各自の自覚に任せて学校に残って練習してもいいし、家族旅行などする者がいれば、最低限のトレーニングをすること、とのことだった。
 何の気紛れか、大手を振って時間がとれることに仙道は心の中で万歳三唱をしていた。
 天は自ら助くる者を助く。
 ちょっと違うが、運命の女神が微笑んでいるのを仙道は感じていた。

* * *

 さて、首都圏のカップルが一度はこなすデートの定番が東京ディズニーランドである。
 一歩足を踏み入れればそこは夢の国。童心に帰って楽しいひとときを過ごすことができる。さらに近くにはベイエリアのホテル群が控え、アフターケアも万全。まさに理想のデートコース……。
「……のはずだったんだけどなあ……」
 人、人、人の波の中で仙道は呟いた。
 やたら明るいキャストのお姉さんの挨拶に笑顔で応え園内に入ると、開園直後にも関わらずあたりは人であふれていた。
「だからオレの言うとおりにしてよかっただろ」
 三井が胸を張って言うのに、TDLビギナーの仙道は同意した。
 ディズニーランドに行くならとにかく開園時間前に着いていること、なるべく前売り券を買っておくこと、という指導をしたのは三井だった。小中学生のころ両親や友人たちと何度か訪れていたという彼は結構ディズニーランドに詳しかったりする。おかげでチケットブースに並ぶということをせず、入場だけは割にスムーズにできた。
 もっともゴールデン・ウィーク中という基本設定の誤りには変わりがないが、二人でいられれば後はどうでもいいという恋人たちであれば、長蛇の列に並ぶのも苦にならないだろう。連れの気持ちはどうあれ、仙道はまさにそんな気分だった。
「三井さん、どこ行きたいですか?」
 身長差分だけ視線を落として仙道は聞いた。三井のかぶっているキャップが邪魔で、目元のよく見えないのが少し寂しい。
 三井はチケットと一緒に手渡されたガイドブックに目をやった。上着代わりに着ているダンガリー・シャツのまくり上げた袖口から突き出た腕が、目に清々しく映る。
「そうだな……《スプラッシュ・マウンテン》にも乗りたいけどいちばん遠いし、とりあえずこっから行こうぜ」
 三井は地図上の《カリブの海賊》と書いてあるところを指でつついた。何の巡り合わせか、未だ制覇したことのないアトラクションなのだという。
 カラフルなショップの立ち並ぶワールド・バザールのメインストリートを抜けて広場に出、シンデレラ城を目に収めてから左の方に進む。目的の建物にはすでに外に列がのびてきていたが、その動きは比較的速く、屋内にはすぐに入ることができた。中はプールに似た匂いの漂う湿気の多い暗がりだった。流れる水路を十数人は乗れる大ぶりのボートが流れている。二人はボートのいちばん前の席に座ることになった。
 乗ってしばらくは静かな夜のボート遊びといった趣だった。まわりが暗いのでどことなく不気味な雰囲気もあるのだが、右手にレストランがあり、電気仕掛けのホタルが舞っていたりしてのどかさの方が勝っている。しかしレールの上を流れるボートはやがて、心の奥の期待感に応えるように動きを変えた。水の音が高くなり、叫び声が響く。すると先行のボートが忽然と姿を消した。それを認識する間もなく視界に飛び込んできた落差に、弛緩していた気持ちは一瞬にして引き締まった。
「三井さん、このまま落ちるんですか?」
 隣りでぐっとバーを握りしめた三井に仙道は言った。三井は目を向けもせず、答えた。
「知らねえ。冗談だろ、落ちねーよ。ぎりぎりで避けるに決まって……わーっ!」
 ボートはほとんど垂直に見える急傾斜を強引に落下した。ほんの五、六メートルぐらいのものなのだろうが、一瞬尻が浮き、何が何やらわからないうちに大きな水しぶきを上げてボートは滝の下に着いていた。
「嘘だろぉ……」
 力なく呟く声を耳にして仙道は右隣りの三井に目をやった。水の跳ね返りで服が濡れているが、それよりも心の準備のないままに落ちたのがショックだったらしい。その呆然とした様子が何だか可愛かったのと、落下直前の大騒ぎを思い出して、仙道は小さく吹き出した。
 すでに再びボートは静かな流れに身を任せており、洞穴内の光輝く宝の山の脇をゆっくりと先へ進んでいる。いくら笑いを押し殺しても不自然な呼吸は隣りにいる三井の耳に届くし、何よりも肩の震えが隠せない。やっと笑いを収めると、三井は思い切りふてくされていた。
「んだよ、てめーだって慌ててたじゃねえか」
「すいません、だから、ほっとしたら何だかおかしくなっちゃって」
 顔の前で手を振って否定する。
「決して三井さんの悲鳴が可愛かったからとか、そんなことじゃないっすよ」
「言ってろよ」
 そのままぷいと横を向く。
 ちょうどボートは広い空間に解き放たれ、夜空の下で展開される海戦のまっただ中に突入した。三井の顔色を窺いたくても暗くて確かめるすべはなかった。
 やがてボートは海賊たちの根城深く入り込み、その生活をかいま見る。人形の動きはユーモラスで楽しかったが、出色なのは家畜たちの動きで、動物好きの三井は犬や猫やロバの動きに歓声を上げており、数分間の旅が終わるころにはすっかり機嫌は直っているようだった。
 ボートから降りて外に出ると、日がかなりきつく射していて眩しかった。夜の空間を移動してきた身には、いまだ太陽が中天にも昇っていないことが不思議だった。
「次はどうします?」
 仙道が聞くと三井は顔を上げた。
「おめえは行きたいとこ、ねえのか?」
「オレは初めてだから、どこでもいいですよ」
「ホント、信じらんねーよな、おまえみてえのが、ディズニーランドにも来たことねえなんてよ」
「オレみたいって?」
 キャップのつばを上げて三井は目を向けてくる。
「遊び慣れたやつ」
「……って言われても困るなあ」
 仙道は苦笑いした。
「高校からは神奈川ですからね。寮と学校の往復しかしてなかったとは言いませんけど……そうだ、鎌倉のお寺めぐりなら任せて下さい」
「中学んときは? 東京だったんだろ?」
 問われて仙道は首をひねった。
「……だいたいデートらしいデートなんてしたことなかったし。六義園とか小石川植物園とかは行ったことありますけど。あっ、そう言えば千鳥ヶ淵や北の丸公園にも行ったかな」
「何しに行くんだよ、そんなとこ」
「花見に」
「だーっ、本当にダサダサだな、てめえはっ!」
「でも、馬鹿にしたもんじゃないっすよ。来年は是非一緒に行きましょう」
 煙るような桜並木を思い浮かべ、仙道は笑顔で言った。
 ちなみに翌年二人で花見に行くことはなかったが、それはまた後の話になる。
 ともあれそんな具合に話しながら歩いていたので、気づくと二人とも自分たちがどこにいるのかわからなくなっていた。三井は地図とじっとにらめっこしていたが、少々混乱していて、すぐには現在位置が特定できないようだった。仙道は横からガイドブックに手をのばし、それを取り上げた。
「コラ、何しやがる」
 案の定三井は声を荒げたが、仙道はそれをウィンクで受け流した。
「時間はたっぷりあるし、このまま出たとこ勝負で歩いてみませんか?」
「仙道、おめえは素人だからわかんねえだろうがな、ここはやみくもに歩きまわってちゃ、埒があかねえんだ」
 三井は仙道の手からガイドブックを取り戻すと、それにざっと目をやってから周囲を見まわし、シンデレラ城の位置を確かめて頷いた。
「よっしゃ。オレについてこい。次は《スプラッシュ・マウンテン》だ!」
 勢い込んで言うと仙道の手首を掴み、それから早足で歩き始めた。自信たっぷりの足どりに、仙道はついて行く。人混みではぐれないための自然な配慮だろうが、予想外の嬉しい状況に、引っ張られながら彼の表情は崩れっぱなしだった。
 やがて二人はまたも行列に行き当たった。遥か先の、人の列が吸い込まれていく先には、西部劇で見たような山影があった。
「あれ、おかしいな……」
 三井は足を止めた。《スプラッシュ・マウンテン》に行くつもりが《ビッグサンダー・マウンテン》にたどり着いてしまったらしい。オレについてこいなどと言った手前、意地っぱりな三井は仙道に頼ろうとしなかった。当惑の表情を浮かべながらも、またも動き出そうとする。それを仙道は止めた。
「どうせだから、乗ってきましょうよ、《ビッグサンダー・マウンテン》。こんなに人気があるってことは、面白いってことですよね」
「……そりゃな、オレもあれは気持ちよくって好きだけどよ……てめえ、オレのこと方向音痴だから安心できねえって思ってっだろ」
 触れられたくないことをつつかれたと言いたげに三井はうらめしそうな表情を作る。
「そんなことないっすよ」
 仙道が言っても三井は聞こうとしない。
「しようがねえじゃねえかよ。おめえみたいに頼りねえ相棒はいままでいなかったんだからよ」
 何も言っていないのに勝手に言い訳をする。
 裏返せばいつも三井は頼りがいのある保護者の世話になっていたことになるが、本人にそういうつもりはあるまい。たぶん三井が動く前に周囲が動いてしまうというところだろう。「王子様」の三井と侍従たちの図を思い浮かべて仙道は笑ってしまった。
「なーにがおかしいんだよ!」
「いや、その、三井さんが方向音痴ならオレと一緒だなあ、なんて思って」
「おめえも……?」
 彼は少し表情を和らげた。仙道は深く頷いた。
「それはもう。巨大迷路に入ったとき、そこに骨を埋めるのかと思ったくらい」
 今度は三井が吹き出した。
「結局三時間さまよってギブアップしましたけど」
「諦めの悪いやつだな。オレは三十分でやめたぜ」
 三井は胸を張ったが、五十歩百歩というものである。あるいは「似たもの夫婦」というべきだろうか、そろって方向音痴の二人連れは、曲がりくねった列の最後尾についた。とりあえずは間違いなく目的地に着く行列の中で、二人は一時間半を過ごし、昼を迎えることになる。

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