桑原 隆先生ご指導

 

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本会指導者 桑原 隆(くわばら たかし)先生紹介

昭和19(1944)年8月29日、静岡県磐田郡浅羽町に生まれる。東京教育大学教育学科卒業後、同大学院博士課程を単位取得退学。同助手、都留文科大学講師・助教授を経て、筑波大学教授(教育学系)。博士(教育学)。 平成20年3月定年退官。筑波大学名誉教授。平成21年4月より秀明大学特任教授。平成22年4月より平成27年3月まで早稲田大学(教育・総合科学学術院特任教授)。大学院の学生時代から西尾実研究に着手。平成元年から2年にかけて、アメリカのアリゾナ大学で在外研修。その研究成果を『ホール・ランゲージ』(国土社)として刊行。

御著書

『ホール・ランゲージ ――言葉と子どもと学習/米国の国語教育運動』(国土社、1992年5月)

『作文教育のダイナミズム(歴史的事例)――西尾実・清野甲子三・山下卓造の軌跡』(東洋館出版社、1993年7月)

『言語生活者を育てる――言語生活論&ホール・ランゲージの地平』(東洋館出版社、1996年4月)

『言語活動主義・言語生活主義の研究――西尾実国語教育論の展開と発展』(東洋館出版社、1998年7月)

御編著

『新しい時代のリテラシー教育』(東洋館出版社、2008年3月)

『豊かな言語生活者を育てる−国語の単元開発と実践−』(東洋館出版社、2012年2月)

先生の教え

先生の御著書の中に次のような言葉がある。

 国語の教師の専門性はどこにあるか。国語の教師が実践家としてその専門的手腕を発揮すべきところはどこであるか。それは突き詰めていくと、学習(者)の論理を発見し創造していくところにある。学習者一般ではなくして、学習者一人ひとりにどのような国語の力を、どのように効果的に学習させていくか、その論理を開拓するところにある。そのためには、国語・言語に関するさまざまな学問的研究に広く深く学ぶことが必要であることは論をまたない。文法等の言語体系に精通していることも必要であろう。しかしそれは学問体系の論理や知識であって、それがそのまま学習(者)の論理や学習構造を規定するものではない。学習(者)の論理に加工していかなければならない。すぐれた実践の指標というのは、学習(者)の独自な論理を発見、開拓、創造していくところにこそ求められる。 『言語生活者を育てる――言語生活論&ホール・ランゲージの地平』(東洋館出版社、1996年4月)P16

児童、生徒理解を最優先にする先生のお考えは、時に技能、技術、効率、見栄えに走りがちな我々を教育の原点に立ち返らせてくれる。先生の国語教育に対する姿勢は大変厳しいものであるが、その根底にはいかなる時にも血の通った「人間」が大きく存在しているのである。毎日教室で子どもに接している我々よりも遙かに子どもの本当の気持ちが分かっているのではないか、いや、そうであると確信させられた事例には限りがない。先生の子どもを見つめる眼差しの温かさをわたしはいつも忘れないようにしているつもりである。

その先生がいつも私たちにおっしゃられることは、教材化研究である。教科書教材をただ漫然と繰り返し指導していくのではなく、目の前の学習者ならではの教材を発掘し、児童に寄り添いつつ加工していくとが如何に大切かを力説しておられる。そのことを御著書の中では次のように述べられている。

学習(者)の論理を作り出していくためになすべきことは教材化研究の視点をもつことである。教材研究ではなく、教材化研究である。教材研究と教材化研究では、その出発点に大きな違いがある。教材研究は、既成の教材から出発する。教材が作品であれば、その作品研究を行い、授業の展開を案出していく。教材化研究は、既成の教材から固定的に出発するのではなく、教材を探すことから始まる。国語・言語に関する学問的成果や言語文化としての遺産を学びつつ、もう一方で児童・生徒の言語生活・言語活動・言語の学習構造や実態を見据えて、その両者の接点に、教材を発見し、教材を作り、学習(者)の論理を作り出していくことである。そこにこそ、国語の教師の専門性がある。とりわけ、「言語」教育のための言語教材は、機能的にとらえていく必要があり、固定的にはとらえがたい性格をもっているため、教師の教材化研究が何よりも重要になってくる。 『言語生活者を育てる――言語生活論&ホール・ランゲージの地平』(東洋館出版社、1996年4月)P17

そのためには、常に教材化の視点を持って日常の言語生活を注意深く見つめていくことが大切である。そして、子ども達のために「思い切った実践」を切望するとおっしゃっている。以上のような先生の教えから、本会の名称が掲げらたのである。

RISK[失敗をおそれない思い切った実践]HUMAN学習(者)の論理を作り出していく]KOKUGO教育


 

会員実践提案に対するご指導

「生きる力を育む読書生活をめざしてー[読書]をどう捉えるかー」堀口賢司会員の実践に対して

全体的な学習の流れ、内容は分かったが、「読書」は、こどもが入学当初から今までにどんな本を読んでいるか、また、一人の人間が年   間でどのような本を読んでいるかなど個人をトータルして見ていかないと分からないところがある。数人の子どもの読書生活を追いデータを集計してこれまでの実践の如何を今後示していってもらいたい。

どのような本と出会わせるか。この子のは漫画も認めるとか、あの子には漫画は認められないとか、結局、その子どもによって判断するしかない。個人の読書生活や読むことに関する力をよく把握しておく必要がある。

本離れが進んでいる現在、子ども達に何としても読書を広げてやりたい。

「活動あって中身なし」にならないように、教師自身しっかりとした言語文化への志向、心棒を持って学習活動を展開していかなければならない。

「読書」という言葉はやっかいだ。「こうあらねばならない。」とか「こう行うべきだ。」などの古くさい倫理観があり、学習者の思いや願いに大胆に働きかける実践にブレーキをかけているのではないか。

「読書」と「読解」を区別する考えがある。「国語科教育は読解、読書は国語の時間以外で」と、読書を国語科から追いやっているのかもしれない。英語学習では、「読書」と「読解」の区別はない。米国の「NCTE」(日本の国語教育学会のような団体)は会員が約6万人、「IRA」(日本の読書学会のような団体)は会員が約9万人とこちらの方が多く、如何に盛んであるかが分かる。今後「RHK」でも「読書とは何ぞや」を追求していってもよい。

「読み」の対象にこだわらなくてもよい。「楽譜をよむ」という言葉もある。倉澤栄吉先生の「読む・ヨム・よむ」を学んでほしい。

堀口先生の実践の中に帯単元の取り組みがあった。帯単元にふさわしい学習も考え実践してほしい。

今後、子どもが読書に没頭し、涙を流すような時間を持たせる必要があると感じている。


「どうしてもうまくいかない読書指導」の実践に対して

「授業実践をしても、その後3人しか本を借りてくれなかった。」と授業者は言っていたが、「3名が借りてくれた。」と考えるようにする。この授業をやっていなかったら、その3人は生まれなかったのだから。

「読み書かせ」や「教師による本紹介」の帯単元のリストの中で、CDやカセットテープによる朗読があった。CDやカセットテープにもよいものはあるが、基本的には教師の肉声による朗読が一番よい。

教師の肉声による読み聞かせは他の会員もどんどん行ってほしい。また、どのような本を読み聞かせしたか、そのときの子どもの反応とともに記録に残しておいてほしい。

「『だまし絵百科』桑原茂夫  筑摩書房1982.10.25」 は、文章を読んでいないのでこの本についてこれ以上コメントできないが、絵が面白くてどんどん読んでしまうという読書があっていいはずであるし、むしろ大切なことである。