私は、一般にギャルゲーと言われるものなどで繰り返しプレイをするのが普通であるゲームを反復するのが好きではない。
なぜか?以前から思って口に出したりしていたのだが『加奈〜いもうと〜』をやってより正確に、理由を捉えた。
どうも私は自分でなんのかんの言っても甘い人間らしい。それは、心底憎むほどでないと弱みを見せられると自分でも予想外に甘くしてしまうとか、自分で思うが余り『良い』甘さではない。これは『優しさ』ではなく唯の『甘やかし』でもあろう。
さて、これに相反することではないが自分はゲームをやる時に、情を持つ。
これは普通のRPGなら主人公になりきる、と言う事ではなく。傍らで見ている自分なのだ。世界の中に、居ない自分をイメージする。
つねに『これ』である。共感できるべきところは共に感じ共感できぬところは理解できない。だからいつも恋愛アドベンチャーなどをやっていると違和感があるのだが・・・それは今は置いておく。
さて、このプレイ方法で私は普通のアドベンチャーなら思索を重ね、恋愛アドベンチャーならゲームの中のうち一人に特に情をかける、臭い言葉を使うなら『恋をする』わけだ。
そしてその『話しの筋にも情を持つ』といっていいのだろうか。その展開で自分はそのゲーム世界に一つの幕を下ろす。エンディングを迎えた時点で私にとってのその世界の時系列はそこで完成し、完結する。 まぁ続編などが出た場合、また終わった時は始まり新たな世界を構築していくのだが。
さえ、クリアした、じゃあもう一回やろうとなると私には得たいの知れぬ倦怠が纏わり憑く。それは大筋では同じ話しを追う事への倦怠かも知れず、恋愛なら『その』世界で想った女以外の女を口説く後ろめたさかもしれない。
そう思っていた。
しかしそれは部分の理由で真理ではなかった。
私にとっての、再プレイへの倦怠への正体とは
初プレイ時には『世界を、ゲーム世界のキャラと経験し、構築していく』という『経験』であるのに対して、再プレイ時には『自分の経験した世界以外を観測している』という唯の行為に観測と言う『只の行為』にプレイの意味が堕している。
そう言た私の感性のが最大の理由だと思う。
だから私が『観測』だと感じている事象を素直に『新しい、別な経験』とうけとれる人には再プレイというのは非常に自然な流れだろう。
精々同じゲームはよほど時間を置かなければ私のプレイ回数の限界はニ、三回である。本筋に触れなければもう少しいくだろうが・・・あとは単純にアクションとして面白い、格闘ゲーム等ならこれには当たらないだろう。しかし、アドベンチャー、シミュレーションなどで話しの筋が動くものは駄目だ。駄目なのだ。
これは全く私の感性の問題なのでゲームの良し悪しには全く関係ない。まぁただのいつもの戯言である。

はて、貴方は『どちらの』人間かな?



こ、こいつ・・・何をいって・・・駄目だ・・・ここは・・・善くない場所・・・だ・・・