13 婚姻届にサイン
1999.4.18
  

特急を乗り継いで身延町の塩ノ沢温泉へやってきた。温泉といっても一軒家の鉱泉宿である。今回は本業のサイクリングとオルガン探険の合わせ技である。私にとっては至福の極みである。夜明け前の4時に目が覚める。辺りはまだ闇の中。幸い雨は降っていない。

朝風呂を浴び握り飯を食べ終わる頃には外も徐々に明るくなってきた。身支度を整え颯爽と宿を後にする。バッハのニ長調を口ずさみ、安倍峠を目指す。標高800mまでは山桜が目を、早朝の山々からは小鳥達が2フィートのさえずりで耳を楽しませてくれる。おまけに山瀬まみ、いや、ヤマセミまで間近で目撃。今日はついている。

が、それもここまで。ポツポツ肌を刺激する天からの涙。峠まではまだ標高差600m以上あるので、雨具を着込み少々急ぐ。漸く着いた峠で雨にうたれながらタバコに火をつける。後は下りのみ、気は楽だ。しかし、下りは寒く手が凍えそうだ。安倍川沿いにガムシャラにペダルを漕いで体を温めようとするが、それでも寒い。油山温泉で無理を言って湯に浸からせて貰う。ここで身も心も清め、オルガンモードに変身。折角履き替えた靴下もズブ濡れの靴を履いた途端、直ぐに湿ってしまう。

ここから静岡バッハハウスは目と鼻の先。恐る恐る扉を開けると「ゲッ、マジかよ?」心配していた予感が的中。綺麗なスリッパが並べられている。脱ぎたくないが「ええい、ままよ!」と靴を脱ぎ濡れた靴下のまま知らん顔してスリッパを履く。室内は温かみのある木造で片隅にチェンバロが置かれている。オルガンは何処にあるのだろうかとぐるりと見回すと二階にあった。4ストップのオルガンだけに小さいが両脇には電子音源装置が置かれていた。

会場にはパイプ椅子が設置され、小汚い私は目立たぬ様一番後ろの角に陣取る。今日は当ML会員の岩月里恵さんによるオールバッハプログラムだ。4年前新宿で開かれたオルガン新人演奏会の時に彼女の演奏を聴いた事がある。残念乍らその時の曲も彼女の顔も記憶にない。(もっとも、かなり遠くで聴いていたので顔は確認出来なかったが・・・)黒い衣裳を身に纏った彼女がバルコニーに登場。

第一印象・・・綺麗だ!(と言いたいところだが乱視なのではっきり見えない)本日のプログラムは前半、後半とも1曲目と4曲目を大曲で揃え、2曲目と3曲目は比較的しっとり聴かせる曲を置いている。1曲目は前奏曲とフーガニ長調。これを巧く弾いた人はあまり聴いた事がないが、とても○△歳とは思えない堂々とした演奏で、足技も的確にモグラを叩いていました。2曲目「小フーガト短調」3曲目「我が悩みの極みにありて」と続き「トッカータとフーガ ニ短調」へと進む。

ニ短調では電子音源の残響が長く違和感を覚えてしまう。残響の少ないホールではかえってオルガンの音とミスマッチの様に思える。この点は残念な所だ。然し、演奏は多少のミスも感じられたが、流れるように曲をまとめ上げたのは見事だった。後半は「トリオソナタ2番」「起きろ!(目覚めよと呼ぶ声あり)」「羊は安らかに草を食む」と続き「パッサカリア」で締めくくる。

いずれも無難にこなし、アンコールの拍手に戸惑いながらも2曲応える。圧巻だったのはペダルによる「無伴奏チェロ組曲第1番」の「ジーグ」。息つく暇もなく自在に運ぶペダルワーク。これは聴くよりも見るに値する芸術だった。

演奏終了後、御多分に洩れず婚姻届に?サインを頂戴し、大事にしまって静岡駅へとズブ濡れになりながらペダルを漕いだ。


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