「綺麗な滝と滝壺があるよ。行こうよ」
朝霧は真由の手を取った。
それは、仲のいい二人が手をつないでいるのでなければ、気の進まない相手を無理に引っ張るでもない。
ほんの少しだけ力の入った手からは「ほら、こっちだよ、はやくはやく」という感情が伝わってきた。
俗に、「はやる気持ちを抑えて」などと言うけれど、朝霧はちっとも抑えていなかった。ストレートだった。
つないだ手から流れてくる朝霧の気持ちは、いつしか「僕たち仲良しだモンねー」に変化していた。
道が細くなったり急斜面になったりして、手を離さなくてはいけなくなったときも、その場所を通り過ぎれば、さもそれが当然のように、朝霧は真由に手を伸ばした。
真由もそれがちっともイヤじゃなかった。
遠くの方から水のざわめきが聞こえてくる。
「もう、近いよ」
朝霧が言った。
一歩先へ進むごとに、確実に水の音は大きくなってくる。
だが、見ることは出来ない。木々が鬱蒼と茂っていて、視界が遠くへおよばないのだ。
水の音が「どこか遠くから聞こえる」から、「すぐそばに水流がある」と実感できるだけの音量になった頃、朝霧は「ここだよ」と言って、足をとめた。
ここ?
相変わらずそれらしきものは見えない。
「行くよ」
朝霧は藪の中へ進んでいった。
真由は躊躇したが、手を引かれているので、ついて行かざるを得ない。いまさら手をふりほどくのも不自然な気がしたのだ。
前方を凝視すると、ところどころで藪が歪んでいる。わずかながらに人が蹂躙した形跡だ。
ほんの10メートルも進んだろうか。
藪が開け、足もとは土から岩に変わった。平らで大きな一枚岩。それは、滝壺のほとりでもあった。
落差8メートル、幅30センチほどの滝が、時折水しぶきを真由達にも届かせながら、滝壺に注ぎ込んでいた。
それは滝というより、小川にちょっとした落差がある、という程度のものだ。わざわざ見物に来るにはちょっとばかりお粗末な滝で、だから道も開かれなかったのだろう。
二人が歩いてきた小道から水の音は聞こえていたが、「何かある。何だろう」と思わせるほどの迫力はなかったから、誰もその正体を藪をかき分けてまで確かめようとしなかったのだろうか。
「へへ、いいだろ」
朝霧は、自分だけが知っている別天地にスペシャルゲストを案内したつもりにでもなっているのだろう、得意げな笑顔を見せた。
滝壺、というより、こじんまりした池は、水面にわずかな波紋を漂わせていた。
池にたたえられた水は、信じられないほどの澄んだブルーだった。透明な水に青いインクを垂らしたような、深く透き通ったブルー。
手を浸すと、キリリと冷たい。
池の周囲の空気が、ある場所を境にして、フッと冷たくなっている。神秘的な場所に迷い込んだような錯覚を真由は覚えたのだが、その空気の冷たさはこの水から伝えられたものだとわかった。
ほとりに腰を下ろして、二人並んで座る。
「きっとここは、誰も知らないと思うよ」
朝霧がポツリという。
「キミの、あの人も」
「それはどうかしら。明日あたり、連れてきてくれるかも」
「ううん、絶対知らない。だって、僕は毎日ここに来ているけれど、誰にも会わないもん」
「一日中いるわけじゃないでしょう?」
「そりゃあそうだけど」
自分だけの秘密の場所。教えるのは、特別な人だけ。
だけど、特別な人は、「ここはあなただけの秘密の場所なんかじゃないかも知れない」と、否定する。
真由は、意地悪で言ったつもりはなかった。まじめな受け答えをしたつもりだった。おおっぴらにされている場所ではないとしても、こんなに神秘的で素敵な場所なら、他にも知る人がいて不思議はないと思った。
けれど、わざわざそれを口にして、朝霧を傷つける必要なんて無かったなあ、と後になって真由は思った。
真由の手を引いてご機嫌だった朝霧の表情が、途端に曇った。
「じゃあ、ためしてみようよ」
朝霧はちょっとムキになっているようだった。
「ためす?」
「まだ夕方までには時間があるから、しばらくここにいよう。誰か来るか、誰も来ないか」
馬鹿馬鹿しいと真由は思った。
長時間ここにいれば、誰かが来る可能性は高くなる。そうして、自ら夢を壊してしまうようなことをしなくてもいいのに、とさえ思った。
けれど、彼の気分を害してしまった罪滅ぼしに、朝霧に付き合ってあげようと思った。
「いいわよ」と、わざと挑戦的に言う。
そうしてどれくらいの時間が流れたろう。
陽は確実に傾いていった。
その間、二人はこれといった会話を交わしていない。
初対面の二人だから、いくらでも話題を探すことは出来る。
住んでいるところ、年齢、学校、恋人、両親や兄弟など家族について、趣味、得意な学科、好きな食べ物。。。。
彼とならいくらでも言葉を交わせそうな気持に、真由はなっていた。
そんな相手だからむしろ会話が無くても平気だったのかも知れない。
気詰まりなので言葉を無理矢理探し、でもすぐに話題が途切れて気まずくなる。そんな相手もいれば、何時間でも無言で一緒にいることの出来る相手もいる。
真由にとっての朝霧は後者だった。
そろそろ帰ろうか、と真由が言おうとしたとき、朝霧が先に口を開いた。
「ほら、ね、やっぱり誰も来なかったでしょ?」
「うん。本当に、あなたしか知らない場所なのかも知れないね」
負け惜しみではなく、真由は本心からそう思った。
朝霧にしか来ることの出来ない不思議な場所。彼と一緒でなくては決して辿り着くことの出来ない秘密のスペース。自分だけでこの場所をめざしても、決して辿り着くことはできない。
そんな風にすら思えてきた。
別荘に戻った真由は、食事の支度をした。
雅之の様子を伺うと、レポートに集中している。
「どう、具合は?」
「順調だよ。でも、まだ完成には時間がかかる」
「そう」
「悪いけど、いまのっているから、このまま書き上げてしまいたいんだ」
ここに来てから、真由は毎晩雅之に抱かれていた。
雅之は、「今夜はゴメンな」と言っているのだった。
「うん、いいけど」
そうは言ったものの、少し残念だった。
昨日初めて真由は全身を駆け抜ける快感を得た。イクという感覚までもう少しだと思った。きっと今夜なら。。。。そう感じていた。
けれど今夜は、雅之はレポートに集中するという。
「がんばって」と、真由は言った。
夕食はオムライスとポテトサラダにした。
スプーン一本で食べられるので、レポートを書きながらでも、口に運ぶことが出来る。
行儀は良くないが、真由が今日のお昼ご飯用に作っておいたおにぎりとサンドイッチを、雅之はそのようにして食べたようだった。
こうすることで少しでも早く、レポートが仕上がれば、それも悪くないと、真由は思った。
どうせ雅之の他には自分しかいないのだから、お行儀なんてどうでもよかった。
二人はダブルベッドの部屋で一緒に眠っていたが、雅之が書き物をする部屋に選んだのは、シングルの小さな部屋だった。その方が、気が散らず、しかも落ち着くのだという。
この別荘に家族で来たとき、おそらくそこが雅之の部屋だったのだろう。
彼がシングルルームの片隅にある机の前に座ると、何の違和感もなく、ひとつの部屋の情景の中に、しっくりととけ込んでいた。
真由は食事を雅之の部屋に運び、自分はダイニングに座って、一人テレビを見ながら食事をした。
テレビにも夕食にも集中できなかった。
自宅では自分だけで食事をすることなど何度でもあったし、それがカップヌードルだけ、ということだってあった。
しかし、今日のような、淋しさや空虚感は味わったことはなかった。
それは多分、そこが毎日寝起きしている巣であり、たまたまそのときは一人でも、巣には家族が戻ってくることがわかっていたからだろう。
別荘は、巣ではない。
彼と二人の時間を過ごすための、かりそめの宿である。
だから、彼と時間を共有できないとなると、無性に淋しくなるのだろう。
真由は冷蔵庫を開け、缶ビールを取りだした。
彼女には、友達などと愉快に過ごしながら呑んだ経験しかない。楽しいときにアルコールを摂取すれば、ますます陽気になれる。
だが、淋しいときにお酒を口にすれば、ますます淋しさが募っていくという事を知らなかった。
呑めば淋しさを紛らわせると思っていた。
缶ビールは真由の期待を裏切った。心の穴が余計に広がった。
真由は、彼女の知っている「楽しく酔う」という感覚に近づこうと、もう一本開けた。
ますます逆効果だ。
3本目、4本目。。。。
淋しさは消えなかったけれど、はっきりとした姿だった空虚感はおぼろになった。
酩酊に近づいている、ということに、真由は気が付かなかった。
意識がぼんやりしてきて、食べかけのオムライスが、ぐにゃりと歪んで見える。
酔っているためだが、真由は淋しさのために流した涙のせいで、目の前がはっきり見えないのだと思った。
5本目を飲み始めると、現実と妄想の区別がなくなり、意識の奥の方から朝霧が現れた。
朝霧は悪びれもせず、「ちょっと付き合ってよ、いいところに連れていってあげる」と、言った。
「だめよ」
「どうして?」
「だって、わたし、付き合っている人がいるもの」
「そういうお付き合いじゃなくて、ちょっと一緒に行こうよ、って言ってるだけだよ。第一、僕だって彼女いるもん」
「ふうん、なのに、平気で他の女の子を誘ったりするんだ」
「じゃあ真由は、恋人以外の男の人と、お茶を飲んだり、お喋りしたり、全くしないの?」
教えていないはずなのに、朝霧は真由の名前を知っていた。
「そんなことないけど、朝霧の誘い方は、それっぽいよ」
「それは、真由が期待してるからだよ」
「悪い冗談ね。わたしは、雅之のことを愛していて、結ばれたばかりなんだから」
どうしてそんなことまで口に出してしまうんだろう。真由は自分の心情が理解できなかった。
「ううん、期待してる。だって、真由は僕のこと、全然嫌いだなんて思ってないもん」
「嫌いじゃないよ」
「だったら、好きなんだ」
「嫌いじゃないなら、好き。どうしてそんなに簡単に決めつけてしまうのよ」
叫ぼうとして、叫べなかった。
嫌いじゃなければ、好き。
なんだかその言葉を素直に受け入れてしまいそうな自分に気が付く。
それは、酔って眠ってしまった真由の、夢の中での会話。
夢の中で、朝霧が語った言葉は、全て真由が作りだした台詞。
真由の気持の揺れを、真由はまだ自覚していない。
「あ、ありゃあ」
一息入れてコーヒーでも飲もうとダイニングにやってきた雅之は、真由の惨状に声を上げた。
テーブルに突っ伏したまま眠っている真由。
食べかけの夕食。6本のビールの空き缶。
「ごめんね、明日中には片付けるから。お詫びに、夕食は、僕が作るよ」
小さく呟いて、真由の頭に軽く手を載せる。
夢の中に沈んでしまった真由に、雅之の気持ちは届かない。