夕食を食べながらビールをがぶ飲みした真由は、テーブルに突っ伏したまま眠ってしまった。
コーヒーを飲みにダイニングにやってきた雅之にその姿を見られたことにも、もちろん気が付いていない。
夜明け頃、真由は目を覚ました。慌ててテーブルを片付け、サンルームのソファで2度寝していると、物音がして目が覚めた。
雅之が2階から降りてきたのだ。
「ほとんど眠ってないんじゃない?」と、真由。
「少しは寝たよ」
「まだ、かかるの?」
「悪い。でも、今日中には終わるから、必ず」
「やったー!」
真由は飛び上がって喜んだ。昨夜、自分がどの時点で眠ってしまったのかも、そしてどんな夢を見たのかも、はっきりとは思い出せない真由である。ただ、一人でオムライスを食べた淋しさだけが実感としてこびりついていた。
でも、今夜はそんな思いをしなくて済む。
真由は雅之に抱きついた。
人肌の暖かさが懐かしい。
感情の起伏に翻弄されたけれど、結局、たった一晩だけですみそうだ。
たった一晩。
ほんの短い時間、離れているだけのことが、こんなにも大きく心に影響するなんて。あらためて真由は、自分にとっての雅之がとても大きな存在になっていることに思い当たった。
「いっぱい抱いてね」
数日前まで処女だった自分の口から、自然とこんな言葉が出てくる。
「もちろん、昨日の分も」
昼御飯にはちらし寿司を用意した。
ふきんを掛けて、ダイニングのテーブルに残しておく。
そして真由は、そっと別荘を出た。
どこに行こうか考えながら歩いていると、いつしか滝へ向かう小道への分岐点に立っていた。
(無意識のうちに来ちゃった)
というのは、自分に対して嘘の言い訳をしたにすぎない。
無意識などではなかった。レッキとした意志を持ってここにやってきたことを、実は真由は知っている。
あの、神秘的な滝と池に、もう一度出会いたかったのか?
そうだ。でも、それだけじゃない。
そこに行けば、朝霧に会えるような気がしたからだ。
会って、どうする?
わたしには、雅之がいるのに。
滝への小道を辿りながら、真由は耳を澄ます。
小道から滝へは、道がない。藪をかき分けて進まなくてはいけない。もちろん、目印もない。頼りになるのは、昨日体験した、あの水音の変化だけだ。
脆弱な記憶と情報だったが、真由は進むべき道を見失わなかった。
「ここね」
立ち止まった小道の脇の藪は、明らかに人が押し分けて奥へ進んだ痕跡があった。
その部分だけが、乱れているのだった。
一歩、足を進める。
会って、どうするの?
わたしには、雅之がいるのに。
どうしても消し去ることが出来なかった罪悪感は、藪に足を入れた途端に霧散した。
(だって、私にはもう時間がないの。今夜、私は再び、雅之のものになる。だから、朝霧と一緒にいられるのは、今だけ)
朝霧は、いた。
一枚岩の上、静かな滝壺のほとり、膝を抱えて座っていた。
真由は隣に腰を下ろす。
「待ってた」
「いると思った」
短く交わされる会話。
気持ちが熱く燃え上がるのを、真由は感じていた。
真由は、そっと、身体を朝霧にもたせかけた。
朝霧は真由の肩を抱く。
雅之から感じるのは、人肌の暖かさ。いま、触れあった朝霧からは燃えるような熱さが伝わってきた。
それは、全く異種のもの。
冷涼な水が周囲の空気までも冷やしているから、肌と空気の温度差が大きくなって、熱く感じるだけだよ。
馬鹿馬鹿しいほどの冷静な分析を脳が伝えてくる。
感情がそれを否定する。
(私達は短く熱く燃え上がろうとしている)
だって、私には時間がない。今夜には、私は再び、雅之のものになる。
「キス、しようよ」
朝霧が言った。
「どうして?」と、問いながら、真由はもう目を閉じている。
「だって、したいから」
「いいよ」
言い終わるのと、唇が重なり合うのが同時だった。
身体の力を抜くと、タイミングを合わせたように、朝霧が抱きしめる。
優しさのかけらもない、力任せの抱擁。
どちらともなく唇を開き、舌が重なり合う。
やわらかいけれども、確かな存在感が、絡まる。
(私には、恋人がいるのに)
(だけど、好きなの)
(今だけだから)
求め、求められながら、真由の頭の中をいくつかのフレーズが駆けめぐる。
だけど、そんな言葉の数々は、本当の気持ちに突き動かされての行動の前では、やがて存在意義を失ってゆく。
長いキスと抱擁を終えて、真由と朝霧は見つめ合った。
「誰も、こないよね」と、真由。
「ここは、僕たちしか知らないから」と、朝霧。
「じゃあ、いいよ」
真由にはもう時間がないのだ。今日だけの熱い恋愛。
朝霧の手が伸び、真由の身体は溶けはじめた。
「自信がなかったんだ」
「え? 何が?」
「キミが、今日もここに来るかどうか」
「ふうん、確信を持って待っていたように思ったけど」
「そんなことないよ。たったひとりで、とても不安だった」
弱気なことを言う朝霧だった。さっきまでの熱い朝霧とは思えない。
「だけど。。。」
「だけど?」
「もし、来てくれたら、せめてこれだけでも渡そうと思ってたんだ」
朝霧は一通の手紙を取りだした。
封筒には糊付けがされていない。
「読んでいい?」
「いいよ。今でも気持は変わらないから」
「うん」
そこには、朝霧の連絡先と、短いメッセージが記されていた。
『もう一度、逢いたい』
「ごめんね、わたし、彼がいるの。期待にこたえられないと思う」
「知ってるよ。雅之さんでしょ?」
「え?」
「僕も、雅之さんも、毎年同じ時期にここに来てるから、いつの間にか知り合いになったんだ。で、今年も遊びに行ったら、どうもいつもと様子が違うでしょ? いつも来てる家族はいなくて、見知らぬ女の子がいる。二人の関係なんて容易に想像がつくよ。だけど。。。」
「惚れた?」
「まあね」
真由と朝霧は連れだって雅之の別荘に戻ってきた。
ちょうど雅之はレポートを書き終え、今夜は自分が料理しようと、食材の買い出しに車で出かけるところだった。
「雅之兄さん」
朝霧は大声で話しかける。
のろのろと動き始めていた車は停止し、運転席側の窓が開いた。
「おう! 朝霧!」
へへっ、と笑う朝霧。
「なんだ、真由も一緒か」
「そこで一緒になったんだ」と、朝霧。
「そこ」とは、どこのことか真由にはわからなかったが、雅之にはわかるらしい。
「そうか、アソコから先は、この別荘しかないからなあ」
「そこ」から先を歩く人が、お互い声を掛け合って、同じ目的地を目指しても、何の不思議もないらしい。
「今日は、俺が料理するよ」と、雅之は今度は真由に向かって叫ぶ。
「一緒に行こうか?」
「ダメダメ、ネタバレするから。出来てからね。そうだ、朝霧にも食わせてやるから、二人で中で待っててくれよ」
「やったー。行ってらっしゃい!」
朝霧は無邪気に叫んだ。
真由は朝霧に言われるままに、2階の和室のひとつに入った。
真由にとってこの部屋は、最初にこの別荘を訪れたときに一瞥しただけだった。
朝霧の方がよっぽど詳しく、そそくさとテレビにゲームをセットした。
プラスティック製の道具箱のようなボックスを開けると、中には多数のゲームソフトのカセットが収まっている。
「なんかする? それとも、したふりだけにしておく?」
「ふりだけ」と、真由は言った。
別荘客をアテにした夏だけの簡易スーパーでも、往復すれば、軽く1時間かかる。ここは別荘地の中でも奥の方だ。
テレビの電源を入れ、ゲーム機にカセットを差し込み、そして二人は唇を重ねた。
「あ、でも」と、真由は言った。
「なに?」
相変わらずあっけらかんとした表情で、朝霧が言う。
甘い雰囲気を出したがる雅之とは全然違うタイプだ。
「脱がないからね。脱いで夢中になったら、きっと時間を忘れてしまう」
「なんだ。つまんない」
「あなただって、ばれたら困るでしょう?」
「まあね」
朝霧はつまらなそうにゲーム機のスタートボタンを押した。
「いつか、二人きりで逢おうね」