| 浸透圧 不安げな瞳がこちらを見ていた。 思えば彼はいつでも怯えていたのだ。 「兄貴?」 「そう」 抑揚のない声で答える。平静を装ったのにどうしてこの男には判ってしまうのか。 寮を出るため部屋の整理をしていた時の事だった。取り落としたノートや本の束。その中に彼と写した写真はまじっていたようだった。 自分でもそんな写真を持って来ていた事など忘れていた。全て処分したと思っていたのに。 一瞬止まった動きに同室の男が気づく。 「どうした?」 「何でもない」 しまおうとした写真を横から取られる。 むきになって「返せ」とも言えず、彼が写真を見る間黙って目を伏せていた。 「誰だ? 俺の知らない奴だな」 彼はじっと俺を見ながら言った。視線を返せなくて、横を向いたままつぶやいた。 「兄貴だよ」 「お前に兄貴がいるなんて、知らなかった」 彼は写真を手に取ったまま、ゆっくりと腰を降ろした。 全てを聞き出すまでこれは返さない、そんなはっきりとした意思が感じられて、この場から逃げ出しそうになった。 けれど、写真の存在がまるで人質のように、この場から逃げ出すことをためらわせた。俺は彼から少し離れて座った。 しばらくの沈黙。口火を切ったのは彼の方だった。 「お前の左腕にさ…、傷があるだろう?」 はっとして、左腕のちょうど傷がある辺りを右手で押さえる。腕の内側の真ん中。一番柔らかい部分。 「等間隔に三つ」 彼の言葉に促されるように、傷跡をなぞってみる。えぐれてひきつれた跡。 「こいつにやられたんだな」 質問というより確認に近い問いかけで写真を見つめながら、つぶやいた。その仕草に静かな怒りが感じられて俺は怯えたように、こくりと頷いた。 最初に異常に気がついたのは二つ上の姉だった。 「康は健としか喋らないのよ」 格式ばった窮屈な家だった。元々旧家の出であり、代々続いた道場を持っているせいで、長男には過度の期待とプレッシャーを与えていた。そのせいで兄は、家族の中でも孤立した特別な存在だった。 兄は俺を可愛がってくれた。少なくとも人前では。 家には兄のために特別に作られた離れがあった。俺と兄はよくそこで遊んだ。人前では仲良く。けれど二人きりになると、兄は理由もなく怒りだし、殴られたり、服の上からでは目立たない所に傷をつけられたりした。恐くて泣きそうになると兄は決まって俺を抱きしめる。「ごめんな」「ごめんな」と何度も繰り返しながら。 見えない糸で縛られてるみたいに、俺は兄の側を離れられなかった。気がついていたからかも知れない。本当は、一番傷ついているのは兄の方だという事に。 一番下の妹がようやく手がかからなくなった頃、母親はやっと落ち着いて他の子供たちを見れるようになった。そして事件は起こった。 いつものように二人で離れで遊んでいると母親が果物を持ってきてくれた。「二人で分けて食べなさい」と一つのお皿に二つのフォーク。 「健は何が食べたい?」 優しく聞いてくる兄に、微笑みながらその場を立ち去る母親。 このところ落ち着いて来た兄に安心して俺は一つ二つ果物の名前を言う。母親の足音が聞こえなくなった頃、兄は豹変した。 「優しい母親ヅラしやがって、あいつがこの家の中で一番嫌いなんだ」 叫んで、兄は持っていたフォークを俺の左腕に突き立てた。 「その後の事は良く覚えてなくて、気がついたら目の前で母親と兄貴が泣いてた」 様子がおかしい長男を心配して、母親はその場を離れたふりをしてじっと部屋の中を伺っていたらしい。長男の自分に対する信じられない言葉を聞いて、一瞬立ち去ろうとしたが、そのすぐ後に俺の悲鳴が聞こえて、慌てて部屋へ向かった。 左腕の傷跡をなぞりながら、人事のように静かに話す俺を彼はじっと見つめていた。 「母親がさ、言うんだ、俺を抱きしめながら「ごめんね」「ごめんね」って、ああこの二人、親子なんだなあって、そんな場合じゃないのにね、可笑しかったよ」 俺のその言葉につかれるように彼はゆっくり立ち上がって俺の前へ来た。 片膝をついて、優しく俺の頬をなでる。 「お前は兄貴の事を恨んでいないんだな」 目を閉じてうなずく。 あの事件があった後、両親は慌てて俺を全寮制の学校へ転入させた。そして兄はあの離れで精神科医の治療を受ける事になった。 「俺はあの家から抜け出せたけれど、兄貴は今もあそこにいるんだ」 頬をなでていた手が、何か探るように下へと降りていく。首筋を通って肩へとたどり着いた時、両手で強く抱きしめられた。 「兄貴に会いに行かないのか?」 耳元で囁くように言われ、照れくささとくすぐったさに身をよじる。 「会いたいけど、出来ないんだ」 「どうして?」 「俺、あの家では死んだ事になってるから」 あの家は旧家の体裁を守るために長男を選んだ。俺がいなければ兄は家族思いの優しい人だったから。 彼の動きが止まる。顔を肩口に埋めて来た。彼の頬が濡れている気がして、そっと顔をのぞき込む。 「…どうして、泣いてるんだ」 「判らねぇのかよっ」 彼は涙を手の甲で勢い良く拭った。 それでも溢れてくる涙を今度は俺の唇で受け止めた。 驚いて俺を見つめる彼に告げた。 「あんたと会えて良かったな」 微笑みながら彼を強く抱きしめる。 「寂しくないって言えば嘘になるけど、でも」 正面から顔を見つめる。目元が赤く濡れている。俺のために泣いてくれる人がいる。それだけで嬉しいのに、この喜びを目の前の人にどう伝えればいいんだろう。 「俺にはあんたがいるだろう?」 そう告げてから、胸に温かいものが溢れて来た気がして、気がついたら俺も泣いていた。 「俺でいいのか?」 どうして、そんな事を聞くんだろう。 もう何も言えなくて、俺は黙って何度もうなずいた。 春になれば高校を卒業して俺たちは寮を出る。 そして二人で暮らし始める。 |